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中島敦の名人伝についてよく分からないことがあります。

まず、名人伝の舞台は趙の邯鄲の都ですが、この舞台が選ばれたのは何か理由があったのでしょうか。「邯鄲の夢」という故事成語(故事成句)がありますが、それと結びついていることはありますか。栄華を極めた邯鄲がはかなく崩れ去ったように、「真の名人は世の中に存在し得ない」とほのめかしているのでしょうか。

紀昌は、死ぬ一二年前に友人宅で、弓がなんであるか三回も尋ねますが、これに何か深い意味があるのでしょうか。いくら天下の名人とはいえ、死ぬ一二年前ともなれば、単にぼけてしまっただけなのではないでしょうか。
『木偶のごとき顔は更に表情を失い、語ることも稀となり、ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」というのが、老名人晩年の述懐である。』
とあります。相当老い果てていたのではないでしょうか。それとも、普通に、弓の名も忘れるほど名人の域に達していたと解釈するべきなのでしょうか。

紀昌が天下の名人となったことを裏付けるものは、飛衛の言葉しかありませんが、紀昌は本当に不射の射を習得し、天下の名人となっていたのでしょうか。また、不射の射とはどんな意味が隠されているのでしょうか。

この「名人伝」という作品は、中島敦にとってどのようなもので、どんな意味を込めたものだったのでしょうか。


勉強不足で申し訳ありません。横暴な質問もあるかもしれませんが、どうぞ宜しくお願いします。

A 回答 (3件)

この辺が参考になりそうです。


http://www2.jimu.nagoya-u.ac.jp/kyudo/kantougens …

弓の名人では梅路見鸞を参考にしたんではないですかね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E8%B7%AF% …

残念なことに私では貴方の疑問にお答えできないので参考までに。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

補足で質問したいのですが、

中島敦の他の作品の多くは、ハッピーエンドではなく、悲しい終わり方をしていますが、この作品はそれほど不幸な終わり方ではありません。何か特別な意味があるのでしょうか。

山月記や狼疾記などの作品は、主人公=中島敦である場合がありますが、この作品の場合は違うのでしょうか。

お礼日時:2007/06/19 12:21

中島敦の他の作品の多くは、ハッピーエンドではなく、悲しい終わり方をしていますが、この作品はそれほど不幸な終わり方ではありません。

何か特別な意味があるのでしょうか。

たまにはアンアッピーエンドの終わり方の話を書きたかったんではないですかね。

山月記や狼疾記などの作品は、主人公=中島敦である場合がありますが、この作品の場合は違うのでしょうか。

この場合は、独白のタイプではなくたんたんと語られるところは、冷静にモデルの話を膨らませたのではと思います。

まあ、私の回答はこんなものです。もっとよく解る人が書き込んでくれるとよいですね!
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
それほど特別な意味はないのですね。中島敦の「名人伝」は、冷静に中国の古典を膨らませただけと考えればよいのですね。

お礼日時:2007/06/20 11:58

> まず、名人伝の舞台は趙の邯鄲の都ですが、この舞台が選ばれたのは何か理由があったのでしょうか。



この作品には典拠があります。新潮文庫版『李陵・山月記』の瀬沼茂樹による巻末解説によると、『列子』湯問篇にある射術の師弟関係をもとに、さらに黄帝篇、仲尼篇で補強をしたもの、とされています。

わたしは『列子』は読んでないのですが、検索してみると、湯問篇にはどこにも「邯鄲」の文字はない。つまり、「邯鄲」という設定は中島敦がしたものである、と考えることができます。

ここで、質問者さんは「邯鄲の夢」をあげていらっしゃいますが、「邯鄲」には「邯鄲の歩み」という成句もあります。
http://www.geocities.jp/kurogo965/kotowaza3/page …
を見ると
「中国、燕の田舎者が、趙の都邯鄲の人々の洗練された歩き方を真似ようとして身に付かず、その上自分の歩き方を忘れて、腹這(はらば)って帰った。」
とあります。
これを見るとおもしろいことに気がつきます。
「歩み」では、田舎の人間が、歩き方を身につけようと、邯鄲に行く。
『名人伝』では邯鄲の人間が、射術を習おうと、山ごもりする。
つまり、表裏の位置関係にある。
おそらくこの「邯鄲」は偶然ではなく、この「邯鄲の歩み」から来たものでしょう(あくまでもわたしの解釈です)。

さて、「歩み」での「燕の田舎者」歩き方を忘れたように、『名人伝』で紀昌は弓を忘れます。これは同じことなのか、それとも表裏の関係にあるのか。
ここが読みの焦点となってきます。

紀昌は飛衛に学ぶ。
 ↓
飛衛から学ぶもののないほどに上達する。
 ↓
甘蠅のもとで学ぶ。
 ↓
山を下りてくる。

この流れから行くと、超人的な名手になっていなくてはなりません。
そうでなくては『名人伝』というタイトルにもそぐわない。
問題は「紀昌はほんとうに弓の名人になったのだろうか」ではなく、「どうしてこれが名人なんだろうか」です。

ふつう「技を身につける」というように、わたしたちは技術の習得を、いまある自分に何かをつけ加えていく、というメタファーを使って理解します。
けれど、はたしてそうなんだろうか。
ピアノを練習して、指がどんどん軽やかに思い通りに動くようになっていく。これは何かを身に「つけ」たから?
けれど、「軽やか」ということに注目すると、いらないものを取り払ったから、と考えることもできます。

技術や知識を「身につける」系の思想に対して、技術を高めていくために「いらないものを取り払う」系の思想というのも、古来からあるのです。非常に大ざっぱに言ってしまえば、「身につけ」系の思想が西洋思想、「取り払い」系の思想が東洋思想と言えるかもしれません。
たとえば「雑念を払う」みたいな言い方は、日常的にありますよね。

紀昌もある段階までは「身につけ」系の技術の磨き方をしていきます。
それがある段階を境に「取り払い」系に転換する。
そのターニングポイントはどこか。
これを見逃しちゃいけません。

> 弓? と老人は笑う。弓矢の要る中はまだ射之射じゃ。不射之射には、烏漆の弓も粛慎の矢もいらぬ。

甘蠅は弓も矢も使わず鳶を射落としてしまう。
何もかも取り払ったあげく、弓矢すらも必要なくなった。これぞ名人、というわけです。

さて、この甘蠅のもとで修行した紀昌、甘蠅から何を取り払うことができるのか。なにしろ甘蠅は弓矢すら持っていない。

そうなると、意識です。

「名人」が「名人」であるためには、誰かにそれを認めてもらわなくちゃなりません。
「名人」であることを求める限り、それを承認してくれる人をかならず必要とするのです。
けれど、ほんとうに「承認してくれる人」は必要なんだろうか。
ほんとうの名人というのは、承認してくれる人さえも必要ではないのではないか。

甘蠅には紀昌がいます。紀昌が、すごい技だと承認する。
つまり、徒手空拳の甘蠅にも、「持ち物」はあるのです。
だから、作者は紀昌から、さらにこの「承認」ということを取り払ってしまう。
取り払って、取り払って、残ったのはただのなんでもない老人です。
この老人には何も承認など必要ない。何かを証明して見せる必要もない。
だからこその「名人」なんです。

「邯鄲の歩み」がきれいにひっくり返った、と思うのですが。

この「取り払い」系の思想が現れた作品として、ほかにも鴎外の『寒山拾得』があります。
寒山も何も持っていません。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2545658.html
ここで引用している磯貝英夫の読解はこちらにも参考になるかと思います。

なお、「身につけ」系、「取り払い」系というのは、あくまでわたしの便宜的な用語であることをどうかお含みください。
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この回答へのお礼

丁寧な回答をありがとうございました。
「邯鄲の歩み」という言葉は知りませんでした。
取り払い系の技術の磨き方で、紀昌は名人になったのですね。

お礼日時:2007/06/23 11:06

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