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霊を信じる信じない、それぞれたくさんいます。霊は絶対にいないと断言している方は、お墓やお葬式などは全く必要がないということなのでしょうか。確かに霊が存在していないのであればそういったものは全く無用になりますし、宗教的な行事に参加する意味も無くなります。そういう方も仏壇に手を合わせたり、罰があたるなどの表現を使ったりするわけですが、そもそも霊を信じない人がなぜそのようなことをするのでしょうか。霊を信じろと強要しているわけでなく、最近疑問に思ったので投稿しました。皆さんはどう思われますか。

A 回答 (19件中1~10件)

霊など絶対にいないと言うと反発を買いそうですからここは上品に「霊という実体を確認できた人間は地球始まって以来唯の一人も居ないと思う」です。


どうですか、これなら反発しないでしょう。
事実を言っているだけですからね。

くどいようですがお墓に行くのは単なる行事である事と墓前で先祖に感謝し自分なりにこれからも良く生きるよと言い聞かせる為と思っています。

子供やマンガじゃ有るまいし霊という現物を見たいから行くのではありませんよ。そんな理由なら世界中でお墓参りをする人なんて居なくなりますよ、何しろ誰一人確認できていないのですから。

世間に霊現象が非常に多いという方が居るかも知れませんが何を持ってそういうのですかね、聞いてみたいです。きっと葉っぱが落ちるのも霊現象だなんて言うのかもね。

霊、超能力、魔物、前世、心霊写真・・・文明が2000年以上後退してしまいます。
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私もNo13さんのように、「霊は自分の心の中にある」と考えています。


「人は忘れられた時に本当に死ぬ」とあるヤブ医者が言っていましたが
その通りだと思います。

人は死んで肉体が滅んでも、誰かの記憶に残っている限り
その人の思い出の中に形の無いものとして残っているのだと思います。

しかし、人は現実世界に生きているのでそれを形や行動に表そうとします。
それが墓であり、位牌であり、葬式なのです。

霊の存在を否定している人たちは何も自分の思い出まで否定して
いるわけではありません。

それをポルターガイストや心霊写真などに代表される
目に見える形の霊の概念とごっちゃにしてはいけません。
それはただの揚げ足取りってやつですよ。
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古今東西これほど霊の作用で起きている出来事が多いのに、未だに霊など絶対に存在しないと言う人や科学がいかにも万能だと信じて疑わない人が多いのには驚かされます。

霊が存在することは「何を今更」というか常識だと思います。

他の方もおっしゃっているように宗教と霊とは必ずしも直接関係はないと思いますが、リンクしている部分も多いと思います。先祖の墓参りをしたり、神仏や先祖に対して祈ったり拝んだりする行為も、霊体や超自然的な超越者がいると信じてこその行為だと考えられるからです。

現に生きている人間にも霊魂(「心」或いは「想念」と言い換えてもいい)は存在し、離れた所にいてもテレパシーなどで心が通じ合ったり、あの人から電話がかかりそうだと思ったら、実際に電話機が鳴ることもありますよね。
死んだ人間と生きた人間の間に時間を越えて、霊の交流が起きることだって当然と思います。人間はただ身体だけの存在ではありません。霊魂があってはじめて人間は存在するのですから。

又、前述の「祈る」或いは「拝む」という行為ですが、個々の人間の私利私欲に基づくような祈りが聞き入れられるかどうかはわかりませんが、まとまった人数の人間がある共通の純粋な祈りを捧げる時、やはりそういった切なる想念はきっと超越者や霊的存在に伝わるものだと思います。少なくても、毎日仏壇へお参りをかかさない人は、先祖と真摯に心からの対話と交流を続けているわけですから、心が癒されないわけはなく、きっと人生の運が向いてくるものと確信します。
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質問者さんは何か勘違いをなさっているのかも知れませんが霊の存在の有無と葬式、お墓は全然関係ありません。


ここの所を意識的にか無意識かは存じませんが曖昧にしている方が多いですね。

『実体としての霊など存在しない!』これは私の信念です。誰がナント言おうとも有り得ないと思っています。但し存在をはっきりと科学で証明できれば話は別ですよ。
そうすれば信じる信じないの問題ではないでしょう。

ではなぜ私が頑なに『実体としての霊』を信じないかですが巷で言われている霊の特徴が余りにも科学に、特に確立された物理学に反するからです。という事はそれらに反しない特徴を持った霊は居るとも居ないとも断言は出来ません。

具体的に言います、世間で言う霊の特徴は
1、音を出すそうです・・・いわゆるポルターガイストですね。
2、写真に写るとか言います・・・心霊写真ですね。
3、見えるといいます・・・なら光が来ているわけですね。
4、聞こえる・・・空気を振動させるわけですね。
また
a、感じる、見える、聞こえるという一部の人の証言も有ります。

しかし1~4はこれが事実なら霊とは絶対に物質でなければなりません。原子や分子で出来ていなければならないと言う事です。
a、に関してはお好きにどうぞ、という他有りませんが。

で、そのような特徴を持つ霊は絶対に物質でなければならないと言う訳ですが信奉者さんにはお気の毒なのですが現代の科学は物質を検出する能力は人間などお話にならない高性能なのですよ。何兆倍も高感度と言って良いでしょう。
ところがその科学が唯の一度も霊という物を検出していない、これをどう考えますか?

一万円のカメラに霊が写った、心霊写真だと。
ならどうして全世界の防犯カメラ、プロカメラマン、スーパーカミオカンデで唯の一度も検出されていないの?変じゃあない。
今の科学だって完全じゃあ無いだろ、だからだよ。と言う答えはよしましょうね、みっともないですから。
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だいぶ前に最高裁判事がなくなった際に「人間死んでしまえばそれで終わりなんだから葬儀などいらない」と言ったという記事を読みました。


こんな人が「人命の尊厳」などと言って欲しくない。彼は被害者に対しても「終わったもの」としてしか考えていないのだろうと思いました。

先日何かの番組で、ある霊能者が「先日、霊を否定している某科学者の方に『死んじゃったら最後だから仏前に手を合わせたりなんてしないですよね』といったら、『馬鹿にするな。私だって仏壇に手ぐらい合わせる』と言った」とか。
一体、科学者は何のために手を合わせているのでしょう。
故人の恩に感謝するなら、写真に向かって頭を下げるだけでも済む事なのに。全く不可解です。

私の家族は皆霊を信じていますし、父自身も幽体離脱の経験者です。
でも、葬儀は密葬でした。形式にこだわるのは変だというのがその理由。私も母も、密葬を遺言としています。
考えるに「中身が得られないから形のこだわるしかない」のでしょう。
霊を身近に感じていれば、いつでも想いは繋がるし、存在を感じる事もできる。だから形式に囚われる必要はありません。
しかし、信じないのであれば、儀式を通してしか思いを表現する事ができないのだと思います。で、その度合いによって、中間が存在するのです。
わざわざ写真や思い出の地を巡ると言うのも、一種の儀式です。たまに立ち寄るのは別にして、必ず命日には行くというのは、形の違う墓参です。要するに、そこでしか故人を感じる事ができないという事でしょう。
「霊を信じない=想い出もゼロになる」という訳ではないので、それでも構わないと思います。
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だいぶ前に父をなくしました。

私も霊などまったく信じてはいませんし、父も宗教的なことは信じていませんでした。が、葬式はしましたし、お墓もあります。ただし、葬儀は無宗教で行いましたし、墓地も公営の宗教とは無縁の墓地ですが。

既にいわれているように、霊と葬式やお墓は別に大きな関係はないと思いますよ。私は霊などまったく信じてはいませんが、よく父の遺影に話しかけたりします。それは、別に父親の霊と話をしているわけではないですし、天国なんてものがあって、そこに父がいると思っているわけでもありません。

私は、私の記憶の中にある父に話しかけています。これは、霊とは関係ないでしょう。というか、死んだ人でなくて、生きてる人であっても、よくそういうことはすると思いますよ。

片思いの相手の写真とか好きなアイドルの写真に話しかけたりしたこと、ありませんか。あれと同じでしょう。自分の気持ちを、自分の記憶や心の中にあるその対象に話しかける、ということ。それが、写真というものを通じての場合もあるし、お墓を通じての場合もある、ということでしょう。

たとえ、それが直接的に相手に伝わらなかったとしても、意味はあります。それによって自分の心の中を整理し、次へ進む力、生きる意欲へと昇華されるとしたら、大きな意味はあるでしょう。質問者さんは、自分にとって大切な人を亡くされた経験はあるでしょうか。失意のあまり、何も考えることさえできないというような経験が。そんなとき、どうやって次へ進む勇気を得ることができるのでしょう。葬儀、墓、四十五日、そうしたものは、大切なものを亡くして混乱のさなかにある人間が少しずつステップアップし自分の人生を取り戻していくためのシステムとして生まれたものじゃないでしょうか。そしてそれは、多くの人にとって有効に機能していると思います。少なくとも私にとってはそうでした。


思うに、たぶん、順番が逆なんじゃないでしょうか。「霊」がいるから「葬儀」の必要がある、「霊」がいないから「葬儀」は必要ない、というのではなくて。亡くなった人への思いをなんとか形にしたいという気持ちから葬儀や墓というものができて、そこから「霊」という考えができた、というのじゃないでしょうか。

霊があるかどうかというより、霊というものを考えたほうが、大切な人を亡くしたことをうまく消化できる人たちというのがいて、そうした人のために霊という考え方が自然発生的に生まれた。そういうことなのだろうと思います。
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私は「霊」という存在が自分の外にあるわけではなくて、心のうちに記憶する”存在”があるのだと思います。


 墓にお参りすることや仏壇に手を合わせることは自分の心のうちの欲求を満たす儀式だと思います。そうして故人との関係性を保ち、コミュニケートしているのだと思います。感謝の念であったり、なんらかの報告であったり。そして、それは或いは「自己満足」の一語で表すことができるものなのかもしれません。
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私は、霊というものを信じません。

見たことありませんから。
けれども、お葬式やお墓参りといった宗教的な行事を意味の無いもの
とは思いません。
私は、数年前に父を亡くしています。私にとって、お墓参りをしたり、
仏壇に手を合わせるという行為は、生前、私達家族を養い守ってくれた
父に対し、感謝と敬意を表す大切な行事です。
beans89さんからしてみれば、矛盾している様に思われるかも知れま
せんが、霊の存在を信じていないからといって、亡くなった家族や
親しい友人を大切に思う感情がなくなるわけじゃないんですよ。

霊の存在を信じていない人間が、亡くしてしまった人を大切に思う感情
を持つことって、そんなに不思議なことなのでしょうか?
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世間体のために葬式や墓参をしている方が多いようで…


ちょっと悲しいです。
霊魂の存在云々とは関係なく、感謝の心を持って行くものだと思っています。
 ※ご先祖様がいなければ、現在の自分は生まれていないわけですから。
死んだからといって全てが無くなるわけではなく、その人がいたからこそ受け継がれて行く命があるわけです。
そのご先祖様に対し、感謝の心を持ってお参りする。
そういうことではないのでしょうか。

テレビなどで『霊と話が出来る』と言っている人たちのことは信じません。
そのことを金儲けに使っている時点で『胡散臭い人間』だと判断してしまいます。
確かに霊能力のある人間はいると思いますが、金儲けのための能力ではあり得ません。

私は『霊』の存在は信じますが、それと葬式や墓参は別です。
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皆さん言われているように、世間体のためにやっているんです。


誰も、「霊に呪われたくないから葬式に行こう」などと思ってません。
霊を信じてないからなどと言って行かなかったら親戚中に白い目で見られます。それが嫌だからわざわざ墓参りに行ったりしてるんです。
故人に感謝するなら心の中ですればいいだけなのにわざわざ形でやらすんですねー。
もちろん、高い金と時間と労費を使ってそんな宗教的な行事をやるのは無駄といえば無駄なのですが、宗教界的にはそれをいっちゃあお仕舞いと言うことです。
宗教なんて進化論が唱えられる以前に出来たものですから。

靖国参拝なんかまさしく社会的儀礼ですよね。
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