目新しいことではないのですが、例として、
1.10匹の羊を飼う羊飼いが他の9匹の羊を狼の脅威にさらしても1匹の迷える羊を救う。
2.10匹の羊を飼う羊飼いが9匹の羊を狼の脅威から守るために1匹の迷える羊を見殺す。
これどちらも羊飼いの羊に対する愛だといえると思いますが、明らかに差異がありますね。
さて、質問はどちらが良いとかというものではなく、これを包括的にどのように説明するかについてです。
イエスの愛とベンサムの最大多数の最大幸福とはまるで違うものであれば、どのように愛を説明すればよいのかとの問いです。
あるいはマズローの欲求段階説のように愛も理性的、段階的に分類されるものなのかについても問うてみたい。
そのような問いですがどのような回答、ご意見でも歓迎いたします。
尚、例として羊飼いの話を持ち出しましたが、
直近の物資援助か直近を見捨てても井戸掘り技術教育かの問題と置き換えてもかまいません。
No.12
- 回答日時:
素人意見ですが、というのもそもそも聖書をよく知らないので。
1の方が2よりいいと感じますが、
この質問文を読んで思ったのは、習慣性というか、環境というか、そういうのも入れたらいいのに、と思いました。
頭で、例えば、いきなり1や2のような判断をしないといけない状況を想像はできます。
でも現実はそうはなりません。現実のほうは、僕等の普段の考えや感じ方、行動の総和としてできているからです。
なにも分からず全くいきなり1か2かの選択を迫られはしないですし、
例えば、普段から1のようなことを考えてる人は、1を実現すると思うし、
普段から2のような判断をしていれば、土壇場でもやはり2を選択すると思います。
これは、つまり受け身か主体的か、の問題だと思います。
(ぼくがいうか? という話ですが、自戒も込めて)
別の視点からいうと、いかに羊の気持ちに立っているか、羊を認め、羊に感情移入し、羊の人格?を獣だからと下に見ないで認めているか?という話だと思います。
・・・何かどこかの成功哲学みたいな話になってますが、でも現実と観念は違いますし、違いを無視して、1や2の状況だけを切り出すことに無理がある、という感想です。
切り出したときに排除された条件は、1や2の結果に影響しないのか? そもそもその条件の排除は正しいのか? と言う前提の見直しが必要では? 考えるなら、それも考えるべきでは と、ぶつぶつと・・
マズローは知りません。ごめんなさい。
感想でした。
この回答への補足
回答ありがとうございます。
☆ 例えば、普段から1のようなことを考えてる人は、1を実現すると思うし、普段から2のような判断をしていれば、土壇場でもやはり2を選択すると思います。
● そうなんですよね。みなそれぞれ考えてはいるんですね。その考えに従うということでしょう。しかしそれは学問的ではないんですね。どのように考えて行動するかはそれぞれの考えや立場で実行すればよいことで、そこにパラドックスと見しものがあっても、それを体系的に説明する方法があるんじゃないか考えているのですね。愛にもいろいろな段階があるんじゃないかと質問を通して考えているのですね。だからどれも否定してるわけではないのですよ。
マズローは直接的には関係ないのですが、人の欲求を生存環境で分類しているのですね。それと同じように人の愛も分類できるんじゃないと投げかけただけです。
No.11
- 回答日時:
こんばんは。
その「1匹の迷える羊」が羊飼いにとってどのような存在であるか、いかほどに大切な価値を帯びているか、ということに尽きるのではないでしょうか。
例えばナンセンスな話として、その1匹の迷える羊が亡くなってしまった愛する人の生まれ変わりであった場合。
ともすると自らの命を犠牲にしても羊飼いはその1匹の羊を救うかもしれません。
また、その1匹の羊がどこにでもいるごくフツーの羊であったとしたら、残りの9匹の羊を守るために敢えて犠牲にするのも厭わないかもしれません。
「救う」という点においては「愛の行為である」と言えるのかもしれませんが、
「1匹を救う」か「1匹を見殺す」かという両者の選択の差異というものは、何てことはない結局は、
羊飼い自身にとって最善の利己的な「損得勘定」によるものではないでしょうか。
そして現実問題としまして、いかなる物資援助もしくは技術指導といった面においてでさえも、やはり何がしかの国策又は思惑を孕む恐れがあって、
これらを全く除外して行われる人間の手による「援助」なるものなど、まずあり得ない気もするのです。
これもひとえにわたくしが人一倍世知辛い、身も蓋もない女ゆえに、一般的に「愛や平和という大義名分のもと」に行われる行為において、何故かしらかある程度の懐疑的な目線で見つめてしまうのでしょうか。
(もちろん例外は多々あるかと思いますが)
すみません、たかがくだらない女の戯言と一笑に付して下さいませ。
大変失礼致しました。
この回答への補足
回答ありがとうございます。
☆ その「1匹の迷える羊」が羊飼いにとってどのような存在であるか、いかほどに大切な価値を帯びているか、ということに尽きるのではないでしょうか。
● 鋭いご指摘ですね。
それも当然ありですね。大統領とか総理職の人物にあれば他は見捨てても警護は身をとして守りますね。9匹の羊を捨てても1匹を守るの実例ですね。仕事という範疇では語りつくせない忠誠の愛ですね。
儒教的には忠義ですかね。これを仏教的には差別として肯定していますが、愛には差別があるとすると1.も2.も差別愛で説明は可能ですね。
No.10
- 回答日時:
愛の形態は状況によって様々で、羊の例においても、「直近の物質援助」と「井戸掘り技術教育」も、おっしゃるようにどちらも愛と言えるのでしょう。
愛に差異なり、段階なりがあるとすれば、それが及ぼす(3次元であったり4次元であったりへの)影響の大きさによると規定することは可能かもしれません。
しかし、これは客観的な愛という概念を想定した場合の話です。
そこで、客観的な愛は存在するかとなると、個人的にはあまり触手が動きません。(自分で言っといて、なんですが)
馬鹿な愛も賢い愛も、愛の発露という段階では同質であると言えるように思いますし、愛を説明するにはこれで十分であるような気がします。
(無意識的な問題は別にして)見返りを求めない相手への奉仕であり、いとおしみでありさえすれば良いわけです。
自己犠牲の尺度を測り比べるのは、愛にはそぐわない方向かもしれません。
今回のご質問に関しては、愛だけで全てが好ましい解決を迎えられるとは限らない、という視点で捉えてみました。
たとえば、「狼の脅威」がどの程度のものであるかによって対処すべき内容は異なってくるはずです。
その場合(愛に限らずでしょうが)「状況に応じた最も適切な対処」が大事になってくるように思います。
知恵と言ってもよいのでしょうが、それは個別の状況に応じてということになるのでしょう。
9匹の羊が、
「狼君、一匹丸ごと食べるのは考え直してくれないか。
そのかわり私たちのお尻の肉を片側だけ食べてもいいから。
9頭分だからお腹いっぱいになるよ」
なんてこと言ったり・・・、しませんね。
物資援助か井戸掘り技術教育か、に関しても、
国民一人当たり一円も出せば即解決しそうに思いますが、それを言ってしまうときりが無いかもですね。
この回答への補足
回答ありがとうございます。
☆ 知恵と言ってもよいのでしょうが・・
● ご指摘の通り智恵の範疇で捉えるといとも簡単ですね。
羊を全部守れた者は10点、1匹失ったものは9点、2匹だと8点、・・・9匹だと1点というように成績が出ますので上位から下位まで順序が明々白々に出てしまいますね。
でも、あえて愛の範疇で考えるとどうなるのかという質問なんですね。
儒教流にいえば「仁」の範疇でもいいんですが。
まあ無理であるならば「愛」で語ることあたわずでしょうか。でも割と多くの人が愛の例で使っている不思議があるんですよね。
No.9
- 回答日時:
まじめに回答 9匹を放置したの~いいえ9匹はどうしたら助かるのかを知っているからこそ離れて1匹を探しに行ったのですね。
クリスチャンなら羊飼いを知ってますから呼ぶだけです。
聞こえなかったらどうするの~なんて考えないで~そのときは祈りまた違う助け手を呼びに行きます。
(まじめに私は考えていました、残った羊さん襲われたら助からないのに、すごいむごい、1匹を取るか9匹を取るか、私なら9匹をとります。絶対にこの神はおかしい。なんて思ってました。もう○年前の話でした)
この回答への補足
回答ありがとうございます。
☆ クリスチャンなら羊飼いを知ってますから呼ぶだけです。
わかります。「愛」教ですよね。日本には9条教というのがおります。9条を叫べばミサイルも飛んでこないんですね。
でも、クリスチャンならヨブの嘆きを知ってますね。祈れども祈れども悲しいことは起きるし、ミサイルも爆弾の降ってくるんですね。
「愛」教には現実的な問題を解決できないところがありますね。アダムスミスもクリスチャンのはずですがどう考えたんでしょうかね。
No.8
- 回答日時:
mmkyさんは、聖書の言葉を引用しているわけでもないし、その記述内容も数や前後関係がことなります。
イエスがどうとかの記述があるにしても、ベンサムのいう側面とはあまり関係がないと存じます。
愛という言葉は知っています。漢字も知っています。
しかし、キリスト教や西洋の文学、或いは思想の中での“愛”というのは私にはあまりよく理解できません。
私は創造者でもないし、その人を創造もしていないし、愛しみもしていません。
ただ疼き、とがめることのないようにしなければいけない。
それは根源者への気持ちです。
そういうことで、最大、最高を目指します。
そう、55年も前、中学などでは「人に完全なる行為はありえない」と論議し、「行為しない人間には、誤りはない。しかし行為しないという事が最大の誤りだ」という下村湖人のことばをうれしく思いました。
40年ほど、ヒンドゥ系統の信仰の勉強と精進に拙く生きています。
バガヴァン・クリシュナは無行為の達人だそうです。
不行為と無行為のことは置いておいて、この神がいわれる行為とは呼吸から、思考、観念、観ること、消化から、存在することすべてが入ります。
自己への果実つまり、自己への結果のない行為をする。呼吸する。
という事です。
それに始まり、それに終わる。
神の化身たる聖者であっても、一国の王であるクリシュナが世俗のことに関らなかったことはないわけです。
そこではご質問文のような具体的問題もあったかも知れませんし、その出会い方も違うと存じます。
要するに、仰せの事例及び、類する事も、現今のことであり、また外からみれば問題があるでしょうが、何事もその方、為政者、行政者、現場の方、自身の普遍的自己をどう行動するかの問題ではないでしょうか。
そういう中で私は、仰せの事をみていきたいと存じます。
しかし、ここで、それらのことを一々あげつらうことは出来ません。
仮定と想像が介在する事になるし、だから其処に自分を置けないからです。
この回答への補足
krya1998さん回答ありがとうございます。
☆ 聖書の言葉を引用しているわけでもないし、その記述内容も数や前後関係がことなります。
● ご指摘の通りです。聖書がどうのこうのといってるわけではありません。どうでもいいといえばその通りですね。
つまり、西洋の哲学、経済学などあらゆる学問は新旧約聖書の「愛」に影響を受けてるのでしょうから、一匹の羊の例と多数を扱うベンサムでもアダムスミスの理論でもいいのですが愛という範疇ではどう関係するのという単純な疑問なんです。関係していないといえばそれまでですね。あるいは西洋には「愛」という哲学がないので答えようがないといわれればそれだけですが、それにしてはその都度・都度、適当な愛が出てくるものだと感心しているからなんです。
他の回答者さんの回答にあるように「愛」じゃなく「智恵」じゃないか。といわれれば、なるほどと思うのですがね。
No.7
- 回答日時:
1.10匹の羊を飼う羊飼いが他の9匹の羊を狼の脅威にさらしても1匹の迷える羊を救う。
2.10匹の羊を飼う羊飼いが9匹の羊を狼の脅威から守るために1匹の迷える羊を見殺す。
この場合、物語のあらすじはともかく、10匹の羊は羊飼いにとって、ひとしく愛情を傾けた同じ羊。
合理性からしても、生産性のひとしい10匹の羊を区別する必要はない。
したがって羊飼いは10匹の羊から迷える子羊を見出すことはない。
この十匹の羊が狼に狙われたとして、犠牲は出るでしょう。
羊飼いにとって、自らの家畜が10匹から九匹に消耗したことを惜しむなら、哀れにもイケニエになった羊を悼んで、迷える子羊として追悼したりもするでしょう。
これが狼にも愛を傾けられるようだと話は違います。
羊飼いにとって、自らに不利益をもたらした狼もまた生命ゆえに、狼は愛を知ります。
狼は自らの生命をつないでくれる(飢えを満たしてくれる)羊に愛を感じるでしょう。
その狼の愛がわかるなら、物語の世界ではイケニエはいない。
現実的な話では10匹の羊はオオカミの脅威にさらされることはない。
羊飼いが狼を遠ざけることができます。
実際に私は子供たちを世話するのが仕事でして、生活のかかった金づるたる子供たちをそのようにオオカミから守っている羊飼いです。
正解はオオカミをも愛するです。
そこまでも愛であればすべてが愛と言いえます。
この回答への補足
回答ありがとうございます。
>>正解はオオカミをも愛するです。
そこまでも愛であればすべてが愛と言いえます。
なるほどですね。一番すっきりしてますね。
「保育園の子供が一人誘拐されました。園長先生どうしてくれるんですか? 誘拐犯もお金が必要なのでしょう。お金払いなさい。それでみな幸福になります。」
そんな感じでしょうか。愛の哲学といえば哲学ですね。
No.6
- 回答日時:
えっと、、、私はこの話を聞いた時、アトス山とか修道院とか尼僧院とか、そんなものをイメージしました。
マグダラのマリアが、野原をかけまわっている羊の安全を見張るための塔なら、キリスト教会は外敵をシャットアウトするため周りに高い塀を
張り巡らし、羊達が出れないようにしている。
外は狼がいるぞー 安全のために塀の中で暮らしなさい と。
ノートルダム寺院もそんなコンセプト。
映画にヴィレッジってのがあります。
村の周りに広大な森があるが、その森には魔物が住んでおり、昔村人は魔物と協定をむすび、線より森の中に入らないという約束をしている限り、魔物は村を襲ってこないことになった。
と、子供達は大人から聞かされていた。
村で生まれた子供達は、森に本当に魔物が住んでいると信じていたわけです。
ネタバレしてもいいですか?
その魔物の正体は、この地域に入植して村を創立した大人たち。
どうして大人たちは、そんな嘘をついて魔物に扮して子供達を怖がらせたのかというと、その人たちは以前都会に住んでいた。
凶悪犯罪により家族を失った人々だったわけす。
それで魔物が入り込まない村を作った。
莫大な財産をひきついだ人が、広大な土地を買い、飛行機も上を通過しないように手配して、森の中に自給自足の楽園を作ったわけです。
(アーミッシュよりもっと厳重に隔離された村)
その広大な森の周りは高い塀で囲まれており、その周りはパトロールされていて、パトロールしている人たちは、そこは自然保護区で、ツーリストが森を破壊しないように守るのが仕事だと知らされていた。
やはり物理的に魔物が入ってこれないように、高い塀で囲っており、羊達 つまり 子供達には真実を知らせず、とのかく森 つまり 村より出たら魔物に殺されると信じ込ませていたわけです。
アメリカならではの作品で、平和な国日本で暮らしていると、ほんと異世界の話としか思えない。
塀の中の閉じこもっていた方が幸せなのか?
そのためには嘘も方便なのか。
さて、今回の解釈。
私はこういう風に受け取りました。
イスラエル人はディアスポラしている。
で、あっちこっちに住んでいたわけです。
神の選んだ民だけど、実際はイスラエル以外に住んでいる人が圧倒的多数だった。(2000年前)
その人たちは自分達の宗教を信仰するより、現実まわりの民族といさかいを起こさないために、周りの人たちがやる宗教に便乗したか、便乗しないまでも、ユダヤ教を熱心にはしていない<放蕩息子>なわけです。
つまりイスラエルという群れから離れてしまった羊。
そのディアスポラした羊達を集めようって運動が2000年ほど前にあったのではないか と。
集まっている羊たちより、主の元を離れた羊達を連れ戻す、つまりユダヤ教に帰依させる運動があったのではないかと。
集まって一箇所に集まっているなら、それぞれが守りあうが、異文化に住んでいるユダヤ人は宗教的に迷子になった羊。
<めーりさんのひつじ ひつじ ひつじ めーりさんのひつじ かわいいー>と歌ったかどうか知りませんが、マリアの元に帰還させようって運動があったのかもしれない。
というわけで、9匹が危険な目にあっているわけではなく、9匹は集まっているが、一匹は迷子になっているので、群れに連れ戻して保護しようって活動だったんじゃないかと。
従って9匹を見殺しにしてまで1匹を救えって言っているわけではないと思えます。
ましては迷子にならないように羊の群れの周りを高い塀で囲って、「安全のため」といって拘束してしまうなんて、まったくもって理解が全然できなかった聖職者の無理解ゆえの犯罪だと思います。
イスラエル人たちの問題であって、その他の民族は神の子羊ではない。
神の子羊とはイスラエル民族のこと。
勘違いして、その他の民族の神の民ではないものたちまで、閉じ込めて「外は魔物が住んでいるから出てはダメ」って。。。。おいおい です。
愛ねぇ。。。。日本人も最近では人前でチューをするようになったし、抱き合ってもぞもぞ体をまさぐってハアハアやるようになったし。
愛って言葉をおしげもなくまるで安物のガラス玉のように使うようになった。
日本人の特徴。
お互い言わなくても察することが他の民族よりできてしまう。
言う必要もなく 問う必要も無いものを、あえて「私のこと愛してる?」とか ばっかじゃねーのーー とか思ってしまう。
「疑問に思った段階で、もう終っているって気づけよ」と思ってしまいます。
だって日本人だからもうわかっているわけだし、外国人のように相手の気持ちがわからないから、いちいち言葉を通して確認しないと全くもってわからないってわけじゃないわけだし。
マズローの欲求の階層は、あくまで仮説です。
確かに、分析研究した成果でしょうけど、それが全員に当てはまるわけではなく、100人いて20人くらいは、そのパターンかもしれませんが、残り80人には当てはまらない程度のものかもしれないじゃないですか。
日本語に愛って確かにありますが、よくわからないものですよね。
愛している=エッチがしたい って意味でよく使われじゃないですか。
だけど、やらせろ って言うのは下品だから、「愛している」ってエッチしたいという表現として使うわけでしょ。
そんなベタなバタくさい陳腐な言葉で、軽々しく自分の思いをくくられたくないでしょ?
日本人には「大事」とか「大切」とか「かけがえのない」とかそういう表現の方がしっくりいくと思います。
バタくさい愛ってものは、一過性のもので、その場限りの一時的な感情の場合使うように思います。
だから西洋の人は簡単に別れるわけでしょ?
一時的な激情でくっつき、激情が冷めたら愛がさめた つまり激情が冷めたってことで別れるわけです。
大切はかけがえの無い相手と思っているからじゃなくて、肉欲でやりたいって思ったから「愛している」って簡単に言えてしまうわけです。
神の民を絶滅させないってのも、「きっと神様はイスラエル人を自分にとってかけがえのない人々だと思っているのだ」って思うことで、その気持ちを大事にしたいと思い、そんな神に対して、かけがえの無い者という感情がわいてくるのではないかと。
放蕩息子で、神の民でありながら、群れから離れた人々が、神の気持ちを知った時、神の元に帰還し、その息子を手放して父親は喜んだってエピソードがあるでしょ?
ずっと父親の側にいた息子はさしおいて、帰ってきた放蕩息子を責めずに「よくぞかえってきた うれしいぞ」って正直に心を伝える父親。
この父親が神の例えなわけです。
映画ヴィレンジも、主人公は森から出て塀を越えて外の世界に行きましたが、戻ってきています。
真実を知ったところで、戻る場所はかけがえの無い人がいる場所しかなかったわけです。
自分を大事に思ってくれる群れに戻っていった。
この主人公がもし盲目じゃなかったら?
目が見えたとしても、やはり戻ったと思います。
「大切なものは目では見えないんだよ。心でみなくちゃね」
(星の王子さまより)
この回答への補足
回答ありがとうございます。
>>イスラエル人たちの問題であって、その他の民族は神の子羊ではない。
神の子羊とはイスラエル民族のこと。
なるほどですね。イエスの愛の教えなど所詮ユダヤのローカルな教えだから普遍性など無いということですかね。
それなら日本に持ち込むなといいたくなりますね。これは冗談ですよ。
No.5
- 回答日時:
>これを包括的にどのように説明するかについてです。
この説明に「愛」を使う必要はないと思います。
心の中にある天秤を使い最善と思われる選択をした。
これが回答ではないでしょうか。
質問にある例は思考による結果ですから、愛でないものを愛を使って説明しろというのは無理な話ではないでしょうか。
この回答への補足
回答ありがとうございます。
>>この説明に「愛」を使う必要はないと思います。
心の中にある天秤を使い最善と思われる選択をした。
なるほどそれもありですね。「心の中にある天秤」がなにかわかりませんが理性かなにかでしょうか。
No.4
- 回答日時:
>これどちらも羊飼いの羊に対する愛だといえると思いますが、明らかに差異がありますね。
>さて、質問はどちらが良いとかというものではなく、これを包括的にどのように説明するかについてです。
1.は、イエスや仏の愛の究極の具体的な一面を端的に示しているとすれば、2.は、優れた為政者によるギリギリの政治的英断の具体的な一面を示しているのではないでしょうか。
「9匹の羊」とは、聡明にして、正しい道を踏み外すことなく生きられる善人だとすれば、「1匹の迷える羊」とは、愚かな悪人、罪人だと考えられますよね。
イエスの愛にせよ、阿弥陀仏の本願にせよ、親鸞の「悪人正機説」にせよ、いずれも自力で自己救済する力のない人々、愚かな悪人、罪人、つまり「1匹の迷える羊」のためにこそ要請されたのではないでしょうか。
それに対して、政治的理想というのは、あくまでも正しき「最大多数の最大幸福」の実現を主眼としているはずでして、その限りにおいて、「1匹の迷える羊を救う」ために残りの「9匹の羊を狼の脅威にさら」すような為政者は、たとえどんなに「愛」の尊さを声高に唱えようとも、悪しき政治家と非難されるべきではないでしょうか。
そして、人間である以上、誰しも自らの内部に必ず「9匹の(正しき)羊」たる自己と「1匹の迷える羊」たる自己とを併存させているのではないでしょうか。
なお、以上については、戦後間もない頃に起こった《政治と文学》論争の際に福田恆存が書いた「一匹と九十九匹と」を参照し、そこから私なりに学び得たことにすぎません。
この回答への補足
回答ありがとうございます。
>>1.は、イエスや仏の愛の究極の具体的な一面を端的に示しているとすれば、2.は、優れた為政者によるギリギリの政治的英断の具体的な一面を示しているのではないでしょうか。
神のものは神のものシーザのものはシーザのものですね。
立派な二分法で十分説明できるということですね。
愛は政治家とは無縁であるのに、アメリカ大統領は聖書を片手に核のボタンをもって宣誓するというのもこれで説明できるということですね。
なにかすっきりしないですね。
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