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 《自然に帰れ》!?

 とルウソは言ったとか言わなかったとか。自然に帰るあるいは人間的自然を取り戻す これは 必要で大事なことでしょうか?
 《人間》の社会におけるすがたを次のように捉えて その《自然》の問題を考えます。

 1. われわれ人間は 社会を成して共生するらしいが そもそもどういう存在であって どういう存在の関係をむすび かつその関係の錯綜して過程する総合としてどのようなあり方になっているのか? 
 2. 社会人を スサノヲ市民およびアマテラス公民に分けます。しかも この市民( S )と公民( A )のそれぞれ要素は ひとりの人間に――当然でしょう―― そなわると捉えます。
 3. このような概念装置を持って マルクスを読みます。

 ▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~~~~

  結局のところ 

 ( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ 

 ( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民)

   とは区別された

 ( S ) 人間 homme とみなされる。

 なぜなら 

 ( A ) 政治的人間(* アマテラスのそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し 

 ( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。

 【 S‐A 連関】 《現実の人間》は

 ( S )  利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ 

 【 A‐S 連関】 《真の人間》は

 ( A )  抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス人格語ないし学術概念語)においてはじめて認められるのである。

                  (城塚登訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ここで S:スサノヲと A:アマテラスとの連関のあり方は 次のふたつの形態があり得ます。

  《 S‐A 》連関のかたち=《現実の人間》:

     あやまちうるスサノヲ人間語を基礎としてその土壌の中から――
    あたかもその泥の中から―― アマテラス規範語を磨き上げ そこ
    に花咲かせる人間のすがた。

  《 A‐S 》連関のかたち=《真の人間》:

     簡単に言えば 理性ないしコギトがすべての意志行為を引っ張る
    かたちのアマテラス人格語かつアマテラス学問語にもとづく人間の
    すがた。この人間は 《あやまたない》と言われるようになる。
     つまり無謬性・不可侵の神話を帯びる。

 ☆ たぶん《 〈 S‐A 〉連関のかたち》=《現実の人間》の描像のほうが のぞましいと思うのですが それには 《スサノヲ的自然》を取り戻す必要があると考えられます。どうすればよいでしょう? あるいはすでに回復していましょうか?

A 回答 (18件中11~18件)

むかし、ここで大勢の方と色々の事についてお話したことがありました。

ずいぶん前の事です。
多くの方に対して謝らなければならないことは一つで、それは、HNを複数用いたこと、思弁の性格をいくつも使い分けたことです。語ったことに内心の本当を伝えようとした事実がなかったのではなく、ただその振る舞いに、虚偽をゆるしたのです。そのことについては言い逃れようもなく私は謝罪せねばならないでしょう。皆様にご迷惑をかけたことを深くお詫び申し上げます。ただ、それがなければもっと健全な話もできたでしょうか。私は今、一人しか存在しないのです。
 
bragelonneさんにもご迷惑をおかけしたと存じます。
申し訳ありません。

公性に基づき発話するのが、このような場での良識であり、個の悩みに答えることは本質的には難しい。個的な答えをいうことも難しい。その様な事実に基づいて、公に了知して振舞うのがさとしいのでしょう。
その様な良識を以って、一度皆様とお会いすることなど夢にも見ましたが、それは夢であるでしょう。
丁度、bragelonneさんのお写真にあるような小道を、皆様と歩いて、諸々の真理についてお話したいと言うのもまた、しあわせな夢です。眠っている間に、見ることといたします。

NO7さん。もし、私のほうに何かを申しておられるのであれば、以下ご一読ください。
私は貴方が何者であるか特定することはできませんが、以前、お話したことがもしかすればあるやも知れません。互いに誤認しているかもしれません。しかしながら、私は貴方が嫌いなのではないのです。貴方の、お人柄を配慮することも、自然に対する思いも、人類の総和、乃至私の持てる限りの経験から類推するしか及ばず、真相を知ることは、今現在では難しいのです。申し訳ありません。
またご縁があれば、そのときを楽しみにいたしております。 
以前お話した方でも、新しい方でも、語るときにはまた善き語らいを為しましょう。
以前の、といっても随分前ですが、その方は、まっとうな雰囲気をもたれておられましたよ。それは、自然が云々と言うことではありませんでしたが、言葉のうちに、でしょうか、なにか空気的なものをその様に感じた覚えがあります。

bragelonneさん、スペースお借りして誠に申し訳ございません。

では

 
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この回答へのお礼

 ★ 語ったことに内心の本当を伝えようとした事実がなかったのではなく、ただその振る舞いに、虚偽をゆるしたのです。
 ☆ 《虚偽》はいけないでしょうね。
 宣長によれば 《虚偽をゆるした》のなら そうしようとしたのも《実情》だと言うでしょうね。《本心を伝えようとする》のも 《実情》からなのだと。
 しかも この《実情を――実情すらをも――いつわる》こと いつわって《もののあはれ》に就きたまえと言うのではないかと。

 では この《もののあはれ》という人間的自然〔ないし人間的スサノヲ的真実? ないし共同主観としてのアマテラス公共性?〕とは いかなる現実なりや? と問い求めています。よろしくどうぞ!!

 * No.7の方は わたしの質問への回答者の方々を誹謗中傷によって足蹴にしたので 口を利きません。(わたしへの誹謗中傷は 一応あやまりました)。ですから 口を利かないというより 人間として死んでいると見なしています。よみがえるかどうかは わたしの知ったことではありません。これが 人間の考えるかたちでの無縁慈悲だと思っています。ときが経てば わたしも成長するかも知れません。

お礼日時:2010/04/07 11:35

私は、他の方のご回答も一見の意味ありとおもって拝読させていただきました。


さて、少しデキスギタケシについて補足をしたいのですが、よろしいでしょうか。少し誤解があったかもしれないので。デキスギタケシは、いわば健全な少年像としての意義素を持っているのです。
勉強も、友達と遊ぶから、バリバリじゃない、時にはポカもあるかもしれない。でも肝心なところはおさえている。腕力も、ジャイアンほどじゃないが、サードのキャプテンならばいける口、誰の話もよく聞け、秀才からも凡才からもひねくれものからも信頼されると言う、実に善き人なのです。
所詮小学生であるのは確かなのですが、おそらくこのような小学生は、大人の気持ちも見えているはずなのです。きっと立派な大人になると思います。
このデキスギタケシは、私の理想の人物、菩薩として描いたものです。おかしいでしょうか。お笑いになる方もおられるかもしれません。しかし、現実に存在しうる菩薩とは、かかるような人かと思いました。能力は上から三番目、優しさはみんなと同じ、平等性は、自ら体現、このような感じです。色的にはオレンジ色?つまり私の補色です。

>☆ そういうことでしたら もう打っ棄っておきますので よろしく願います。
そういうことなので、うっちゃわないで、かるく心に、通りすがり程度に、風程度に思ってくださるとうれしいものです。よろしければ。

ところで、私が、かの青色の得体の知れぬ狸(=ドラえもん)を喩えに用いなかったのには、そのときでなかったからです。じつは、ドラえもんと言うのは未来から来たロボットで、ダメ人間ノビノビタを助けるために、机の引き出しから出てくるのです(びっくり)。ここら辺の荒唐無稽さにも実は意味が内在していると思うのですが、それはさておき、この青色の未来型ロボットは、実に人間味があるのが、要点なのです。
おそらく、ドラえもんは実在しないですが、あの様子ならば覚れます(実在しないものが覚ることはありえないと思いますが)。おかしいでしょうか。teruteruは終にクレイジーホースになったかと。いえ、そう思われても仕方ないのですが、もう少し説明させてください。
ドラえもんのお腹にはポケットがありまして、それを四次元ポケットと言います。四次元ポケットの中には、未来の技術で作った荒唐無稽の妖術の類かと思う万能アイテムが一杯入っているわけです。労せずして宇宙のどこにでも行ける「どこでもドア」とか、頭につけるだけで空を飛べる「たけこぷたー」などです。

私などは、頭を回転させて空を飛んでるわけですから、荒唐無稽さの加減としては架空の未来技術と同じ程度ということになります。
つまり、ドラえもんのポケットは、『謎』なのです。孫悟空の妖術と同じです。しかし、ドラえもん自身は、モラルもあり、人情もあり、いろいろと人くさいわけです。
ところで、この妖術、あるいは四次元ポケットは、全く荒唐無稽かというと、そうなのですが、時間がたてば、荒唐無稽の事も事実になりえます。たとえば、親父なんかがよく言ってたんですが、孫悟空は髪の毛をちぎって、息で吹いたら無数の分身を生み出すことができます。これは、髪の毛一本に、孫悟空の全体が、DNAとして入っていると言うことの、喩えとなっているわけです。てるてる、それはこじつけだぜ、とおもわれるでしょうか?そうともいえますが、たしかに夢には、現実をあやふやにしつつも暗喩している部分があるのではないかと思います。
つまり、迷妄は、全くの荒唐無稽ではなく、解釈の可能なものでもあるのです。
妄執も同様でしょう。

すみません、話がちょっと個人的になってしまったでしょうか。本題に移りましょう。

>ゆくゆくは インタナショナルなインタムライズムにするといいでしょうね。
それは私も理解できます。どのような地方にも、公正が存在しておるとよいですね。私は東京が好きなのですが、その理由としまして、東京と言う街には、町が存在しているところが気に入っているのです。ただの中央ではなく、もともとの地力があるんですね。要塞のような都庁が立っているのも事実であるし、築地のような町もあるのも事実なのです。ああ、東京行きたい。

また何かあれば追加の質問を聞かせていただきますので、どうぞご遠慮なく。私流でよければお答えいたします。

この回答への補足

 てるてるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。そこまで思想の問題としておっしゃるのなら 見てみなければなりません。まづ 
 ★ デキスギタケシ
 ☆ というのは 
 ▲ 出木杉 英才(できすぎ ひでとしorえいさい)
 ☆ のことでいいですか? ヰキぺで見てみると ひっかかったのは 次のくだりです。
 ▲ (ヰキぺ:出木杉 英才) ~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E6%9C%A8% …
 § 人物像
  未来の世界を見るのが夢で、これはのび太により叶えられた(というよりは、のび太にされた頼まれ事と交換条件で叶った)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《交換条件で叶った》が気に食いません。これは 次の記事の《世間からの評価》のよくないという側面に通じているでしょう。
 ▲ (ヰキぺ:ドラえもん) ~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9% …
 § 世間からの評価
  (あ) 1981年時点での親や教師の感想には、『ドラえもん』は他のテレビ・漫画と異なり、刺激的・暴力的なシーンが少なく健全であるといった意見がある一方で、
  (い) 「(『鉄腕アトム』、『巨人の星』と比較して)のび太は何もせず、楽をして夢を叶えているのは問題」といった批判的な意見も存在している。
  (う) そして、それらの意見を収集した坂田稔は、「人生に自分からぶつかっていかないで、ただいいこと、楽なことを何もしないで期待しているような世代が、これからしだいに社会を領してくるのではないかと思われるのである。」と結んでいる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この(い)(う)のほうの批判的な側面です。
 わたしは 実際に一話を見たということもないので何なんですが そして四次元ポケットの具体的なことについても それが《何もしないで楽に欲しいものを手に入れられる》のかどうかはっきりしませんが この種の批判が出てもおかしくないというような感じは持ちますね。

 ▲ (同上・承前) ~~~~~~~~~~~~
  このような意見に対して作者の藤子・F・不二雄は、
  のび太は読者が目標とすべき理想像には描かれていない点、
  『ドラえもん』は珍道具が日常生活に及ぼす影響を描く漫画であり、道具の入手方法には重きを置いていない(ポケットから取り出すのは効率的手段である、効率的であることが悪いこととは思わない)点
 を挙げ、反論している。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ もし――もしですよ もし――日常生活のことがらで科学技術によって可能なことはロボットならロボットの力で済まし得るとするなら それはそれでよいと思います。では 人間は何を考え何をするかです。
 ▲ (ヰキぺ:出木杉 英才) ~~~~~~~~~
 § 将来
  2007年9月7日の放送によれば、出木杉の子孫と思しき人物が
   ≫(え) 総理大臣になっている≪。
 そして、その総理大臣の息子をドラえもんが通っていた学校のエリートネコ型ロボットが世話をしている。
 § 登場に伴う物語の変遷
  出木杉が登場してからは、「出木杉としずかが仲良くしている場面を目撃したのび太が、しずかと結婚できるはずの未来を信じられなくなる」というシーンが頻繁に描かれるようになり、
   ≫(お) のび太は未来が不確定であることを知る≪ 
ようになる。実際そのような記述も単行本の中に現れるようになる。これはあまり大きく取り上げられていない事象だが、ドラえもんの根本を覆す大きな方向性の転換である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりわたしの言いたいことは もし《未来について不確実だ》と知るのならば 《社会の指導者がどういう形態になっているか。共同自治の形態はどうか》について 少しは考えを及ぼしていてもよいという物言いです。いつまでも 《総理大臣》だというのはいただけません。
 《大臣》などというふるくさい名前は 即刻言い直すのがよいと考えます。《委員〔長〕》とか《係り〔のおさ〕》とか。あるいは インタムライスムという共同自治のもとで 《当番制》がよいかも分かりません。日直ならぬ《年直》と呼べばよいと思います。
 インタナショナルなインタムライスムのもとでは 民族のちがいを超えてほかのムラの人びとが ムラの議会の議員に 互いに派遣しあって なります。

補足日時:2010/04/07 11:16
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この回答へのお礼

 行き来は自由です。ひとつのムラは 海外のとりあえずはいくつかの民族のムラと提携しあい それらのあいだで往来自由とします。ホームステイも留学も自由にです。共同自治だけではなく 経済および文化の交流も活発にしていきましょう。
 《出来すぎ》ですか?

 ドラえもんあるいは孫悟空の話は――わたしから見れば―― どうも《甘え / 聖なる甘え》の世界とつながるのではないかと思えます。言いかえると むしろ非思考(信仰)の方面ではないかと。

 トウキョウと言わず それぞれのムラをたのしい町や街や村にして行きましょう。どぢゃ?

お礼日時:2010/04/07 11:23

きっかけにすぎない夢物語。



自分が関わったというだけなのに
マルクスをはじめとする唯物論者をどうしても忘れられず、

みっともない格好をしてまで、「おれおれのロンリ」を展開する。

唯物論を持ち出さないとどうしても気がおさまらない我見根性には、精神も普遍性もありません。

自分だけが大事・他人が100%自分の意見に成るということしか頭にない
偏屈な人は、「不自然」な人です。

不自然な唯物論者は、世界中の何処を駆け回っても、暗闇でモニターとにらめっこをしている限り、

自然を理解することは出来ません。

早く自分の不自然にきづき、自分の過ち・無知を悔いるべきです。

か?
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か。

(すみません、前回答に一文字入らなくて。)
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私の用いたデキスギタケシという言葉は、キャラクターの事です。

ドラえもんというマンガをご存知でしょうか。
心はやさしいが、何をやってもだめなノビノビタと言う少年が主人公のなのです。
私は、このノビノビタを、bragelonneさんの言うスサノヲであると考えたのです。
スサノヲはやさしさで生きているわけです。しかしながら、嫉妬深かったり、イジワルであったり、執念があったりするのもまた事実です。
同じスサノヲタイプとしては、ジャイアン(=ゴウダタケシ)というキャラクターが居ます。このキャラクターは、いわゆるガキ大将なのですが、いざというときはやはりやさしいのです。いつもはノビタをいじめています。

一方、アマテラスタイプは、しずかちゃんというキャラクター、デキスギくんというキャラクターが居ます。
これらのキャラクターは、いわゆる良い子ちゃんです。勉強もできて、問題も起こさないタイプです。つまり、公質を備えているわけです。正しさによって生きていて、普段からおとなしいタイプです。正義心もあり、嫉妬や執念、イジワルであるということがありません。一方で、普通の子の気持ちのわからない、つめたさのようなものを感じられるかもしれません。

もう一人面白いキャラクターがいて、それはスネオというキャラクターです。
スネオは、学校の先生などから見れば良い子ちゃんなのですが、友達の間では、イジワルでイケズなキャラクターなのです。しかしながら、このスネオも、いざと言うときには勇気を持ちます。

そして、デキスギタケシというのは、このアマテラスタイプと、スサノヲタイプを合体させたキャラクターなのです。地力もあって、公性も備えていますよというオールマイティーキャラクターなわけです。

質問者さんの言うスサノヲタイプの公性の本質とは、選挙権があることではなく、話がわかることではないかと思いました。ノビタの気持ちがわかる、ジャイアンの気持ちがわかる、スネオの気持ちがわかる、総じて友達の気持ちがわかると言ったようなことです。

一方、アマテラスタイプの公性は、つまりは正義の事であると思いました。

ただ、ドラえもんのキャラクターと、神話のキャラクターを合わせて語ってしまっては、ややこしいので、
スサノヲとアマテラスにここでは統一してしまってもよいかと思います。質問者さんが、いや、ドラえもんも入れようと言うことであれば、お話します。

さて、私がドラえもんの話を用いたのには一つの理由があります。
それは、たとえ、デキスギくんとジャイアンのいい所を、合わせたとしても、それは所詮小学生に過ぎないと言うオチのために、それを用いたわけです。
スサノヲとアマテラスについても、それは、いわば型、つまり造形に過ぎないのではないのか、という気持ちが文章に表れて、不評、という印象を受けられたのであると思います。

しかし改めてお返事を読んでみますと精巧にできていて、うむ、侮るべからず、と思いましたので、お話したいと思いました。いままでは侮っていたのかと言うと、実はそうなのです。すみません。結構そういう癖があるんですかね、色々の方の意見を見聞きしたときにも、ほぼすべてを、くだらねぇと思ってしまうんですよ。なめてますね。昔はそういうことはなかったんですが。そういえば昔、今の自分のような傲慢な方とお話したことを思い出します。不思議なものです。そういう人に今なっているとは。。bragelonneさんや皆さんと話す中で、次第に昔のように、話の聞けるようになってきたと思います。

本題に入りましょうか。

まず、お聞きしたいことがあるのですが、アマテラスが公の象徴であるとして、スサノヲ的自然というものが、何かよくわかりません。人間的自然とも言われていますが、同じものでしょうか。
言葉から推察するに、人間的自然とは、友情だとか、親和だとか、そういった事柄かなと思ったのですが、自給自足のお話も出ておりますし、もっと生活実態に即したことだと思いもいたします。
たしかに身体を使った労働はすっきりするのは事実ですし、仕事で言えば掃除などは良い仕事かなと思います。自給自足は喧騒を離れていて暮らしやすそうですし、吉かもしれません。馴れれば快適になりそうですね。
都会で自給自足ができれば言いのですが、というのも、都会の中にあって喧騒を離れていると言うのは結構楽しいもので、無職者が言うのもなんですが、街の景色を静かに見てるのは気分がいいものです。

さて、私の意見としましては、時、場所、選ばず、いつも健やかにということで、まずは身近な人との関係から正して行くというのが、正解かなと思います。公正というのはその延長になければ、足元ずくずくで遠距離も何もないかなと。どのような人とも裏表なく接するというのが、お答えでしょう
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この回答へのお礼

 いやあ 澄みません。ドラえもんの中身は まるで知りません。
 ★ さて、私がドラえもんの話を用いたのには一つの理由があります。 / それは、たとえ、デキスギくんとジャイアンのいい所を、合わせたとしても、それは所詮小学生に過ぎないと言うオチのために、それを用いたわけです。
 ☆ そういうことでしたら もう打っ棄っておきますので よろしく願います。

 てるてるさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ( δ ) 時、場所、選ばず、いつも健やかにということで、まずは身近な人との関係から正して行くというのが、正解かなと思います。
 公正というのはその延長になければ、足元ずくずくで遠距離も何もないかなと。
 ( δ‐1) どのような人とも裏表なく接するというのが、お答えでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という自然復活法ですね。ありがとうございます。よいと思います。
 たぶん いついかなるときでも 裏のことを誰にでも話せるかと言えば それには 時間差があるかも知れません。社会的な立ち場というものも それとして影響します。その時点では言えないという場合があるかも知れません。
 ただ そういうふうにつねに振る舞うのだと互いに分かり合っているなら そうとう社会のお天気は違ってくるでしょうね。クレオパトラの鼻の寸法で地球は違ってくるかも知れないというのですから。
 ★ 身近 / 足元
 ☆ この言葉が スサノヲ人間語ないしスサノヲ的人間的自然の主題に入ります。
 自由・平等・博愛(友愛)という博愛は もともと 兄弟関係ないし兄弟愛(フラテルニテ)のことです。つまり 実際の兄弟姉妹のことは 抽象化される前の・一回性(ほかの誰でもない唯一性)を持った存在〔関係〕であり これは スサノヲ人間語です。
 したがって 一般化し抽象化しまた普遍性を帯びさせて誰にでも共通の概念として規定した意味での《兄弟愛ないし博愛》は アマテラス普遍概念語ないしアマテラス人格語です。
 ★ 公正というのはその延長になければ、足元ずくずくで遠距離も何もないかなと。
 ☆ つまりこの《公正さ》は A 語です。そしてそもそも A 語というものは 感覚的に分かるような身近で足元の事象から離れても 言えるものでありそれとして通用するわけです。二枚舌も使えるわけです。表と裏 あるいは タテマエとホンネ こういった問題が現われます。(そのような現実を 人間がつくるわけですが つくった結果 あってもよいと思っている人々が 過半数を占めているのでしょうね)。

 まぁ しばしば警察官が捕まえるべき不法行為者と同じ振る舞いをしたり 裁判官が取り調べる被疑者に対して不法行為をおこなったりということのようですから これらのアマテラス公民もむろん 私人と言いますか スサノヲ市民であることは 火を見るより明らかなことではあります。

 変な話 そういう意味ででも スサノヲ的自然を回復すること。マイナスからでも踏み出すこと。褒めたことではないのですが わがくにには もののあはれを知るというひとつの条理もあります。情感の共同性が生きています。(かな?)そうして あらためて そのスサノヲのどろどろした地べたから それぞれが自分に応じてアマテラスの花を咲かせようというルウソ・プロジェクトであります。題して 自然に帰れ。ま スサノヲのルネサンスとでも言いましょうか。
 アマテラスとは スサノヲは 実の姉と弟なんですから。どちらにとっても そうなればうれしいし 喜ばしいし 日本も住みよくなるんぢゃないですか? 地方主権なんてのも 視野に入って来ましょう。インタムライズムとわたしは言っていますが。ムラ=市町村のことです。ゆくゆくは インタナショナルなインタムライズムにするといいでしょうね。

 放談になりましたが こういう場合にしっかりとした諫め役がいるといいのですが 内容を把握し得ないであさっての方を向いた諫め役が次に陣取っているようです。

 * ドラえもんというのは 何でも魔法で叶えてくれるという話かと思っていました。

お礼日時:2010/04/06 23:13

質問に踏み込む前に、お伺いしておきたいことがあるのですが、お構いないでしょうか。



それは、人類の分類についてです。
私もしばしば、特に最近思慮する事柄であるのですが、
人類は、学術的に、(ハビリス、エレクトス、サピエンスなど)あるいは、社会的に、(たとえば男、女、大人、子供、老、若、親族、敵、職種、立場、個性、等)さらには、生物的に、雌雄、寿命、個体差などで、分けて見ることがあります。

これらは、分けてみているのであって、それ以上それ以下でもなく、実際のところ、なくても構わない分別に過ぎないと私は思っています。すなわち、研究者は学術的な分類を用い、社会人?は社会的な分類を用い、生物人は、生物的な分類を用いるに過ぎないのであって、本来人は無分別であり、人は一種しかありません。
そして、人か、人でないかですら、これも人として生きる人が、用いる定めであるにすぎません。


スサノヲとアマテラスの分類は、社会的な分類と思いますが、それが真人の何であるかを問うのと、どのように関係するのか私にはよくわかりません。
真人とは真っ当な人間のことであり、分類によって作為、作り生み出される性質のものではないと思うのです。
質問者さんは、どのような勝機を見たことによって、スサ・アマ分類から真の人間を求めようとされるのでしょうか。

質問文を拝読したところ、スサはリアルだから良い。アマは形而上学的に磨かれているから良い。
良いところをあわせて真人の型を作ろう、ということかとお見受けしましたが、それはいわゆる偶像、デキスギタケシに過ぎないのではないでしょうか。作られたものを完成することによって、何かわかることがあるのだろうか。
それとも、自らデキスギタケシになろうということでしょうか。
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この回答へのお礼

 こんにちは てるてるさん。引き続きご回答を寄せてくださりありがとうございます。

 さて ご不評のようですね
 《デキスギタケシ》について 一度お聞きした言葉だと思います。そのときは 出来すぎという意味に解釈して申し訳ないですが済ましましたが 知らないものですから 今度検索しました。したのですが 出て来ないようです。ですから 何か特別の意味あいがあるようでしたら その点 きちんとおしえていただくよう願っておきます。

 この質問は 表題のとおり《自然を取り戻そう》です。むろんそんな必要はないという回答もいいわけですが その趣旨に賛成される方は ではどうすればよいか? その具体的な方策をおしえてくださいというものです。
 そのために 概念装置を作り過ぎましたでしょうか。スサノヲ( S )とアマテラス( A )という用語は けっこう便利だと思いますよ。さしあたって

  S ―――― A
 市民・・・・・・・公民
 自然・・・・・・・文化(=非自然)

 これら二つの種類の対立的かつ補完的な概念の組として捉えていただければよいと考えます。むろん 細かくは スサノヲ市民の存在じたいに たとえば選挙権としてのように アマテラス公民の要因を持つ。ということかと考えます。したがって ひとりの人間は 要素として《スサノヲ‐アマテラス》連関を内に備える存在だと見ることになります。
 そうして わたしの考えでは 趣旨説明の最後の部分につながります。
 ☆☆ (趣旨説明) たぶん《 〈 S‐A 〉連関のかたち》=《現実の人間》の描像のほうが のぞましいと思うのですが それには 《スサノヲ的自然》を取り戻す必要があると考えられます。どうすればよいでしょう?
 ☆ つまり 最初に申し述べたところです。

 たたき台は 次のようです。
 ☆☆ (No.1補足欄) ~~~~~~~~~~~
  ( α ) 実際に自然に触れ親しむ時間を多く持つこと。
  ( β ) ちょうどここでの投稿のように 何でもありでやり取りをすること。(やり取りであって 言いっぱなしではだめだとは思いますが)。
  ( γ ) 具体的な主題を取り上げて この点については こう考えるべきだ・ああ考えるのがよいといった提案をとおして 人間的自然とその考え方を引き出すこと。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうして すでに花の形而さん(回答No.3)から ( α )形式の方策について見解をうかがっております。

 どうでしょう? お尋ねの内容についてお答えできたかと思いますが 中で
 ★ 質問者さんは、どのような勝機を見たことによって、スサ・アマ分類から真の人間を求めようとされるのでしょうか。
 ☆ とおっしゃるとき 《どのような勝機を見たことによって》については 答えていないようです。
 実際には今考えるのですが そうですね。たとえば アマテラス公民のうちの官僚ですね。社保庁やら年金の安全やらの事件がいちばん大きかったでしょうか アマテラス官僚の無謬性が・その無謬性の神話が 崩れましたね。この事件などを見れば 《勝機》の到来だと言っていいのではないでしょうか? どうでしょう?

 いま勝機が薄いと言われたとしても 回答No.3のお礼欄に触れましたように 次のような主題群とも連絡していますので ぜひお考えをうかがいたい。こう考えますが いかがでしょう?

 ☆☆ (回答No.3のお礼欄・追加) ~~~~~~~~~
 なお 《人間的自然》ということについて問い求めたいという欲求が起きました。みなさんも是非自由なご見解をお寄せください。関連する事項は つぎのようです。
  ○ もののあはれ
  ○ 甘え / 聖なる甘え
  ○ 《ことば以前》とは どういうことか?
  ○ 《無縁〔なる人どうしの互いの〕慈悲心》とは?
  ○ 精神疾患に《自然》という治癒の力を。
  ○ 構造主義に《自然》の要素を注入する。
  ○ めぐみ(恩恵)とは?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2010/04/06 18:30

こんにちは、bragelonneさん。



Wikipediaで、【権利能力】をみたところ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%88%A9% …

1 自然人の権利能力
1.1 権利能力の始期の中で、
―――――自然人が主体となり得る権利義務の範囲には原則として制限はない。

と。

「原則は制限はない。」と、あるのだけれども…原則はね。

実際はどうなんだろう?  素朴な疑問。

この回答への補足

 あぁ ゆきやまくんのことだったの?

 わたしの考えとしては 話をしているかぎりで ふつうと同じように話すという方針です。
 前もって と言いますか すでにふつうの話が出来ていないだろうという考えで 話をするという方針ではないという意味です。
 どうもふつうに話し得ていないと 自分で 知ることが重要ではないかと思っています。

補足日時:2010/04/05 22:12
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この回答へのお礼

 ううん 分からんなぁ。
 まづは ご回答をありがとうございます。こんにちは リトルキスさん。

 権利能力の問題は ここで関係ないですよ。
 分からんなぁ。
 ▲ 自然人が主体となり得る権利義務の範囲には原則として制限はない。
 ★ …原則はね。 / 実際はどうなんだろう?
 ☆ というんでしょ? そんなことを持ち出してくるのなら こうですよ。つまり
 ○ 《主体と成り得る / 権利義務》という規定をする前に 自然人は 人間である。
 ○ 自然本性において特にその意志という行為能力が自由 自由 自由・・・と来て さらになおどこまで行っても自由 自由・・・であるゆえ――それゆえに初めて―― 自然人には制限がないという規定が得られる。
 ○ つまり 生まれた限りでの自然状態にあるスサノヲとしての人間が 光り輝く広大無辺の自由であるゆえ この人間という存在について 《主体》だとか《その自己表現なる行為にかんする意思表示の能力や責任能力あるいは権利義務の関係》だとかが 経験合理性に照らし合わせて妥当なかたちで概念規定される。
 ○ つまり アマテラス普遍語で《自然人が主体となり得る権利義務の範囲は 原則として制限はない》と規定されることになった。

 そのあと
 ★ 実際はどうなんだろう?  素朴な疑問。
 ☆ なんだけれど――そうなんだけれども―― いまはその問題は問うていませんよーーだ。

 四角四面の窓や高層ビルで町や空を――そして われわれの考えや思いやこころを――囲ったり仕切ったりしないで どしどし自由に見方考え方を出してください。
 範囲に制限はないったって われわれはせいぜい孫悟空でしかないかも知れないぢゃないですか。十万恒河沙のかなたに飛んで行ったとしても まだ たなごころの中におさまっているかも知れんぢゃないですか。
 自然児・野生の思考を取り戻すのに どうしたらよいか? 素朴な考え方を寄せてくださいませ。

 でもご投稿 ありがとう。
 てんさいとりとるきすさんは忘れたころにやって来る。

お礼日時:2010/04/05 13:14

人間の存在を論理的に考えると、そのような問題提起が可能かも知れませんが、実存哲学のように、不条理な存在であると認識すれば、頭の体操になるとしても、無意味な議論でしょう。

ニーチェ流に言えば、観念的な、余りにも観念的な…
ルソーのいう自然に帰れというのは、マルクス以前の思想で、法律以前の問題として、人間は社会的存在であると言いたったのだと思います。それに対してマルクスは、経済体制が下部構造、法律その他の社会制度は上部構造としてとらえているので、土俵が違うと思います。現代社会は、イデオロギーが終焉し、無思想の時代だと思います。あなたは時代遅れか最先端なのか分かりませんが、当世風でないことは確かでしょう。

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。

 ルウソやマルクスは 出汁として触れているだけですので かれらの理論にこだわらずに ご見解を寄せてください。

 たとえば 経済生活が社会の土台であって そのほかの人間のいとなみは 上部構造を成すというマルクスの考え方について捉えるにしても そんな一面的な見方はわたしはしていません。
 上部構造に属するというもろもろの観念にしても それによってさまざまに人は影響を受けるものです。〔社会主義としての〕空想から科学へという標語にしても 或る意味で 科学(理性によるコギト)から空想へという考え方だって ありうるでしょう。

 《自然》の問題は 《もののあはれ》のそれともつながっていると思います。
 自然を取り戻すことに関して まったくたたき台も何も出していませんでしたが その点もおぎなったほうがいいでしょうか。
 分からないので問うたのですが ひとつには 実際に自然に触れ親しむ時間を多く持つこと。
 ひとつには ちょうどここでの投稿のように 何でもありでやり取りをすること。(やり取りであって 言いっぱなしではだめだとは思いますが)。
 そのほか 具体的な主題を取り上げて この点については こう考えるべきだ・ああ考えるのがよいといった提案をとおして 人間的自然とその考え方を引き出すこと。そう言えばわたしも 次のような質問をして来ています。

  【Q:道徳規範は 愚の骨頂】
  【Q:因果応報説は 愚の骨頂】
  【Q:《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》】
  【Q:電波系について】
  【Q:ヒトは 本能の壊れた動物である というのは・・・】

 などなどです。そう考えれば この《自然に帰れ》という主題とつながっているようにも思えて来ました。みなさん どうでしょう?
 

補足日時:2010/04/05 09:33
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この回答へのお礼

 カウステップさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。

 そうですか。《最先端》ならそのまま そして《時代遅れ》であっても場合によっては 《当世風》でありうると思われますが
 ★ 当世風でないことは確かでしょう。
 ☆ という《当世風でないこと》は 哲学の主題にならないということでしょうか? 

 ★ 実存哲学のように、不条理な存在であると認識すれば、頭の体操になるとしても、無意味な議論でしょう。
 ☆ なぜ《実存哲学》でなければ 哲学の質問をしてはいけないのでしょう? 人間はほんとうに《不条理な存在》であるとあなたは考えておられるのですか? 
 それは 存在の現実の過程――それぞれの《わたし》の自己表現の過程――が 社会的に《不条理》を交えるということではないのですか? 《存在》じたいは 別に完全な条理でもなければ 不条理そのものだとも考える必要はないのではないですか?
 そういう議論(吟味)を経ないで どうして質問を初めから否定することができるのでしょう? それは ためにする議論ではないですか?

 もう少し批判の内容を吟味してみましょう。 ルウソはわたしにとっては ただの前振りですが
 ★ ルソーのいう自然に帰れというのは、マルクス以前の思想で、法律以前の問題として、人間は社会的存在であると言いた〔か〕ったのだと思います。
 ☆ そうでしょうか?
 ▲ (『エミール または教育について』 第一編) 万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが 人間の手にうつるとすべてが悪くなる。
 ☆ たとえばこういうかたちで《自然》ということが触れられています。この一文と照らし合わせて 《法律以前の問題として》というのは どういう意味でしょうか? つまりこれは純然とした質問です。言いかえると ここでルウソは 《人間の手に移る以前の自然》を《よいものである》と見ていると採ってまちがいではないでしょう。どうでしょう?


 ★ それに対してマルクスは、経済体制が下部構造、法律その他の社会制度は上部構造としてとらえているので、土俵が違うと思います。
 ☆ これもどういう意味になりましょうか? まづルウソの社会観と《土俵が違う》そうですが 時代こそ違え 同じ系譜の社会にあって人間を考えているのではありませんか? A.スミスの《同感 Sympathy 》は ルウソから借りたと聞きますが そのような共同主観として考えるに ルウソのいわば《社会以前の自然》とマルクスの《社会――つまり国家としての社会総体――にとって土台である市民社会 としての自然》 これら二つの自然は おおむね軌を一にしていると言ってよいのではないでしょうか?
 むろん概念内容に違いがありますが どちらも 人間理性のはたらき以前の人間的自然ないし人間理性による国家社会としての構築物以前の生活としての人間的自然を ともに示唆していると言えるようです。

 ★ 現代社会は、イデオロギーが終焉し、無思想の時代だと思います。
 ☆ だからどうだと言うのでしょう? 旧いことばで旗幟鮮明な思想を扱ってはいけないとでも?
 あるいは ひとが社会生活をおこなっているときに 生活態度そのものを取り上げるだけでも そこには――人間的自然の上にでしょうが―― 観念の体系が持たれている。つまりもしくはいくつかの理念や観念の錯綜し しばしば混沌とさえしている過程的な総体が 持たれている。どんなものでも イデアの体系ないし総体であるのです。歴史観としての大きな物語が終焉を迎えたとしても 現代であろうが どの時代であろうが いろんなイデオロギが生活態度として 人びとに持たれていることに変わりありません。

 わたしは ニーチェは知りませんが 少し吟味すれば分かりそうなものを わざわざ質問そのものを否定する投稿を寄せるとは
 ★ ニーチェ流に言えば、観念的な、余りにも観念的な…
 ☆ なのではないですか? どうでしょう?
 

お礼日時:2010/04/05 00:23

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