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考え方はひとそれぞれあるのは充分理解してるのでいろんな人の考えを聞きたいです

友人が約四ヶ月前に他界しました。友人の家族とも少しばかり付き合いがありました。入院して一ヶ月少しの看病の末の他界だったので残った家族の心境はそれは計り知れないものがあると思います

百か日をすぎてからは少しばかり涙も少なくなったらしいですがまだまだつらいと思います

でもやっぱりこれから先は二人で生きていかないといけないのやから少しは自分達のことも考えたらいいのではといってるんですが、一年は供養の生活したい。一年たったら自分のことを考えてもいいかなといってるんです

別に新しい出会いをすすめてる訳ではないですが供養といって自分を追い詰めて我慢の日々を送る必要はないかと思うのですがどうでしようか

一年たったらはじけたいというぐらいなら今からでも我慢せずしたいことをしたらいいと思うのですが私の考え間違っているでしょうか

A 回答 (11件中1~10件)

 思いは人それぞれですから、10年経っても、悲しみが癒されない人だっているでしょう。


 それを、人がとやかく言うべきではないと思いますが...。
ましてや、文章から想像するに、友人のご家族からすれば、あなたは『赤の他人』ではありませんか?
 女性の方が悪く取れば、あなたに下心があるように取られるかもしれませんし、ストーカー扱いされるかもしれませんよ。
 余計なおせっかいはやめた方が良いのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

おっしゃる通り全く赤の他人になります
供養とか悲しみについてまったくとやかくはいってませんしなにもしゃしゃりでて首もつっこんではないです

こちらからはいっさいおせっかいもかけてませんが。
友人が亡くなってるんですから人間的な常識は持ち合わせてます

お礼日時:2008/12/01 18:17

供養って死んだ人の為にするというよりも生きている人の為にする意味合いが大きいです。


愛情が深ければ深いほど、故人のことを割り切るのは大変です。
その一つの機会として一年喪に服す。ということはおかしな行動ではありません。
愛した人が亡くなったと割り切るための儀式を一年続けるって話しで、何も我慢してしているわけじゃなりません。
そういう特別の行動をすることで愛した人が生きていたときと亡くなった後を明確に区分けするんです。

m033165さんのように特別の儀式をしなくても区分けが出来て割り切れる人ならそういう儀式はする必要ないでしょう。
しかし多くの人はそういう儀式を必要とします。

そういう儀式を見るのがつらいというのはたんにm033165さんの我侭でしかありません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

供養についてはなにも否定もしてませんしまったく同じ思いですよ

他の方へのお礼にも書いてますように我慢することだけです
まあその人としては我慢することが供養には必要だといってるみたいですからそれは理解はできます
苦しい時辛い時まで一人でかかえこまないで頼れる人を頼って欲しいだけです

本人からしたら余計な心配かもしれませんが

お礼日時:2008/12/01 18:10

ひとつの愛情の形でしょう。


ご本人の気の済むまでやり続けるしかありません。
自分だけが楽しむことに罪悪感を持ってしまうのかもしれませんし
それにより心身のバランスを保とうとする防衛本能なのかもしれません。
愛する人の為に我慢をすることは珍しいことではありません。
日常的な事柄であれば、美味しい食べ物は自分が我慢しても大切な人に食べさせてあげたいと思う気持ちは経験した人も多いでしょう。
看病の末であれば自分の無力感や、もっとしてあげられることがあったのではとの自責の念など、周囲の人には測れない様々な感情を抱え込んでしまいます。
この感情を上手く昇華できずに抑圧してしまった場合は問題ですが、今は本人が納得する方法を遂行するのが現段階での善処といえるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

おっしゃる通りですね
そのような性格ですね

自分は友人とはいえ男なんで深入りしたらへんになったらいやなんでそっとしとくだけだしやっぱり女友達のほうがいいのはわかってるのでなんかあった時だけでも力になれたらと思います

ありがとうございました

お礼日時:2008/11/30 16:50

こんにちは。



供養と言うのは、
人それぞれ、供養の仕方やペースが、違うと思います。

各個人の供養の仕方に、
貴方の考え方を当てはめては、いけません。

ご家族はご家族で供養をしているのですし、
貴方は貴方で供養しているのでしょう。

それなので、貴方は、ご家族の供養を侵してはいけません。

人が亡くなって、
1年と言うのは、1つの目処でもあるのです。
でも、それは、あくまでも習慣の上の目処(一周忌)であって、
実際に、その時になって、心がそれについて行けるかは、
全く別の話です。
1年たっても、思うようにいかず、2年たっても・・・・ということになるかもしれません。
でも、それは個人の気持ちなので、
他人の気持ちや時間で区切れる事ではありません。


とにかく、
1年は、
じっくり故人の事を思っていたい。
じっくり悲しみに向き合っていたい。
じっくり故人の気持ち(意志)と対峙していたい。

供養する事は、
(傍から見て)すべき事を我慢していると言うことではなく、
自分の整理のつかない気持ちと闘っている
非常に苦しんでいる時期なのだと思います。

でも、これを経なくては、
先に進めないのでしょうし、
じっくりここで悲しんでおかなくては、
先に無理が生じる可能性があります。

( 辛い事を思い出さないように、先に進むように・・・と、
 がむしゃらに別の事を考えたり、行動に出たりするのは、
 過活動と言うのでしょう。
 しかし、過活動の後には、(行動しないケースよりも)
 必ず、より一層の落ち込みや後悔が待っているのです。
 過活動をしたことによって、真剣にその辛さと向き合えなかったからです。)

そこを、
他人が他人のペースで「もう何日たったから・・・」と言って、
その向き合っている事(供養)から、
それを止めるように、引っ張り出すのは、
絶対やってはいけない事です。

そして、
誰かにとっての「何日間(時間)」が、
他の誰かにとっての「何日間(時間)」と 同じだと思ってはいけません。

各個人、感じ方は、違うのです。

ましてや、ご家族の死と言うのは、
家族以外には、計り知れないものがあります。

いくらなんでも、
家族にとって「日」の単位は、短かすぎると思います。

家族の死ならば・・・立ち直るのには、
人によっては10年、人によっては一生でしょう。


周りの人が心ある人ならば、
ご家族が、納得のいくまで供養できるように、
そうっとしておいてあげるのが思いやりだと思うはずです。

現に、「一年は供養したい」と仰っているとの事。

ご家族が、この一言を言うのに、どんなに苦しかった事かと・・・
想像できませんか?


「我慢している」は、
貴方がそう見えている、そう感じている事であって、
ご家族にとっては、我慢ではありません。
(あまりにも周りが色々言っても、
 ご家族には整理がついていないので、
 その「我慢」と言う言い方を否定しないでいるのかもしれませんが、
 そういうことではないと思います。
 何したって、心のそこから楽しめない。 
 世間におめでたい事があっても、
 家族が亡くなった今では、全くおめでたくない。
 それが喪失の悲しみであって苦しみです。)

我慢ではなく、
自分と、故人と、悲しみと・・・あらゆる物とひたすら向き合っているのだと思います。


絶対に貴方は、
「何日たったから」「何年たったから」と
急かしてはいけません。

家族にとっては、全くペースが違います。
そして、笑えるようになったって、
外に目を向けられるようになったって、
一生心の傷は、癒えることは無いのですから。


「1年・・・」と言われているのですから・・・最低でも1年は、
とにかく、そっとしておいてあげてください。
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この回答へのお礼

早々の回答ありがとうございました

大変参考になりました

他の人にも回答してるのですが我慢は私が感じてるのではなくて本人がいってるから辛いだけです

いろんな大変なことや辛いこと苦しいことあるのに自分の中だけでもってるから辛いだけです

お礼日時:2008/11/30 15:44

お礼の回答の中の



>本人の口からもはっきりと我慢してるといってますよ

だったら 御友人は 我慢することで供養という形をとっておられるのです。
周りから見れば 辛いように見えるでしょうけど、
御本人が、そのようにすることで供養になる、、、と思われてるのだったら、それが、その方の供養なのでしょう。

そっと、見守ってあげるのがよろしいかと思います。
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この回答へのお礼

確かにそうだと思います

本人も我慢することがといってます

でも辛い時苦しい時があったらいろんな人に頼ってもいいと思うんですが

人それぞれ考え方が違うので致し方ないと思ってます

だから自分は今そっと見守ってあげてます

お礼日時:2008/11/30 15:39

>ただやっぱりみてて辛いだけなんです


気持ちは分かります。
 しかし、一番の慰めは、悲しむことなのです。

 会って生きていたころの話をしてくれる友がいれば、思い出して泣けます。でも、悲しみは強く感じるほど、実は早く忘れるのです。心理学で言うところの「昇華」

 ですので、会ったら一緒に思い出話をしてあげましょう。そしたら、思い出されて泣かれます。それが必要なのです。辛ければ辛いほど、心は自分を守ろうと昇華・・より良い思い出として格上げされる。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

自分にとっても大切な友人だったのでわかります

まして家族なら計り知れないと思います

でも女性の心理はむずかしいですね

お礼日時:2008/11/30 13:35

そのご家族が宗教上の戒律で1年は喪に服すと言うのならしかたがありません。

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この回答へのお礼

残念ながら無宗教というか宗教は全く興味ないんです

だからよくわからないんです

お礼日時:2008/11/30 13:37

我慢しているのでしょうか?


我慢しているのではなく、楽しい事をする『気にならない』と言う事だと思いますよ。
気持ちが、落ち着かない事には、何をしても『ここに、〇〇が居たら…』と言う気持ちが出てしまいます。時間が、解決させる一番の特効薬だと体験したから言えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

本人の口からもはっきりと我慢してるといってますよ

したいことも我慢しないとって

ほんま無理に我慢してます

お礼日時:2008/11/30 12:08

私の兄が小さいとき死にました。


最初の子で、かつかわいいさかりでした。高熱で障害が残り、その挙句の疫痢でした。
 父母、特に母はショックで立ち直るのに何年もかかったようです。

 その母が、皆が慰めてくれる言葉は頭では理解できたけど、最も辛かった言葉は

「他の事、次のことを考えて、早く忘れなさい」
「他の子供のことを考えて・・」
「障害があったのだから、生きているよりも幸せ」
 という類(たぐい)の言葉だったと言っていました。

>でもやっぱりこれから先は二人で生きていかないといけないのやから少しは自分達のことも考えたらいいのでは???
>供養といって自分を追い詰めて我慢の日々を送る必要はない

 が、最も残された家族を苦しめる、もっとも酷い言葉だということです。

 そうではなく。一緒に悲しんでくれる人が・・・・

 私は、さすがに子供を失ったことはありませんし、それと比ぶべくもありませんが、大事なペットを交通事故で失ったとき、その母の言葉を改めて思い起こしました。

 本当の慰めは、一緒に悲しんでくれる人の存在です。死んでいったわが子を、日々忘れていくのが以下に辛いか・・・・。その子のことを悲しんでやれるのは、家族しかないのです。

 私は、同じような境遇に立った人には
「思いっきり、悲しんであげなさい。それをしてくれるのは貴方だけ」
「この世からいなくなった人は、貴方の心の中だけにいる。それを忘れてしまうのは悲しい。いつまでも守ってあげて」
 という姿勢や言葉なのだと思います。

>一年たったらはじけたいというぐらいなら今からでも我慢せずしたいことをしたらいいと思うのですが私の考え間違っているでしょうか
 真逆です。・・・・決して思うのは無論、まして言ってもいけない。
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この回答へのお礼

早々の回答ありがとうございました

非常にありがたい回答です

自分は二十歳の時に父親亡くしたけど高校でてから一緒に暮らしてなかったからか冷たい人間だったのか男だったのかわかりませんが告別式やすることをしてまた一人で暮らしだしたらなんか亡くなったことがなかったことのように普通に暮らしてました

自分は決して無理な言葉はかけてませんよ
決して忘れることはできないし一生忘れることはないと思ってるし言われてることのような言葉はかけてきてますよ

いってはいけないこともいってないですよ

ただやっぱりみてて辛いだけなんです

お礼日時:2008/11/30 11:55

闘病生活が長い場合、看病している家族もある程度、心の準備はできるものですが、一ヶ月少しの看病の末他界され、また質問者様の文面からすると、ご友人は若くして亡くなられたのではないのでしょうか?


最愛の家族を失った悲しみは、計り知れないものだと思われます。

愛する人を失って、涙を流すのは当然のことであり、ご家族が《一年間は供養したい》というお気持ちであれば、今は他界されたご友人のことしか考えられないと思います。

涙が枯れるまで泣いた後に、ご家族はご家族自身の事を考えられるようになり、その時には自分の足で立ち上がって歩き出すと思いますので、その時まで見守ってあげて欲しいと思います。
周りはいつまでも悲しみに暮れているご家族を見て、《早く立ち直って欲しい》と思うのですが、急かすよりもご家族の気持ちに寄り添ってあげることが一番です。

他界されたご友人を供養するのに、一年間という時間は決して長くはないと思います。

ご家族がご自分の足で立ち上がるまで、見守ってあげて下さい。
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この回答へのお礼

早々の回答ありがとうございました

友人は50で亡くなりました
家族を残して辛かったと思うし残った家族の辛い日々なのはよくわかります

早く立ち直って欲しいとは思いますが無理にとは思いませんし時間がかかるのは充分理解してます

ただ供養のために自分を犠牲?にして我慢してる姿をみるのが辛いんです
それが本人にとっての供養かもしれないんですが

お礼日時:2008/11/30 11:23

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