いちばん失敗した人決定戦

浅田次郎の「壬生義士伝」の中で気になった箇所があったので質問さ
せて頂きます。

貫一郎は家族を養うために主君を裏切ってまで脱藩をしました。
生きることに固執し、家族を愛する彼がなぜ鳥羽伏見の無謀な死に戦
にの臨んだのでしょうか?

ただ私の読み込みが足りないせいかもせれませんがご存知の方がいら
っしゃいましたら回答よろしくお願い致します。

A 回答 (4件)

>家族を養うことと主君に奉公することのどちらが大切なのか?


どちらも大切だったのだと思います。
貧困生活があったから家族を養うために主家を捨て、その自分を拾ってくれた新撰組=会津藩=徳川将軍家に尽くしたのではないでしょうか。俸給は会津、徳川から出ていたわけですし、そのお金で妻子を養えたのですから、その恩は忘れないと。
一度主君を捨てたからこそ、二度は捨てない、あるいは恩を忘れず忠義を尽くそうとする姿が、斎藤の言うところの侍の誇りであり「完全な侍」とも取れますね。

目の前にある事象は強いものです。盛岡(でしたっけ?)にいた当時は貧困から抜けることが第一で、京都に来てからも家族を養うことを第一に考えていたでしょう。
けれど戊辰戦争が始まると、侍としての矜持が強く表れ、最後まで義を尽くすことを選んだのではないでしょうか。
たしかに矛盾してはいますが、伏見で負けて、包囲網が厳しくて新撰組に帰るに帰れずとなったときに、家族のために死ぬわけにはいかないという想いがぶり返したのかもしれませんね。
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壬生義士伝は未読なのですが(ドラマ、映画は見ました)、気になるところがあったので参考までに。


鳥羽伏見の直前までは、幕軍は(動員数の差で)圧倒的に有利だったと言われています。負けたのは読みの浅さと指揮がまずかったから、だそうです(笑)。大軍で進撃すれば敵は恐れて逃げるだろうと思っていたんだとか。実際は修羅場を経験していない者が多くて、砲撃でやられた死体を見ただけで逃げ出す兵が続出したらしいです。
その記述があるか知りませんが、少なくとも鳥羽伏見開戦時においては「無謀な死に戦」ではありませんでしたよ。
ドラマや映画を見たかぎりでも、No.2さんの回答の通りだったと記憶しています。

この回答への補足

今文庫本を読み返して見ますと下巻の60ページから70ページあたりで
鳥羽伏見の戦の戦況の悪化ぶりが描かれ、斉藤の台詞において
俺はここで死ぬ。惜しむ者も、嘆く者もいない。死ぬのはそういう人間でたくさんだ。
という部分があり、それに対して吉村は義について語り斉藤に自分も死ににいくこと述べています。

私がもっとも理解しかねる記述が斉藤のそのあとの台詞なのですが、
「妻子を養うために主家を捨てる。しかし恩と誇りとは決して忘れぬ。一見して矛盾だらけのようでありながら、奴はどう考えても、能かぎりの完全な侍じゃった」
という部分です。

結局のところ家族を養うことと主君に奉公することのどちらが大切なのか?

少なくとも私には吉村の行動は矛盾がありよく分からないでいます。
質問の仕方が少し変わってしまいましたが、本質的にはこの部分が分からずにいます。
理解している方がいらっしゃいましたら回答よろしくお願いします。

補足日時:2008/08/17 17:24
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/08/17 17:11

「生きることに固執し」という言い方はちょっと違うように思います。


”死んでしまったら妻子を養えなくなる”
だから斬られたくないから人を斬ってきたし、
大野に腹を切れと言われてもいつまでもできないでいたのです。

>なぜ鳥羽伏見の無謀な死に戦にの臨んだのでしょうか?
戦で功をあげれば手柄となり給金(ボーナス)が貰えたからです。
しかしこの戦いでは逃げ出す隊士や水戸藩かな?の武士たちがいて、
多勢に無勢で命からがら大坂に逃げ延びたと記憶しています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確か鳥羽伏見の戦(?)では幕府軍が負けることは自明ではありませんでしたでしょうか?
斉藤一はだからこそ彼を生かそうとした。しかし、彼は義のためだか何だか忘れましたが死にに行った。家族を置き去りにして。
結果として、大野の屋敷にボロボロの姿で帰ってきましたが。

給金のために戦いに行ったと思われる記述の部分があれば教えて頂けるとありがたいです。

お礼日時:2008/08/17 14:42

ずいぶんと前に読んだため、記憶違いがあるかもしれまえんが。



貫一郎は文武とも優れた武士でした。しかし、貧しさ故に脱藩して新撰組に。家族への仕送りのために、金には執着して、ある意味守銭奴ですね。しかし、貫一郎には学問があったが、金も権力もなかった。
大野次郎右衛門への男として、そして武士として、「お前にはわかるまい」という思いがあったのではないかと思うんです。それが、脱藩に繋がったのではないかと思うのです。脱藩したからには、最早、家族の元へ帰るわけにはいかない。武士として死を覚悟して戦うことが唯一の誇りだったのではないでしょうか。

「新撰組隊士吉村貫一郎、徳川の殿軍ばお務め申っす。一天万乗の天皇様に弓引くつもりはござらねども、拙者は義のために戦ばせねばなり申さん」。これが彼の武士として絶対に譲れないものだったのではないでしょうか。故に、あの斉藤をして、「誰が死んでもよい。侍など死に絶えもかまわぬ。だが、この日本一国と引き替えてでも、あの男だけは殺してはならぬと思うた」と考えさせたのではないでしょうか。あの握りめしがそう思わせたのかはわかりませんが、斉藤は貫一郎の中に、人として忘れてはならない真実を見たのではないでしょうか。

不思議な男ですね、貫一郎は。昔読んで、今、本をちょっと開いたゆえ、勘違いがあるかもしれません。私はそんなふうに感じた記憶があります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/08/17 14:30

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