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探幽以前に先行して制作された狩野派の花鳥図と、狩野探幽の名古屋城上洛殿障壁画の三之間花鳥図との違いについて教えて頂けませんか?

A 回答 (1件)

狩野探幽と先行して制作された狩野派の花鳥図との違いと言うより、探幽の生きた時代感覚の変化によって、探幽の画風が変わったと言うべきでしょう。



探幽が25歳の時に描いたとされる二条城の障壁画は、祖父永徳の雄大な様式をさらに拡大し、一層豪壮に描かれています。
一方、名古屋城上洛殿は、京へ上る家光を迎えるために建てられたもので、本丸御殿に隣接する奥向きの施設です。二条城の本丸御殿とは性格が違います。ここで、探幽は新たな画境を開きました。
すなわち、金碧濃彩ではなく、金砂子をまぶした素地に水墨で描く手法を主体としています。つまり従来の横方向へ展開する桃山風の構図から余白を活かした淡泊な画風です。
桃山風な時代精神から太平の世にいずれ移行することを予感していたのでしょうか。
豪壮から瀟洒へ 濃彩から淡泊へ
見比べれば一目瞭然です。
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この回答へのお礼

参考になりました。「余白を生かした淡白な画風」あたりについてもっと詳しく調べてみます。

お礼日時:2007/07/23 22:34

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