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以下、哲学の問題でしょうか?
時々、言語化されていない知識に出会うことがあります。頑固な職人さんとか、ある種の経験豊富な知識人のような人たちが集積している経験に基づく知のようなものです。

どちらかというとそのような経験に基づく知識は社会的には受容され、賞賛される側になる場合が多いと思います。テレビドラマ、ドキュメンタリーでもだいたいそういう風な扱いですね。

そのようなものに遭遇したとき、どのような態度に出るべきか迷うことがあります。私は、無条件で賞賛することはできません。同じ経験や知識を共有していないからですね。でも間違いではない知識だとは思います。
ケースバイケースなのでしょうか。”わかるように説明して欲しい。”と言うと”バカヤロウ”などと言われそう。”べらんめえ”調が良く似合います。

具体例は示しませんでしたが、主旨はご理解頂けたかと思います。こういう場合、どうしたらいいでしょう。

A 回答 (11件中1~10件)

 ・No2です。

丁寧なお礼(確認したのがつい先ほどでした)を頂きましてありがとうございます。少々気付いた事を。

 >私の問いかけは、"言語”と”非言語”の対峙ということが大きなテーマ

 ・今、明確なテーマを知りました。そうだったのですね。ということで、私なりの解釈では「記号」と「イメージ」という言葉で捉えました。

 >”非言語での伝達”

 ・伝達に関しては、skmsk19410 さんが言われる"言語”であっても勘違いに代表される錯誤は起こり得るので、"言語”であっても万能ではないと思います。また、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889年~1951年)は人々の言語活動は社会や文化等の生活のあり方という背景的文脈と一体であると捉え、「生活形式」に内在する「言語ゲーム」という概念をたてた(私の解釈です)。そう踏まえると、非言語のバックボーンが余りに大きいのでVSという形はそぐわないのではないかと思います。

 >日本では特に美徳とされている面があります。しかし一方で分かりにくさ・拡大解釈・むやみな精神論的雰囲気を醸成していることも事実ですね。

 ・気遣いや心配り等にあたる部分が上手く作用すれば美徳となるのでしょう。なお一方、上手く作用するように配慮しなければならないという「安全配慮義務、健康配慮義務」という概念が法的に労働者保護の観点から存在しているということは、場合によっては明文化(言語化)する必要があるという表れだと思います。

 >さらにそれでミスを犯せば、災難まで発生するわけです。

 ・仰るとおりに取り返しのつかない事例は後を絶ちません。、労働災害(安全工学含む)に係る「ハインリッヒの法則(1)」や「ヒヤリハット(2)」等は人間の危うさや不完全さの側面を教訓として教えてくれてますが、完全に活かしきれてはいないと思います。
(1) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4% …
(2) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A4% …

 >職人さんの技を数値(一種の言語)で示すことができたならば、これは言語側のことですね。

 ・確かに言語側ですし、最近では2007年問題の団塊世代の大量退職に伴う技術力の継承に関し、暗黙知を含む口述だけの伝承であった部分の明文化(マニュアル化)への取り組みは企業存続の課題である例がありますので、言語として役割は重要と思います。

 >"言語”派なので日本では生きにくいなあと感じることが多いです。

 ・私は言葉足らず説明不足で誤解を招いた事が幾度とあります。そのたびに改善を試みますが人と人が複数関与しているとなかなか難しいというのが実感です…。また、私がskmsk19410 さんの質問文を明確に把握できていなかったのは、私の読解力が足りなかったのか、私の行間を読む想像能力の欠如なのかはさておき、言語は難しいとあらためて感じました。
 なお、質問文の最後の、>「具体例は示しませんでしたが、主旨はご理解頂けたかと思います。」ということは言語以外の行間を読み取りskmsk19410さんの気持ちを汲んで回答してほしいという非言語に委ねた期待をskmsk19410さんはされているということは非言語を完全には切り離せないという言語表現の中の非言語の表れだろうと思います。

 >どうしたらいいでしょう。
 ・場面場面の言語、非言語の程度の問題であり、どうすればよいかとの対応に関して普遍的な答えを私は知りませんので、答えられる範囲は経験則に伴う私見に止まりますが、どちら派という立場ではなくバランス感覚がが大事と思います。ご参考まで。
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言語-非言語を考えるとき、補助線を一本引いておくことをおすすめします。


ここでは「身体」ということです。
おそらく尼崎彬の『ことばと身体』(勁草書房)が参考になるのではないかと思います。

> 言語化されていない知識

たとえばダンサーは新しい踊りの振り付けをならうとき、振り付け師の踊りを見て自分のものにしていきます。言葉で書いてあったらおそろしく難解なことも、人の動きを「写す」=自分の動きに「移す」というプロセスを経ることによって、わたしたちはそれをたやすく自分の「知識」にすることができるでしょう。

そうしていったん身体化された知識は年月を経ても「自分のもの」であることをやめません。以前、TVを見ていて、ある年代の女性にピンクレディーの曲を聴かせると、たいがい踊り出すというのをやっていて、考えてみればわたしも踊れる(笑)、あらためて身体化された知識の根強さに驚かされたものでした。

> どちらかというとそのような経験に基づく知識は社会的には受容され、賞賛される側になる場合が多いと思います。テレビドラマ、ドキュメンタリーでもだいたいそういう風な扱いですね。

尼崎の本にも出てくるのですが、わたしたちは「頭でわかる」「身体で理解する」というふうに、理解を二種類にわけて考えます。

「頭でわかる」というのは、言語的に理解する、ということです。
「身体で理解する」というのは、それが実際に使えるようになる、ということです。

「あいつの知識は頭だけ」「頭でっかち」という言葉にもあきらかなように、わたしたちはこの「頭でわかる」よりも「身体で理解する」ことに重きを置いています。実際、言語的に理解できても、それが実際に使えるようになるまでには、時間と経験の蓄積が必要とされます。
わたしたちはそのことを理解しているから、「経験に基づく知識は社会的には受容され、賞賛される」ということになっているのでしょう。

> そのようなものに遭遇したとき、どのような態度に出るべきか迷うことがあります。

それは質問者さんがそうした身体化された知識にどのように応えるのか、ということを、非言語的に問われている、と感じるからです。

言葉で「自分はかんなでここまで薄く板を削ることができるぞ。おまえにこれができるか」と問われれば、「自分だってやればそのうちできる」とか「別にたいしたこととは思わない」と、同じく言葉で答えることができます。
けれども、知識を持った身体に遭遇したとき、別に言葉で問われなくても、わたしたちは同じように感じる。言葉で問われたものではないから、言葉で答えるわけにはいかない。自分の身体のありようが、どうそれに応えるのか。
言葉なら何でも言える、というところがありますが、自分の身体が「どうあるのか」は、自分に向けての真摯な問い返しが必要です。
質問者さんの「ためらい」は、自分に問い返そうとする誠実さのあらわれだと思います。
別に、何も感じず、背を向けることも簡単なことなのですから。

先にあげた尼崎彬、あと、竹内敏晴とか、おもしろいんじゃないかと思います。
ご一読をおすすめします。
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ANo.5のtosa-bashです。



>クラスの中での言語的論戦・対立を”ないように、ないように”誘導するような雰囲気があるのではありませんか?

小学校現場に合わせたコメントに感謝します。

かつて私は、集団がどんな状況(環境)にあるのかを考えるのに「4つの環境」から考えるよう教わりました。
「人的環境」「物的環境」「組織運営的環境」「精神風土的環境」です。

ご指摘のことは「精神風土的環境」に入ることだと思います。影響力の強いリーダーがいて、その言動を「みんなが良し」としようとしている、そんな雰囲気があれば「そうなる」というのが「例の一つ」でしょうね。

>クラスのまとまりに収まりきれない数%(?)の子供を無理やり非言語的雰囲気に押し込めているように思えるのですが。

>このような例はいくらでもあるように思います。

本当に、いくらでもワンマン社長やワンマン知事の失敗からも浮かび上がる構造のように思えます。

ですが、あくまでも「例の一つ」です。「まとまりのよいクラス」が「無理やり非言語的雰囲気に押し込めている」クラスとは、経験上「=」では結ぶことはできません。
「精神風土的環境」を支える要素には、「居心地の良さ」「安心感」「楽しさ」等…ということもあるからです。みんなが気持ちよく過ごすために「言っていいこと悪いこと」は徐々に学習しています。ある意味では、多少は「非言語」に押し込まれている状況もありますが…。

ところで、質問者様は、例えば、家族間の「言語」「非言語」を、どのようにお考えですか?
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専門的知識も見解も持たない無教養な一般人ですが、ちょっと、生齧りのベルクソンなど思い起こし、興味深く感じました。



司会・映画評論等で活躍なさっている浜村淳というタレントさんを御存じでいらっしゃると思います。その語り口は非常に懇切丁寧で、御本人自身、視聴者から「くどい」等と指摘されたことがあったと仰るほどですが、この「浜村節」が、こんにちのような仕上がりを見せるに至った理由として、ことばというもの、それによる説明というものが、いかに手を尽くしても誤解を招き易いものかということを挙げておられたのを何かで読んだことがあります。

これまでの御応答から抜粋して失礼かとも思いますが御許しいただけるとして
>一方で分かりにくさ・拡大解釈・むやみな精神論的雰囲気を醸成していることも事実
さらにそれでミスを犯せば、災難まで発生する

確かに、そういう危険があり得ると思いますが、これは言語・非言語共に伝達を解釈するとき、つきまとうことだと思います。
職人の場合は、ミスを犯す、災難を発生させたという時点で、それは職人知としての価値を失うはずです。ANo.2様も仰っておられるようですが、こうした世界では特に結果を出せてナンボではないかと察しております。それでこそコトバを軽んじても許されるくらいでないかと。
ANo.3様の仰る
>「お茶を入れ、師匠の身の回りの世話をする」ことのどこに、知や技能そのものの教授効果があるのか、ということ

これも、ことばで表しきれない領域までを体感するために目的の相手と密接に関わり、その空気を共にする、生半可なリクツを超えて相手の内懐に入り込んでいくことで、技術を「盗む」体感間口を広げる方策としているのかもしれません。
昔は一般庶民の子弟は、ほとんどの者が読み書きもじゅうぶんでないまま奉公に出され「徒弟制度」のなかに入れられたそうですから、ことばで説明する、それには論理能力も要求されるわけですが、師匠も弟子も、ことばを論理的に扱って用を足すよりかは、からだでやってみせるさせてみる、つまり「振る舞い」に訴えるほうが、よっぽど早かったんじゃないかとは思います。
また実際、万のコトバを費やすよりも、たった一つの行動、しぐさが目に物言わすことも、よくあることです。いわゆる「コトバよりも行動、実践」ということですね。
水泳の解説本をいくら読もうが、ことばだけで教わろうが、実際に海で泳いだことのある人には、かなわないという喩えも、よく言われるところです。書物だけで出来上がったようなアタマでっかちタイプには耳が痛かろうと思います。
(ちょっと脱線ですが、うちの父が、むかし「オレはオマエと違って口が達者でないから手や足が先に出るんじゃ~!!」と母に向かって、よく怒鳴っていたのを思い出してしまいました笑
あ、もう一つ父の話を思い出しました。父が、ごく若い青年だった頃、アメリカ兵士に武器庫の銃の総数を答えろと問われ、父が、ほどなく回答したところ相手のアメリカ兵が「嘘つけ!」と言うので、なんで?と問い返すと「いくらなんでも答えが早過ぎる、絶対ちゃんと数えてないだろ!」と言ったそうです。父が「タテ×ヨコで、すぐに分かることじゃないか!」と言いましたら、なんと、そのアメリカ兵は「タテとヨコの数だけで分かるわけないだろ、一から最後まで全部一つずつ数え上げろ~!!」と言ってきかないので、気の短いところのある父は、とうとうアタマに来て、そのアメリカ兵と大ゲンカ。それが原因で後に進退窮まる立場になってしまったそうです。父には自明の論理でも、相手のアメリカ兵にとっては体感できないことだったのでしょうか笑)

>現代は”非言語”が”言語”を圧倒しているように思える
だから、もっと”言語”に頑張って欲しいと思っている

昔の職人のことを考えてみても、言語能力つまりは論理能力をどれだけ鍛える機会に恵まれたか或いは、もっと言えば、そもそも言語能力、論理能力というものをその個人が、どのように持ち合わせているのかといったことから、いかに「言語に頑張って」もらうかを検討し始めていくことになるかと思われます。本当の言語能力というのは単なる口達者とは違いますでしょうし、立て板に水、機関銃のごとく言語化しても、やはり感性優位は感性優位です。こういうのって一般的には女性に顕著だとされているようですが。
自分個人の主観や価値判断に惑わされない直観力が、前提の妥当性を左右するでしょう、しかし、これが頗る困難、伝達において論理性は、たいへん重要なもの、でも論理が全てではないと思います。
論理というものが哲学と共に磨かれてきたものなら、そのかみギリシャにおける哲学発祥のころから、体感にモノ言わす肉体労働の世界に生きる一般庶民にとって身近なものでなく、それは女性一般が長らく学問とりわけ哲学に無縁な存在となりがちであったことと共通したことかもしれません。
なにしろ「狂人には狂人なりの論理」がありますから(笑)

>ブレーキが利かない、行き過ぎたと思って引き返すことができない、アジャストすることができないという世界を作るように思います。"感じる”と書かれているようにフィーリングの世界です。フィーリングは用意にインフレーションを起こします。ですから私は非言語の知を議論の前提とすることに違和感を覚えるのです。

その違和感は自然なことかもしれないとは思います。(ここで、私が学生時代、数学が苦手だったことの大きな理由が、公式を丸暗記せよと言われることの苦痛だったことも思い出しました。)ふつうは確かに自分自身で経験体験していないことに関してスンナリ納得いきにくいものでしょう。それでも想像力や洞察力、高い言語能力による説明の巧みさといったことが、ずいぶんと困難さを緩和することも、よく見受けられることです。
たとえば私は野球のことに疎く、とくに興味もないですが、以前なにかで、落合選手の、何とか言うボールの投球技術と、そのコツについての説明文を読んで唸ったことがあります。全く野球ボールの扱い方を知らない私でも、すぐに、かなりうまく、その投げかたができそうな気分になってしまったのです。もちろん実際やってみれば、いかに難しいかということを実感したでしょうけれども、それにしても全くのドしろうとを、その気にさせる説得力、描写力は「この人は、野球以外の道に進んでも、ひとかどの人物という評判を得ただろうな」と思わせるものがありました。
その点、ある個人サイトへの投稿で読んだことですが、かのナガシマさんは現役選手にホームランの指導をするとき、「こうやって、カ~ン!」とかいう「感じ」の指導だそうで、私、読んで思わずフキ出してしまいました。(でも、なんとなくナットク笑)ナガシマさんは、いわゆるひとつの(笑)天才肌、と評されるタイプらしいですが、だからでしょうか、ことばの使いかたが、とっても感覚的なのは(要するに論理の人でない?)でも、その思いっきり感性優位のコトバの使いかたに計算や邪気が感じられないんですね。だから微笑ましく受け止められるんじゃないでしょうか。

ただ、先に申し上げたように職人技というものは確実な結果をもたらさなくては価値がない。フィーリングそれ自体で一個の価値として認められるとしたら、それは職人の世界のことではないように思います。
もう一つ、これも、ずいぶん以前に新聞か何かで読んだのですが、むかし(大正か昭和初期頃?)の、たばこ工場(だったと思います)で働く女性従業員が、片手でパッとつかんだら、それが毎回100本だか200本だかでドンピシャリだったということで、それを目撃した男性が家族の前で
「パッとつかんで※00本!!」
と、しきりに感激していた、ということでした。

>非言語の知の妥当性とか蓋然性とかが認められている場合(職人さんの例)、非言語の知を前提とした振る舞いが当初から展開されても良い

そういうことだと思います。

>この問いの発端は”言語”と”非言語”の対峙というのが大きなテーマでのその中の一局面として職人さんの知識(人間国宝とか)を考えた
また、両者の対峙を考えた上で”言語”の世界があまりにも頼りないように思える
言語はそれが身体化しないと背骨がないような状態になる

「言語と非言語の対峙」というのが根本のテーマということでしたら、確実な結果を出すことがモノを言う職人の世界を挙げてみるというのは、思考の対象そのものとしてはオモシロいと思うのですが、今回のテーマに適切かと言うと、ちょっとズレるかもという感じはします。
確かに、ことばというものは、扱いかたで両極端に揺れ動く、そもそもが大変に危うい性質のものです。扱う人の技量と対峙の姿勢が、まともに出てしまう。

落語にも出てくる有名な話に、京都の「ぶぶ漬けでも、どうどす」というのがあります。これは、食事を打診するくらいになったら「アンタはん、長居し過ぎどっせ」という遠回しの嫌味、牽制であるということで、落語のなかでは、このセリフの裏の意味が読み取れない単純過ぎる人物が登場して笑い話となっているようですが、大阪人が京都人を揶揄するときに、よく引き合いに出される話です。
「遠回しに言う」ことの功罪は、よく取り沙汰されるところですが、これが美意識と見なされるか醜悪と一蹴されるかの分かれ目は結局は動機、誰のための「遠回し」か?ということになると思います。
もちろん、その「遠回し」が言われた相手にとって何ら益になるどころか害をもたらすだけであったら、まして、それを承知しつつのことであったら「日本人の美点」もヘチマもなくなってしまいます。むしろ日本人特有の問題点として議論されることになる。

私個人のことですが、かつて当サイト心理学カテゴリーで、専門知識をお持ちと仰る或る会員のかたから、私の言語能力の特異さを指摘されたことがあります。簡潔に言って、「言語で表現できないはずの領域まで言語化できてしまっている」ということでした。要するに「読み取るべき行間がない」とも。これは私自身にとっては、いまだに「ふ~ん」という感慨程度で終わっていることですが。。。にもかかわらず、度を越した「遠回し」な言語表現をする癖のある人が、私の発話の真意について非常な詮索を行うことも実際ありますので、なんとも言いようのないところです(笑)

折しも今現在、哲学カテゴリーや心理学カテゴリーにて、言語や言語感覚その使用の問題に関し、いくつかの質疑が立てられています。
私自身この問題については、主観客観等いろいろな側面から考えることがありながら、ことに人間心理の面から非常に微妙な問題を含んでいるように見受けますので、なかなかズバリと切り込んで行きにくく、手を出しかねています。
質問者様は言語の問題に関して深い御関心と御見識をお持ちでいらっしゃるようですので、ぜひ、そちらのほうでの御参加も検討されては如何でしょうか。
長文で恐縮です。。。
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言語が弱く、非言語に圧倒されているという視点だったのですね。



「マスコミの言論」が「中国のチベット弾圧」を批判しても、暴力を実質的に封じ込めできないというような現実を見ると、言論の非力を実感してしまいます。
また、「空気を読めよ」という無言の圧力も確かに感じますね。

しかし、例示した「暴力」などは、表面的には文字でも音声でもありませんが、しっかりした意図・意味を持っています。その真意は、言語で表現できます。「従えよ」という命令形です。

これは、職人の非言語の知とは、随分違う面なので、話がそれていますが、非言語の横暴性の例にはなると思います。ただ、意味や意図は言語に翻訳できるので、純粋に非言語と言い切れるのか疑問です。便宜上、表層的に二分割(二項対立概念化)していますが、深層的には、分割できないということになりそうな予感があります。
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「言語になっていない知識」って、面白いですね。

参加させてくだい。
まず、言語であるには、否定形が存在できることが条件だとしましょう。だから、「言語になっていない」は、「否定形が存在していない」と置き換えられます。その一例は、「振る舞い」です。
ゆえに、「言語になってない知識」とは、「否定形が存在していない知識」ということになります。たとえば、「振る舞いで示される知識」です。

さて、質問にある「経験上の非言語の知(回答者である私がつけた仮称)」は、どのように表現されたのでしょうか。やはり、それは振る舞いで表現され、その中から感じるのでしょう。職人さんと同じ体験をあなたはできませんが、見て感じることで追体験する以外に方法はありません。言語での説明を求めること自体が、「経験上の非言語の知」の性質に関する無理解だと思います。

結論としまして、「感性を磨きましょう」ということになるのかなと思います。もっといい表現があれば、それでもいいと思いますが、だいたい、これに類した表現になると思います。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
なるほど。非言語の知では否定形が存在しない、というのは分かります。数値で言うならプラスばかりでマイナスが存在しないと言えそうです。そうするとどういうことが生じるかと言えば、ブレーキが利かない、行き過ぎたと思って引き返すことができない、アジャストすることができないという世界を作るように思います。"感じる”と書かれているようにフィーリングの世界です。フィーリングは用意にインフレーションを起こします。ですから、私は非言語の知を議論の前提とすることに違和感を覚えるのです。
 しかし、質的にも量的にも言語の限界に達したとき、非言語の知にゆだねる場合もあると思います。あるいは非言語の知の妥当性とか蓋然性とかが認められている場合(職人さんの例)、非言語の知を前提とした振る舞いが当初から展開されても良いわけですね。このあたりの切り分けが私は未だ整理されていません。
 ところで、この問いの発端は”言語”と”非言語”の対峙というのが大きなテーマでのその中の一局面として職人さんの知識(人間国宝とか)を考えたわけです。また、両者の対峙を考えた上で”言語”の世界があまりにも頼りないように思えるのです。言語はそれが身体化しないと背骨がないような状態になるわけで、例えば誰もが口にして疑わない”環境問題は今後大変重要な問題となります。”みたいなフニャフニャな言論では”非言語”の圧倒されると思うのです。このような言語が巷を吹き荒れているように思います。

お礼日時:2008/04/04 03:25

質問者様も回答者様も「研究者」のようで、現場の小学校一教員がコメントするのは気が引けますが…。



>言語化されていない知識

私には、それは「感覚」と表現するのが適切のように思えます。
「知識」と呼ばれるものは、(私には)合理的・論理的な思考によって形成されたものというイメージがあります。ですが、実際には「それだけでは理解できない・解決できない事実」が数多くあります。「経験を通して獲得しないと対応できない」部分があるということです。それは「知識」と呼ばれる範疇の問題なのでしょうか?

「理解」という面でも思うことがあります。
人権上の課題に出会うと思うのですが、ある立場の人を「理解」するために、ノート片手に聞き取りをして情報を得ます。それだけでも、もちろん「知識」は得ますが、単にその人と何気ない日常を過ごし、同じ時間を生き、同じ空気を吸っているなかで気づいていくことが多々あるように思います。その人を「理解していく」ということは、そんな時間の積み重ねのように思います。

そんな私の感覚をベースにコメントさせていただくと、

>どのような態度に出るべきか迷うことがあります。

「私の感覚では理解できない世界が、確かにあるのだ」が良いのではないでしょうか。

M.Polanyi氏は「語ることができるより多くのことを知ることができる(暗黙知の次元-言語から非言語へ-)」と述べています。(受け売りです:笑)
「知識」という「点」が繋がって「線」になり「面」になるために、雑多なものと一緒に繰り返し吸い込んできた、微細な・語ることの出来ないような「経験知」「体験知」が隙間を埋めていく…。そんな「理解」の道筋が必要な分野が存在するということだと思います。
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この回答へのお礼

回答、有難うございます。今回、”言語”VS "非言語”という軸で質問させて頂きました。どちらが優位であるべきということは言えないだろうと思います。ケースバイケースであったり時代の中で議論されるべきことかも。
 以下、回答の主旨からだいぶ逸れてしましますが、ご容赦下さい。小学校の先生をされているとのことなのでお聞きしたいのですが、”このクラスはまとまりがあってよいクラスだ。”というのは言語でありながら非言語的であると思います。この言葉は中身を検証したり、吟味したりできませんね。しかし、これは学校内部・教育委員会・PTAにおいて大いに賞賛されているのではないでしょうか。クラスの中での言語的論戦・対立を”ないように、ないように”誘導するような雰囲気があるのではありませんか?しかし、これだとクラスのまとまりに収まりきれない数%(?)の子供を無理やり非言語的雰囲気に押し込めているように思えるのですが。このような例はいくらでもあるように思います。
 私は現代は”非言語”が”言語”を圧倒しているように思えるのです。だから、もっと”言語”に頑張って欲しいと思っているのです。

お礼日時:2008/04/04 03:51

その知識がほしいのならば、その場で真似をしてみるのはどうでしょうか。

言語化というのは絵にかいた餅のようなもので、普通の教養ある人は絵を見ただけで餅を食った気持になることにならされているように思います。専門家の中にも結構こういう人が多いように思います。
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>そのようなものに遭遇したとき、どのような態度に出るべきか



大変難しい問題ですね。私はこの辺りは専門ではないので、いい加減な話になるのですが。
認知心理学や教育学(教育方法)の世界では、この「徒弟制度」の効果について再評価する議論がかなりあります。「認知的徒弟制度」という言葉をたしか東大の佐伯胖先生が提起され、例えば「注入主義」や「構成主義」と言われる方法論とは異なる教育効果について述べています。
近代教育は、知を体系化し効率的に体得させるという、「徒弟制度」のいわばアンチテーゼとして発達してきた経緯があります。けれども思想的にはポストモダン、社会主義の崩壊、或いは社会的には情報化社会の進展などを受け、「体系化された知」「効率的な体得」という発想自体が疑問視されるようになってきた、ということなのでしょう。

ただ難しいのは、徒弟制度によって引き継がれる知そのものは研究の対象となりえても、方法論としての「徒弟制度」は、理論化・体系化しようとした瞬間に、そうではあり得なくなる可能性を持つ、という矛盾をはらんでいる点でしょう。「お茶を入れ、師匠の身の回りの世話をする」ことのどこに、知や技能そのものの教授効果があるのか、ということですよね。制度としての学校教育という立場から見れば、これほどやっかいな話はない。

ただし、効率的であるかどうかの検証はともかく、効果的であることだけは帰納的に検証ができている。だとすれば、「学び」の対象とするなら「非効率、無意味だと思える部分」も含めて受容するしかない、という情けない結論になります。

人として付き合う、という話になると、日常知・世間知みたいな話なら処世術の類になるのでしょうが、質問者さんが求めているのは、そういう話でも無さそうなので「分からない」という回答になってしまいます。
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この回答へのお礼

回答、有難うございます。私はこの方面には全くの素人なので稚拙な議論となっておりご容赦下さい。(一部は受け売り)
”理論体系や体系的知”に基づいた教育と徒弟制度的教育を対比した場合、言葉は当然、前者を構成する要素になっているものと思われます。このような対比は、戦後VS戦前とか西洋的VS東洋的という対比とも近いように思います。前者の行き詰まり感、閉塞感が広がると後者への期待が出てくるのは仕方がないかも知れません。
 日本は戦後、体系的知に基づいた教育を展開しつつ、校庭には二宮金次郎の銅像が建っていたようなわけで、つまり、前者(体系的知)に内在している問題があったのではなく、それを本心から学ぼうとしなかったことが今の閉塞感を生んでいるとは言えないでしょうか。日本人は昔から、古今東西の思想書を輸入して吟味したり鑑賞したりする(勉強好きだった)けれど、それによって自分が変わるということはあまり無かったようです。行き詰まりを打開するために徒弟制度を導入するのではなく、もっとしっかり言葉による”体系的知”の実践が必要なのではないかと思います。でも、手遅れかも。

お礼日時:2008/04/05 04:29

 >言語化されていない知識に出会うことがあります


 ・「暗黙知」といわれる概念と思います。暗黙知とは、明確に言葉には表せないが科学的創造性を支えている身体を基盤とする知識のことであり、ハンガリーの物理学者・哲学者のマイケル・ポラニー(Michael Polanyi/1891-1976)が、著書『The tacit dimension』(1966年)の中で提唱した概念です。なお、日本では『暗黙知の次元』(2003年)・同上著者・高橋勇夫 訳・ちくま学芸文庫。

 >集積している経験に基づく知のようなもの
 ・広義的な意味での暗黙知に包含される知識は勘や直観、個人的洞察、経験に基づくノウハウのことで、言語・数式・図表で表現できない主観的な知のことであるので、便宜上暗黙知と捉えて差し支えないと思います。しかし、ポラミーに代表される狭義的かつ厳密に言えば「経験に基づく豊富な知識や勘に見られる潜在的知識」は暗黙知とは言えないと思います。

 >頑固な職人さんとか、ある種の経験豊富な知識人のような人たち
 ・良い芸術作品と作者の人格とは必ずしも一致しない。いい作品を創り出したからといって必ず作者の人格が良いとは限らない。しかし、上記の人達は、一社会人として今まで生活してきたわけであり、問題があるとはいえないし、少々の個性の程度差はあれど普通の人と思います。

 >無条件で賞賛することはできません。
 ・彼らの仕事に於ける成果と結果はどうでしょうか。

 >間違いではない知識だとは思います
 ・彼らの口からの説明は出来ないが、結果が伴う以上認めざるおえないのではないでしょうか。例えば、一職工さんの指先が10000分の1ミリを感じ取る感覚を論理的に万人に説明するのはどんな人でも難しいと思いますが、現実に精度として数字に表れ結果が存在しています。

 >こういう場合、どうしたらいいでしょう。
 ・どういう場合なのか明確には不明ですが、普通に考えて、受け入れていいのではないかと思います。skmsk19410 さんが心理的な壁を作れば、相手は勘がいいでしょうから、相手はなんとなくその壁を感じ取りより良いコミニュケーションは取れないと思います。ご参考まで。
 
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この回答へのお礼

回答、有難うございました。私の問いかけは、"言語”と”非言語”の対峙ということが大きなテーマで、その中の1つの局面として”頑固な職人さんの知識”というものを取り上げたものです。両者の対立はこれ以外にいくらでも実例が挙げられると思います。”その場の空気を読んで発言を差し控える”とか、”お茶漬けどうぞは、早々にお引取りをを意味する”とか、”還暦パーティは控えめにが、実は大々的にやって欲しい”だったりするわけで、”非言語での伝達”は日本では特に美徳とされている面があります。しかし一方で分かりにくさ・拡大解釈・むやみな精神論的雰囲気を醸成していることも事実ですね。さらにそれでミスを犯せば、災難まで発生するわけです。
 職人さんの技を数値(一種の言語)で示すことができたならば、これは言語側のことですね。
 私は個人はどちらかと言うと"言語”派なので日本では生きにくいなあと感じることが多いです。

お礼日時:2008/04/04 02:47

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