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主として研究者の方に伺います。
開発や研修の途上は、これといった明確な見通しとなる土台や根拠が
もしなければ、丁度真っ暗闇の中を一人で突き進むようなものかと推察
しますが、研究が専門家すればするほど、理解できる人も相談できる人も少なくなると思います。そのような状態で、孤独の苦しみとか、
こちらのことを理解する人がいないことの苦しみを感じたことをないでしょうか?
そのように苦しい時は、果たしてその苦しみをどうなさっているのでしょうか?

例えば、以前、前東北大学総長でおられた西澤先生が、著書の中で、
『「研究室でぽつんと一人で漆の研究をする。」だなんて、ぞっとする
気もするが~』と書いておられたのを思い出します。

「一人になることを恐れていては研究などできない」と言われてしまえばそれまでですが、しかし、その過程は孤独で辛くないんでしょうか?
また、孤独に強くないとそういうことは向かないのでしょうか?
逆に、人が嫌いで孤独に強ければ、究明するということに欲求や刺激を感じる限り、そういうことに向くと言えるでしょうか?

A 回答 (10件)

研究者です。

大学卒業後、10年以上研究をしています。
専門性が進むほど孤独になるというよりは、より広い分野にも知識が求められていきますので、むしろ他分野の方と話をしなければならないことの方が多くなると思います。
一人で研究するよりも、そちらのほうが大変です。その代わり、得るものも多いです。孤独が好きならば、研究には向かないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうごさいます。
白川先生の話や、西澤先生の話、それから、トヨタ自動車で現在のプリウスに当たる、ハイブリットカーを開発なさった技術の方の話などを総括すると、どうも、特に人の知らない領域になればなるほど、茨の道を一人で行くのを余儀なくされるような気もしてるんですけれど・・・。

お礼日時:2009/03/13 00:29

幸せも、何事かのヒントも多くの場合、他人が持ってきてくれます・・


しかし、その幸せをくれた人も、ヒントをくれた人も、そうとは知りません。

果実を手に入れるのは、あなたです・・

孤独は、独りよがりになります・・何より視野が狭まります。
かの一石さんは、バイオリンの名手でもありました。

バイオリン演奏をすることで、ストレス解消と人脈を広げることができました。

殻に閉じこもることなく、多くの人と触れ合ってください。
研究のヒントなどは専門家から貰うのではないですよ・・
全くのど素人・・の何気ない一言から得られることが多いのです。

同業者が自分の秘密を打ち明けるとも思えない・・
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

デビッド・リーン監督の「インドへの道」という映画を見る前のことです。新聞の前評判や解説を読むと、同映画の中に出てくる、「イドラ」と称するものの理解ができるかどうかが、この映画を解せるかどうかを決定づけるだろうと書いてあったのを思い出します。

見て想像できたのは、一口に言えばこの「イドラ」とは、「所詮は抜け出せないその人の性」のようなものだったのではということでした。

これがおっしゃっている、独りよがりと大いに関係してきます。多くの場合、その「イドラ」から誰も彼もが抜け出せないからこそ、多くの普通の人は、所詮孤独なのかなぁと思いました。

確かに、省みてみれば、人の有益な助言で助かったことはあります。
ただ、それには、人を見極める目やその言葉の選択眼がちゃんと出来ていないといけないと思いますけど。

例えば、その方ですけど、「バイオリンが好き」という自分のアイデンティティーを大事にすることによって、人との共通項を作り、そのイドラから脱するということをしていたのかなぁとも思えます。

お礼日時:2009/03/13 00:58

そう思うなら、日常的に交流の持てる友人や家族を大切にしましょう。



研究者も学会などのネットワークがあります。
まぁ、それもあまりかかわると雑用が増えるんですが。。。

また、研究に没頭するのも良いんですが、家族を蔑ろにすると年取った時に、本当に一人になってしまいます。

あとは、自分にできること、出来ないことを見極めることも大切です。「絶対に出来ないなんて言うのは、科学の進歩を止める」と言う人もいます。でも、無茶をして体や精神を病むのも良くありません。明るい進歩主義なら良いんですが、「あー、こんなに努力したのに、まだ成果が出ない」なんて悩まないようにしましょう。

私は理科系の研究者ではありませんが、文系の研究者でも、鬱になったり、自殺してしまう人も少なくありません。ただ、私の周りには、困ったことに酒の飲み過ぎで早死にする人の方が多いんですが。。。。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
それはそうでしょうね。そしてご回答の後半でおっしゃっていたことが、この件の怖いところです。もし理解されていたり、支援されていたり、「この方向で間違ってないよ。」とか言う人がいるなら、鬱になったり自殺することもないんじゃないかという気がします。

だから、やはり思うのは、例えば、AIBOを開発した土井利忠さんや、青色発光ダイオードを発明した中村修二先生、前述の西澤先生など、例えば、人に理解されない独創領域を行った人々は、みなほぼ例外なく、迫害され、蔑まれ、阻害されて孤独になることを余儀なくされたことです。ご自身は謙遜いていらっしゃいましたけど、江崎玲於奈先生は、かつてそれがあまりにもひどかったので、とうとう中村先生のように渡米してしまった。

お礼日時:2009/03/13 01:37

人間は研究に限らず頭の中の世界では孤独だと思っています。

研究でも成果とか結果というものはほかの人と共有できますが、過程や方法に関しては共有できないはずです。もしできるとすればそれは何も新しいものではない場合です。真の研究は本質的に孤独であるはずです。むしろ普通の研究者は孤独になれないというべきではないでしょうか。器具とか方法と試薬とかそういうものをすべて購入して組み合わせだけで新しいことを試みようという人は孤独ではありません。成功している(とされる)研究者だってどこかでは孤独でないはずです。天才とされる人でさえ先人が必ずいたはずです。研究者は孤独でなかったことを知って悔しがったりするものです。いわゆるプライオリティのことです。第一発見者というのは孤独です。自分が何かを発見したと言っている人は孤独であったことを誇っているわけです。この辺になると妄想と紙一重なのかもしれません。はじめは異常な人と思われていた人が実は大変な天才であったという例も少なからずあります。すこしずれますが寺田寅彦という人の随筆には研究者の孤独について実に示唆に富むことが数多く書いてあります。ちなみに寺田寅彦の研究の中には半導体の可能性を思わせるものまであります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
いただいたご意見は参考にさせていただきます。

お礼日時:2009/03/15 14:20

半分企業、半分公的機関のような変わった形態の研究・開発の会社?を経営?している者です。



「孤独」と言う言葉には少し寂しさを思わせる感がありますが、研究者は孤独では業績は残せません。
「孤独」と言うより、「一人で闘う」と言う方が適当だと思います。

インクジェットプリンタの開発をした、ある大手企業の話ですが、ある意味協調性の欠けた4人(・・・だったと思います)が、会社の一室に追いやられたような感じで研究・開発をするようになったのですが、みんな一匹狼的に仕事をしていたそうです。ところがある日、協調性が欠けていたように見えていた4人は、半田ごてと注射器からヒントを得て、団結心が芽生えてインクジェットプリタの開発を成功させました。
決して「孤独」では成しえなかった業績です。

ある程度の方向性を見出すまでは一人で闘うしかありませんが、微かに光が見えれば、集中砲火を浴びせるように皆が一つになります。

でも確かに「孤独」に限りなく近い状態にもなります。自所ではそれを出来る限り防ぐために、「武者サロン」と言う談笑、リラックススペースを作っています。
孤独に陥りそうになれば、このサロンへ集まって、いろいろな分野の専門家と雑談させるわけです。
この時間すべてが実になる時間にはなりませんが、少なくとも孤独からの脱却や、異業種交流、雑談に見え隠れするヒントなど、プラスになる材料が少なからずこのサロンから生まれています。

「孤独」は固定観念の塊となり、狭視界になって物事の真意を見失う大変危険な状態となります。
専門が工学であっても、工学の知識だけでは業務は絶対に進みません。
偏ることなく広い知識と経験が大変重要になります。
少なくとも自所では「孤独」に浸るヒマはありません。
こう書くと、単に考え方の違いだろうと思われるかも知れませんが、
実際「孤独」からは良いものは生まれません。

逆に研究者には「社交性」が必要なのかも知れません。
コミュニケーションの力がないと、他の分野などの情報を正しく入れることができなくなりますから。

真っ暗闇の中を一人で突き進むように見えますが、その後ろにはたくさんの支持者が支えてくれています。
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この回答へのお礼

ご回答ありごとうございます。
皆様のお話を伺って少しづつ霧が晴れていくような感じがしています。

しかしながら、払拭とまでもいっていないのも現状です。この場合、
最も孤独であることが覚悟されるであろう、研究活動を想定される例として挙げてみました。というのも、学生の研究活動ですら、ああまで孤独に耐えていかねばらないのだから、院生やそれ以上の研究者となったらさぞかしきついことになっているんだろうなと、想像がついたからです。実際、指導してくださった先生も、助手は置いていませんでしたし、執筆や研究も一人でなさっていたようでしたから。

今は、研究に限らず、どの分野でも、画期的なこと、従来にないこと、独創的なことをしようとすると、この孤独はさけて通れないと言った方がいいのかなと思っています。

今一度、工学方面の話を戻します。だいぶ、昔に遡りますが、西澤潤一先生が、学会で光ファイバーの理論を発表した時のことです。会場からはどよめきと笑い声が沸き、「メガネを通してすら、光は弱まるというのに、どうして何千キロも離れた所に、ガラス線で光が送れるんだ?」とヤジが飛んだそうです。

こうでしたから、特に研究ともなると、この種の事態になるのかと思っていましたが・・・。

いずれの分野もそうですが、いつまでも状況や事情が同じということはほとんどありません。収穫を挙げようと、土を耕し、耕地を作り土壌の改良を行うべく、肥料も水も撒くわけですが、この水を撒くことそれ自体でもう変化です。実際はこれに外部要因が加わります。ところがその変化に気づかずにいると、状況に合わないばかりか、悪化させることになっていまいます。それでも気付かない人は相変わらず水を撒き続け、「これで正しいんだ。」と主張する。

そこの問題を構成する要素が変化した後は、従来ないことも含めて、次の一手が必要になるはずですが、どうも、いかに妥当性があろうとも、人と違う独創的なことをするただそれだけで、変人扱いされ、孤独に陥るという傾向が、特にこの従来均質とされてきた日本社会では強いような気がします。ただ同じことをしていても、何ら道は拓けないというのに。

お礼日時:2009/03/15 15:32

天才的な事例を挙げておられるので、綱渡り状態の研究者の意見は参考にならないかもしれませんが、少し意見を述べさせていただきます。



>開発や研修の途上は、これといった明確な見通しとなる土台や根拠がもしなければ、

これは研究でしょうか?「明確な」だけは除きますが、見通しや土台が本当になければ取り掛かれないと思います。少なくとも見通しや土台のヒントが見つかりそうな手法を考え付かないことには何も出来ません。そう言いながら、最終目的のヒントのヒントのヒントぐらいを探し出すための研究をしている人は結構いると思います。

また、人から受け入れられない時は本当の目的を隠すことはよくあります。そんなの無茶でしょ?と言われることを主張し続ける強さを持ち合わせた人以外は、本来の目的ではないけど、こじ付けであっても派生的に得られる成果を目指している振りをして、研究、研究発表を行うのは日常茶飯事でしょう。

>孤独に強くないとそういうことは向かないのでしょうか?

これもちょっとした視点の違いです。
孤独が辛くて研究をやめることを想像し、その生活の方が辛くないならそれを選択すればいいわけです。私には研究をやめることの辛さのほうが大きいかもしれません。そういう人を「孤独に強い」と言う人も居ますが、孤独は辛いですよ。

>逆に、人が嫌いで孤独に強ければ、究明するということに欲求や刺激を感じる限り、そういうことに向くと言えるでしょうか?

こういう人は研究するための職を維持することが難しいと思います。本当にすべてが否定されるようなことをしていたら何らかの形で研究を続行できないでしょう。本来の目的ではなくても、ある程度評価される研究成果をだし、研究以外の業務を認められる程度にこなすことが最低限なので、人嫌いだと辛いと思います。そういう人は人とうまくやる辛さに耐えながら研究していることになりますよね。
結局みんな辛いんじゃないかな、と思います。

その中で自分にとって一番大事な事が一瞬たりとも辛さを忘れさせてくれるのであり、自分がそれを認識していればこそ、続けられるのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>また、人から受け入れられない時は本当の目的を隠すことはよくあります。~

やはりそうでしたか。いや、そんな感じがしていたんです。私は、この「独創」と「孤独」の関係を大分昔から、以下のように思っていました。X軸を「独創性・孤独」、Y軸を「人々の理解と共感」とイメージしてみて下さい。ここに丁度、反比例の関係が成り立つと思っています。「すなわち、独創性が増すほど、画期的なことはできるが、人々の理解は得られにくなり、阻害されやすく孤独になりやすくなる。しかし、逆に凡庸でこれまでの延長線上にあるものほど、人々の理解や共感を得て、阻害されることはないが、これといったものは何もない。」という風に。

西澤先生の光ファイバーの例などこのいい例だと思います。

言うまでもなく人や人生にとって希望というものは重要です。大局的にはその希望に向かって、研究者の場合には、研究の道を突き進んでいるといってもいいでしょう。私は、孤独とはそれに伴ってくる必要悪だから、これに強くないと、何の希望でも、叶うかどうかは別としても、向かっていくことすらできないのではと、今は考えるようになっています。

>その中で自分にとって一番大事な事が一瞬たりとも辛さを忘
れさせてくれるのであり、~

おっしゃる通り、孤独とは本来辛いもんだとは思いますが(特に、人に理解されない孤独ですね)、それを希望というとして、その希望があれば、理解されない、阻害された孤独にも、(研究も含む)耐えていけるでしょうか?

お礼日時:2009/03/28 20:32

研究者です。


私は、普通の仕事をしている人と、そう変わらないと思います。

普通の会社で仕事をしているときに、誰か手伝ってくれるでしょうか?
1人だけ残業しているときってないでしょうか?
普通の会社では「明確な見通しとなる土台や根拠」がる仕事ばかりでしょうか?

また、研究者は1人だけで仕事をする訳ではありません。
研究グルールであったり、研究室であったり、共同研究者であったり
それなりにコミュニケーションをとる能力が必要です。

それに家族もいるでしょう。

ただ、「思考活動」は孤独です。しかし、これは何も研究に限ったことではないと思います。

研究者という種族が特殊であるということは、そんなにないと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。お礼が大変遅れて申し訳ありません。しかし、この期間はいかにお礼を述べるかということについて、ある種熟成をもらたしました。

研究スタイルといっても色々あるのでしょうか。西澤潤一先生が若いころ、「一人ぽつんとひとりぼっちでする研究は、同時に孤独との戦いでもあった」というようなことを書いておられたのを読んだ気がするのですが。

おっしゃる回答内容は、「だから人は社会でどのように誰とつながればいいのか」という問いかけにも解を投げかけるお言葉のようにも思えます。そしてそれでこそ、人は道が開けるのではないかと言う気さえしてくるのです。ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/30 17:34

研究者です。

研究に行き詰まった人が自殺してしまった事例をいくつも知っています。彼らは、逃げ道を持ってなかったのです。この問題の解決策についてずっと考えてきた結論として、互いに関連のある研究テーマを少なくとも3つ持っているのがよいと実感しております。
一つのテーマが行き詰まっても、やりかけの他のテーマに移れるから止まらずに前に進めます。このような準備ができていれば孤独も楽しいものです。

この回答への補足

おっしゃったことは非常に「人間とは何か」という問いかけの示唆に富むものです。つまり、そのようにして、人はバランスを取り、その過程で「我」を見出し、善を引き寄せ悪を遠ざけるという、より良い選択の繰り返しをしていくことになるのかなあ、という気がしています。

補足日時:2010/10/30 17:15
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eagerさん こんにちは



ご存知のように、研究も給料を貰って行いますから、研究者も人間社会の一員です。

そのため、研究も人間社会に貢献する義務があります。定年を迎えるまで、周囲の人達あるいは科学者集団間でしっかりとコミュニケーションをとりながら、人間社会の役に立つよう研究に打ち込むことが最善です。

(段階1) 研究者にとって、定年までの期間は"人間社会の奴隷"であると考えております。この期間に、自分の好き勝手に研究を行えば、奴隷期間までに、精神が燃え尽きてしまうと考えております。

(段階2) 定年を過ぎると、人間社会への貢献の義務から解き放たれ、常識の範囲内で自由な研究を行うことが社会的に許されるでしょう。しかし、急に自由を手に入れたわけですから、大半の研究者は、何をすればよいのか、途方に暮れます。研究者にとって、60代の期間は、"子供の期間"であると考えております。この期間に、途方に暮れすぎると、途中で諦めてしまうと考えております。

(段階3) 子供の期間を乗り越えると、自由も手にいれているわけですから、精神面で縦横無尽な発想で研究を行うことが出来ます。研究者にとって、70代は、周囲の人の話に耳を傾けない、"思春期の期間"であると考えております。この期間に、精神的にわがまま放題で、研究を行えば、やはり、燃え尽きてしまいます。

(段階4)70代まで、常に人と関わり合いを持ちながら、もしも、自分がわがままな研究を行えば、自分に跳ね返ってくるので軌道修正し、新たなる研究を謙虚に行い、さらに人の役に立てるように、今もなお、人間社会の支えとなって、研究を行えば、80代にも精神が燃え尽きることがないでしょう。80代は、"大人の期間"であると考えております。

(段階5)80代まで、自由な研究を自重し、且つ、人間社会に貢献している喜びを感じておれば、"聖人の期間"である90代でも研究が行えるのではないでしょうか。

私は、孤独に強いことは、研究者で有り続ける事の、弊害であると考えております。
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質問者様の不安を解決する方法は自分の理論が正しいと証明することです。


  あらゆる面から疑問点を洗いなおしましょう。 
 シュミレーションを行ない確たる自信が得られれば何の不安もありません。
 但しそのような検証が一人で出来るかどうかが大問題になります。
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この回答へのお礼

そうですね。それにそのためには強靭な精神力のようなものも不可欠になってくるような気がするのですが。研究者の場合、その点について自信があると答えられる人の方が普通なのでしょうか? このことは
何の分野を問わず、前人未到の新分野を開拓する独創領域を開拓するには必ずついてまわる問題です。分野は違えど、相通ずると思う方も多いはず。しかし、といってそれをメンタル的に全部受け止められるかということになると、少なくとも私は自信が持てません。

お礼日時:2010/10/30 17:23

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