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 《自然に帰れ》!?

 とルウソは言ったとか言わなかったとか。自然に帰るあるいは人間的自然を取り戻す これは 必要で大事なことでしょうか?
 《人間》の社会におけるすがたを次のように捉えて その《自然》の問題を考えます。

 1. われわれ人間は 社会を成して共生するらしいが そもそもどういう存在であって どういう存在の関係をむすび かつその関係の錯綜して過程する総合としてどのようなあり方になっているのか? 
 2. 社会人を スサノヲ市民およびアマテラス公民に分けます。しかも この市民( S )と公民( A )のそれぞれ要素は ひとりの人間に――当然でしょう―― そなわると捉えます。
 3. このような概念装置を持って マルクスを読みます。

 ▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~~~~

  結局のところ 

 ( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ 

 ( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民)

   とは区別された

 ( S ) 人間 homme とみなされる。

 なぜなら 

 ( A ) 政治的人間(* アマテラスのそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し 

 ( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。

 【 S‐A 連関】 《現実の人間》は

 ( S )  利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ 

 【 A‐S 連関】 《真の人間》は

 ( A )  抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス人格語ないし学術概念語)においてはじめて認められるのである。

                  (城塚登訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ここで S:スサノヲと A:アマテラスとの連関のあり方は 次のふたつの形態があり得ます。

  《 S‐A 》連関のかたち=《現実の人間》:

     あやまちうるスサノヲ人間語を基礎としてその土壌の中から――
    あたかもその泥の中から―― アマテラス規範語を磨き上げ そこ
    に花咲かせる人間のすがた。

  《 A‐S 》連関のかたち=《真の人間》:

     簡単に言えば 理性ないしコギトがすべての意志行為を引っ張る
    かたちのアマテラス人格語かつアマテラス学問語にもとづく人間の
    すがた。この人間は 《あやまたない》と言われるようになる。
     つまり無謬性・不可侵の神話を帯びる。

 ☆ たぶん《 〈 S‐A 〉連関のかたち》=《現実の人間》の描像のほうが のぞましいと思うのですが それには 《スサノヲ的自然》を取り戻す必要があると考えられます。どうすればよいでしょう? あるいはすでに回復していましょうか?

A 回答 (18件中1~10件)

福岡正信さんの「自然に還る」という本を読みました。

衣食住を自給自足でまかなって、残りの時間を内省にあてると、静かな平和が訪れそうです。
すべての人が実践できることではないでしょうが、労働時間の短縮と、年金生活で体力、知力に余裕のある人に実践していただきたい。
人間の能力の全面的な発達を実現する未来が、近いのかもしれません。
何もしないのが、一番賢明な気がします。
困っている人のそばで、一緒になげき、悲しみ、祈ることはできそうです。
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この回答へのお礼

 花の形而さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 人間の能力の全面的な発達を実現する未来が、近いのかもしれません。
 ☆ あぁ なるほど こういった方向を願い望んでいたようです。言われてみて そういう志向になります。
 No.1補足欄にわたしのほうから候補を三つ挙げました。
 ★ 福岡正信さんの「自然に還る」という本を読みました。衣食住を自給自足でまかなって、残りの時間を内省にあてると、静かな平和が訪れそうです。
 ☆ と示していただいたご回答は その三つのうちの( α )方式になりましょうか。そのたぐいの徹底した方式であるようです。


 ☆☆ (No.1補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~
 ( α ) 実際に自然に触れ親しむ時間を多く持つこと。
 ( β ) ちょうどここでの投稿のように 何でもありでやり取りをすること。(やり取りであって 言いっぱなしではだめだとは思いますが)。
 ( γ ) 具体的な主題を取り上げて この点については こう考えるべきだ・ああ考えるのがよいといった提案をとおして 人間的自然とその考え方を引き出すこと。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ( α‐1) ★ 労働時間の短縮と、年金生活で体力、知力に余裕のある人に実践していただきたい。
――☆ というように 社会の一部の人びとだけとしてでも実践するとよい。

 ( α‐2) ★ 何もしないのが、一番賢明な気がします。 / 困っている人のそばで、一緒になげき、悲しみ、祈ることはできそうです。――☆ 後半は賛成ですが 前半は半分 賛成です。だって《何もしない》ではいられないでしょうから。
 ということは
 ( α‐3) ふつうに仕事をしたり余暇を過ごしたりしつつ 自然でいられるなら よさそうだ。
 ☆ となるでしょうか?

 おそらく かくなる上は 高望みして
 ★ 残りの時間を内省にあてると、静かな平和が訪れそうです。
 ☆ という実践の成果を発表してもらいたいというところに行き着くでしょうね。

 こういった方向のご提案として受け取りました。添削などありましたら またご投稿をください。

 * なお《人間的自然》ということの内容を問い求めたいとも願っています。関連する事項としては つぎがあります。みなさんも 自由なご見解を寄せてください。
  ○ もののあはれ
  ○ 甘え / 聖なる甘え
  ○ 無縁〔なる人への〕慈悲
  ○ めぐみ(恩恵)とは
  ○ 精神疾患に《自然》という治癒のちからを。
  ○ 構造主義に《自然》の要素を注入したい。
  ○ 《ことば以前》とはどういうことか?

お礼日時:2010/04/06 17:28

追伸。

今は、一日に二回は見るようにしています。機会が減るとは、これが、一日に一回であったり、数日に一回であったりすると言うことです。

次第に、川の流れ広くして、やがて縁の元のものとなる。近づけば近づくほどに広く平らかになる無上の道は、だれもかれもをその終局へと導く。
遠離しつつ、広大であって、しかもすべての人を残らず彼岸へ運んで行くのは、それが法であるからでしょう。
次第道を整えて、次第勢いを増して、次第道を浄めて、その無上道を、、、わがこととして今際の安穏にいたろう。至り尽くして、その究極に住します。
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この回答へのお礼

 閉めたあとに このご投稿をもらったような感覚です。

 それはよいとして もし違いを際立たせるように言おうとすれば やはりわたしの場合は 《おしまいから始める》になります。
 ★ 無上道
 ☆ は いま・ここに《わがこととして》あり――こう宣言するという意味です。未完成の完成 つまりそういう動態です。
 ★ 至り尽くして、その究極に住します。
 ☆ という状態から いま始めます。
 まぁ ずるいのでしょうか? はすっぱなんでしょうか? ものぐさなんでしょうか?

 もし超哲学的に言ってもよいとすれば それは 十字架上のはりつけがすでに成ったと受け取るからです。
 光速は仮りに絶対と想定されますが それを超える速度があるかも知れません。磔刑を超える事件がさらにあるかも知れないのですが これまでの歴史において 経験的なものごととしてはその究極であり仮りの絶対だと受け取ります。
 むろん《なぞ》は経験を超えています。人間はこれを超えられません。ということは 磔刑が経験を超えるこころの窓のごとくに成ったという想定です。
 この想定をさらに超える想定が出るまでは はりつけという歴史的事件が 光速の役目を果たすのではないかと考えます。

 こういった違いです。手前みそですが この《終わりから始める》方法のほうが 妥当であるように思っています。どうでしょう。

お礼日時:2010/04/11 17:07

そうですね、今はこのようなところでよいのかもしれません。

ブランジュロン様のお気持ちがここに定まられたのであるならば、それが頃合でしょう。
今後も、機会のあるときにこちらを拝見させていただくつもりでおりますが、それは少なくなるかもしれません。また、ご縁のあるときは、よろしくお願いいたします。

なむ
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この回答へのお礼

 澄みません。また 迷走してしまいました。
 こんばんは。ご返答をありがとうございます。

 いやぁ 頃合いでしょうと言われると まだこの路線で考える余地があるのではないかと思えて来ますが・つまり考えようかと思ってしまいますが むつかしいかとも思います。
 つまり 主題は 《人間的自然》として押さえておいて その探究は いまその説明の深化(ないし進化)を追究するかたちによるよりは いわば寝かせておいて いつかふと思い浮かんだときに その説明の表現は得られているのかも知れません。
 そういう意味で 一たん離れようと思いました。

 澄みません。一方的なしわざとなってしまって。
 でもこの主題の探究は この前の《慈悲》の質問と同じように 人間の境地の中核に当たりますから どんな主題を扱っていても つねに直接・間接にかかわっているとも思われます。
 こうまとめまして ひとまづ中断したいと考えます。
 
 ありがとうございました。そして あたらしい探究の節はまたよろしくお願いいたしたいと存じます。それでは。

お礼日時:2010/04/10 23:41

ざっと拝見いたしましたが、



「マルクスが偉い人である」というのは、
戦直の思いあがりであるというだけでは、結論が不十分です。

もう少し掘り下げて、

「唯物論者はなぜ、普通の質問が出来ないのか?」という疑問を投げかけてみてはいかがでしょうか?

仮説=「唯物論者には言語障害があるのでしかたがない」

がんばってください。応援しています。
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おっけー(^^)q

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まず、御礼に対するご返答をさせてください。



質問者様> ☆ 《文字は殺し 霊は生かす》 この《霊》をできるだけ人間の言葉で・経験思考としても分かるように 明らかにせよ。という質問になっています。
 《香り》は現実ですか? そんな馬鹿なものはない ですか?

回答者<私達は、いい香りをかげば、ああ、いい香り、とおもいます。一方では、私達は、最高においしい空気と言うものも知っています。あぁ、空気がうまい、そういうことは往々にしてあるでしょう。言葉としても、実感としても、誰にとってもそうであることでしょう。
いわばそれが、ほんとうのところ、誰もが一番欲しいもの、そしてそうあって当然の、何の遠慮することの不要な、真実と称されるそれの香りを超えたうまさ、であるのであると思います。

そして言うならば、うまい空気はそれだけで十分であり、他の香りはむしろなくてもよく、うまい空気は香りをじゃましないけれど、香りは少し程度なら時には良いが、強すぎるとかえってむせたりするように、私達は真実だけで素晴らしい人生を生きて行けるものであるでしょう。


【質問者さん> ☆ これは 現象としては 時には《こころの思い》と《放たれた言葉の中身》とが一致しない・つまりウソをつく場合が~あるのですから いわば《原則のようなものとしての心の思い》と《発言としての現象の背後に実際に起きている心の思い》とは別でありうると考えたほうが 現実的なのではないですか?
 (6) だから (く)の《まこと》とは 《原則のような――それが〈もののあはれ〉と一致するかどうかも微妙なのですが――心のあり方》を言うと採ったほうが まとまりのある見方になるように思います。
 (7) (お)は 《実体》というのが分かりません。いまここで言った《原則》のようなものでしょうか? この原則もまた分からないものなのですが。つまり このことを問うのが この質問なんですから。】


回答者<うそはつけないのでしょう。そういうものなのではないでしょうか。まことのみを口にすればよいのであって、ほかの事は口にせずともよいとおもいます。

(もし、一大事に気がついたら、そのときは疑いはありえないんで、問題ないです。一大事を見逃すことなんてないように、普段からちゃんとしてたらいいんです。)

また、実体と、行いと、自分自身というのは、それぞれ同じものを示しているのだと思います。私の述べたことなのですが、その意味しようとしたところを聞くと、つまり、ほんとはほんとであり、それ以外の何ものでもないのだと、そういう事なんではないでしょうか。ご飯を説明するのに、白くて湯気が出ていつも食べてるアレ、寿司のねたの下にあるアレ、あるじゃん、こう、ふかっとしててさぁ、見たいな感じで、何とか言いたいみたいに三つ挙げたんです。。

原則と言得るようなものなのかわからないんですが、まぁ、身についてるって言うんですか、へんな言い方ですが。ご飯を食べることは身についてるとは言えないくもない?でしょうか。ある意味原則ですか。本当の意味で。
だって、ご飯食ってるじゃん。


質問者さん>あぁ こまった・こまった。《自然 / 人間的自然》と言いましたが 果たしてどういう現実か? またまた・まだまだ 弱りました。ボールはかろうじてコートの中に入りましたか?

回答者<心配ないですよ。ボールの行方を見れば、大丈夫ですよ。線ないですから。平気です。
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この回答へのお礼

 てるてるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 さて ふたつまなびました。
 もし非思考(信仰)の立ち場でものを言うとすれば はじめに《なぞ》が来ます。表象しえぬなぞ 言葉で表現しえぬなぞです。しかもわれわれは 主観の〔人生としての〕動態に応じてこれを 仮りの言葉で語ります。思想(生活態度)を形作っていきますし さらには科学としても探究し語ります。
 さしづめここでは《もののあはれ》もしくは《人間的自然》という――すでに言い表わされて来た――言葉をめぐってさらに分かりやすく解き明かしていこうというのが ねらいでした。
 つまり ひとつめのまなびですが いくら仮りの表現と言っても そんなにやすやすと問屋は卸さないと分かったように思います。――たぶん てるてるさんが しばしばなさっているように 比喩のほうが効果的であるかも知れません。それも日常のものごとを喩えに用いるようなそれです。(ただし遠慮なく言って 精確さは減少するでしょうが)。

 いまひとつまなんだことは 上に触れた《なぞ》つまりほかでもなく《神》 のことですが これについて まだまだその捉え方が普及していないと感じたことです。
 最後のくだり つまり
 ★ 回答者<心配ないですよ。ボールの行方を見れば、大丈夫ですよ。線ないですから。平気です。
 ☆ ここに《なぞ》の香りを少し感じたのですが それにしても・そうだとしても この《香り》についてきちんとは てるてるさんにしても 分かっておられないかも知れません。
 なぜならずばり言って つぎの考え方は 神のなぞに わたしは 反すると思うからです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そして言うならば、うまい空気はそれだけで十分であり、他の香りはむしろなくてもよく、うまい空気は香りをじゃましないけれど、香りは少し程度なら時には良いが、強すぎるとかえってむせたりするように、私達は真実だけで素晴らしい人生を生きて行けるものであるでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 端的に言って 《より香り》は よい香りなのです。《強すぎる》とか《じゃまする》とかいうことはなく つねに《よい香り》なのです。《空気》だけでは ひとは 生きていけますが 味気なく感じるときが多いのだと思います。《いい空気》を吸ったときというのは 思い出としてでは あまり面白くないのだと思います。
 そして 
 ★ まことのみを口にすればよいのであって
 ☆ という考え方も出されていますが この《真実〔だけで素晴らしい人生を生きて行けるものであるでしょう〕》というところですね。一般に《なぞ》は《真理》と呼ばれ 人間のまことは《真実》と呼ばれます。絶対と相対だと思います。
 現象としては 相対的な真実――つまり こころの腑に落ちるというのは 経験合理性の範囲で分かるということ――が言わば世界のすべてなのですが 朽ちるべき存在たる人間が限りある真実関係で生きていけるのは 真理によって裏打ちされていると思うことがあるからだと思います。
 つまり 人間の真実は 真理を仮リに表わしたものであり その範囲を超えることができない。人間は 神ではない。となります。

 つまりはっきりしたことは 真実ないし人間的自然を分かりやすく表現するという問い求めよりも どちらかと言うと この《真実》は あくまでも・どこまでも《仮りのほんとう》なのであるということを もっと分かりやすくしていくほうが 効果的なのではないか。これです。

 《香り・よい香り》は この表現で――ひとつの見方としては―― じゅうぶんである。むしろ この香りは 人間の真実としての現象の一端であるにすぎないのだから その《偶有性》そのことを 分かりよいように探究していくことが さしづめ求められる。のではないか。こう思いました。

 いましばらく開いていますが この質問での問い求めは一たん閉じたほうがよいかも知れません。そんなところです。どうでしょう?

お礼日時:2010/04/10 09:59

>ちょっと弱っています。

ひとまづボールをお返ししますので よろしくどうぞ。

了解しました。ボールは置いておきます。ゆっくりと休まれててください。

この回答への補足

 きちんと尋ね返しておくべきでした。つぎのようにです。

 ★★ (回答No.10) ~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ 共同主観としてのアマテラス公共性?とは いかなる現実なりや? 
  ★ (あ) 責任であるかと思いました。何を為しているのにも責任を伴っていると言う実際性、そのようなことが、現実にはあるでしょう。
 (い) そのような責任と実際、実質と確かさの中で、われわれは暮らしをつむいでいると言うのが、リアルな本当(hontou)かと存じます。
 ★★ (回答No.12) ~~~~~~~~~~~~~~~
 (う) リアルな本当は、こころそのものであって、特に分けられて説明されることはありません。
 (え) 喩えば、言葉を放つことと、そのこころが分けられては居ないようなものです。
 (お) 実体と、行いと、自分自身がもともと一つでしかないようなものです。
 ★★ (回答No.12) ~~~~~~~~~~~~~~
 (か) 責任は、いわば我がものという思いを離れたところに備わります。何をするにしても、タイプするのにも、画面を使うのにも、考えるのにさえ、責任は備わっています。
 (き) ことばもそうです。ことばを放つとき、人は愛執を離れています。
 (く) 故にことばはまことであると知られるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (1) (あ)および(か)の責任の捉え方については 同感するところです。自己表現の自由は つねに説明責任をともなうのだと。問われたら答えるというごくふつうのことですから。
 (2) これが われわれ人間の世界であり 現実である。しばしばそうではなく責任を免れ得ると思っていて 問い返しに対して説明を避ける場合があるようだと。
 (3) この現実のことを ではどうして(い)で《リアルな本当(hontou)》という用語に言い換えているのか? 何だかわざわざ別の言葉を作っているように感じますが その事情はどういうことなのでしょう? 
 (4) その説明が(う・え・お)にあります。
 まづ《こころそのもの》なのだと。――これは 意志行為の自由も《こころ》であり そこに《答責性を伴なう》ということも《こころ》でしょうから そうだと思います。
 (5) (え)は微妙だと感じます。
    ★(え) 言葉を放つことと、そのこころが分けられては居ないようなものです
    ★(き) ことばを放つとき、人は愛執を離れています。
 ☆ これは 現象としては 時には《こころの思い》と《放たれた言葉の中身》とが一致しない・つまりウソをつく場合があるのですから いわば《原則のようなものとしての心の思い》と《発言としての現象の背後に実際に起きている心の思い》とは別でありうると考えたほうが 現実的なのではないですか?
 (6) だから (く)の《まこと》とは 《原則のような――それが〈もののあはれ〉と一致するかどうかも微妙なのですが――心のあり方》を言うと採ったほうが まとまりのある見方になるように思います。
 (7) (お)は 《実体》というのが分かりません。いまここで言った《原則》のようなものでしょうか? この原則もまた分からないものなのですが。つまり このことを問うのが この質問なんですから。

 あぁ こまった・こまった。《自然 / 人間的自然》と言いましたが 果たしてどういう現実か? またまた・まだまだ 弱りました。ボールはかろうじてコートの中に入りましたか?

補足日時:2010/04/08 09:27
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この回答へのお礼

 いちど神学ないし聖書の文句を出してみます。よしなに料理してください。

 のっけからがちがちの文章を出してみましょう。
 ▲ (コリント後書2:14-16) ~~~~~~~~~~~
 神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち哲学ないし経験科学を超えた用語なのですが ここで言う《香り》という見方をとおして考えてみます。
 すなわちまづ《実体》というのは何だかあいまいなので控えますが 《ことばや概念の以前の何か》としての《現実・まこと・人間的自然・真実》 こういったものです。しかもこれが 考えや振る舞いをとおして《香り》のごとく現われるという想定であり 見方です。
 
 特にわたしからあまり言わないで さらに引用します。つづきです。
 ▲ (コリント後書2:16-3:9)) ~~~~~~~~~~
 このような務めにだれがふさわしいでしょうか。
 わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。

 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。
 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。
 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。
 もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。
 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《文字は殺し 霊は生かす》 この《霊》をできるだけ人間の言葉で・経験思考としても分かるように 明らかにせよ。という質問になっています。
 《香り》は現実ですか? そんな馬鹿なものはない ですか?

お礼日時:2010/04/09 13:08

ものを大切にすると言うのは、ものというのは、本来は貴重なこころであるのです。


浜辺で拾った貝殻でさえも、それを以って相手に微笑みかければ、大切な品物となるのです。
このこころの延長上に私どもの暮らしの気高さと言うものがあって、例えば、リヤカー一つでも丁寧に扱わないと、だらしがない、と言うことになるのです。

ものにこころが媒介しているので、ものは大切にすると言うのは、あはれのこころであるのではないでしょうか。

・・・・

質問者さん> ★ リアルな本当(hontou)
 ☆ は主観内面つまり心のあり方とは 対応しているのではないのか? していないのか?

回答者<リアルな本当は、こころそのものであって、特に分けられて説明されることはありません。喩えば、言葉を放つことと、そのこころが分けられては居ないようなものです。実体と、行いと、自分自身がもともと一つでしかないようなものです。

・・・・
質問者さん>☆ これは わたしもかねがね思っていました。答責性(説明責任)が 自己表現には つねに伴なっているというかたちで捉えていました。つまりは 言いっぱなしでは 話にならないということかと思います。
 自由とその裏側としての責任ということだと考えます。

回答者<責任は、いわば我がものという思いを離れたところに備わります。何をするにしても、タイプするのにも、画面を使うのにも、考えるのにさえ、責任は備わっています。ことばもそうです。ことばを放つとき、人は愛執を離れています。故にことばはまことであると知られるのです。
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この回答へのお礼

 三件ありますか。――まづは ご回答をありがとうございます。

 まづ初めのお話は分かるように思います。なるほど モノにはいろんな出来事がかかわっているということで その当事者としての心を大事にすることにつながる。ですね?
 ただ わたし自身の場合は ほぼわたし個人だけの問題としてしか関わらないモノは 簡単に捨てますね。じっさいのところ。
 ★ ものにこころが媒介しているので、ものは大切にすると言うのは、あはれのこころであるのではないでしょうか。
 ☆ ですから 相手が一枚加わっている場合には たしかに大事にしますけれど。ううーん。でも モノはモノなんぢゃないですかね? つまり むしろ基本は モノはモノと割り切っておいて それでも 思い出などが詰まっている場合には 大事にするといった感じではいけませんか?

 あとの二件は 込み入っているようです。そしてどちらも 心と言葉と表現(発言にせよ行動にせよ)とが互いにつながっている。もしくは 一体であるのだという方向を打ち出されているのでしょうか。

 これは ややこしい。のではないでしょうか? つまり たぶん志としては そういうことであって しかも実際の自己表現は どこか過不足のようなものが生じるといったことはありませんか?
 ううーん。むつかしいことを提起されましたね。
 儒教の知行合一ですか。言行一致と言えば分かりやすいですか。いや でもこれらは 実践するときの心構えを言っているのでしょうか。――それに対して 《心‐ことば‐表現》の一体性は 心構えの以前の人間存在の条件のようなものでしょうか?
 いやぁ 困りましたね。たしかにわたしも《記憶‐知解‐意志》の一体性を言おうとしているのですが でもこれはあくまで時間差を伴なった過程としての(過程における)一体性なんです。

 ですから 理念としては分かりますが どうなんでしょう 心と発言とのあいだは いわゆるウソや虚構をゆるすというかたちで いわゆるあそびがあると見るほうが 現実的ではないですか?

 説明責任――つまりここでは 法的な責任はややこしいので措いておきますが 説明責任―― これだけは つねについて廻ると思います。この点では 一致していると考えます。


 ちょっと弱っています。ひとまづボールをお返ししますので よろしくどうぞ。

お礼日時:2010/04/07 22:29

前回の解答に画像を添付。

「 《自然に帰れ》!?」の回答画像11
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質問者様>では この《もののあはれ》という人間的自然〔ないし人間的スサノヲ的真実? ないし共同主観としてのアマテラス公共性?〕とは いかなる現実なりや? 



回答者<前者は、ものを大事にすると言ったようなことでしょうか。急に杜撰な回答者になったなと思われるかもしれませんが、現実として回答するならばこういったようなこととなる気がいたします。後者は、責任であるかと思いました。何を為しているのにも責任を伴っていると言う実際性、そのようなことが、現実にはあるでしょう。
そのような責任と実際、実質と確かさの中で、われわれは暮らしをつむいでいると言うのが、リアルな本当(hontou)かと存じます。
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この回答へのお礼

 ふむふむ。――あっ てるてるさん ご回答をありがとうございます。―― つまり
 ☆☆ 《もののあはれ》という人間的自然ないし共同主観としてのアマテラス公共性?とは いかなる現実なりや? 
 ★ 責任であるかと思いました。何を為しているのにも責任を伴っていると言う実際性、そのようなことが、現実にはあるでしょう。
 ☆ これは わたしもかねがね思っていました。答責性(説明責任)が 自己表現には つねに伴なっているというかたちで捉えていました。つまりは 言いっぱなしでは 話にならないということかと思います。
 自由とその裏側としての責任ということだと考えます。

 えっ 何ですって?
 ☆☆ 《もののあはれ》という人間的自然ないし人間的スサノヲ的真実(?)とは いかなる現実なりや? 
 ★ ものを大事にすると言ったようなことでしょうか。
 ☆ ええっ?!?!
 つまり 問いはこうです。
 ○ ウソをつくのも ウソをつこうとするのであれば それとして 実情である。ほんとうのことを言いたいのだが なおウソをつこうというときにも それとして 実情である。ウソをついておきたいのだが ホントのことを言おうと決めるなら それが 実情である。――というような心の広い意味での自由な幅があり揺れ動くとき もののあはれとも言うべき人間的自然としては いったいどういう振る舞いの仕方が考えられるか?
 ☆ そういう内面の真実といったことは 主観的なものなのだから 決められない――こういったお答えでしょうか? 
 それも一理あるようですね。でも何ですって? 《ものを大事にする》ですか? 《もの》って 具体的なものでしょ? 品物でしょう? 
 あぁ 《もったいない運動》といったことですか? 
 でも それも今問うている《人間的スサノヲ的自然》とは ちがうでしょうね。

 あぁ これは これが《ことば以前》とはどういうことか? という問いなのです。真実としてのこころがあるのかどうか? そんなものはないのか? つまり上に言ったように 決められないと言うべきか? 
 ★ リアルな本当(hontou)
 ☆ は主観内面つまり心のあり方とは 対応しているのではないのか? していないのか? 
 つまり これは自己表現のあり方にもかかわって来ますね。
 ううん。そんな〔内面というような〕ことを持ち出さずに 表現されたその仕草をも含めた言葉〔の意味内容〕を互いに捉え合って やり取りを重ねていけばよろしい――というような答えになるのでしょうか?
 ううん。

お礼日時:2010/04/07 19:45

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