架空の映画のネタバレレビュー

目新しいことではないのですが、例として、
1.10匹の羊を飼う羊飼いが他の9匹の羊を狼の脅威にさらしても1匹の迷える羊を救う。
2.10匹の羊を飼う羊飼いが9匹の羊を狼の脅威から守るために1匹の迷える羊を見殺す。
これどちらも羊飼いの羊に対する愛だといえると思いますが、明らかに差異がありますね。
さて、質問はどちらが良いとかというものではなく、これを包括的にどのように説明するかについてです。
イエスの愛とベンサムの最大多数の最大幸福とはまるで違うものであれば、どのように愛を説明すればよいのかとの問いです。
あるいはマズローの欲求段階説のように愛も理性的、段階的に分類されるものなのかについても問うてみたい。
そのような問いですがどのような回答、ご意見でも歓迎いたします。
尚、例として羊飼いの話を持ち出しましたが、
直近の物資援助か直近を見捨てても井戸掘り技術教育かの問題と置き換えてもかまいません。

A 回答 (23件中21~23件)

貴ご質問で提起される2種の羊飼いのお話を私は以下のように考えました。


1)この羊飼いはともかく一匹の羊が居なくなったことに動転して理性を失い、ともかく居なくなった一匹を探しに出向いた、ということではないでしょうか。これは愛はすべてに優先するということでしょう。
2)は冷静な羊飼いではありますが、これは愛情をもったそれではなく、誰であってもこのような理にかなった選択はできるのであり、私は1)の羊飼いの方に真実の愛が見出されるのではないかと思います。狼がどんなふるまいをするに至ったかはまだわかっては居ませんし、必ずしも9匹の羊に害を与えるわけでもないでしょう。たとえ彼が結果的にすべてを失ったにしても、10匹すべてを護りたいと考えた1)の直情的行為に私は心打たれます。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

☆ 動転して理性を失いともかく居なくなった一匹を探しに出向いた。
● そうですね。母親の子供対する愛はまさにそのようですね。
  母は気が狂ったようになり、父は寡黙になりますね。
☆ 誰であってもこのような理にかなった選択はできるのであり。
● 例えば、諸葛孔明の泣いて馬謖を斬る。はどのように理にかなっていてもつらいものだと思います。幸運にもいままで私はそのような場面に出くわすことはありませんでしたが。
愛というのは一筋縄ではないようですね。

補足日時:2009/06/10 17:47
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 mmky さん こんにちは。

たぶん初めて mmky さんのご質問に投稿いたします。

 言うまでもなく 個人および社会のあらゆる事象にかかわっていて いくつもの論点がある主題だと思います。
 ですが 事例としましては どうも二者択一として迫ってくるように感じられ どうお答えすべきか迷うところではないでしょうか?
 目の前で九匹を襲おうとする狼がいれば どこかへ迷い込んだ一匹よりは こちらを優先するでしょうし。つまり 身も蓋もないことを申し上げれば 襲撃の危険をまづ取り除く処置をして それから 見失った一匹を探すでしょうし。

 ★ イエスの愛とベンサムの最大多数の最大幸福
 ☆ これは その人のいわゆる魂に届きいつまでも響く言葉をかけるといった愛もあるでしょうし さらにそれを超えて いわゆる永遠の現在を実現せしめるべく消えざる熾き火のような・もしくは涸れざる泉の水のような愛を呼び起こす愛もあるでしょうし あるいは 目下の急を凌ぐ助けあいとしての愛もあるでしょうし―― こうして 個人が すでに特定の個人に対しておこなうような愛の問題が 一方で 基礎としてあります。
 ベンサムの愛は 個人がそれぞれ考えて共同で行なうかたちですが 特には相手の人を特定していない場合です。いわゆる社会科学の政策としての問題です。

 ★ マズローの欲求段階説のように愛も理性的、段階的に分類されるものなのかについても問うてみたい。
 ☆ マズローについて知らないわけではないのですが 特に どういう扱いをするかと言って わたしにはありません。ので これは やり取りに従います。

 とりあえずです。

この回答への補足

bragelonneさん回答ありがとうございます。

☆ 事例としましては どうも二者択一として迫ってくるように感じられ どうお答えすべきか迷うところではないでしょうか?
●ご指摘の通りですね。一般的には二者択一問題のように扱われますね。例えば、会社などでは管理職が「1人の人間をかまってどうする。全体をもっとコントロールしろ。」と上司におしかりを受けるような事例ですが、「愛」という事例の範疇では二者択一問題にしてしまうわけにはいかないですね。「愛」に二者択一愛が存在してしまいますからね。

☆ 「目の前で九匹を襲おうとする狼がいれば ・・・それから 見失った一匹を探すでしょうし。」
●そのような考えは至極妥当ですね。でもそれは「愛」ではなく「知恵」の範疇ですよね。つまり「愛」には「単純な愛」と「賢い愛」の二種類があるということになってしまうと思うのですね。私はそれを認めることはやぶさかではないのですが、どうでしょうか。
この「単純な愛」と「賢い愛」のために捕捉として、施しの愛の例として「物を与える。」「物を与えるかわりに井戸を掘ることを教える。」という例を追加しました。

☆ベンサムの愛は 個人がそれぞれ考えて共同で行なうかたちですが 特には相手の人を特定していない場合です。いわゆる社会科学の政策としての問題です。

● 私もそのように思いますが、社会科学の政策としての問題として捉えると、「多数決の愛」を容認する必要が出てきますね。1匹の羊の幸福をとるか9匹の羊の幸福をとるかですね。個人の多数が構成する社会では、個個人の普遍愛だけでは説明が出来なくなってしまいますね。ここで個人の愛と、社会愛は二者択一問題であるとするとベンサム理論は選択理論になってしまいませんか。個人と社会は別だとする二分法を持ち込むしかないようにも思いますがそれではキリスト教的愛というのは個人のみに適用される狭い範疇のものになってしまいませんか。

● マローズを持ち出したのは二者択一問題から抜け出すためには「愛にも段階的分類」を与えないと統一的な説明が出来ないのではと考えるからです。(可能性)
イエスの説く愛は本能的な愛ではないようですし、一匹の羊を助けるというのも感情的愛でもなさそうと考えるからですね。汝の敵こそ愛せよという愛がどのようにして一匹の羊を助ける愛に変化するのかがわからないのですね。それをつなぐ段階でもあるのかと。

補足日時:2009/06/10 14:07
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詳しくはわかりません。

でも、
羊飼いは、自らが戦おうという精神の持ち主ではないといことは確かなようですね!
羊飼いの愛は感じられません。
羊は単なる商品に過ぎないってことかと思いました。
数的差はあれども、一部のものの安全を確保するために犠牲を提供するなんて・・・

この回答への補足

回答ありがとうございます。

羊飼いの話は例ですが、拉致被害者と置き換えればどうでしょうか。
数百人が拉致されたという話もありますが、助けに行くという話はないですね。ほとんど2.の状態ですね。
残された家族の方々は悲しんでますよね。

補足日時:2009/06/11 06:47
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