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人の苦しみが分かるがゆえに悩み苦しむ人たちへの救いはあるのですか?
その上、問題解決能力も持たないために、人のために苦しみ絶望してしまう人は
ただ愚かなのですか?

では、
人の苦しみに気が付かない人は悩まないで済むので幸せなのですか?
人の苦しみに気が付いても、人が傷つくことに何も感じない人は悩みにならないので幸せなのですか?

人の身を案じるがゆえに心病む者、自滅し去る者は
人の苦しみが分かる人ばかりなのはなぜなのですか?

『情けは人の為ならず 巡り巡って己が為』
とは言いますが、人のためにただ悩み傷つき、
或いは心病んで自殺にさえ至る人たちへの救いはあるのですか?

どうか教えてください。

A 回答 (18件中1~10件)

救われないですね。


悩み苦しむ人達がいるうちは救われない。
他者の苦しみを自らの苦しみとして感じられる人は救われない。
救われないところに生きて、救おうとするところに救われる。

こんな、神様や仏様のような人がいたら・・・の話ですが・・。

この回答への補足

*** まだお礼をしていない方々へ ***

ありがとうございます。
みなさまからいただいた言葉を考えています。
しかし私にとって問題はあまりにもとらえようがなく、
なんとお礼の言葉を言ったらいいのか分かりません。
考えさせてください。

補足日時:2009/09/19 12:40
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この回答へのお礼

何か受け入れるしかないようなものを感じました。
言葉になりません。
諦念ということなのでしょうか。
しかし私が理解するにはほど遠いようです。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/25 00:45

 結論としては世界や他者のために生きている人であれば、自殺する余裕と言うか、暇は無いはずです。



 自殺する人は自分のことだけ考えているからでしょう。
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この回答へのお礼

現実を知らないとしても仕方のないことです。
再度の回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/25 02:06

前回の回答とは、別の視点から補足しておきます。



おそらくは、質問者様の視点もこちらの側になろうかと思われます。

>>>---
双方ともに人間ゆえに、そうして、情報化が進んだゆえに(本当ならば見ずに済んだはずの、あるいは、気づかずに済んだはずの)多くの苦悩を目の当たりにしてしまう。

そういった人々は、そのような感受性を持ったが故に、不幸な気分や救われない気分を味あわなければならないのか?

であれば、逆説的に、ロボット的な人や感情を有していないかのごとき人の方が、幸せそうに見えるし、そういった人は(人殺しをするだろうけれど)自殺しないのでは?
---<<<

もし、そうであったとするならば、(刹那としての)「いま・ここ」を離れたいという想いが強いのではないでしょうか?

人間として、生まれてきた以上、どのような環境に育ち「どれだけ」環境に影響を与えうるかは、その人の人生によるでしょう。

その人生において、どのような想い・思いが交錯し合うかも、影響しあうことでしょう。。。

そうして、そこにおいて、どのような些細な思いがあったとしても、その「思い」がある以上、全く「救われない」ことにはならないでしょう。。。
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この回答へのお礼

こちらの方が近いですね。
しかし、
情報化が進んだゆえに ではなく 人の気持ちが分かるがゆえに です。
人の苦しみは誰の目にも見えるデータのことではありません。

>そうして、そこにおいて、どのような些細な思いがあったとしても、その「思い」がある以上、
>全く「救われない」ことにはならないでしょう。。。

そうであって欲しいものです。
再度の回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/25 02:41

Life-11様の仰るところの「救い」とか「幸せ」とかは、刹那(その場、その時のみ)での判断でしょうか?



それとも、「巡り巡って」を想定した、「いつかは救われる」、「いつかは幸せになれる」といった、繋がりのなかでの判断を想定しておられるのでしょうか?

「心病んで自殺にさえ至る人たち」を、実際にご存じでしょうか?
身近におられたのでしょうか?

。。。

『情けは人のためならず、巡り巡りて己が身のため』

『情情けは人のためならず』
の部分だけを取り出した解釈については、年齢層で勾配があって50%程度の比率で「他人に情けをかけることはいいことだ」という見解と「よくない」という見解に分かれるそうです。
平成12年度に行われた調査
http://www.bunka.go.jp/1kokugo/main.asp%7B0fl=sh …
では
>>>
(4) 意味が変化して伝わることわざ<問16>
 ―「情けは人のためならず」は,過半数の理解が本来の意味とずれる―
 (1)~(3)のことわざの意味について,それぞれ二つの選択肢から選んでもらった結果は下の表のとおり。(○は本来の意味。数字は%)
(1) 情けは人のためならず
ア  人に情けをかけておくと,巡り巡って結局は自分のためになる --- ○
イ  人に情けをかけて助けてやることは,結局はその人のためにならない
---
回答
ア:47.2
イ:48.7
※世代別の推移は上記URLの図を参考にしてください
<<<
となっています。
アは「いつかは」といった未来を想定した考え方が含まれています。
イは「刹那的」な考え方が中心となっています。

また、『情けは人のためならず、巡り巡りて己が身のため』
と、後半部分が付いた場合の解釈についても、
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1928766.html
にて示されているように、
>>>
…自分のためって、どういう風にでしょうか。
(1)人にした恩が、いつか自分に返って来る
(2)人の苦労を背負ってやることで、自分を鍛える
<<<
といった二通りの解釈が歴史的になされてきたそうです。
(1)は「いつかは」といった考え方が中心であり、
(2)は「刹那的」な考え方が中心です

さて、質問者様の論点は、2段階からなっています。
>>>===
A.人の苦しむのをみて「平気な」(ように見える)人、「何も感じない」(ように見える)人は幸せですか?救いはあるのですか?
B.人の苦しむのをみて「心病む」(ように見える)人、「それ故に自滅し去る」(ように見える)人は幸せですか?救いはあるのですか?
===<<<
()内は私の方で補足し、「幸せ」「救い」についても対等に疑問文としています。

まずAから。。。
>>>===
人の苦しむのをみて「平気な」(ように見える)人、「何も感じない」(ように見える)人
===<<<
も、もしかしたら「見えている」だけで、本当は、心の奥深く「悩み苦しんで」いるかもしれません。

であれば、そういった表に出すことの出来ない深い悩みを抱えている人々、「心で泣いて、顔で笑っている」ような人々は「幸せ」だといえるでしょうか?
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3899416.html

そういった人たちにとって、何が幸せなのか、何が救いなのかは、個々の情況が複雑に絡み合っているのが実情でしょう。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa256116.html

もし、そういった複雑な情況もなく、あらゆる一切の事柄について「人の苦しみに気が付かない人は悩まないで済む」とか「人の苦しみに気が付いても、人が傷つくことに何も感じない」ような方がおられたなら、それは「情」をもたない機械(あるいはゾンビ)になるでしょう。質問者様が「人」だと認識しておられるのであれば、そのように「見える人」とコミュニケーションを取るべきです。そうすれば、疑問の仮説の部分から覆るかも知れません。

※逆説的に言えば、そういったコミュニケーションをとることができないのであれば、人の苦しむのを「気づきたくもない・見たくもない」人だということになります。

そういったコミュニケーションも十分取れているとした上で、後半のBの部分です。
>>>===
人の苦しむのをみて「心病む」(ように見える)人、「それ故に自滅し去る」(ように見える)
===<<<

「人生には悩みはつきもの」です。
と、陳腐なことを言うようですが、どれだけ悩み苦しんだとしても、本来、自殺に結びつくことはありません。

もし、結びつくとするならば、それは「刹那的な」救い・幸せのみが「救い・幸せ」だと勘違いしているからに他ならないでしょう。そういった人々(刹那的にしか判断できない人々)にとって、自殺は一つの「救い・幸せ」かもしれません。
野生動物関連のドキュメンタリー番組で、足を骨折した野生動物がそれ以上苦しんで死ぬことのないように、(可哀想だからこそ、)その場で撃ち殺すというシーンをよく見ますが、まさにそういった情況を思い描いてしまいます。治療するといった選択肢を選択することすらできない、まさに「刹那的な判断しかできない」情況での話です。

冒頭で
>>>---
「心病んで自殺にさえ至る人たち」を、実際にご存じでしょうか?
身近におられたのでしょうか?
---<<<
と問うたのは、まさにそういった背景があります。

さて、人が悩み・苦しむのをみて悩み・苦しむのは人として当然のことです。それが「救い・幸せ」に結びつこうが、結びつくまいが、です。

「救い・幸せ」を「刹那的に」求めているのであれば、そういった他人の悩み・苦しみについては、「見ないようにする・考えないようにする」ことでしょう。
それを「見てしまう・考えてしまう」のは、刹那的な自身の「救われたい・幸せになりたい」といった心情とは別に、「救ってあげたい」といった心情があるからでしょう。「いつかは」(皆で)幸せになりたいといった心情があるにしても、ないにしても、そういったこととは、本来無関係に生じるものだと思います。
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この回答へのお礼

>「心病んで自殺にさえ至る人たち」を、実際にご存じでしょうか?
>身近におられたのでしょうか?

これを聞かれるということは貴方は知らないのですね。

>どれだけ悩み苦しんだとしても、本来、自殺に結びつくことはありません。

ああ、以前は私もそう思っていました。健康ならばそうですね。
私が思う「救い」とは「どうか生きてるうちに救われて欲しい」です。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/25 02:24

人の苦しみが分かるがゆえに悩み苦しむ人 は、いるのでしょうか、



 自分の苦しみを他者に投影して苦しんでいるのではないでしょうか、

 情けをかけるのは他者のためでなく、自分のため と言いますが、人のためでない、自分のためにかける他者への情けは、「情け」とは言いません。言葉の意味からして矛盾しています。

 この言葉の真の意味は、情けをかけるのは人のためにならないから、情けをかけないほうが良い だと思います。確証を示すことは出来ませんが、限りなく100%に近い確立?で間違いないと、思います。

 これは、無関心から手を出さない ということではなく、その人の苦しみ、悲しみ(と見える事象)をただ正確に観る ということだと思います。
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この回答へのお礼

そのような人を知らないのですね。
誰にでも救いがあればいいのですが。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/25 01:06

こんにちわ。

12番です。
ご返信ありがとうございます。
ズレた回答をしてしまったようで
申し訳ありません。


問題は

☆人の苦しみのために己が苦しみ悩む、ということが
良いことか悪いことか、とか、
どうしたらそれをやめることができるか、とか、
そういうことではなく、

☆人の苦しみのために苦しみ悩んでしまう人がいる
というのは不可抗力的な事実で、どうすることもできず、
その人たちに救いはあるのか、
ということでしたね。



今回は、
誰かの苦しみ(A)を分かってしまうための苦しみ(B)、
について、に限定して考えてみます。


苦しみ(B)は、たとえ苦しみ(A)に起因するとしても、
やはり自分自身が拾った苦しみです。

ですから苦しみ(B)は基本的には自分で抱えるものです。
自分で抱えながら、生きていくしかないです。

この状態はとにかく苦しいですから
「救われる」ということを想像しにくいかもしれませんね。

しかし「救われない」ということではないですよ。
自分には自分の「生きている」があるのですから。

自分には自分の「生きている」がある、
そのこと自体が「救われている」ということです。

また、苦しみ(B)は、抱えられる分だけ抱えればよく、
「>心病む者、自滅し去る者」になる前に、
抱えきれないぶんは、安全に垂れ流せばよいのです。
世界には68億人もの人がいますから。
苦しみ(B)に対して、それぐらいの責任は取るべきです。



以下は、余談です。
> 人の苦しみに気が付かない人は
  悩まないで済むので幸せなのですか?
:もしかしたら、人の苦しみに気づくことができないほど、
自分の悩みや苦痛、つまり自分の「生きている」に必死で、
その人たちも救いを求めつつ、
その中で仕合せを拾い集めているのかもしれず、
悩みや苦痛がまるでないというわけではないのかもしれず、
しかしそんな自分の「生きている」というのを
仕合せに思っているのか、といえば、そうなのかもしれません。


あと、苦しみ(A)、苦しみ(B)について、
具体例を示していただけるともう少し回答しやすいと思います。
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この回答へのお礼

「人の苦しみのためにどのように考え、行動すべきか」
ということに対してなら”抱えられる分だけ抱えればよく”の部分、その通りだと思います。
しかし、
「人の苦しみが分かるがゆえに苦しい」という感情は選べません。

後から分かったのですがこれを「エンパシー」と呼んだりするらしいです。
再度の回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/25 01:01

 No.7です。



 Life-11 さん みなさんがちゃんと答えてくださっているのではないですか? 
 大きくいえば 救われると救われないとに分かれますが それぞれその考えを述べてくれているのではないですか?

 わたしの場合をあらためて述べます。
 ★★ (No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
  ★ 報われずに終わったなら どうなるのか?
 :という問題なら共感します。
 たとえ何もないとしても引き受けつづけて解決に向かう。
 そうであって欲しいと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これでひとつの回答になるのではないでしょうか?
 たしかに
 ★★ 質問の乱雑さもあって、本題からは外れましたが
 ☆ というご認識のようですが どうもほかの方々とのやり取りを見ても 《本題から外れ》てはいないように思うのですが?

 ★★ (No.7補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ごめんなさい。

  ★ 報われずに終わったなら どうなるのか?
 :ではなく、
 「分かる」ことで苦しみを知ってしまった人の苦しみは どうなるか?です。
 その後の判断や解決能力や結果ではありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから
 ★★ 「分かる」ことで苦しみを知ってしまった人の苦しみは どうなるか?
 ☆ に関しましては 次の(1)を添えたいと思います。
 (1) 報いられれば それなりに自己同一性についての確信が深まります。自信がつきます。
 ・ まぁ 自己満足に過ぎないと言う向きもあるでしょうが それほど耳を傾けなくてもいいでしょう。問題は 主観ですから。
 ・ 報いられるというのは 《「分かる」ことで苦しみを知ってしまった人の苦しみ》について分かるという人が現われる場合や あるいは その苦しみを抱えていた人がそれから解放された場合などです。
 (2) 報いられなかった場合には
 ○ ★ 報われずに終わったなら どうなるのか?
 ☆ に答えたわたしの回答につづきます。

 さらにあるいは 
 ★ 「分かる」ことで苦しみを知ってしまった人の苦しみ
 ☆ はその後というよりは その現在において相手の人も自分もその苦しみから解放されるという潜在性があるので 必ずしも《苦しみ》であるばかりではなく むしろ こう言ってよければ 楽しみでもあるかも知れません。

 こういう問題ではないのですか?
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この回答へのお礼

本題は表題の質問文、
人の苦しみが分かるがゆえに悩み苦しむ人たちへの救いはあるのですか?
それだけです。

人の苦しみのためにどのように考え、行動すべきかではありません。
人の苦しみが分かるがゆえに悩み苦しむ人たちへの救いです。
再度の回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/25 00:57

こんばんわ。



>救いはあるのですか?
:ありますよ。
救われる方法は、
「俺の苦しみを分かってくれ。
 分かるなら俺のために苦しみ悩んでくれ。」

と、あなたが思わないことです。


人の苦しみを想像することができるというのは
人間が持っているすばらしい能力のひとつです。
これができないと社会生活を送ることができません。
しかし、
あなたはその苦しんでいる当事者にはなれませんから、
いくらあなたが悩み苦しんだとしても、
苦しんでいる当事者の苦しみを処理することはできません。
自分の感情とともに生きるのは自分しかいませんから。
それにもかかわらず、
相手の苦しみについて悩み苦しむのは、
傲慢であり、相手に対して失礼です。

>人の身を案じるがゆえに心病む者、自滅し去る者は
:案じているつもりでいて、実はその人に依存している人です。
共依存とでもいいましょうか。
人の身を案じることで自分の価値を見出そうとする人、
そういう人がいることによって、自分に責任を取らなくなる人、
結果、人の身を案じる人は、
本来自分が取るべきではない責任を取っているうちに
自分のことに責任が取れなくなり「>自滅し去る者」になります。

>救いはあるのですか?
:ありますよ。
あなたは苦しんでいる相手と自分との境界が
なくなりかけていませんか。
ここまでは、相手が自分でするべきことだと知り、
(たとえば自分の感情を抱えるとか)
あなたはもっとあなたのお世話をすることです。
その上で、
相手の苦しみを想像できることを相手に伝え、
何かできることがあればする、
そこまでが他人にできることの限界であると知ることです。

この回答への補足

よく伝わらなかったところがあるなら申し訳なく思います。

人の苦しみが分かるがゆえに悩み苦しむ ”人たち” への救いを聞いています。
聞きたいのは「分かる」こと。
「分かる」ことは苦しいことなのか?ではその救いは?それだけです。

補足日時:2009/09/20 11:28
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#8です。



>「人の苦しみが分かるがゆえに苦しい」という気持ちは普通は理解されないものなのでしょうか?
:一般的には、よく理解されるものだろうとうと思います。
しかし、理解できたからといって、何をどうするということとはまた別の問題です。

>「分かる」ことで苦しみを知ってしまった人への救いは?と問うています。
:先のように自己分析することによって苦しみの本質を知ることが、自らを救うひとつの道ではないか、ということを述べたつもりです。
自分の心や感情の問題は自分で解決するしかありません。

>悩むかどうか、行動するかどうかを決めるような「本人の勝手」は問うていません。
:「本人の勝手ではない」と否定されるわけですか?
その根拠がもしございましたら教えてください。
相手から頼まれたので悩み苦しむわけではないのでしょう?

>問題解決方法や能力は問うていません。
そもそも初めから人にはどうすることもできない苦しみかもしれない。
でも、深い悲しみを感じてしまう人がいる。
感じてしまった苦しみや悲しみはどうしたらいいのか?
:矛盾してますよ。
「>初めから人にはどうすることもできない苦しみかもしれない」のであれば、
なぜ、「感じてしまった苦しみや悲しみはどうしたらいいのか?」
と問うのでしょうか。
問う以上、
『「>初めから人にはどうすることもできない苦しみかもしれない」
が、もしかして、どうにかすることができるかもしれず、あれば、その方法を知りたい』
ということになりませんかね。
何のために質問されたのでしょうか?
繰り返しになりますが、その苦しみや悩みの本質を分析し、冷静に判断することによって初めて自分で自分を救うことができる、ということです。

蛇足ですが、思い切った気分転換が効を奏する場合もよくあります。
 
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この回答へのお礼

誤解させたのなら申し訳ありません。
「人の苦しみが分かるがゆえに苦しい」という気持ちは普通は理解されないものなのでしょうか?
とは質問ではありません。

知ってしまった人がその後どうするかという問題ならhakobuluさんの言われるような
考えで冷静に自己分析できたらいいだろうと思います。
再度の回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/25 00:53

はじめまして、お役に立てればと思い、筆を取らせていただきました。



> その上、問題解決能力も持たないために、人のために苦しみ絶望してしまう人はただ愚かなのですか?

 ある善意ある行動をして、その結果、自分の無能さを痛感させられるというのは、極一般的なことかと思っております。

> では、
人の苦しみに気が付かない人は悩まないで済むので幸せなのですか?
人の苦しみに気が付いても、人が傷つくことに何も感じない人は悩みにならないので幸せなのですか?

 おそらく、ただ“退屈”の棺の中で、 “感動”という言葉とは無縁な生活を送ってらっしゃるかと思っています。

> 人の身を案じるがゆえに心病む者、自滅し去る者は人の苦しみが分かる人ばかりなのはなぜなのですか?

 人の苦しみが分かる → 相手に自己投影させてしまう → 従いまして、相手の身を案じるようになる。 と考えております。つまり、人の苦しみが分かるから、そうなるのだと考えております。

> 『情けは人の為ならず 巡り巡って己が為』とは言いますが、人のためにただ悩み傷つき、或いは心病んで自殺にさえ至る人たちへの救いはあるのですか?

(1)反省 (ご質問者様の気分を害するものでしたならば、深くお詫び申し上げます)
 もし、自分ひとりのみで、相手の苦しみを解放できると考えることは、少し、欲張りな希望かと思っております。少し“傲慢”なもします。(冷酷非情な)愚生も助けたいと思い、手を差し伸べることも時折ございます。ですが、自分ひとりで十分可能とは考えてはおりません。自分ひとりで完全にやってしまえるという考えは、むしろ”傲慢“として、自分に言い聞かせている次第でございます。自分とはほんのちっぽけな人間だと思っていますから。ですが、やれるだけのことはしようと思いますし、またその経験もあったかと記憶しております。

(2)“死”を見つめ、またその選択肢も一応考慮に入れておく
 仮に、永遠に生きざるをえない としまいますと、かえって“生き地獄”ではないかと考えております。従いまして、 “逃げ”になるかもしれませんが、この選択肢は、ある意味自分に余裕をもたせるためにも、考慮に入れております(たとえ、自分ひとりの命が消えても、世の中が変わるというような大物ではございませんから)。

(3)こういった場を活用する
 愚生も一人ぼっちでいろいろと、うだつの上がらないことを考えてきました。ですが、こういったコミュニティーを利用し、いろいろな人達と“対話”をし、(理由はわからないのですが)気分的には楽になってきたことは紛れもない事実でございます。
 従いまして、さらに「ご質問」、「ご回答」なるものを、積極的に活用してみてはいかがでしょうか。何らかの“希望”は見えてくるものと信じております。

 ご参考になれば、幸いでございます。
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この回答へのお礼

私も自分にできることはしたいとは思うのですが、できることなどほとんどありません。
しかし心の苦しみとは忘れようとして忘れられるものでもないようです。

やはり私の理解では答えなど得られない問いだったのかもしれません。
せっかく回答いただいたのに考えさせられるばかりです。
考えさせられる言葉には感謝しています。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/25 00:38

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