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27歳の女性です。
自分は自分で、人は人という大原則はわかっているつもりですが、
他人と共感したいとか、親密な関係になるにあたっては、感覚が自分と同じ・似ている人しか、理解することができません。
そういう価値観の具体例が、 向上心がない、やるべきときに頑張らない、みたいな無気力系の人を理解することが出来ない、というものです。
つまりそれって価値観にすぎないのかもしれないけど、それらを私は「悪」とみなしています。
(もちろん病気を持っているとか、それなりの事情があったり、一時期的にそうであるのは、当たり前なので、そういうのは除きますが。)
そういう人が世の中にたくさんいるのは知っているし、 周りにも普通にいる。 「そういう人もいるよね」とは思います。
でも、理解はできないし、ゆえに友達にはなれないし、ましてや恋人やダンナにはできないと思っています。
これは他人に対して「厳しい」ことなのでしょうか?
ゆるりと生きていきたい人にとっては、私みたいな奴はしんどくて仕方ないと思いますし、それは想像できるのですが。

そういう人とは、行き方のスタンスが違うわけだから、
極力関わらないように生きていけばよい、ということなのかもしれないけれど、 私は他人に対して、厳しく求めすぎなのかな・・・というのが悩みの本筋です。

自分が自分にストイックでありたいと思えば思うほど、
そういう考えと真逆な人(=無気力系の人)が、許せなくなってきてしまってます。

人間関係は、「許し」がキーなんだと思っています。
いかに他人を許せるか、なんだろうなぁと。
それに気がついてから、私はなんて許容範囲が狭いんだろうって気づきました。許せないものが、多い。
それがなぜなのか。わからない。
またどうしたら、自分の考え方と相容れないものを、「許せ」るのかと。

自分の価値観に固執していて、またそれが正しいと思っているからなのだとは思うけど、その程度がハンパないってことなのでしょうか。
自分が正しいと信じなければ、とても生きていけないけど・・・。

私は、今までの人生で、 性格が負けず嫌いだったおかげで、 努力もたくさんしてきた自負があるし、ずっと向上心があります。
それで今の私があるし、子供のころにちゃんと頑張ってきておいてよかった、ってつくづく思っているのです。
だから、努力し続けない人とか、向上心がない人は、 もったいないと思うところがあります。
頑張ってれば、もっといい人生になってたんじゃないか、これからなっていけるんじゃないの?と、余計なお世話なのですが。

何かよい心の持ち方、考え方、良書などがあれば教えてください。

A 回答 (19件中11~19件)

確信が持てないのです(これも、確信が無い)。


だからこそ、人は確信を持ちたいのかも知れません。

ここでの回答の違いも正に、そうですね。
そして、kototomo2さん自身を振り返り、生まれながらにそういう考えに
なってた訳じゃない。このことは、これから先同じような考えで
あるかどうか疑う根拠になるかもしれません。でも、思考の振幅は
必ずあるし、それどころか10年後には、今否定していることを
肯定してるかもしれませんね。もちろん、その更に先には再び否定
したりする自分がいるかもしれません。

いったい善悪とは何なのでしょうか。
自分も多くを「許せ」なかったり、「否定」したりしてますが、
そのことによって実は自分の未熟を知ります。
そして、どんな社会、時代に投げ出されても揺るがない確信が
持ちたい。それは、「許し」「肯定する」ことなのかも知れないと
今は考えてます。

なんか支離滅裂ですが、kototomo2さんよりも「許せ」ないことの
多い未熟な者として、そういう感情に出逢った時の自分に対する
興味を感じると、いつのまにか「許せ」ないということから
離脱しているようです。

「確信」、最近このことについてとても引っかかってるんです。
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この回答へのお礼

>自分も多くを「許せ」なかったり、「否定」したりしてますが、
そのことによって実は自分の未熟を知ります。

わかるように思います。

宗教めいた話ですが、それこそ、イエス・キリストや、仏様であれば、すべてを受け入れるわけですよね(苦笑)。罪人すら、赦すといいますよね。
その境地に達するのを、「成熟」とするのなら、自分は極めて「未熟」であろうと思わざるを得ません。

そして、おっしゃるように、
>どんな社会、時代に投げ出されても揺るがない確信が
持ちたい。それは、「許し」「肯定する」ことなのかも知れない

そうかもしれません。
そうだとすれば、やはり万民を受け入れられる↑みたいな境地を目指すしかないのでしょうか(笑)。
凡人には、困難なことですね・・・

コメントありがとうございます。

お礼日時:2008/01/29 23:09

「許せない」のは、違う価値観を「悪い」と判断しているからです。


良い、悪いは、その評価する人の「個人的基準や都合」でしかありません。
私から見れば「そんなに急いでどこ行くの?」的な価値観の人を感じます。
人それぞれであると「認める」事です。
「許す」必要はありません。
それは、全ての人を「あなたの価値観」に当てはめる必要がないからです。
自分とは違う価値観で生きている人が居ると「認める」だけでイイのです。
実際に存在しているのですから、当然の事をするだけですよ。
あなたの価値感で全てを考えようとするから「無理」が生じるのです。
男は嫌だ、女は嫌だ、有色人種は嫌だ、日本人は嫌だ・・・などと考えてところで
存在しているのを否定することは出来ません。
認めるしかないのではありませんか?
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この回答へのお礼

>自分とは違う価値観で生きている人が居ると「認める」だけでイイのです。

これだけであれば、なんとかできていると思います。
他の回答者様のところにも、たびたび書かせていただきました。
そうですね、実際に存在しているのですからね。

お礼日時:2008/01/29 23:03

僕自身は、両面を持っていると思います。

僕はある面では、向上心のかたまりのようなところがあります。数時間の暇があれば、何かを読んだり、新しい知識を身につけたり、考え事をしないと、気が済まないところがあります。何の向上心を持たない人を、心底軽蔑する気持ちもあり、質問者様の気持ちをある程度共有しているとも言えます。
その一方で、僕のライフスタイルは、世間に背を向けているところがあり、「この人はなんなんだろう」という目で僕を見る人は多いんだろうなあ、と思っています。

だから、あなたが頑張るべき、と思っているところで頑張らない人でも、別のところで頑張っているという可能性が1つあると思います。

それから、その人が無気力なのは、一時的なことかもしれません。たとえば、心理学者の河合隼雄によれば、成長期の一時期、エネルギーが内側にだけ向くような人がたくさんいると言います。虫でいったらサナギみたいな期間があり、それを過ぎるとまたエネルギーが外側に向くそうです。そのサナギの時、周囲の理解のない大人から「何を怠けているんだ」と突付かれると、サナギの期間からうまく抜け出せなくなったりすることもあるそうです。
そんなふうに、これはこの人の特殊でデリケートな一時期かもしれない、という見方もあると思います。

それから、その怠けている人が、自分にはできない能力を持っているかもしれません。それを発見できれば、その人を尊敬できるかもしれません。「ゲゲゲの鬼太郎」の作者の水木しげるは、昔からどこに行っても役立たずと思われ、どこかで働いても数日でクビになるような人だったけど、物語を書かせたらすごい人だ、みたいに。

あとは、本当に純粋に無気力な怠け者という場合もあると思います。そういう人は、不幸だと思います。いかにしてこの人を救えるか、というふうな見方もあるかもしれません。

それから余談のようでもありますが、僕は、大学時代、ものすごく無気力に陥ったことがあります。そういう時期を経て、ほんのちょっとした興味を頑張って育て、今では好奇心や向上心のシナプスを自分なりに育てたと思います。だから、無気力に二度と戻りたくないという恐怖感がどこかにあります。僕も質問者様と同じで、向上心の感じられない人を軽蔑する気持ちが強いのですが、どこか潜在意識で、自分がこうなることは断じて許されない、みたいな恐怖が、形を変えて相手を憎む気持ちになってるのかな、と思ったりもします。

難しいことですね。何かその人のいいところを見つけられればいいのでしょうが、いつもいつもそうはいきませんから。
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この回答へのお礼

>数時間の暇があれば、何かを読んだり、新しい知識を身につけたり、考え事をしないと、気が済まないところがあります。

同じですね。
私も時間が少しでもあれば、本や雑誌や、何かで情報を仕入れているタイプです。

>だから、あなたが頑張るべき、と思っているところで頑張らない人でも、別のところで頑張っているという可能性が1つあると思います。

これは、気に留めておこうと思います。
ただ、これがそもそも悪いことなのかもしれませんが、学生であれば学校の課題、社会人であれば仕事が、まず絶対に頑張らなければならないところだ、という私の前提があるんですね。義務というようなところでしょうか、そういう感覚なんです。
ここが凝り固まっているのかもしれないですが、これらが1番だということに問題があるとはさして思えない(ゆえに私の問題なのかもしれないが)のです。

本当に難しいですね。

大変おこがましいのを承知の上で、救いたかった友人がいたのですが、どうしても分かり合えませんでした。

コメントありがとうございました。

お礼日時:2008/01/29 23:18

誰だって友達や恋人は選んでいるものですから、合わない性格の人間を無理に受け入れることはないと思います。



ですが、向上心の無い人を一口に「悪い」と決め付けるのはちょっと視野が狭いんじゃないかなーと思います。「許す」といっても、彼らは悪いことをしたわけでもないのになぜ質問者さまに許される必要があるのでしょう?なんか上から目線だな~と感じました。

質問者さまの仰る「向上心」とは何ですか?表面的に見たら頑張っていない人でも、どこか知らない場所で頑張っているかもしれない。仕事に対して向上心が無い人でも、家庭ではより良い夫・父親になろうと人一倍頑張っているかもしれないですよ。

>頑張ってれば、もっといい人生になってたんじゃないか、これからなっていけるんじゃないの?

「いい人生」なんて人それぞれ、自分で判断すればいいのです。質問者さまにとっての「いい人生」が誰にとってもいい人生とは限りません。

私だって、頑張りすぎてピリピリしているよりは、そこまで頑張らずに気持ちに余裕を持って生きたほうが良いと思っています。質問文を読んで、なんだか疲れそうな人生だなーと思いました。

やはり「人は人」としか言いようがないのですけどね。性格面だけではなく、人生に何を求めているかも人それぞれ違うので、質問者さまにとっては「向上心」ではなくても、その人なりに辿り着きたい場所があり、誰でも何らかの形では努力していると思いますよ。
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この回答へのお礼

「許す」は、伝え方が悪かったようで、「受け入れられる」「認められる」という意味でとってください。

私の思う「向上心」は、自分がよりよい、質の高い人間になり、人の役に立てる人間を目指す心、です。
そのためには、勉強し、知識を増やし、人脈を作り、助け・助けられる人間関係を築き、自分のため・人のために汗をかき、労働を通して社会へ還元できるようにならなければ、と思っています。

おっしゃるように、「いい人生」とは、それぞれ個人が何をもって「いい」と思うかに関わってきますので、一概にはいえません。
ただ、自分が受けた恩恵を、きちんと社会に返して、人に感謝される人生が、私は「いい人生」と思っていますし、それが最良であるかどうかはおいておいて、「いい人生」のひとつであろうことは、多くの人に賛同していただけるのではないかと思います。

私自信は、「疲れそうな」人生とは思っていません。
もちろん大変です。楽ではありません。それは感じていますし、認めます。
でも大変であれば、苦労すれば、その分得るものが大きいことも、私はすでに気がついてます。

>その人なりに辿り着きたい場所があり、誰でも何らかの形では努力していると思いますよ

このコメントは、忘れないようにしたいと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/29 22:54

 よい考えかどうかはわかりませんが言えることがありますので。



 あなたの主張がまことに納得いくもので、私も全てにおいて共感できます。そしてその為、周囲に対してキツいことを当然のごとく言い続けて、随分仕事も減ったものです(笑)。

 まずですが、全部の人と仲良くならなくていいと思います。そういう厳しいあなただからこそ助かると言ってくれる一部の人と、広く浅くではなく、深い付き合いをされていくことで、ますますあなたの人間性が深まるのだと私は思います。無理に周囲と同調しなくていいと思います。

 次にですが、まだお若い。36の私から見てもまだお若い。私があなたの年の時はまさにそんな感じでした。別に意図的に周囲を許そうとしてきたわけではないんですが、年相応に丸くなってきましたよ(笑)。結婚も影響があったみたいですが。

 いくつになっても偏屈なままという人は、幼児体験等何か原因のある人で、特別そういう原因に心当たりがないのなら、普通にしていても次第に丸くなると思います。
 説得力ないですかね(笑)?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

なんだかほっとするコメントをいただきました。

今はちょうど自分が、ちゃんと勉強もして仕事もして、大人になっていかなければ、と活き込んでいる真っ最中なので、余計にこんなかんじなのだろうと思います。

私の年齢でも、昔よりカンタンなことでは怒らなくなったなぁとか(笑)思ったりするので、それが「丸くなる」ということなんでしょうかね(笑)。

コメントありがとうございました。

お礼日時:2008/01/29 22:41

人は人、自分は自分。

その人の人生で感じたこと思ったこと体験したこと一人ひとり違うと私は思っているから、私は他人を認めてますね。
質問者の「もったいない」と思ったことは正直あります。
でも、その人の人生だし、そのことでイライラする自分は自分で損してるなと思い気にしないようにしています。
他人の事でイライラするのは時間がもったいないですよ。
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この回答へのお礼

おっしゃるとおりですよね。
自分の時間がもったいないのは、気がついています。

自分とそんなに関わらない人であれば、冷たいようですが、私も無視できたと思うのですが。。。

難しいですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/29 22:36

貴方の言っていることは理解できます。


そして、貴方が頑張っていない人に対して許せないという「権利」も
あると思います。
それは、貴方がそれを言うだけの努力をし、向上心がある
頑張りやさんだからです。
でも、それを「悪」とまで言ってしまうのは極端な考え方だと
思います。
ニートとか、パラサイトシングルとかも貴方は絶対許せない
人種ではないですか(笑)?

「恋人」「友達」にはできない。
それも別にかまわないと思います。
それが貴方の価値観だと思いますから。
ただ、社会にはたくさんの人がいます。いろんな性格の人がいます。
みんながみんな、向上心があって頑張りやではないです。
それがいわゆる「性格」や「人柄」ですよね。

ただ少し見方を変えてみるのはどうでしょうか?
貴方が頑張りやで負けず嫌い。
でも、もしかしたらそれを他人から見れば「気の強い可愛げのない女」
と見られているかもしれません。

自分が長所と思っていることが他人からしてみれば短所の場合も
あります。
だから、自分が全て正しいと思い込みすぎるのは少々
自己中心的でもあると思います。

ちょっと話が変わるかもしれませんが、
人間だから人の好き嫌いってありますよね?
私もあります。
でも、100パーセント悪い人っていないと思います。
たとえば「向上心がない。嫌いな人。」って決め付けないで
その人の長所を見てみたらどうでしょう?
「向上心はないけど、とても穏やかな人だな。」
「向上心はないけど、明るくて話はうまいよね。」とか。

私も向上心のない人は好きになれません。特に男性の場合。
でも、同僚や友人レベルで考えるならば、その人の良いところを
探して「許せる」努力をしてみてはどうでしょう?
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この回答へのお礼

向上心がない、頑張らない、これが、本人だけの問題で済むのならば、私も「人は人だから」ともっとクールにバッサリ切れるのではないか、と思います。
そこまで私も他人に興味がある人間ではないです(むしろ、関心は低い方だと思います)。
でも他の方のところでも述べましたように、頑張らないことは、ときに周りに迷惑をかけることなんですよね。それに気がついていないことに、私は「悪」を感じてしまうように思います。

ニートやパラサイトシングル、確かに私の考え方には反します(苦笑)。当たり前に物事に甘えていて、そのありがたみがわかっていなければ、理解はできません。
逆に、「今のままではいけないんだけど」とわかっていて今たまたまニートやパラサイトなのならば、理解はできる、ということです。

私は「気が強くて可愛げのない女」だと思います。
それは昔から自覚しています。
でもそれを、自分ではダメなことだとは思っていない(思っていたら自己否定ですね)ので、今のような感じなのだと思います。

自分がすべて正しいと思うのは、おごりであろうと思います。
そこには気をつけようと思っています。

ある友人(男です)は、信じられないぐらい優しくて、気も利いて、穏やかでよいところはあると思いますし、知っています。
それでも、やるべきことをやらない場面に何度も遭遇して、ガマンできなくなってしまいました。

コメントありがとうございました。

お礼日時:2008/01/29 22:30

初めまして。



私はむしろいつも逆のことで悩んでしまいます。
なんで「許し」ちゃうんだろう?って。
許せなかったものを許せるようになるということは、
興味を持たなくなることと紙一重ですよね。
私はいつもその危険性の方ばかりが気になります。
許せないものは許せない!と言えた方がよっぽど潔いなぁと。

ただ、一般論として、人の許せない部分というのは
多かれ少なかれ自分の中にもある部分だとよく言いますが、
質問者様の場合はそうではないのですね。
私の場合、度を超えた怠け者や享楽主義者を見ると
質問者様と同じく、許せない!という気持ちになることが
ありますが、それは自分の中の「本当は自分もそれくらい
気楽になりたい」という気持ちや、頑張っている自分を
バカバカしく思わないための予防線だったりする気がします。

それに、子供の頃からコツコツと何かを積み重ねてきて
マジメに頑張ってきた人間に対して、「それって
つまらなくない?もっと遊んで色んな経験した方が
よっぽど良かったじゃん」と言う人だっています。
それを間違いとも言えないでしょうし。

脱線してきましたが、許せないという気持ちは無理に
捨てなくても良いのではないでしょうか?
しかし、「バカにした」「見下した」見方をするよりは、
いっそただ単に「嫌い」で片づける方がよっぽど
スッキリしてる気はしますよね。

アドバイスにはなっていないですね…。
共感をそのまま回答にしてしまった感じです(笑)。
スミマセン。
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この回答へのお礼

>許せなかったものを許せるようになるということは、
興味を持たなくなることと紙一重ですよね。

これはわかる気がします。
気にならない=関心がない=どうでもいい ということになっていくのでしょうね。

向上心のない人が「嫌い」という好き嫌いの感情より(もちろん、好きか嫌いかと聞かれれば、嫌いなのですけれども)、職場にそういう人がいてきちんと仕事をしなければ、自分でなくても、周りに迷惑がかかりますよね。クラスもそうで、みんな頑張っているのに、やる気のない人が1人でもいたら、クラス全体の頑張ろうという雰囲気に水を差しますし、これらは頑張っている他の人たちに対して、失礼なことだと私は思うのです。
それに気がついていないことが、(嫌いというより)許せない、認められない、ということなんだと思います。。。

いえ、コメントありがとうございました。

お礼日時:2008/01/29 22:15

まずは、「許せる」「許せない」という考えを捨ててみては?


要は、「受け入れられる」か「受け入れられない」かでしょう。

許す必要はないけど、受け入れられるかもしれませんよ。

確固たる信念を持っている事は素晴らしいと思いますが、己の世界の常識は必ずしも他のそれと一致するとは限りませんよね。
きっとそれぞれに良い面、悪い面があるはずです。
なるべく良い面を探すようにすると、人間関係も楽しくなりますよ。

他にとっての良い面=己にとっての悪い面 だとすれば、発想の転換をしてみましょう。
客観的に観察してみる。己の常識を持ち込まない。
これは難しいと思いますが、この「発想の転換をする」という発想に至りさえすれば、成功せずとも、少し見方は変わるでしょう。

ちなみに私は「自分に甘く」「他人に甘く」で生きてきました。
元々、己の信念がない方だったので、他の良い面を吸収し続けてきました。いつしか客観的にしか見れなくなってしまって、ある意味ダメダメですが…笑。

あくまで私の考えですので、参考程度にしてください。

この回答への補足

みなさんに「許す」という視点がおごりであるというようにおおよそ言われましたが、私が用いた「許す」は、(私は無宗教ですが)宗教的な「赦し」に近い意味というか、「受容」「認容」に近い意味です。
だから、swe-yさんがおっしゃってくださった、「受け入れられるかもしれません」に等しい意味です。

今でも、「そういう人はいるよね」って思えてはいるのです。
その存在を、排斥したいのではありません。
そういう意味では、浅くですが、ある一定程度は「受け入れられている」のかもしれないです。

ただ職場や、今夜間の専門学校に働きながら通っていますが、そのクラスメイトや、そういう関わらざるを得ない身近な人が、仕事であるとかやるべき課題をちゃんとしないのを目の当たりにしたときに、自分へ直接の被害がなかったとしても、友達面をするのも嘘だと感じてしまうのです。

補足日時:2008/01/29 21:55
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この回答へのお礼

昔から、人の良い面を探すのが苦手だなという自覚がありました。
それをわかっているので、意識はするのですが、
なかなか難しいようです。
「誉める」ことも苦手なのです。
これからも、なるべく良い面を見つけていく努力はしたいと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/29 22:08

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