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私にはなぜか、小学生くらいの時から
「もしも自分が拷問される立場に立ったとしたら、私の人間性はどうなってしまうのだろう。果たしてどの程度まで正気を保っていられるのだろう」
などと考えて、とめどもなく恐怖におののくという妙な発想が根付いているのですが、実際みなさまはどう思われますか?

昔、とある高僧が、寺に侍が踏み込んできて「この寺を焼き払う」とかの脅しを掛けて、さらに「お前が片方の眼を差し出すなら見逃そう」と条件を出したところ、高僧は顔色ひとつ変えずにみずからの片目をえぐり出して差し出し、侍は度肝を抜かされたとかの話を聞いたことがあるのですが、ほんとにこういうことはありえるのだろうか?と思ったりします。

病気で断末魔の苦しみのさなかにあってもなお、他者への思いやりを示した人の話とか、戦場での死を賭した美談とか・・・こういった類の話は確かに励みになります。が、こういう話が稀有で、美談として語りつがれている事自体、苦痛がその人の人間性を破壊し尽くしてしまう事例の多さを物語っている事の証である、とも言えそうではあります。

どんなにまれなものでも、一種の「悟り」の状態に達した精神にとって、もはや肉体的な苦しみは小さなものになってしまうのでしょうか?解剖学的に言って、肉体的苦痛から精神が切り離されてなんらの影響も受けないという状態など、はたしてあり得るのでしょうか?

どう思われますか?

A 回答 (12件中11~12件)

 パタンジャリのヨーガスートラなど読みますと、多くのことが可能なようです。

実際、催眠術で極度のヒステリー状態を生み出し身体的状態を変えられますので、十分可能であるかと。

 印度ではこのような信じられない苦痛を感じないようなファキールがたくさん居ります。ただ、仏典のお話は例え真実の知識に基づくものであるとしても、教訓として受け取るべきでしょう。生兵法は怪我の元です。
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この回答へのお礼

ありがとーございます。

ちょっと専門用語が入っていて、良く分かりませんでした、スイマセン。
 
パタンジャリ?ファキール?よければまた解説お願いします。

お礼日時:2002/09/03 19:02

「医学的な肉体的苦痛-苦痛に構っていられない精神状態=認知する苦痛」だと思います。


大抵は医学的な肉体的苦痛の方が大きいが、まれに苦痛に構っていられない精神状態の方が勝ることがあるのだと思います。

非常事態が発生して必死に逃げていて、逃げ切ったときに気付いたら、どこかを怪我していた、というのはよくあることだと思います。
普通の状態で同じ怪我をしたら、その瞬間に「イタッ」と思って気づくのに。
動転していて、逃げることに必死で、怪我をした瞬間の痛みを認知できなかった、ということだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

なんらかの非常事態に置かれたときに、たしかにおっしゃるような「痛みより先にこの状況をどーにかしなきゃ」という特殊な体の状態になるということはあるのだろうと思います。

でも、高僧のたとえにあるような平静な状況から己の精神力のみでそのような体の状態に持っていくことは・・・どうなんでしょう?

なぞですね。

お礼日時:2002/09/03 18:58

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