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「敬う=下げずむ」は本質的か?

A 回答 (1件)

多分「対義語」として浮かんでしまう対、ですが、


だからと言って、自ら好き好んで対に扱う必要は無い!と私は考えています。

卑近で個人的かつ独断と偏見に満ち満ちた事を書きます。
お許し下さい。

公立中学は勿論、多くが高校を並立しておりませんので、高校受験の必要があります。
中学の二年に入ると、「中だるみの二年」に先手を打つつもりか、教師の皆様がやたらと受験を持ち出します。
「いいか?来年は受験だぞ?思う高校に行く為には一人でも多く蹴落とさなければならない」だの、って。。。

生意気絶頂期だった当時の私は、その表現が不思議で違和感ありありで、
嫌で嫌でならなかった。
「蹴落とす」って何?
まあ、確かに「自分の合格=他人の不合格」は厳然たる事実でしょうけれど。
他人の足を引っ張って引っ張って引きずり落とす、と言う意識はどうかと。

で、考えた。
私は蹴落としたりしない。
蹴落とされもしない。
蹴落とされない高さ迄登ってやる、って。
登りたい人は皆で一緒に登ろう?って。

厳然と対義語、に位置づけられている事柄も、そう意識する必要は必ずしも無い、と考えたいです。
だから「本質」ではない、と思います。
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