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「靖国神社の首相参拝に賛成か反対か」という質問の回答の中で、「無宗教の追悼施設を作るべき」と私が書いたところ、「哀悼している時点で無宗教ではありえない」という考えを述べた人がいました。

小林よしのり氏も「戦争論」で「無宗教の追悼施設を作るのは不可能」と書いていましたが、私はこの考え方が理解できません。

亡くなった人を悼み、その気持ちを何らかの行動で表すのは人間の自然の気持ちだと思うのです。その人の暮らしている環境によって、ある宗教の様式が追悼行動に意識的あるいは無意識のうちに入り込んでくることは否定しませんが、人を悼む自然の行動をいきなり「宗教」と言われても困惑します。
辞書を引いても、宗教が人を悼む行為であるとは書いてありませんでした。

よって、私は、特定の宗教によらずとも人を悼むことはできると思うし、そのための施設を作ることも可能と思うのですが、私の考えは間違っていますか?
「人を悼むことはそれだけで既に宗教である」という方は、その根拠をお示し願えれば、大変勉強になります。それが私の納得できるものであれば、以後考えを改めます。

A 回答 (13件中1~10件)

世の中には「霊の存在を認める」事と「悼む」事、それに「宗教」との違いの判らない人や拡大解釈でヒトククりにしている人が多いです。


無宗教の施設の建設は可能。でも、そういう人が居る限り実質的に不可能と言う事になります。
人の想像力には際限がありません。だからこそ自ら際限を設けなければなりません。それができないのなら「識者」とは言い難いですね。

無宗教という事は、一定の宗教(教え)に偏らない。つまり、指向性を持たせない事が無宗教です。逆に言えば、個人個人の思考で、自分の心の中だけで指向性を持たせられる事が無宗教ということです。
霊の存在を信じない人も戦争で犠牲になった人に思いを馳せ、平和を望む事は出来るでしょう。その象徴としての施設ならいくらでも建設可能です。

問題は無宗教(指向性の無い)施設に形を設けない事です。例えば石一つで十分でしょう。そこに形を与えたり、プレートなどはめ込むから指向性が生まれます。
石でなくても何でも良いのですが、不変で無形的なものとして適していると思います。建物の中に設けるなら、ただの白い壁でも構わないのです。その建物も周辺環境に合っていれば公民館のようなもので十分です。そこに特定の形式を持たせるから指向性が生まれるのです。(まさか公民館を見て宗教施設だと思う人は居ないでしょう)

それより大切なのは「追悼式」です。追悼式は黙想だけで十分。挨拶など入れるから指向性が生まれるのです。
唯一必要な指向性は「追悼」です。なぜならそれ自体が目的だからです。しかし、それは目的であって宗教ではありません。その理由は次項にあります。

「人を悼むことはそれだけで既に宗教である」
宗教とは一定の崇高な教えに師事する者の集団です。その中で特に神秘的な人物や人知を超えたものを宗教と呼んでいますが、実質的には無神論者であっても、それを唱えた人を中心として教えを広めれば立派な宗教です。
しかし、故人を悼む心は自然発生的な心の発揚ですから、これを以って宗教とは言いません。なぜならそこには指向性を持たせる為の「教え」が無いからです。
従って、この論題は成り立ちません。
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この回答へのお礼

>無宗教という事は、一定の宗教(教え)に偏らない。つまり、指向性を持たせない事が無宗教です。

私の「無宗教」に対するもやもやした感じを、上記の言葉ではっきり定義していただきました。ありがとうございます。

この辺でこの質問は締め切りたいと思います。
ご回答いただいた皆さん、大変参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/11 10:51

こんにちは。

マリア・フワポヨ でございます。

憲法の保障する信教の自由は宗教を強要されないことも保障しており、これは、国家が国民の人心を操作する(マインドコントロール)ことも禁じています。

さて、ある辞書には

“【悼む】= 人の死を悲しみ嘆く。”

と、あります。この解釈を採用すると、自発的に死者を悼む(悲しみ嘆く)行為は自然な現象なので宗教ではありません。当然、無宗教の追悼施設はありえます。
しかし、追悼施設は悼むことを目的としており、遺族会等が追悼施設を造るならともかく、国家が追悼施設を造るとなると国家が死者を追悼することを推進することになり、これは、国家が
「死者を悲しみ嘆きましょう。」
と、思想信条を押し付けることになりかねず、人心操作につながり、違憲云々されてしかるべきでしょう。慰霊施設も同様ですし、戦没者を追悼する施設なら、
「戦没者を悲しみ嘆きましょう。」「A級戦犯を悲しみ嘆きましょう。」
と、国家による戦争賛美につながり、なおさらでしょう。

また、日本の葬式仏教では“追悼”は“供養”のひとつの形なので、これが、追悼は宗教であるとする考えを生じさせる一因でもあるでしょう。
さらにまた、「死者を追悼しましょう」とする教義の宗教が、追悼施設で自由に悲しみ嘆く形をもって礼拝するのも、おかしくありません。

追悼施設ではなく戦没者の“資料館”なら、国の施設でも各個人が自由に追悼する分には問題ないと思います。

しかし、これは靖国神社の代わりになりません。



答えになってなくてスミマセン。
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ことばとして正確ではないですが追悼の1番は残された家族だと思うのです。


とりあえず家族なら多くの場合宗教が異なることがないので問題ないと思います。

国家の命令で戦争に行ったわけですが靖国で会おうと表面上または時代の雰囲気の中でそうしてはいますが、天皇のためではなく家族や親戚や地域のため行った人も多いと思います。また宗教も違う人もいたでしょう。

そんな中で戦死された方に対して命令した側の国家としては追悼の必要があるわけですが神道のなかでも特殊な靖国神社でまとめられると当時は問題なくても今の時代にはそぐわないとも思います。

無宗教というと違和感があるかも知れませんが、特定の宗教に依存しない形で日本の文化を加味して作れば問題ないのではと考えます。

質問された方が言われるように追悼と宗教をあまり結びつけることは色々弊害があると思います。追悼は心の問題で宗教はあまり関係ないと思います。
我々の実生活のなかでお葬式に参列することがありますが、亡くなられた方と参列し追悼する人の宗教がすべて一致することはまれです。しかし参列して追悼はしていると思います。お葬式では儀式の相違をお互い譲り合うことで成立していると思います。

ただ現実には靖国で問題がない遺族の方が多いと思うので戦後世代との考え方と折り合いをつけるかかが問題だと思います。

回答としては、無宗教の施設は可能で参列する人がそれぞれの宗教のスタイルで追悼すれば良いと考えます。
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「人を悼む」のではくて、正確には「客観的には現在存在しない死者に対して、悲しみや感謝を表す」といったことだと思うのですが、追悼するということはつまり魂や霊魂が存在することが前提となっていますよね。

霊魂が存在しないのならば追悼することは不可能あるいは意味がないですよね。つまり、追悼というのは、客観的には存在しない死者を、主観的に魂という形で存在させているのですよね。主観的に魂や霊魂を存在させ、それに対して悲しみや感謝を現すのは立派に宗教だと思うのですが、それじゃダメですか?「宗教心を持ってなす行為は宗教」であるというのはどうですか?
あと、僭越ながら、質問者さんは宗教というものに対して偏見を持たれていませんか?自然か不自然かはあまり関係ないように思います。アメリカ人の家族が食事の前にお祈りをして主に感謝するのは自然だから宗教ではないと言えるでしょうか?逆に日本人がそれをするのが不自然だとしたら不自然だからといって宗教になるのですか?
そして人間は基本的に無宗教というのはありえないと思いますよ。少なくとも宗教心があるからこそ追悼するんですよね?それに、追悼行為が宗教なのは宗教の定義通りだとも思うのですが。しかも無宗教というのは失敗していることが実証されています。
もちろん、特定の宗教によらず人を悼むことは可能です。そもそも人を悼むのに特定の宗教による必要がありませんし、特定の宗教に入っていなければ無宗教という訳ではありません。
もうちょっと言えば、外国人は強烈に宗教を意識しますが日本人はそんなに意識しません。それは日本人の宗教がそういう「宗教」だからです。神道宗教はあらゆるものが神様になるユルユルの宗教でつまり世界で一番自由な宗教なのです。聖書やコーランのようなものはありませんし、仏像のようなものもありません。ですから日本人はクリスマスを祝ったり、葬式は仏教だったり、神前婚したりするわけです。ところが、世界三大宗教の一つであるイスラム教が日本には全然浸透していませんよね。イスラム教は戒律がものすごく厳しいからです。それは世界で一番自由な宗教と相反します。

と、余計な話やこれ以上乱文は失礼ですのでこの辺にします。

ちなみに無宗教施設を造ってそこに訪れた人は何をしたら良いのでしょうか?神や霊魂が存在しないとすればコンクリートか石か分かりませんが、単なる施設という物体がそこにあるだけですよね?

なにはともあれ、一番大事なのは首相も一般人もみんな気兼ねなく靖国神社に参ることができるような世の中になることですよね。
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日本は


これまでに日本で生きていた人々(死者)と今を生きる我々とこれから生まれてくる人々。以上の三者の物です。
不都合だとか憲法違反だとか某近隣諸国との軋轢が・・・とかで我々だけで決めて良い事と悪いことがあります。そして私はこの事はそのうちの後者だと考えています。


戦争で亡くなった方々は死んだら靖国でまた逢おうとか死してなお護国の鬼(ニュアンス的には菅原道真等の死者由来の神)たらんとして亡くなった方々です。無宗教となっては彼らの想いは永遠に忘れ去られますそこまで無宗教である必要があるのならいっそのこと追悼行為を否定してはいかがですか?彼らの想いを否定するのであれば1を否定するも100を否定するも同じことでしょう。
それから日本人が無宗教と言うのは大いなる間違いです。身内の葬儀に参列した方なら分かるとは思いますが火葬した後のお骨をどうしますか?まさか箒と塵取りで掃いてかき集めてビニール袋にでも入れますか?参列者がいかに「私は無神論者だ!!」と言っていてもそんな事はしないでしょう。仮にそうしたとしても何とも言えない罪悪感に包まれるはずです。他にもいくら仲が悪い人(大量殺戮を行った凶悪犯等は別として)であっても死んだ後まで延々と生きていた頃の悪行を並べて非難しますか?これも無いでしょう。無宗教であればそれらを行ったとしても何ら罪悪感に悩まされたり非難される筋合いは無いのです。それを鑑みると日本人は無神論者が多いとは言えないでしょう。


では追悼施設は何の為にあるのか?それは死者を追悼する為にあります。断じて我々の為にあるのではありません。死者を追悼するには彼らの信じた方法で行うのが筋だと思います。それを無視して我々の方法だけで行うのは意味が無いと思いませんか?
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#7です。



これに関しては私には説明できかねます。
学者などの専門家でもほぼ不可能なはずです。

宗教を信じる人から見れば、他の宗教自体の存在は認められても、無宗教とはそもそも存在しえないとしか考えられないためです。
これは神(宗教によっては神の概念は異なりますが)が存在するか、存在しないかと同義となるためです。
神を科学的に証明することは不可能なので、信じない人から見ればその存在自体ありえず、理解することは不可能だと思います。
逆に信じる人から見れば、存在していることは当然のことだからです。(逆に存在しないことを科学的に証明することも出来ません。つまり双方から見て悪魔の証明となるのです。)

>無宗教とは、その亡くなった人を慎むという人間の自然な気持ちを本来否定する物なので
これに関しましては、上記の理由で宗教を信じる人から見れば本来ありえるはずも無い概念であり、人間は何らかの宗教を信じていることが当然であり、無宗教であると言う事は人間性を否定する人と考えるためです。
但し、これは神が存在するか否かの前提条件が異なると説明のしようがないため、納得の頂ける回答を書くことは不可能なのです(^^;

逆に日本では無宗教となってしまった人が多いのかであれば、説明し易いのですが、質問の趣旨と異なってしまいますので控えます。
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この回答へのお礼

よくわかりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/11 10:45

無宗教の追悼施設というのは世界的に見ても、共産圏(宗教そのものを否定)と日本の一部でしか受け入れられないと思います。



自然を怖れたり、亡くなった人を弔うと言う面から太古の宗教生まれ、その後の宗教も全て弔う儀式は存在します。
無宗教とは、その亡くなった人を慎むという人間の自然な気持ちを本来否定する物なので、無宗教施設は何らかの宗教を信じる人からすると到底理解し得ないものなのです。

憲法で認めている「信仰の自由」も、諸外国の憲法を参考上で記載されましたが、諸外国で考える「信仰の自由」と日本のでは異なるものになっています。
「信仰の自由」は、どのような宗教に属し信じることは構わないとするものであって、信仰しない自由というものは当初念頭にありませんでした。
これが最近になって、このような概念もあるのかもしれないと、少数意見ながら認められつつあると言った状況です。

私自身は、今後日本の為に死んでいった人を弔う施設を、靖国以外の多宗教施設を設けることを反対はしませんが、無宗教施設では無宗教と言う特別な理念の人のみしか利用できない施設となってしまうため、宗教法人ではなく民間による財団法人として設けるのであれば構いませんが、国が作るべき施設ではありません。
そもそも「信仰の自由」の拡大解釈から派生した「信仰しない自由」を基準に作ることは違憲になるはずです。
また既存の英霊に関しては、本人の同意なく弔う施設を変更することなど出来ようもありませんので、靖国にて奉るしかあり得ません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>無宗教とは、その亡くなった人を慎むという人間の自然な気持ちを本来否定する物なので

この理屈が私には理解できないので質問をさせていただきました。
この理屈が成り立つ理由を分かりやすく説明していただけると助かります。

お礼日時:2007/05/10 12:21

わたしは「英霊に応える会」の会員です。


われわれのご先祖は「靖国神社で会おう」といって散って行かれた。だから英霊を祀るのは靖国神社でなくてはなりません。
無宗教の追悼施設を作りたいという希望は理解できますが、だれも参拝してくれず、経費の無駄になります。
わたしは隣国が反対するあいだは総理が参拝を控えたらよいと思います。
なぜ控えるか? それは英霊の気持ちを考えるからです。英霊は日本のために散って行かれた。日本が隣国と仲よくすることを英霊も望んでおられる。ご遺族のかたや一般国民は靖国神社に参拝すればいいのです。
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「宗教は人を悼む行為」ではなくて、「人を悼む行為は宗教」なんだと思います。


例えば、「魚はマグロ」ではなくて、「マグロは魚」が正しいですよね。
なお、無宗教の追悼施設は必ず無駄な公共事業になります。無宗教の「弥生慰霊堂」などの施設に実際に足を運んでみてください。
無宗教にするぐらいなら、アーリントン国立墓地のようにむしろ「多宗教」にすべきだと思います。
ただし、それもそれで慎重な検討が必要です。
したがって、無宗教という追悼施設自体は作ることはできますが、そこには矛盾があり、現実的にも無駄と思われます。
しかしながら、そもそも何が何でも首相に参拝させなければいけない訳でもありませんし、中国や左翼のいいなりになることはないと思います。
憲法に違反するからと思われるかもしれませんが、現実を憲法に合わせるのにも限界があります。しかも、憲法で日本の古来からの宗教を歪めるなんて本末転倒だと思います。
私は当然首相は靖国に参拝すべきだと思います。
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この回答へのお礼

皆さん、ひと晩でたくさんの回答ありがとうございました。
こちらにまとめてお礼をつけさせてもらいます。

まず、「無宗教の追悼施設は作っても利用者がいない」と言うお話は大変参考になりました。利用者のいない施設を作っても仕方ないですからね。
やはりこれだけ宗教の発達した現代では、ある宗教の様式にのっとらないと死者の追悼もできないのでしょうか…

>「宗教は人を悼む行為」ではなくて、「人を悼む行為は宗教」
身近な人が亡くなり、悲しくて何かしたい、その自然な行動をいきなり宗教と言われても、私にはどうも納得できないです。
今後は、「特定の宗教によらず人を悼むことは可能か?」ということについてお返事いただけるとありがたいです。

お礼日時:2007/05/10 10:07

私は、無宗教の追悼施設建設推進派ですが、「当事者(葬られている戦没者の肉親等)が誰も立ち寄らないような追悼施設を作って、そこに首相が参っても果たして何の意味があるのか」という意見は十分に汲み取る必要があると思います。

そもそも戦没者追悼施設は誰のために存在するのかと言う本質的な問題であると思います。

小林よしのり氏の本は読んだことがないので知らないのですが、「新しい追悼碑を作りましたんで、戦没者のご家族の皆さん、今日からはこちらの方を拝んでくださいね。」と言うものでもないと言うことはなんとなく理解できます。「人を悼むことはそれだけで既に宗教である」とは、こういう悼む側の人のこだわり(合理性を越えた感情)のことを意味しているのではないでしょうか。(読んでいないので、外しているようでしたらすみません。)

蛇足ですが、個人的には、靖国神社の境内に無宗教の追悼碑を作って、そこに首相が行くと言うのが最善の妥協案ではないかと思っています。イギリスの無名戦士の墓がウエストミンスター寺院の中にあるのと全く同じ形です。
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