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 時空。
 好きな言葉です。
 ちょっと前は「愛」なんて、いいなと思っていましたが、今は「時空」
 アムロナミエも、時空を超えてぇ~~なんてかっこよく歌ってますし。ちなみに曲のタイトルは「ドクター」。(よろしく)

 その時空に関係する疑問です。
 宇宙が存在するということは、時と共に、ということだと思います。時の経過で存在を現象させる、と。

 その宇宙の中で、物体は‘移動’あるいは‘変化’します。
 ここは‘移動’で、考えてみることにします。

 物体が空間を移動する現象には、時間と距離が伴います。
 ちょっと難しい問題なので、距離は脇へ置いといて、時間のみ取り上げて考えます。

 宇宙の中での移動という現象に付きまとう時間は、比較するもの(静止しているものとか)をよりどころにして、速度というものを割り出しました。

 そのことと、存在する(時の流れに依存して)という時間?との関係はどうなっているのでしょうか。

 あまり適当ではないかと思う例えですが、動く電車(存在する宇宙)の中で動く物体、を想像してみてください。

 また、比較するものがあるから速度というものも考えられますが、宇宙が存在するための‘時の流れ’には比較するものがないので、速度は計れないのではないか。

 こうした疑問について、教えを請いたいと思います。あるいは感想でも。

 よろしくお願いいたします。

 

A 回答 (38件中21~30件)

> 宇宙が存在するということは、時と共に、ということだと思います。

 時の経過で存在を現象させる、と。

宇宙の存在にしろ「人間は存在というものに何らかの価値を与える」のですよね。
人間にとって存在だけでなく、現象や歴史や距離にも価値があり、価値
なるものを投影して宇宙にもつけますが、宇宙は人類の有無に関わらず
あるがまま広がっているものだと思います。

価値も概念で、神、意味、思想、国家、芸術、法則・・・等も抽象概念に
入り、人類と共に現象し忽然と現れるのですけれども。

この回答への補足

 この回答は、私の「宇宙が存在するということは、時と共に、ということだと思います。時の経過で存在を現象させる、と」という意見に、同感ということなのでしょうか。
 それとも、単なる精神活動によるもので、確実性のあるものではない、不確かなものである、と云った様なことを言おうとしているのでしょうか。

 よろしくお願いいたします。

補足日時:2009/10/15 20:32
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この回答へのお礼

 宇宙の存在はあるがまま。

 そこに忽然と人類が現れ、その宇宙に何らかの価値を見出そうと、東奔西走、四苦八苦、そして迷走し始め、

 ああ、この地球はどうなっていくのでしょうか。

 ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/18 09:16

再び#2です。



>だが、20世紀になると、量子力学におけるコペンハーゲン解釈によって決定論は否定された。宇宙は原子下のレベル、量子レベルであまねく確率的であるとされたのである。

とおっしゃて居る方がおりますが、#2の「蛇足」の欄も参照して下さい。ハイゼンベルグ方程式は物理量(演算子)に関する決定論的な微分方程式であり、不確定性関係は、物理量が単なる数ではなく一般には交換可能でない演算子で在ることを表現しているだけです。物理量が非決定論的な確率変数であることを表現しているわけでは在りません。物理学の基本法則に関する決定論的な性格に関するキーワードは、シュレーディンガー方程式の波動関数も、ハイゼンベルグ方程式の物理量(オブザーバブル)も共に確率変数ではないと言うことです。従って、量子力学と言えども、前者は決定論的な偏微分方程式、後者は決定論的な常微分方程式であり、例えばランジュバン方程式(やそれに対応するフォッカープランク方程式)などのように確率過程を表す非決定論的な確率微分方程式(ストカスティック方程式)では在りません。

ときどき物理学の教科書で、この関係式に関して誤解した記述が在るようです。確かに、座標と運動量にはハイゼンベルグの交換関係式があり、したがって不確定性関係が成り立っておりますが、量子力学では時間に対応する演算子が存在しないため、時間とエネルギーの間の交換関係式が存在せず、その結果、ハイゼンベルグの不確定性原理はこれらの亮の間には存在していません。ところが、ほとんどの教科書では、そのことに触れずに、時間とエネルギーの間の不確定性関係に触れております。物理学の教科書と言えども、誤解に基づいた記述をたまに見かけますので、要注意です。

さらに、物理学の基本法則の中での時間の反転に対する対称性と、この宇宙で起こる現象の時間反転に関する非対称性の間の矛盾は、100年以上前にボルツマンによって気付かれて以降、未だに未解決の問題であり、それに関連した量子力学の基本方程式の決定論的性格とフォンノイマンの観測の理論によるコペンハーゲン派の解釈の定式化の関係はまだ未解決の問題です。アインシュタインの時空による記述は、時間の向きの反転に関して対称的な所謂可積分系でも物理現象に限って定式化されており、そこでの「時間」は時空という静的幾何学的な意味でのパラメータでしかありません。この宇宙で圧倒的に多数を占め、次々と新しい事象が創造されて来る非可積分系での、確率過程としての動的な「時間」に関しては何も触れては居りません。従って、時間の対称性の破れまで含めた「時間」が何を意味するのかは、物理学者達の間で未だに論争の対象になっている大問題なのです。もちろん、その場合の相対論的な取り扱いに関しては、大変未熟な段階です。

この回答への補足

 今、頭が疲れちゃっています。

補足日時:2009/10/16 08:32
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この回答へのお礼

 回答No.15、「コペンハーゲンにおける・・・」はK_kjinenさんの私見、いや違った、意見ではないように受け止めていますが。(なんとなく)
 残念ながら、この回答を理解できるレベルの知識がありません。
 でも、貴重なご意見。心に留めて、いずれ感想が書けるよう、勉強に励みたいと思います。
 回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/16 21:57

ボクはこの程度、小学生時代には理解していましたが?(キリッ




という人は、既に小学生じゃないと思うんです。
それはさておき以下、あくまで余談。補足としてのおまけです。




1)光は物ではない、質量がゼロ、について。

光は物ではないですが、物としての性質も持ちます。そして波としての性質も持つんです。
光が波の場合に説明できる現象(干渉)と、光が粒子の場合に説明できる現象
(物に光を当てると、ビリヤードの玉のように電子が飛び出す)というやつが
世の中にはありまして、長らくどっちかを決めかねていたんですが、
これに矛盾をきたさない解答はつまり、二つ結果があるのだから、
光は波でもあり粒子でもある。としたんです。

また、相対性理論はエネルギーと質量が同じ(価値を持つ)ものと
いうことを示しています。質量がゼロであるというのはエネルギーの状態を取っている。
つまり物質は光であったり、一般的な意味での"物"とは別の形態になりうるいうことを
示しているんです。さらに、物質そのものも、波であり粒子(雲)である可能性を示した
学説"量子論"もあります。




結局のところ、物質や質量とはなんなのか?というのは、もっともらしい仮説は
あるものの断定はされていないんです。証明が難しいですし、何より(夢の無い話ですが)
実験に金がかかる。そこで現在の物理学は、机上でその在り方を問う、哲学ジャンルで言えば、
形而上学と呼べるものになっています。もちろん、それに価値が無いというわけでは
無いですが、物理に"あいまいさの排除"を求めて日本の大学に行くと、
大体量子論のレポートあたりで、なんとなくがっかりしてしまうことも在るような無いような。



一ついえるのは、物理も神聖不可侵の完成された論理ではないよということです。
ただ、その矛盾をきたさないように物を考えるというステップの一つ一つが
"物を計る"ことに特化した思考(あるいは思想)ではあると思うのです。

(その点に限れば、矛盾をほっとく政治学や経済学、歴史学・心理学、一部の法学なんて
かなりひどいよ?・・・・といらんことを言うと、また別の向きに色々怒られそう
ですが。)






2)ボールによる思考実験で、外から見る人が同時に飛んだと見えるための時間差

実は数式を書いてしまうと、さらにわけのわからん呪文ぽくなってしまうので
なるべく避けているんですが、いちおう補足として。
結局のところ、それは観測者と対象の時間のズレになるので、
説明に良く使われる別の仮定をします。


光を上から下に出す装置を積んだ船が速度vで移動したとします。
ここで、船の内部の観測者から見て1秒後、外部の止まっている観測者から見て
T秒後に装置の光が下面に到達したとすると、
(厳密な言葉遣いとか、そもそも光速1秒の装置って高さ30万kmなの?とかは置いといて)


三平方の定理より

外部から見た光の軌跡の2乗=
船の移動距離の2乗+装置内の光の移動距離の2乗


(cT)^2=(vT)^2+c^2 ∴T=1/√{1-(v/c)^2}

こんな感じです。空間のゆがみの方は、言葉を置き換えて考えれば
その逆数になります。




3)ほんとに光の速度って変わらないの?
一番精度が高いとされる実験は1964年とわりと最近なんですが、
加速器でどんどん加速させてほぼ光速の陽子をベリリウムという原子にぶつけます。
するとパイ中間子という中身の一つが、やはりほぼ光速で飛び出します。

さて、このパイ中間子。とても不安定なのですぐ壊れちゃうんです。
壊れた後何になるかというと、光に換わってしまいます。

つまり、ほぼ光速の物質から光が飛び出すことになるんです。
この光の速度を計ってみたら、やはり光速であったということです。


え?原子がわからん?中間子って何?
そりゃ中学生になったら習うんじゃないでしょうか。
結論としては、無茶振りを回答しちゃったら、あんまり面白くならないよね?ということです。

この回答への補足

 読みながらイメージするのがたいへんです。
 もちろん私の頭の具合が悪いので。

 目下、勉強中なのは、このあたりのようです。
 ごく浅いレベルで。

補足日時:2009/10/16 08:28
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連続の投稿、お許し下さい。



「時空連続体」として仮定された場合の宇宙観、「いつでも・どこでも同じ法則が成り立つ」として仮定された場合の宇宙観、何もないように見える真空の宇宙空間にも、あまねく適応されるべきと考えられている物理学の基本法則としての「ネーターの定理」。。。

これら理論は、「無矛盾・論理的」といった「知的思索」としての物事の一方向からの視点でしかないのです。

もし、そのことに対して、矛盾するような思索が求められる場合、「どちらかが、正しく、どちらかが、誤っている」と考える(一方を排除する)のも一つの方法ですが、「どちらも、正しい」と考える(両方を受け入れる)のも一つの方法です。

別の質問「物質転送機に置ける生死について質問です。」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5350017.html
にて、私は、「アドバイス」として上記「時空連続体の仮説」に則った場合の「物質転送装置の不可能性」について、述べています。よろしければ、そちらもご覧下さい。

科学の視点からみた「存在」概念を徹底的に掘り下げることで、哲学的な「存在」概念が、より広がりを持つかもしれませんし、そうでないかもしれません。広がりを持つとすれば、おそらく、受動的な「既知」(知)のみを理解するだけではなく、主体的・能動的に何かを「しようとしている」(愛そうとしている)のでしょうから、まさに哲学の範疇になろうかと思います。

この回答への補足

 「ネーターの定理」も参考URLももう一度ゆっくりと見ます。

補足日時:2009/10/16 08:15
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>>> No.13の補足欄


 このような視点にたった意見は他にもあるのでしょうか。
 また、西洋の科学者はこうしたことを意識しているのでしょうか。
<<<
ありますし、意識もしておられる方がいます。

まず、第1に
哲学は広義には物理学をも含みます。
現在は専門分野として分かれてしまっていますが、本来なら、このカテでは「思索・思想一般を含む」いかなる質問も可であるべきです。そのような知識を排除することは、哲学の「知を愛する」に反することになるでしょう。言い換えるなら、「思想の話ではないので、、、」ではなく、まさに「思想の話」なのです。

次に
物理学も、現在は非決定論です。厳密には非決定論というより確率的な世界ですが、早い話、量子力学や不確定性原理レベルでの話になります。

>>> 決定論:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%BA%E5%AE%9A% …
科学の領域においては、近代になると(道徳的な次元の問題としてではなくて)人間を含めた物質を粒子の集まりとしてとらえ、その挙動によって粒子の未来の位置は決定されていると考え、結局人間の意志や思考を含めて絶対的に未来が確定されている、と見なしたり主張したりする者が現れるようになった。(→機械論、ラプラスの悪魔) (この考え方に関連させて、道徳的なレベルでも人間にはそもそも選択の余地などなく人間の意志の結果も決定論的である、とする論法や世界観も現れた。)

だが、20世紀になると、量子力学におけるコペンハーゲン解釈によって決定論は否定された。宇宙は原子下のレベル、量子レベルであまねく確率的であるとされたのである。

現在ではコペンハーゲン解釈に加えて多世界解釈や、それに類する見方も存在し、意見が統一されているわけではない。
<<<

上記考え方を含め、参考図書として、啓蒙書レベル(高校生のレベルで読むことのできる本)として
>>>
宇宙に法則はあるのか (単行本)
ジョン・D. バロウ (著), John D. Barrow (原著), 松浦 俊輔 (翻訳)
<<<
などが、あります。

この回答への補足

 簡単な感想ですが、私の頭の中は、物理っぽい思索ではなく、哲学っぽいものでした。

 そこに気づいたら、物理も哲学の範疇に入るということに、なるほどと思いました。

 なんか、私を飛び越えて、回答が発せられ始めたので、ちょとヤバイかも、なんて感じて、そろそろ閉めようかと思いましたが、新たな回答をいただいたので、補足質問してしまいました。

補足日時:2009/10/15 21:06
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この回答へのお礼

 紛らわしいことをしてしまいました。
 ここの補足欄は、他の回答者へ補足質問してしまったということです。
 K_jinenさんへは次の解答欄へ、感想を書きます。
 よろしくお願いいたします。

 

お礼日時:2009/10/16 07:54

#2です。

補足質問にお答えします。

>思想の話ではないので、、、

哲学欄に質問を出しておきながら、哲学を語るなとは、なかなか面白いことを言うお方ですね。

物質を扱う物理学と言えども、それを語る方が埋め込まれている文化の影響を受けずに語ることは出来ません。そもそも自然科学に限らずあらゆる人間の営みは、合理性を追求して来ました。合理性から反対の極みにいるように見える占いでも、いろいろな理屈を付けて、占いをする方もされる方も自分自身を納得させようと努力しております。そのことに関しては、科学だけが特別に際立っているわけでは在りません。ただ、その合理性の解釈が違うだけです。そして、その違いはその人の世界観に因っているのです。

中国の文明も、エジプトやインドの文明も、南米の文明も、あれだけ巨大で緻密な建造物を作り上げることが出来たのに、なぜ西欧だけが物理学を生み出すことが出来たのでしょうか。あれだけの建造物は、合理的な論理と知識体系の裏付けがなくては決して出来るはずが在りません。この西洋の特殊性を理解するのに、私が#2のところで述べたユダヤキリスト教の一神教的世界観がキーワードに成っているのです。

西欧以外の文化や文明では、世界を合理的に把握する方法として、「百科事典式把握法」を採用して来ました。この方法は、我々の取り巻く世界の事象を合理的に観察して、それで得た知識を効率良く体系化し、出来るだけ使い易い事典にまとめあげる方法です。この方法を今風に表現すると、「工学的な方法」ということが出来ます。だから、橋を作りたかったら、工学者のように、その知識体系の「橋」の項を参照しながら作ると、あのような立派な橋が出来たのです。

一方、西欧ではこの世界の理解に対して、大変神懸かった方法を提案して来たのです。そもそも物理学はキリスト教会の僧侶達による天体の運動の興味から生まれて来たことを忘れては成りません。彼らにとって興味があったのは、神の座である天空の中に、神によって作られたシナリオを見出すことでした。彼らには、個々の事象の中に在る論理的な整合性よりももっと大事なものとして、それらをその裏で統一している神のシナリオとしての「法=Laws」なる物が存在しているはずだと言う、大変神懸かった独断を持ったのです。西洋人は物理学の「法則」を「Laws」と言いますが、これはLaw schoolという言葉でも分かりますように、本来は「法律」という意味です。我々に取って不思議なことに、物理学を作った西洋人達は、自然は法律に従っているはずだと思ったのです。「Laws」という言葉に「法則」という言葉を当てはめたのは、江戸時代末期の日本人であることをお忘れなく。西洋人に取っては、人間界も自然界も神が創り給うたのですから、その神のお書きになった「法律」があることに何の疑問もないのですが、貴方は「自然の法律」や「物理学の法律」の存在を信じられますか?少なくとも、江戸時代末期の日本人にはそんなことは信じられなかったので、「Law」という言葉に、西洋では存在しない「法則」という意味を新たに付け加えて、何とか西洋人の物の見方を理解しようと努力したわけですね。お隣の中国人も日本人と同じ考え方のようで、「物理学の法律」とは言わず、この場合西洋人が同じ一言「Law」で表していることを、わざわざ「定律」という別の言葉に置き換えているそうです。従って、 「Laws of Nature」や「自然の法則」という一言を分析しただけで、日本人の見る自然と西洋人の見る自然が全然違うもので在り、決して同じ物を見てはいないと言うことが判りますね。

この事実からも、一見、我々の文化に無関係に物質の世界を客観的かつ合理的に描こうと努力しているように見える物理学でも、それを論じる方がどういう文化の中で成長して来たかに決定的に影響を受けていることがお判りでしょう。事実、日本で物理学をやる方にはそれを工学的に発想する方がいっぱい居ります。過言すれば、ほとんどと言って良いくらいです。工学では、観測に基づいてこれはどう見ても正しいと考えられる実験事実があれば、それで善しとします。そしてその経験的事実の積み重ねの上に、物を作り上げようとします。まさに、優れた百科事典的な発想です。

ところが、西洋の物理学では、そのような実験事実の積み重ねだけでは満足せず、それを工学者のように上へではなく下に掘り下げて、その実験事実の裏にある統一原理としての、「法」を見つけ出そうという所に力点が置かれております。極端に言えば、工学者に取っては、人に役に立つ機械が出来れば良いのであって、その機械が動く理由をこの宇宙の統一原理にまで立ち戻って説明することには、興味がありません。

そもそも、この宇宙には果たして統一原理なる物があるのか。そのことを証明した人はまだ誰も居りません。ところが、物理学者達はこのいまだに証明されていないものの存在を信じて、何とか宇宙を第一原理から統一的に理解したいという夢を描いている、言わば「物理教」の信者達なのです。

#2でも書きましたが、今までのところ西洋人達によって創られて来た物理学の基本法則は全て、数学で言う「常微分方程式」や「偏微分方程式」で表されています。小学生には微分方程式の理解は無理ですが、そのことから出てくる最も大切な帰結は、「今の状態が決まってしまうと、それ以前もそれ以降も全てが完全に決まってしまう」と言うことです。従って、今現在に全未来の情報が全て存在していることを主張しているのです。今回貴方がこの質問を投稿したのも、実はビッグバンの時に既に決まっていたという主張です。この場合「時間」とは単なる幾何学的なパラメータであり、時間の流れは何も新しい情報を齎さないと言うことを主張しているのです。このような宇宙はまさに神の目から見た宇宙の味方ですね。ただし、もちろん神は一柱だけです。もし、二柱以上の神が居られたら、次に何が起こるかを決めるのに神々の間で喧嘩が起こってしまいますから。貴方は、この宇宙がそのように、一神教的決定論的に出来ていると言われて、納得しますか?それとも、次に何がおこるかなまだ決まっていない、従って、未来は存在せず、我々が創り出すものであると言う、多神教的非決定論的に出来ていると思いますか?どちらですか?

このように、物理学が「時間」や「存在」を語る場合には、その背景として、それを語る人がどの文化に属しているのかを抜きにして語るわけにはいかないことがお判りでしょうか。

貴方は、この世界を理解するのに、第一原理から出発して統一的に理解出来なくては気持ちが悪いですか。それとも、工学者のように、否定し難い実験事実や観測事実から出発して現象が説明出来れば、何も統一原理にまで立ち戻らなくても満足出来る方ですか。もし、気持ち悪いなら貴方も物理教の信者です。

この回答への補足

 携帯ではお昼ごろに、cyototuさんの回答を拝見していたのですが・・・やっとパソコンの前に座ることが出来ました。
 「哲学欄に質問を出しておきながら、哲学を語るなとは、なかなか面白いことを言うお方ですね」
 このコメントに、今日一日反省しまくりでした。
 bqananasandさんにも、この点を指摘されています。
 哲学カテを利用しなれているのでつい安易に、ここで質問してしまいましたが、自分の質問を確認しても、物理学のカテで質問すべきであったと思っています。
 そのことに気づかず“思想の話ではないので”などと生意気に言ったのは、私のうぬぼれ心の表れです。さしたる知識もないのに。
 そんな私なので、他の質問に回答くださった方々にも不快な思いをさせています。
 mmkyさんとか。みなさんごめんなさい。bananasandさんも。
 私のうぬぼれ心がこうした生意気な発言になりました。
 ろくに知識があるわけでもないのに。
 ですが、今回の回答はとても新鮮に思えます。
 このような視点にたった意見は他にもあるのでしょうか。
 また、西洋の科学者はこうしたことを意識しているのでしょうか。
 まだ流し読みなので、後ほどじっくりと読み込んでみようと思います。
 私の頭が理解できるなんて思っていませんが、トライします。
 思わぬ失敗から、宝物を見つけた気がしています。
 こう言うのを何て言うんでしたっけ。

 

補足日時:2009/10/14 21:51
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この回答へのお礼

 ゆっくりと読んでみたら、私でも多少分かるようなやさしい文でした。
 内容は非常に深いもののようですが、どの程度深いのか分かる頭でないのが、残念。
 そんな私の頭に浮かんだのは、東洋の「百科辞典式把握法」が「職人的把握法」言い換えられるのではないかというものです。
 西洋は「学者的」というんでしょうか。

 また、西洋の発想姿勢が一神教的だとしても、それによる弊害は今のところないように思っています。
 これだけ科学を発達させてきたのですから。(環境問題に結び付けなければ)

 回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/16 07:28

No.1 & 6です。

。。

相対性理論の本を読み始めておられるということですので、時間の概念と光速の概念との二つの基準(視点)について、思索が深まっていくことと存じ上げます。

さて、
>>>

 我々が使っている時間は、宇宙の存在足らしめる、‘時の流れ’を計測していることになるのですよね。

 あくまでも‘時間’であって速さではない。

 速さは、物が移動する時間と長さ(距離)によって表す。
 速さは、物が変化した状態とそれに要した時間によって表す。

 存在という現象は変化は無くてもあり得るとすれば、速さは求められない。
<<<
ですが、下記が参考になるかも知れませんので、いろいろと考えてください。

時間の概念は変化の概念であり、基準は様々に取り得るのですが、規則正しく変化する(振動する)ものであれば、物差し代わりになるのでありがたかったわけです。そういう意味で、現行、原子レベルでの振動数を基準にしているわけです。
>>> 秒: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%92
セシウム133(133Cs)の原子の基底状態の2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の91億9263万1770倍に等しい時間
<<<
分かりやすく言い換えれば、「セシウム133という原子が規則正しく振動しており、その振動が91億9263万1770回生じたとき1秒とする。」ということです。

速度の概念は距離と時間の概念から考えることができますが、実のところ距離の概念については、紆余曲折の変化があります。

長さの単位:m(メートル)は、もともと地球の地球の北極から赤道までの子午線の長さの1,000万分の1 を基準として考案されたものですので、一周が(ほぼ)4万km(キロメートル)です。地球を単位にした場合、光は1秒間に約7周半回ります。4万kmx7.5周=30万kmとなり、光速が約30万km/秒であることが分かります。
現在では、時間と光速(速度)を基準にして、(逆の方向に)定義されています。
>>> メートル:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%BC% …
1メートルは、現在は1秒の299 792 458分の1の時間(約3億分の1秒)に光が真空中を伝わる距離として定義されている。言い換えると、1光秒の299 792 458分の1である。
<<<
1光秒とか1光年とかいった単位は、それぞれ光が1秒間に進む距離、光が1年で進む距離を意味しています。

時間と距離の概念は非常に理解しやすいものであり、通常、速度の概念は、両者を理解した後で分かるものです。しかしながら、様々な「存在」について、いろいろと比較しながら測りはじめたとき、時間と距離を基準にするのではなく、時間と速度(光速)を基準にしたほうが良いということが分かってきたということです。(相対性理論と関連します)
言い換えれば、振動(変化)と振動(変化)の伝わる速度の二つを基準にしているわけです。

「変化が全くない」とき、その内部では、(思考も変化なので)思考すらできないため、時間が止まっていることすら分からないでしょう。宇宙(時空連続体)の内部では、「変化が全くない」ところはないのです。絶対零度でも、振動は止まりません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B6%E7%82%B9% …
もし仮に、「変化が全くない」部分を考えたとしても、その部分を見ようとした瞬間(いや、たとえ「見なくても」)電磁波(光)は「その部分」を突き抜け、他の部分と同等の変化(振動)をすることになります。もし、仮に「変化が全くない」部分があるとすれば、それは、時空連続体としての宇宙からは、見ることも、さわることも、入ることも、出ることもできないところになるでしょうから、「宇宙の外」といった概念になることでしょう。

もし、宇宙の内部にぽっかりと穴があいたように「変化が全くない部分」が現れたなら、その向こう側からの光(星の光)が遮られて、「見える」かもしれませんが。。。

この回答への補足

 時間と速度を基準にする、ということに就いては相当勉強しなければ解らなそうですね。

 いつも適切な回答を頂きありがたく思っています。

補足日時:2009/10/16 08:04
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>一瞬を永遠と結びつけるのは安易ではないかと思います。

でなければ話が飛躍しているかも。

 飛躍はしていません。人間と光です。
 光が135億光年先の宇宙の果てまで到達するのに、人間にとっては、文字通り永遠の如き135億年が経過しますが、光にしてみれば時計は止まっていますから1秒たりとも経過しないで到達してしまいます。一瞬には永遠があり、永遠も一瞬で過ぎ去ります。光にとって2点間は無限に離れた場合でも常に時間経過無しで到達します。そうすると空間も無限に広い空間さえ点になります。一瞬か永遠か狭か広かは状態次第です。

>また、今現在が一瞬だとしても、その一瞬を一瞬として意識、あるいは実感できるのでしょうか。しているのでしょうか。
>時間の連続性という、性質に依って我々は生き、そして、思うことが可能なのだと、考えてみてください。

 そうだと思いますよ。a一瞬b一瞬c一瞬d一瞬で、d一瞬のときabcをdで覚えているのは人間側であって、そうすることがもちろん可能で、宇宙側にはabcはないと言うことです。

 
 宇宙は広く、永遠・・・宇宙は一瞬の点にすぎない。本当のところは知り得ません。

 話しを元に戻すと、人間が空間と時間をこれ程鮮やかに美しく把握しているのは、人間の個性的作業の賜だと言うことが言いたかったのです。

この回答への補足

 結構頭が混乱してきておりますが、精神界の現象を含んだ考えなのかなと、思えてきました。

 身はここにおきながら、遠い処にいる人の枕元に精神を持っていくということが、修行された人には出来るということのようですし。

 精神世界は、物質の世界とは正反対のようなイメージがあります。

 回答ありがとうございました。

 もう少し考えて見ます。

補足日時:2009/10/14 09:06
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この回答へのお礼

 bananasandさんの使う「光」が物質世界での光でなく、精神界の光を意識してのものであることに、ようやく気づきました。

 それならば、光にとっては物質的時間も距離も関係なくなり、納得の説明です。

 ロマンも感じられます。

 ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/18 08:44

まったくその通り


時間には個別の時間と固定時間があります。
・固定時間は時計です。
・個別時間は静止している物体は時間は0です。
動いている物体は時間が派生します。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3482221.html

この回答への補足

 URLを添えていただきましたが、どの方の回答が参考になるのでしょうか。
 回答No.で教えていただけるとありがたいです。

補足日時:2009/10/14 22:10
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>宇宙は私の存在と関係なく、あるけれど、私の見る宇宙は、私だけのものであって、それが正しい姿かどうか分からない、ということを言っているのでしょうか。



 宇宙は私の存在と関係なく存在しているかは、私は知ることが出来ません。と言っているんですね。
 決して、宇宙は、私がいなければ存在しないと否定しているのではないのです。

 私の前に、オウムがいて「やぁ、おはよう」と言っているとします。
 どうでしょう。私は、「やぁ、おはよう」全体を、今として把握しますよね。

 しかし、宇宙側の実相は、そうではありません。
 「やぁ、おはよう」のちょうど「、」の時を今とするなら、「やぁ」は、過去で既に消失し、どこにも存在しません。
 「おはよう」は、未来で未だに存在していません。そして、「お」「は」「よ」「う」と移りますが、「よ」の時、「お」「は」はもはやありません。
 オウムが「やぁ、おはよう」を言い終えて、「やぁ、おはよう」があるのは宇宙側ではなくて私側ですね。「やぁ、おはよう」を紡ぎ出しているのは私なのです。

 つまり、宇宙側は私が捉えたと同じ様に 今 「やぁ、おはよう」と言っているのではなく、私こそが「やぁ、おはよう」という風に今を把握しているのです。

 
 これは、簡単な音の例ですが、光でも空間でも同じことが言え、非常に細かく分けていくと、宇宙が如何に厚みの無いものであるかが解るのではないでしょうか。


 私が把握している宇宙が私の中に存在していることは、私にとって間違いのない事実ですが、 宇宙が本当に存在しているかどうかは知ることはできません。

 一瞬に永遠があり、永遠は一瞬で過ぎ去るのかも知れません。
 無限に広がる空間も点にすぎず、点には無限に広がる空間があるのかもしれません。

 観る者によるということですね。

アインシュタインの宇宙というのは、光の速度で、時間、距離を定義しているので、はじめから、時間も空間も実体のあるものとて存在させているのです。
その限界内で完全に正しいです。逆にそうでないと成り立たないですね。
物理的に探求するには、過去をはっきりと土俵上に上げないと相撲にならないから仕方が無いのです。

この回答への補足

 なんとなくですが伝えようとしていることは分かるような気がします。
 でも、一瞬を永遠と結びつけるのは安易ではないかと思います。でなければ話が飛躍しているかも。

 だって、オウムの話では、一瞬を今と捉えているのですから。

 私も一瞬の連続が今、現在、を現象させているのではないかと考えたりしています。

 意識しているのは今。過去は去り、未来はまだ、なのですから。

 さらに言い換えを試みたい。

 無限に広がる空間も‘一瞬’に過ぎず、‘一瞬’には無限に広がる空間があるのかもしれない、と。

 また、今現在が一瞬だとしても、その一瞬を一瞬として意識、あるいは実感できるのでしょうか。しているのでしょうか。

 時間の連続性という、性質に依って我々は生き、そして、思うことが可能なのだと、考えてみてください。

 あるひとつの一瞬を捕まえてそこに永遠にぶら下がって、しがみついていることが出来るなら、それこそ過去も未来も知ることは出来ないかもしれませんが。

 相対性理論については、初心者向けの本で勉強中です。

 

補足日時:2009/10/13 22:13
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