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昭和5年11月生まれの人が、昭和20年8月の終戦の時(満14歳)の学年は、何学校何年となるのでしょうか?また翌年の4月の学年はどうなるかも知りたい。
昭和19~21、22年のところ、旧制小学校と中学、国民学校の関係がわかりませんのでよろしく。

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A 回答 (2件)

私は昭和9年生まれですが、その制度の渦中に在学していました。



小学校に入る昭和16年4月から『国民学校』になり、昭和22年3月『国民学校』を卒業しました。

昭和23年から『(新制)小学校』に戻ったので、入学・卒業共に『国民学校』と云うのは、昭和9年生まれ+早生まれだけです。

昭和5年11月生まれの方は、昭和12年4月に「旧制小学校入学」、昭和18年3月『国民学校卒業』となります。

そのまま旧制中学に進学すれば、昭和18年4月旧制中学一年入学で、昭和20年8月時点では旧制中学三年生です。

翌年、昭和21年の4月時点では[国民学校]がまだ[国民学校]のままで、旧制中学もまだ「新制」に切り替わっていませんでした。

>昭和19~21、22年のところ、旧制小学校と中学、国民学校の関係

戦後、学制が変わる昭和22年までの小学校は『国民学校』ですから、[旧制小学校]は昭和16年で無くなった訳です。

~で、私は昭和22年3月『国民学校』を卒業後、戦後初めての昭和22年4月初の『新制中学(633制)』一年になった訳です。


*なお戦前は中学校に進学するコースの他に、高等小学校に2年間だけ行くコースがありました。
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>昭和5年11月生まれの人が、昭和20年8月の終戦の時(満14歳)の学年は、何学校何年となるのでしょうか?


国民学校(小学校)の6年生から旧制の中学に進学していれば中学(旧制)3年です。
>また翌年の4月の学年はどうなるかも知りたい。
及第していれば(落第もあり)、中学4年に進級しています。
>昭和19~21、22年のところ、旧制小学校と中学、国民学校の関係がわかりませんのでよろしく。
この時期は、まだ旧制だったと思います。

小学校6年で中学の受験になります。
不合格のときは、小学校高等科(2年制)があり、高等科1年と2年で再度の中学受験も可能でした。

国民学校は小学校と同じ6年制です。呼び方が違っただけです。
旧制中学は5年制です。女子は同じく5年制ですが、高等女学校と言いました。
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Q今から60年前(昭和16~24ぐらい)の暮らしについて

最近、戦後60年記念類の番組をよく目にします。
今から60年前(昭和16~24ぐらい)の暮らしに興味が出てきました。
その時代と現代を比べれば物質(アイテム)が変わりましたが暮らしそのものは
今も昔も変わらない気がします。
あの当時、庶民より少し上の人達はどんな暮らしをしていたのでしょうか?
車・カメラ・8ミリカメラなど持っていたのでしょうか、後テレビは無いですから
ラジオが主流でしたよね、しかも民放がないのでNHKだけでしたよね
当時のラジオ放送は娯楽性があったのでしょう?(これは戦中と戦後では
違いますが、それぞれの人気番組とか教えてください)
さらに当時の裕福層の三種の神器とはいったいどんな物だったのでしょうか?
また、その時代に発売された商品で今日でも売られている商品はありますか?
後、仕事は週休1日だったのでしょうか?労働時間は?女性の社会進出は?etc
当時の世相がわかる人がいましたら色々教えて頂ければと思います。

Aベストアンサー

 わたしも書き物をするために、おもに親や当時を生きた方々から昔話として聞きながら、このような時代の資料を集めたり考証を重ねていますが、なかなか興味深いものがありますね。

 ひとつ大きく言えることは昭和16年から昭和20年までの太平洋戦争のいわゆる戦時中、そして昭和20年の8月に終戦を迎えてから昭和24年頃まで。このふたつの期間にはおどろくほど違いが見られます。終戦以降についてはもう#1さんからかなり詳しいご回答がありますので、それ以前の戦時中を中心に書いてみます。

 まず昭和16年から昭和20年までの戦時中。真珠湾攻撃で始まった戦争ですが、最初の勢いはともかく年々戦局は厳しいものに。米や麦、塩やタバコなどは配給制、食料はもとより物資がとにかく無くなって窮乏生活。
 ただ、わが家にはダットサンという小型車と人力車がありましたが、車引きの方も運転する人もみんな戦地に。それに、ベビーパールとツァイスイコンという2台のカメラにバーディーという8ミリのセット、それに電蓄というオーディオに沢山のレコードもありました。これらは戦前からあったようですが、終戦間際の空襲で全部焼失してしまったということです。

 ラジオはNHKの第一と第二だけですからほとんど選局しなくてもいいという便利さ?も。番組についてはまだ調べ切っていませんが、ラジヲ体操に落語に講談、浪花節などは人気番組。それらに挟まるように「今日の戦果は米戦艦1隻に巡洋艦4隻」なんて臨時ニュースが入るのも毎日のこと。今考えてみれば毎日そんなに戦果が上がるはずもないウソばっかり。そして空襲警報とともに「和歌山上空に敵B29爆撃機が100機編隊で関西方面に向けて侵入中」などとの軍の発表も。当時の子供の歌としては「お山の杉の子」、この歌知っています。

 当時の食事は、かなり裕福だったわが家でも玄米におかずは一品、それにお味噌汁。派手な服や和装、パーマなどは「非国民」と非難されたとか。よそ行きの高級なお召しをリフォームして作ったモンペと白い割烹着姿で国防婦人会というタスキをかけた祖母の写真も。これ、男性はほとんど戦地に出征していて女性が「銃後を守る」、つまり国土を守るということの現われ。
 宝石や貴金属類はもとより、鉄や銅のものなどはお国のためとなかば強制的に「供出」。当時の三種の神器といえば、氷で冷やす冷蔵庫、ハンドルを回して交換台を呼び出してつないでもらう電話、それにラジオぐらい。とにかく「欲しがりません、勝つまでは」がスローガンの時代でしたから。

 当時からの製品といえば、メンソレータム、花王石鹸、中将湯、ライオン歯磨き、三菱やトンボの鉛筆、ナショナルや東芝、シャープなどのラジオや電気アイロン、扇風機といった家電製品。まだ沢山あります。

 とにかく男性が足りない時代とて、家庭の主婦をはじめ女性が職場に。女子高(旧制)などの若い女性も挺身隊として学業そっちのけで職場や軍需工場、そして農村へ。勤務時間などはあってないようなもの、とにかく働けるだけ働くか、空襲警報で避難の毎日だったとか。そして終戦。。。。。。

 あとは#1さんがお答えの通り。終戦の時点ではたしかに車を持っている人はほとんどなかったと思います。空襲で焼け残った親戚にはカメラも8ミリもあって、まだ幼少の頃にそんな古いものを見せてもらった記憶がありますが。
 「尋ね人」、それに戦災孤児を扱った「鐘の鳴る丘(ラジオドラマ)」なんかはとても象徴的ですね。この時代ではとにかく食料が乏しく、まして甘いものがなかったとか。まるで今の北朝鮮さながら。

 ラジオではそのほか、「三太物語」「えり子とともに」、「大学を出たけれど」などラジオドラマや「日曜娯楽版」などが大人気、これやがてのちの大ヒットドラマとなった「君の名は」につながって行く。#1さんよくご存知ですね。

 当時流行した歌に「一万三千八百円」というのがありましたが、これは当時の平均的サラリーマンの給料の額。
 電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビが三種の神器と言われたのはわが国が戦後の復興期から高度成長期にさしかかった昭和30年のこと。もうこの時代ともなるといろいろな分野で今と同じブランドの製品が出ています。こんな話、好きですが書ききれません。

 わたしも書き物をするために、おもに親や当時を生きた方々から昔話として聞きながら、このような時代の資料を集めたり考証を重ねていますが、なかなか興味深いものがありますね。

 ひとつ大きく言えることは昭和16年から昭和20年までの太平洋戦争のいわゆる戦時中、そして昭和20年の8月に終戦を迎えてから昭和24年頃まで。このふたつの期間にはおどろくほど違いが見られます。終戦以降についてはもう#1さんからかなり詳しいご回答がありますので、それ以前の戦時中を中心に書いてみます。

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