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神のみぞ知るか、あるいはそれを超えた質問かもしれません。

どうも、感情的に「悪い印象がある人」を処理し切れません。
なぜ、性の悪い人、優しさがない、思いやりがない、つつましさがない、共感力がないetc.その他さまざまな悪表現が当てはまるような人が存在するのでしょうか?
あるいは、この質問は、

なぜ、性のいい人、優しい、思いやりがある、つつましい、共感力があるetc.その他さまざまな良表現が当てはまるような人が存在するのでしょうか?

という問題の裏面に過ぎないのでしょうか?つまり、同値な問題なのでしょうか?

あるいは、なぜ普通の人がいるのかということにつながるのでしょうか?

A 回答 (14件中11~14件)

 (1) 顔の良し悪しがあります。

見よいと言うかどうか分かりませんが 見にくい(見憎い=醜い)と言ったりします。日本語の問題に限るかも分かりませんが この《にくい・にくむ》は どうも 互いの交わりには入ろうとしている・あるいは すでに人として受け容れているその状態になったあとに 起こる感情のようです。
 容貌の問題は 一般に あきらめがつきます。《性の悪い》問題とは別です。ただ この《感情的に 「悪い印象がある」》と言うとすれば その場合も おおきくは《にくい》の情況とかかわっているように思います。すでに 相手を受け容れているゆえに にもかかわらず いわばその裏目に出たというようなかたちで 起こるというのかも知れません。
 (2) 以上は まだ とっかかりの段階でした。そのあとにも 必ずしも《感情的に》だけではなく《性の悪い》という受け止めがなされる場合があれば では それは どういう事態か。
 もし一般的だという範囲に入ると見なさざるを得ないような程度問題 この場合でないとすれば それは どういう事態か。このように考えてみたのですが 一点 考えました。答責性を果たさない場合 これです。
 考えに変化が生じても 何の問題もありません。言っていることに つじつまの合わないことがあれば 言い直せばよいはづです。矛盾が起きれば 修正していきます。ですが これを 放っておく場合 あるいは 別の話を延々と連ねて あたかも答弁を果たしたという態度をとり すました顔でいつづける時 こういう場合には 性が悪いと感じます。どうしようもなく ひどいと受け取ります。
 このような場合は――じつは じつに われわれ日本人に 都合のわるいときには 耳が聞こえないという態度に出ることを典型として ざらにあるのですが―― 程度問題を超えた事例があると承知しています。あまりにも嘆かわしい事態であり 嘆くならばますます嘆かわしい状態に 相手はもとより こちらも 陥り 嘆かないならば 人間でなくなるという事態のことです。
 処方箋は ただ一つ。もし いやしくも和をとうとぶならば 答責性を果たすよう 永遠に 言い続けることです。これを怠るならば 性の悪いと感じる事態は 延々とつづくでしょう。

 このような見解を述べると いわゆる天邪鬼であって 性が悪いと見なされることは 百も承知で言っているのですが。一億人を敵にまわしても 日本をよくしたい。
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この回答へのお礼

おっしゃること、もっともです。自分の考え方を、まず自分に対して素直になる。面子よりも、合理性や筋を優先する。つまりは、人間性を晴らしておくという作業こそ、もっとも求められるものでしょう。たいへん共感します。

お礼日時:2008/05/07 08:19

 良し悪しの判断が主観だからじゃないですか?


 「悪い印象がある人」は他者からみれば「良い印象がある人」かもしれません。または貴方と同じく「悪い印象の人」かもしれません。
 たぶん他人を評価することというのは自分の経験や知識、モラルやマナー等と照らし合わせて判断するのではないでしょうか?最初はこの人は「悪い印象がある」と思っていたけど、接すると意外と良い人だった、ということもよくあることです。(先入観ってやつですね。)
先入観や他者を評価することは一種の防衛本能である、と思えば「普通の人」というのはあなたにとって良くもあり悪くもある、または良くも無く悪くも無い、特に注意して接するべき相手ではない、ということだと思いますよ。
 結局のところ個人的意見で回答ではないと思いますが・・・。
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この回答へのお礼

所詮は相対的な評価なのはありますね。そのところがキーポイントの気もします。おっしゃるように、個人の中でも価値観は移って行きますね。

お礼日時:2008/05/05 13:53

「神のみぞ知るか(人智を超えている)」


     ↑
やはりこれ以上でもこれ以下でもないと思います。

人間の思案(智)は狭い範囲の物でしかないと思いますね(いの中の蛙)。宗教の本質も人智を超えないと解らないのかもしれませんが。
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この回答へのお礼

そうですね。その哲学になんとか人間として近づければと思いますね。

お礼日時:2008/05/05 13:52

哲学的な回答にはならないかもしれませんが・・・。



超自我性に乏しい人も存在する、ということだと思います。
「悪い印象」というのは一見、個人的な感覚のようにも聞こえますが、実際問題として、garcon2000さんおっしゃるところの「悪表現」が当てはまる人はいるでしょう。
(ただ、「つつましさが無い」は、私としては除外したいと思います。おっしゃりたいことはわかりますが、正確を期すために、天真爛漫という好印象の類義語も考慮したほうが良いと思うので。)

超自我性も良し悪しなのですが、基本的にはご存知のように善を指向しています。
ただ、そのエネルギーの源は生命力、つまり本能から得ているはずです。
自我に目覚めた後、親の躾などにより、本能が抑制されることによって超自我性は育まれていきます。

この抑制がうまくできないと、自我の段階で精神性はストップするはずです。(極端な場合を例にとればですが)
ところが、自我というのは自分が損をしないように対外的に守る役割を持っていますから、これだけでも社会的には十分強者として生きていけるわけです。

そして、これはこれで非常に大事なものですし、社会的に身を処するための基盤と言っていいでしょう。
ただ、超自我性とは、他者の自我にも考慮するということだと思います。
これが無ければ、生活力はあるが(なくても)他者の自我を尊重できない人間になるでしょう。
これが「性の悪さ」なのかもしれません。

>性のいい人、優しい、思いやりがある、つつましい、共感力があるetc.その他さまざまな良表現が当てはまるような人
:というのは、先に触れたように、超自我性の発達した人ということが言えるでしょう。
しかし、何事も程度というものがあります。
上記の長所に「すぎる」をつけるとおわかりになると思いますが、この「~すぎる」は一般的に言って、超自我を育むはずの、本能の抑制(=抑圧)が過剰だった場合の反動として現われるものと思われます。

適度な本能の抑制が行なわれ、自分も損をせず、かといって他者に迷惑をかけることもしない、といったバランスのとれた普通人が健全であるということは心理学的にも真理ではないかという気がします。
他人に迷惑さえかけなければ、健全であろうとなかろうと自分に納得してさえいればいい、というのが私の持論ではあるのですが。
 
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この回答へのお礼

超自我と自我、それなりに存在しますね。人間性を裸にしてみたら、おっしゃるとおり、この世は退廃と暴力が支配することになるでしょう。ただ、自我の中にも愛着とか思いやり的なものはあって、その点をどう伸ばせるかが大事な気もします。その深いところから伸ばした愛情なり、共感力なりがもっと拡大していけば、根本的解決なのではないかと。

お礼日時:2008/05/04 10:16

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