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夏目漱石の「こころ」という作品に登場する「K」という人物なのですが、
夏目漱石はなぜ普通の名前にせず、わざわざアルファベット一文字の名前にしたのでしょうか?
また、それもなぜ「K」だったのでしょうか?
なにかお考えがある方ぜひ教えてください

A 回答 (3件)

私的な考えですが、「K」とはKOUZOU、構造の「K」ではないでしょうか。


『こころ』には様々な社会構造そのものがうきぼりになっています。
先生(私)、お嬢さん、そして「K」。この三人の関係は欲望の三角形で表されています(他人の好きなものを好きになる=Kが好きなお嬢さんを好きになる)ここに現れているのは社会的構造です。
つまり、『こころ』は構造が複雑で、その構造を形成している人物が「K」であるともいえるのではないでしょうか。
様々な考え方があると思いますが、何かのイニシャル、と考えるならば、このような考え方はどうでしょうか?
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これには専門的な観点から考察された論考があると思うのですが、ここでは個人的な意見を書きます。



この『こころ』という作品の特異な点として、あらゆる登場人物に名前が与えられていないということがあります。

つまり、なぜKはKという名を与えられたのか、という疑問には、
1.どうして『こころ』の登場人物たちはありふれた固有名を持っていないのか
2.なぜKはKなのか
というふたつの問題が内包されているように思います。

まず、漱石は小説という散文形式に非常に意識的だった作家です。同じ形式を踏襲するのではなく、たえず新しいものを模索していった。いくつかの作品では実験的な試みをやってもいます。この「固有名なしの登場人物」というのも、実験的な試みのひとつであったかと思います。

そうしてその試みの目的は

「一言にして云えば、明治に適切な型というものは、明治の社会的状況、もう少し進んで言うならば、明治の社会的状況を形造るあなた方の心理状態、それにピタリと合うような、無理の最も少ない型でなければならないのです。」(漱石の明治四十四年の講演『中味と形式』)
そういう型を「外」からではなく、内面的に描き出すことではなかったか。

漱石よりずいぶん時代は下るのですが、フランスの作家であり評論家であるナタリー・サロートは「読者は…長い間の修練の結果として、日常の生活の便利さから、かれ自身それと気づかずに類型化する。…どうしても作中人物に持ってもらわなければならない名前でさえも、小説家にとっては困惑の種子なのである」(『不信の時代』)と言っているように、「名前」ただそれだけによってイメージが生まれてしまう。あらかじめ読者がその名前からくる連想で何らかのイメージを抱いてしまうことを避けたいとき、作家は、登場人物から名前をとりあげたり、イニシャルで呼んだり、あるいはガルシア=マルケスのように、そっくりの名前で呼んだり、意図的に誰かと同じ名前をつけたりします。

漱石の意図もここにあったのではないかと考えられます。
めまぐるしく変わっていく明治という時代にあって、従来の型ではなく、さらにまだ新しい型というものが生まれるまえの、かたちをなさない人々をあらわすために、あえて名づけないという方法をとったのではないか。

加えて、この作品では一部の「私」と、先生の遺書のなかでの「私」はちがう人物です。
ちがう人物でありながら、「先生を師と仰ぐ私」「Kを手本とする私」が、読者の内で二重写しになっていくような、非常に巧みな構造を持ってもいます。
そういう意味で、ここで固有名が与えられていないというのが、非常に生きてくるのです。

「私」「先生」「奥さん」「お嬢さん」「叔父」…出てくる登場人物はみな、関係の名前です。
「私」という一人称が成立するためには、「私」以外の人が必要です。
「先生」と呼ばれる人は、生徒の位置にくる人が不可欠です。
「奥さん」「お嬢さん」いずれの名称も、ほかの人との関係によって成立する人なのです
(ただ、血縁による関係と「先生-私」の関係はまったくちがう性格のものですが)。

このようななかにあって、Kというイニシャルは、それをなり立たせるだれも必要としません。
もうひとり、「静」と呼ばれる奥さん(お嬢さん)の存在がありますが、これは地の文、というか、あくまでも地の文に準ずる扱いのカッコのなかで、「(奥さんの名は静といった)。」と記述される箇所が一箇所、あとはすべて「先生」の呼びかけです。つまり、「静」と呼ばれる女性も、「奥さん」であり「お嬢さん」であり、自律していない女性、「先生」の呼びかけによって「静」という名を与えられる存在である、つまりは、Kのように、いついかなる場合も、だれの助けも必要ない登場人物は、ほかにはいません。

それぞれが関係のなかにあって、はっきりと形をもたない人々、関係のずれによって、容易に呼び名も変わってしまう人々のなかにあって、Kというイニシャルは、屹立した印象を受けます。
アルファベット一文字からくる視覚的な印象。
同時に、その音も大切でしょう。やはりKは、Mでなく、Pでなく、Bでなく、Sでなく、鋭く硬い響きを持つ、Kでなければならなかったように思います。

新しい時代、「個人主義時代」の人間像の手本として「先生」が選んだKは、まったく新しい、独立した人間として描かれなければならなかった。
そのことを考えると、彼には「K」という名前以外はあり得なかったのではないか、と思えます。
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漱石の弟子に小宮豊隆という人がいます。

主人公のほうが彼からの題材を使われているようですが、何か関係があるかもしれないと想像します。
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