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暇つぶしとは暇からの逃避でしょうか。
だとしたら暇つぶしをせずに暇を生きるとはどういう事だと思われますか。

A 回答 (14件中1~10件)

何もしないでいることも有意義な時間でライオンでも空腹でないかぎりグターとして無用な努力はしませんね。

過食と過運動も健康には善くない。精神のバランスは休息の必要と自然が感じさせているのに、人間は既得概念により個性を失って自然に対して罪を感じやみくもに逃避してしまうのです。

皆、既得概念に育まれ流行りの服を着て安心しています。自分にぴったりな服を探したり創ろうとする意欲は自分の中から生み出て必ずしも、理想や流行に添うとは限らない。

個性を獲得しようとすると自分に不満や不安がないようになることですが、周囲に自慢できるかどうかで達成される満足は個性ではない(と個人的には)思います。

憲法27条で「すべて国民は勤労の義務を負う」とされているのに対して、現実には不労所得者も居て、日本でいうと富の8割を1割の人が所有していて、甘い汁だけを吸って楽してる輩に自分に課した義務は「勤勉を義務付けし推奨し労働者からいかに権利や資産を搾取するか」だけです。

自然が与えたのではない所有者の作り事の「所有」「支配」に参加してしまったからには、作り事の義務と責任を負いそれが「安心」を得る手段として状況を正当化させている。暇を持つことが無用、不合理に感じてしまうのは他ならぬ正当化しょうとする自分で、自分の権利を自分で決めようとする所有者と同等な公平を禁止している身勝手な隷属関係でしかないことがわかります。

哲学的にいう「暇」は可能か不可能かで行使する発想のことで、感情論や処世訓とは違います。「やりたいこと」というのは欲望で、欲望に拘束されるが故に拘束感や不平不満を感じるのでは自由では無くなってしまう。人間順風を当然のことにして瑕疵のみが気に障るが故に、合理的でないこと、支配や所有に関わらない等の欲望を正当化する手段がとれない理由がない、説得しようがないことは目的を定めていない自由を満喫するのが難しいのでしょうね。

何もしないで唯だぐたーっとしている時間は、ぐたーっとするのに必要な休息の時間でこれも必要に迫られた拘束時間といえます。必要のない暇が一体何の役に立つかというと、新しいことを始めるのに「価値観をリセット」する要件となり得ます。

禅僧やヨガでする瞑想は身体は微動だにせずとも精神的には、それこそ無用な辛苦から精神の節約が出来ていたり、使命感や充実感で満たされていて執着や欲求不満の入る余地もなくなっていて何にも捕らわれていないで自由な精神で真面目に(人間はどんどん悪いように無知になりたいものではないので)生きてるのだと思います。

解りにくいかもしれません(汗)仮説の粋を越えませんが自由意思により頑張ったようです?
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この回答へのお礼

難しい話で理解できたか自信はありませんが、
暇を生きることが出来ないのは社会的な背景からだということでしょうか?
確かにそのことが暇に罪悪感を与えて、暇つぶしを巧妙にしているのは間違いないと思いますが、私にはもっと人としての根源的な不安があるのではないかと思います。なぜなら暇を生きれないのは我々大人ばかりではなく小さい子供にもそれが見られるからです。

私もヨガを連想しましたが、これに関する知識もないのでなんともいえませんが、対症療法的であまり好きになれません。

もしかすると私の疑問は、なぜ川は流れ続けるのかと言っているのと同じかもしれません。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/11 02:06

精神の目的と休息は 一般に人が――自覚しなくても――持つのが 人生だと考えます。



その最終の休息ではなく 長い旅の途中で 一休みすることもあります。この一休みにおいて 逃避しようが ひまを潰そうが ひまを過ごすと言おうが まったく自由だとされています。

こういう事情だと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
自由なのはもちろん分かりますが・・・

お礼日時:2007/11/07 21:39

書き間違えました。

。。

「<概念>ということは、フィクションである、ということとはイコールではありません」
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この回答へのお礼

了解です。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/07 21:26

#08です。


再質問いただいたようなので。

>私が実験についてこれていない感がありますが、やるべきことが無いというのは概念でしょうか。私には恐ろしくリアリティがあるのですが。

リアリティがある、ということはフィクションである、ということとはイコールではありません。「リアリティ」は「リアル」にのみ支えられてあるのではなく、リアルを解釈する想像力(=概念)を媒介して成立している、と捉えていただければよいか、と思います。

>それと同じように、「生きなくてもいいやー」とは思えませんでした。

もちろん、一般には受け入れがたいことを書いたつもりです。
ですので、普通の人にはやはり「やるべきこと」として生命維持なり、プラスアルファのなんなりが、存在するのだろうと思います。
そうすると、どうしても「暇」は余剰として捉えられることになります。そうなると、無為を、ただ無為そのものとして生きるのではなく、余剰として生きることになるのだろう、と。

以上、わかりにくくて恐縮です。
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この回答へのお礼

よく分かりました。
余剰という考え方が暇を生きにくくしているのは確かだと思います。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/07 21:25

暇というのは「自由を持て余している」ということ。


やれることがあるならそれをすればいいし、それをいつ中断しても止めてもいい。

自由の対義語の拘束は意志によって止めることができませんので暇だからするということになりません。暇がなくてもせざるを得ないもの。

女性の身支度にかける時間というのは個人の自由を含んでいますが、人によっては意志で止めることは出来ない理由もあります。そうだと自由ではなく出勤前やデート前に身支度することは拘束時間、拘束意志で、自分が身支度する時間を所有しているのではなく身支度に支配され甘んじていることとなります。

暇つぶしは意志により支配できる。逃避という消極的なものはないように思うのです。
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この回答へのお礼

>やれることがあるならそれをすればいいし、それをいつ中断しても止めてもいい。
確かにそうなのですが、自由ならば「何もしない」も選択肢の中にあるはずです。しかし我々はそれを選ばない、なぜなら「何もしない」ということが出来ないからです。
試しに1時間「何もしない」時間を作ってみてください。そのとき心理がどのように動くのかご覧になってください。きっと眠くなるかイライラしてテレビのスイッチを入れたくなると思います。
このイライラは暇からの逃避ではないだろうかと思うのです。

お礼日時:2007/11/06 22:10

No6です。

私は、人間はほかの生物と共通するいわゆる外の世界のほかに頭の中にも世界をもっていると考えています。私のような凡人は、頭の中の世界が貧弱なので絶え間なく外の世界から何かを持ち込んでいないと不安退屈で身動きが取れなくなってしまいます。ところが(おそらく)優れた学者や芸術家はヒントやきっかけは外の世界から得ても彼らの頭の中の世界の中で豊かに成長するので、わざわざ外の世界のことをそれ以上持ち込む必要がないのだと思います。私は自分の趣味を持つことがささやかながら頭の世界に安住できる(スケジュール表に空きができても平気でいられる)唯一の対策ではないかと考えております。優れた学者や芸術家は暇こそ仕事をするために必要であるはずです。彼らが衣食のために働かなければならなかったら本来の研究や作品を完成できません。このことはわれわれ凡人にも参考になることだと思います。われわれは仕事をいやなものだと思っていてもいざ仕事から解放されると私的な仕事を求めてしまいます。われわれは仕事を嫌っているどころか仕事に依存して生きています(いわゆる食うためだけではなく精神的にもという意味です)。趣味を私的な仕事にしないことは結構難しいことです。お金にならないこと、当座の役に立たないことを自分の意志で行うことこそ優れた学者や芸術家の特徴なのですから。でもわれわれにも彼らの真似事はできますし、それは大変良いことだと思います。
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この回答へのお礼

なるほど、
仕事への依存が暇への不安を生んでいるのかもしれませんね。
暇は苦痛であるという心理が、暇とは何かのヒントになるのではないかと考えていました。苦痛が無ければ暇であっても何も問題は無いはずですね。優れた学者や芸術家は暇であっても私たちとは違う暇を生きているのかもしれませんね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/06 21:59

面白い問いだと思います。


暇つぶしに最適です(笑)

A.思考実験その1
A1.暇=「やるべきことがない」という概念は、そもそも「やるべきことがある」という概念が存在することではじめて成立する概念です。

A2.では、逆にやるべきことがある、とはどういうことか。そもそも人が「やるべきこと」などあるのだろうか。と問うことができます。

A3.「やるべきこと」なんて、突き詰めていけば、根源的にあるのかと言われると「無い」と思います。というかそういう立場を取りたいと思います。食うとか、寝るとか、生命維持を「やるべきこと」と位置づければ、まあ、食うとか、寝るとか、それをサステイナブルにするために働くとか、は「やるべきこと」かもしれませんが、「生きなくてもいいやー」って言ってしまったら「やりたいこと」ならあっても「やるべきこと」などなくなりますね。

A4.ということで我々の人生はやるべきことがない。その意味において我々の人生は暇つぶしです。

B.思考実験その2:「なぜ我々は暇をすごせないのか」に答えてみる。
 我々は、暇な時間そのものを単体で生きていないから、でしょう。「暇な時間」は「暇でない(とされる)時間」の合間にしか存在しない概念です。
 とすれば、その先に来ると予期されるであろう「暇ではない時間」のために投資したり、「暇ではない時間」にはできないことをしたがる。あくまで、「暇ではない時間」がメインであり、「暇な時間」はその余剰である、と発想されるとき、我々は「暇な時間」を余剰としてしか生きることができない。余剰として生きられる無為な時間は、無為そのものではなくなってしまう。

 暇な時間をそれ単体で生きるとしたら、「暇」それ自体を人生と考えてみるという観点が必要になるように思います。つまりAにおいて提示したような価値観を受け入れること。


 ***

 以上のように比較的かんたんに答えてみましたがいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
私が実験についてこれていない感がありますが、やるべきことが無いというのは概念でしょうか。私には恐ろしくリアリティがあるのですが。
それと同じように、「生きなくてもいいやー」とは思えませんでした。

思考実験その2は分かる気がします。そもそも人生おける時間を二元論(暇<=>忙しい、仕事<=>私生活)で考えようというのが無理なのでしょうかね。
私たちは暇についての理解が足りないのかもしれません。

お礼日時:2007/11/06 21:49

 #5です。


 お礼をありがとうございます。

>何もすることが無いということが事実だとすれば、何もしなければいいと考えれるのは短絡的でしょうか。
>私たちは何もしないということがとても苦手のようです。何もしないということはどうゆう事なのでしょうか。

 「何もすることが無い」というのは、周囲からの義務で行わなければならないことや、過去の自分がマネージャとなって今の自分に課したことがないということかと思いますが、あなたの言う「何もしない」ということが今ひとつ分かりません。「何もしなければいい」と言われながら「何もしないということはどうゆう事なのでしょうか」と尋ねられることの真意を掴みかねています。

>暇を生きると書いたのは、することが無いなら何もしなければいいはずだと思ったからです。

 例えば、3日の暇が急にできたとします。
 あなたは本当に何もせずに3日間生きていることができますか?
 「何もしない暇つぶし」とは、次にすべき何かに対して特に悪い影響を及ぼさずに時を過ごすことであり、より積極的な意味合いで言えば、自分の為に過ごすときの過ごし方を言うように思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
回りくどい言い方をしてしまいましたが話はいたって簡単で、

1.暇である
2.やることが無いというのは間違いない事実である。
3.ならば、やるべきことができるまで何もせずにいよう。

と、論理的?に考えると3番の結論が出てもいいはずなのに実際は、

3.やることが無いのでとりあえず音楽でも聴いて暇をつぶそう

となると思います。何もしなくていいはずなのに音楽を聴いてしまうのです。
なぜ私たちは「何もしない」ができないのでしょう?
という問いです。

>あなたは本当に何もせずに3日間生きていることができますか?

できません。
故に、なぜ私たちは「何もしない」が出来ないのでしょう。
そして、「何もしない」とはどういう状態なのだろうと思うのです。

お礼日時:2007/11/05 23:02

暇を生きるというのは頭の中の世界で生きているということではないでしょうか。

暇をやることがないことと考えるのは頭の中の世界が貧弱だからなのではないでしょうか。すぐれた芸術家や学者は外から見ればいくら忙しそうでも実は最も暇を生きている人たちだと思います。また勤務時間帯の窓際族のような人も欠勤しないかぎり暇を生きていると言えるかもしれません。
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この回答へのお礼

学者や芸術家の頭の中では何が起こっているのでしょう。常に何かを考えているということでしょうか。
すみませんがもう少し補足をお願いします。

お礼日時:2007/11/05 18:49

 「暇つぶし」とは、心身とも健康に空いたときを過ごす過ごし方をいうのではないでしょうか。


 例えば、電車に乗り遅れて何時間か待たなければならなくなったとき、イライラしたり悪態をついたりせずに、駅の周囲を探索してみたり喫茶店で土地の人との会話を楽しんだりして、気持ちよく時を過ごすことができれば、それは立派な「暇つぶし」といえるでしょう。さらに、心身をリフレッシュしたり思いもがけない貴重な体験ができたりするなどの有意義な時の過ごし方であれば、その「暇つぶし」が「暇を生きる」ということになるのではないでしょうか。

 あと、人から聞いた話で恐縮ですが、何週間にもわたる船旅の場合、暇な時間がないほど娯楽などのスケジュールで埋められるそうです。理由は、暇な時間を埋めないと、ノイローゼになったり自殺したりする人が出るからだとのこと。

 「暇つぶし」にも効用があるように思います。
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この回答へのお礼

何もすることが無いということが事実だとすれば、何もしなければいいと考えれるのは短絡的でしょうか。
暇を生きると書いたのは、することが無いなら何もしなければいいはずだと思ったからです。
私たちは何もしないということがとても苦手のようです。何もしないということはどうゆう事なのでしょうか。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/05 18:37

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