AKB48の推しメンをセンターにできちゃうかもしれない!? >>

詳しい方いらっしゃいますか?
いまいち理解がおぼつきません。

A 回答 (4件)

どうも向こう側をこちら側に結びつけるものはすべて恣意的なのだと、デリダは言いたいようです。

話し言葉がわかり合えるのも差延、書き言葉が読めるのも差延、こちら側にあるものは全部差延の運動(間化)なのだから、無根拠なのだ。記号の無根拠化だ。差延は、シニフィエとかシニフィアンに先立つ、概念や活動にも先立つ。だから、こちら側と向こう側との関係も差延にすぎず、向こう側の支配を受けるいわれはない。向こう側との蝶番をはずし、向こう側の支配を当たり前のものと思っているロゴス中心主義者の関節を脱臼させろ!と、いうことらしいです。要するに、関係性で従属性を乗り越えてしまうのですね。こういう強引な乗り越えを脱構築と呼んでいると思われます。向こう側(神・イデア・ロゴス)なんか関係ない、こっちの我々の世界を変えちゃえ! というのが目的で、そのために差延とかエクリチュールの優越とか、いろいろ難しそうな道具をもちだしているといったら、うがちすぎでしょうか。分かるのはここまでです。また考えてみます。
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こういうことではないでしょうか。


あなたは今、今のフィルムのコマをみている。過去のコマと未来のコマのあいだに間隔がある。コマは断片だけれど、その間隔はうめられて続いているように見える。時間が空間化し、空間が時間かせぎするからである。これを差延と呼ぶ。差延は力動的にみずからを構成しつつ、みずからを分割する。
言語もそうである。話し言葉の音素のひとつひとつは断片だけれど、つづいて話せ、聞こえる。そのあいだの間隔が差延でうめられるからである。書き言葉もそうだ。文字のあいだ、単語のあいだの空間が時間かせぎされて、書けて、読める。とすれば、向こう側の固有なもの(イデア)に差延があるはずだ。
こんなふうにデリダは、映像や音を断片の連鎖と考えているのではないでしょうか。でもそうすると、向こう側に差延をおこす支配者を認めてしまうことにならないか。向こう側の蝶番をはずし、支配を脱臼させたいというのがデリダの望みでしたから。分かるのはここまでです。
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私も詳しくはないのですが、他の方の回答が少ないので。



デリダは、フッサールが超越論的現象学において、ヨーロッパ的理性の自己実現を通じて人間理性に対する信頼回復を目指す、と言うとき、それを評価しつつもそこにロゴス中心主義の誤りを見いだしました。

つまり、そこでは言語が話者と他者の関係から切り離され、言葉の意味は静態的な差異に固定されます。しかし言葉の意味の形成は、差異性と時間性の運動によるのであり、その運動を差延と表現したわけです。

ひとはシニフィエからシニフィアンへ、パロールからラングへの、自己への非ー現前に直面して、意味やパロールを追加するのだ、ということだと思います。

ここにおいて、ひと=存在者が強調されます。その存在者自身も差延の現前性の場面にあるので、他者とともに一定の措定をすることができません。差延が変化というものをとらえる方法でありながら、弁証法と異なるのは、弁証法ではまず存在と自己を画然と措定する必要があるからだ、と言う論もあるようです。

以上、通俗的理解(誤解?)でした。
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全然詳しくないんですが、こう考えてみるとわかりやすいかも知れないという一例でよければ。


記号論では世界は差異の網の目によって認識されます。
主観、客観といった二元論に先立つ差延こそが一義的とされます。
そこで、差異というのを空間的、差延を時間的と考えた場合、差異は過去、差延は現在と考えれば良いのではないでしょうか?なぞなぞではないですが、現在、つまり『今・ここ』とは常にそこにあって、しかもつかまえようとするとすぐに過去へと変わってしまうという不思議な存在です。
つまり、今は常に今であるともいえるし、今と言った瞬間いまでなくなってしまうものでもある。
そういう認識行為の不自由さを言ったものと考えればわかりやすいのではないでしょうか?
『悟り』というのはすべての「動き」を諦観し常に「いまここ」にとどまりつづけるものであると言われます。
そういう「いまここ」という場所から眺めるとなんとなく「差延」の意味するところのものもおぼろげに実感されるのではないでしょうか?
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Qデリダの差延はもっと応用できない?

デリダの差延の概念で、リベラリズムとリバタリアニズムの違いとか、新自由主義と新保守主義の違いとか、そういう政治・経済用語の微妙な違いを説明することはできませんでしょうか?

Aベストアンサー

差延の概念はデリダのフッサール批判である「声と現象」で初めて言われた考えで、差異と時間的なズレを合成したものです。
差異はすでに言語学者のソシュールが言語の意味は「語と語とのネガティヴな差異から生じる」と言っていたことに由来し、ソシュールのいう言語の性質、パラディグム(範型)とシンタグム(文法)の内のパラディグムに相当し、1つの語の意味はその家族類似の他の語との差異によって、生じる、ということ。
たとえば、猫は犬や猿や他の動物との差異によって成り立っているということです。
デリダはフッサールが自我は根源的な声から生じると言ったのに対して、意識と意識の差異から生じる、しかも時間的なズレから生じると言って批判しました。
言い換えると自我という実体は存在せず、それは「差異の戯れ」なのだということ。

このようにデリダの差延はフッサールをはじめとする近代哲学の根源が存在するという思想に対する批判として持ち出されたもので、リベラリズムとリバタリアニズムの違いとか、新自由中主義と新保守主義の違いに応用できるものではありません。
もともと哲学の中の自我とか心に対する批判として言われたもので、それを政治・経済問題の微妙な違いを説明するのに使えるとは思えません。

もし、使えるというのなら、デリダの「声と現象」をぜひ読んでみてください。
たぶんそれを読んだなら、あなたのイメージする差延とはまったく違うことが分かると思いますよ。

差延の概念はデリダのフッサール批判である「声と現象」で初めて言われた考えで、差異と時間的なズレを合成したものです。
差異はすでに言語学者のソシュールが言語の意味は「語と語とのネガティヴな差異から生じる」と言っていたことに由来し、ソシュールのいう言語の性質、パラディグム(範型)とシンタグム(文法)の内のパラディグムに相当し、1つの語の意味はその家族類似の他の語との差異によって、生じる、ということ。
たとえば、猫は犬や猿や他の動物との差異によって成り立っているということです。
デ...続きを読む

Qサルトルの『存在と無』について

はじめまして。
現在大学3年で、サルトル哲学を勉強しております。

『存在と無』について勉強しているのですが、「対自存在」と「即自存在」の意味がよく分かりません。この2つはどういう意味なのでしょうか?

ご存知の方いらっしゃいましたらご指導の方よろしくお願い申し上げます。

Aベストアンサー

 まず、「即自存在」とは、それが何ものであるかを規定されて存在しているものを言います。例えば、ペンやナイフなどの道具は「即自存在」です。なぜなら、それらはあらかじめ、その用途や形、デザイン、材質などを制作者が決め、その上でつくられたものだからです。ですから、存在以前にその本質が決められているという意味で、「本質は実存(=現に存在していること)に先立つ(=先行する)」と言います。

 ところが、これに対して「対自存在」は、何ものであるかを規定されず、自己に向かい合うものを指します。つまり、人間がその「対自存在」にあたるとサルトルは言うのです。つまり人間は、道具のようにその本質を与えられているものではなく、気付いた時にこの世に生きているものであり、そのあとで、自らをつくっていくものだからです。例えば人間には、赤ん坊として生まれた最初から、卑怯者や英雄はいません。しかしその後の人生の中で、自らの意志で人生を選択し決断して、ある者は卑怯者になり、ある者は英雄となっていくのです。ですから、サルトルの人間観は、人間という存在はあらかじめ何者になるか決まっておらず、何者にもなる可能性があるという意味で自由であり、「人間は自らをつくるところ以外の何ものでもない」と言ったのでした。そういった意味でサルトルにとって人間とは、常に、ある自分を乗り越えて、無である未来に対し自己の可能性を「投企」していく(=投げ出して創造していく)存在であるとしたのでした。そのためサルトルは、「実存は本質に先立つ」と言ったのです。要するにサルトルにとって、人間の本性(=本質)は存在せず、その後にその人が自ら選択した行為によって、その人が何者であるかが定義されるとしたのです。

 なお、サルトルは、惰性や多忙に流れて組織の部品になり下がり、マスコミの論調に判断をゆだねて自己を合理化し、自己を主体的に選択する決断を回避する「即自的」(「即自」ではない)な生き方を、「自己欺瞞」として批判しています。

 まず、「即自存在」とは、それが何ものであるかを規定されて存在しているものを言います。例えば、ペンやナイフなどの道具は「即自存在」です。なぜなら、それらはあらかじめ、その用途や形、デザイン、材質などを制作者が決め、その上でつくられたものだからです。ですから、存在以前にその本質が決められているという意味で、「本質は実存(=現に存在していること)に先立つ(=先行する)」と言います。

 ところが、これに対して「対自存在」は、何ものであるかを規定されず、自己に向かい合うものを指...続きを読む

Qポストモダンとは何か?

哲学、現代思想における『ポストモダン』とはいったいどのような思想なのでしょうか?ポスト構造主義とどのように違うのでしょうか?この思想内容を知るためにはどのような本を読めばいいのでしょうか。
雑誌「現代思想」増刊の、これに関する書籍紹介を呼んでもいまいち何から手をつければいいかわかりません。理解するためにはどんな本に手をつければいいのか知りたいので、色々あげていただけると嬉しいです。
色々な意味を含む概念なので難しいことは承知していますがよろしくお願いします。

Aベストアンサー

ポスト・モダニズムの領域であると一般的に言われるのは、建築・文学・思想の三領域です。

やはり「文化」に足場を置く概念の用語ですので、狭義の「ポスト・モダニズム」が「テクノロジー」を扱うことはないと思います。

たとえばリオタールは、市場のポストモダニズム、消費文化やマス・メディアのなかに現れる、理論抜きの、単なる様式としての「折衷主義」が存在することは認めているのですが、本来的に、「リアリズムに対して挑戦する文学と芸術の様式」(キャサリン・ベルジー)がポスト・モダン性、ということになります。

ただ、未来永劫ないか、というと、そうもいえなくて、近代にアンチを唱え、「文化」という視座からテクノロジーを読み込んでいく解釈がありうるとしたら(具体的にはどんなものか想像もつかない、単に「可能性」としての話ですが)、ポスト・モダニズム的テクノロジー理論というのも登場するかと思います。

文学の領域では、リオタールがあげるのは、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』、そのほかに、現代のポスト・モダニズムの系列に属する作家として通常あげられるのが、ホルへ・ルイス・ボルヘス、フリオ・コルタサル、マリオ・バルガス・リョサなどの南米の作家や、トマス・ピンチョン、ジョン・バース、ドン・デリーロ、リチャード・パワーズ、ポール・オースターらのアメリカの作家でしょう。

あるいは文学には、創作の他に文学理論という領域もあって、ここでポスト・モダニズムはカルチュラル・スタディーズという形をとって発展していきます(うーん、ここらへんはかなり入り組んでいるので、だいたいそんなもん、くらいに受け取ってください)。

さて、思想面からポスト・モダニズムを見ていくとなると、ほぼポスト構造主義と同一になるかと思います。

ポスト構造主義の入門書など読んでいくと、絶対に、「差異」、「テクスト」、「ディスクール」といった、ポスト・モダニズムの鍵概念が出てくるので。
とくに、フーコー、デリダ、クリステヴァあたりは重要かと思います。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=856717

ここで間テクスト性についての回答をしているんですが、間テクスト性というのはまさにポスト・モダニズムの方法でもあるんですね(うーん、回答が少し文学寄りすぎる感じはしますが)。あらゆるものが「テクスト」である、という考え方は、重要かと。

そのほか、ポスト・モダニズムを考えていくとき、非常に重要になってくるのが、ニーチェの思想です。ポスト・モダニズムとは、19世紀の「ニーチェの哲学の長たらしい脚注」(テリー・イーグルトン)にすぎない、という見解もあります。

ヨーロッパの近世から近代に至るまでの哲学は、数学を理想とし、「自我」や「理性」という原理から、演繹的に導かれた知の体系を築いていこうとした。こうしたありかたに、いちはやく批判を投げかけたのがニーチェであったわけです。これこそポスト・モダニズムのエッセンスとなるような考え方ではないか、というわけです。

日本はなんでも古くなるのがおっそろしく早い不思議な国で、「ポスト・モダニズムはもう古い」みたいな見方もあるんですが、そんなこともないと思います。

確かにフランス現代思想家のおもだったところがみんな鬼籍に入ったということもあって、これからの現代思想がどうなっていくのか見えにくくはなっているとは思いますが。

実はわたしは文学のほうの人間なので(すいません、いまごろになって言い出して)あげるとしたら文学理論の人ばっかりになっちゃうのですが、日本人の思想家で言うと、たとえば蓮実重彦や柄谷行人、浅田彰、東浩紀ということになるかと思います。

ポスト・モダニズムの領域であると一般的に言われるのは、建築・文学・思想の三領域です。

やはり「文化」に足場を置く概念の用語ですので、狭義の「ポスト・モダニズム」が「テクノロジー」を扱うことはないと思います。

たとえばリオタールは、市場のポストモダニズム、消費文化やマス・メディアのなかに現れる、理論抜きの、単なる様式としての「折衷主義」が存在することは認めているのですが、本来的に、「リアリズムに対して挑戦する文学と芸術の様式」(キャサリン・ベルジー)がポスト・モダン性、...続きを読む

Qポスト構造主義・ポストモダンとはどういう意味??

ポスト構造主義とかポストモダンという言葉をよく目にするのですが、簡単に言うとどういうことなのでしょうか?又、両者は同義なのでしょうか?

Aベストアンサー

> 簡単に言うとどういうことなのでしょうか?
短く簡単に述べると抽象的になり
簡単かつ具体的に述べると非常に長くなり、と
実は非常に難しいご質問です。
でも、頑張ります。

「ポスト」はラテン語で「後に来る」とか「次の」といった意味です。
「ポストモダン」とは「モダン(モダニズム=近代主義)の次の」という意味で
思想・哲学・建築・文学の分野で使われる用語ですが
ここでは思想・哲学に限定しましょう。

西洋史上、「近代」は概ねルネサンス、大航海、宗教改革以降の時代
特に市民社会と資本主義を特徴とする時代を指します。
そういう意味では現代も「近代」の延長上にありますが
1900年代後半から近代主義を批判する文化上の運動が活発化し
これ以降の時代を「ポストモダン」と呼びます。

思想・哲学史上における「ポストモダン」の代表的なモノに
1960年代に流行った「構造主義」があり
構造主義の流行が去った後の、構造主義の成果や反省を踏まえた次世代の思想を
「ポスト構造主義」と呼びます。
ちなみに現代は思想史上では「ポスト構造主義」時代にあたります。

このように、ポスト構造主義とかポストモダンというのは
時代区分の一種であって、その流れに属す思想は実はいろいろあります。
それゆえに一言で言うのは難しいのですが
共通する特徴として
●近代の行詰りを克服すべく、近代をいろいろな角度から反省している
●なかでも「形而上学」を反省しようとする態度が大きい
といったことが挙げられると思います。
ちなみに、ポストモダンの条件』を著した哲学者リオタールによれば
「ポストモダンとは大きな物語の終焉」だそうです。
何のことやら、よく分かりません。

形而上学というのは西洋哲学の主流の思想で
古くは古代ギリシャのアリストテレスによって始まり
「我思う故に我あり」で有名なデカルトによって一旦の完成を見た
(と教科書で教えられた筈の)ものです。

さて、以下、大胆に自己流に解釈します。
形而上学とはぶっちゃけ「理性」を武器に「絶対的に正しいものは何か?」を
言葉によって問うて来ました。
その到達点が「我思う、故に我あり」から始まる難解な思想なのですが
19世紀も終わり頃になると、まあ世界大戦勃発だの何だのと暗い世紀末だったので
思想的にも大反省期に入る訳です。
その中でも、大きくメスが入ったのが「言葉」で
ソシュールの「記号論」なんかが有名ですが
簡単に言えば「人間は言葉でしか物事を考えられないが
言葉には限界があり、よって思考にも限界がある」といったことを訴えたのですね。
これは例えば「日本語しかしゃべれない日本人は日本語でしか物事を考えられないので
日本語にない概念については語ることが出来ない」と言えば
何となくお分かり頂けると思います>翻訳できない言葉とかって結構ありますよね。
このように言葉の構造を探ることで言葉の限界を考察したのが記号論ですが
この記号論を発展させて、思考やら文化やらの構造を考察したのが「構造主義」で
メルロ=ポンティなんて人が有名です。

OKWaveにも「○○って、どういうことなのでしょうか?」といった質問が沢山寄せられますが
このように「ひとつの正解に還元できる」という考え方は実は非常に形而上学的な発想で
構造主義的に答えると「ひとそれぞれ、いろいろな考え方があります」
みたいな発想から入り、それぞれの偏見みたいなことを考えていきます。
なので、ときに「相対主義」だと批判されます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3

> 簡単に言うとどういうことなのでしょうか?
短く簡単に述べると抽象的になり
簡単かつ具体的に述べると非常に長くなり、と
実は非常に難しいご質問です。
でも、頑張ります。

「ポスト」はラテン語で「後に来る」とか「次の」といった意味です。
「ポストモダン」とは「モダン(モダニズム=近代主義)の次の」という意味で
思想・哲学・建築・文学の分野で使われる用語ですが
ここでは思想・哲学に限定しましょう。

西洋史上、「近代」は概ねルネサンス、大航海、宗教改革以降の時代
特に市民社会...続きを読む

Qフッサールのエポケー。簡単に言うと、

小難しいこといろいろ書いてありますが、
簡単に言うと
「真か否か納得しているしていないは後にして、その事実を受け止めよ」
ということでしょうか?

Aベストアンサー

 こんにちは。

 事実認識――これにも主観の認識手法が入りますが――とそのモノゴトについての判断とは 別です。

 認識したものについてさらに真偽・是非・当否・可否などを判断します。


 事実認識の段階で エポケーせよということは いろんな角度から・考えられうるあらゆる視点から 見てみよということです。

 その見る前に みづからの心ないし精神ないし知解力や判断力などを白紙の状態にしてみるとよい。ということをもともなっています。判断の中断としてです。

Qデリダの哲学とは!?

デリダの哲学のエッセンスを、なんとか中学生にも分かるくらいのレベルで解説していただけませんか?

Aベストアンサー

 よく使われる哲学的表現に、自分と「自分」があります。「」なしの自分は実際の自分で、カッコつきの「自分」はOOだと思われているレッテルを貼られた自分です。他人がレッテルを貼るときもあれば、自分でレッテルを貼るときもあります。同様に、ものと「もの」も使い分けられます。

 私たちが考える「もの」とは、常にそれ自身から遅れています。しかし、私たちは、「もの」はつねにひとつの同じ「もの」だと考えてしまいます。デリダはこのように「もの」が安定して目の前にあるように見なす態度を批判します。この偽〔いつわり〕の安定を取り除かなくてはならないと主張します。
 偽りの安定を打ち破るためにデリダが持ち出したのが、脱構築〔だつこうちく〕と呼ばれる独特な方法概念でした。外側から壊すのではなく、内側から変化させるものです。男と女、人間と自然などのような二項対立に揺さぶりをかけ、意味の内側から、これまで受け入れられてきた意味を書き換えてしまうのです。

 デリダの前から“差異”という言葉は使われていました。イヌとオオカミの違いは?。では、ヤマイヌとは?私たちがものを識別しているのは差異によってですが、その区切り方によってはちがう名前がついてしまいます。ところがそのイヌでさえ、さっきまでの「イヌ」は、いまの「イヌ」とは違っているという点を考慮していません。このことをデリダは、空間的な差異と時間的な遅延の2つの意味をあわせもった、差延〔さえん〕という造語で表現しました。

 では、脱構築の例は、どう言えばいいのでしょう。OO主義を批判して、『OO主義はよくない!』と叫ぶのではなく、『OO主義はいいね!』と言いながら、OO主義の意味する中身を変えてしまう、といったことではないかと思います。・公共事業を批判するのではなく、公共事業の意味する中身を変えてしまうようなことです。

 私たちは、すでに文化の仕組みの内側に入っています。だから外に出たと思っても、それは幻想かもしれません。この時代の、この世界の常識の枠からはみ出して考えることはできないのかも知れません。・脳のある部分の役割が何であるのか表現しようとしても、今流通している表現でしか考え付きません。右脳は空間認識と感覚をつかさどり、左脳は理論と言葉をつかさどる。そうでしょうか。右脳は新奇性をつかさどり、左脳は慣例をつかさどると表現し直されたりしています。

 ・『ねぇ、仕事が大事なの、私が大事なの?』という質問には、そのまま答えず、二項対立の構造自体を崩すように答えるのが賢い答え方ですネ。

  ・ジャック・デリダと言えば、“差延”と“脱構築”を押さえておけばいいでしょう。

 ・は僕の独自の理解・見解・例です。
 

 よく使われる哲学的表現に、自分と「自分」があります。「」なしの自分は実際の自分で、カッコつきの「自分」はOOだと思われているレッテルを貼られた自分です。他人がレッテルを貼るときもあれば、自分でレッテルを貼るときもあります。同様に、ものと「もの」も使い分けられます。

 私たちが考える「もの」とは、常にそれ自身から遅れています。しかし、私たちは、「もの」はつねにひとつの同じ「もの」だと考えてしまいます。デリダはこのように「もの」が安定して目の前にあるように見なす態度を批判し...続きを読む


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