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「自分は努力家、苦労してる」自分で言うのは慢心なのか??ダメなのか??
日本人は謙遜を美徳としてる民族です。
それはすばらしいと思います。
でも自分で他者には負けないぐらい努力してるとか
他人にはわからない苦労をしてる
こういうのを主張する方に嫌悪感を抱いたりしますよね。
なぜダメなのでしょうか?
「そんなので努力したとは言えない」「自分で言うのは慢心だ」
こういう事を言う人は人の気持ちのわからない人なのでしょう。
自分がそういう努力を出来ないから妬みで言ってる人もいるような気がします。
自分の評価は自分ですれば良いんです。
他人が決めることではありません。
ある人が他者と同じ事をする事でも
たった1の努力をしてそのポジションに楽々といける人
5まで努力しなければそのポジションにいけない人
この場合1の努力をした人が5の努力をした人に
「もっと努力をしろ」なんて言える権利はないのです。
私の考えはこうです。
みなさんの意見を聞かせて下さい。

A 回答 (7件)

>「自分は努力家、苦労してる」


といってる人が、その分野で名を上げてるなら慢心ではありません。

でも出来ないことへの言い訳では慢心ととられてもしょうがないでしょう。
言うのではなく努力している姿を行動で示せばいいだけです。

実際に行ってる努力の評価は結果でしか見れないというわけではないですが
そのためには努力している姿を評価する人に見せなければいけません。
“1の努力”しか人に見せずに、隠れたところで“5の努力”をしてる人もいっぱいいると思いますしね。

もちろん見た目では分からない障害をもって、思ったような努力が出来ない人がいるのも知ってます。
でも大概の人は、要領が悪かったり、集中力がないだけで“5の努力”をしてるつもりで“1の努力”しかしてないと思います。
自分自身もそれに該当するのでよく分かるつもりですので...
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/05/04 22:45

努力しろ。

という人間は「言う側の思い通りの結果を出すよう努力した人間」を求めてるだけなんです。


犯罪者に高学歴者をみたことがありませんか?
彼らはかなり努力して難関の大学をでています。
それはもう努力家だったでしょう。

塾も先生も親も努力と言う言葉を使った事でしょう。
でも、その努力の結果が犯罪に向けば行ったことに責任を持ちません。


努力しない人間は、「犯罪すらも努力しない」んですよ?


犯罪者もかなり努力してるんです。
難関大学に言われて努力して入ってその成果で地下鉄サリン事件を起こしても、彼らに努力しろ。と言った人間は何をしていますか?

自分に都合が悪くなると部外者を決め込む人間が努力に価値とか、これではまるで努力を使う人間は人間を止めてるみたいじゃないですか?

私は言う権利がないとは思えません。
ただ、努力をいう言葉を使う人間は、人間を辞めてるものというくらいですね。


人間を保っていられるのは、周りに押し留めてくれている友人がいらっしゃるのでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/05/04 22:47

言いたければ思う存分、ご自身に言えばいいでしょう。


その努力、苦労が本物であり今後、自分のバックボーンとなることは自分ならば疑う余地がありません。

ただ、他人にそれが事実だと伝わるかと言えば現実には口では伝わりません。

私は元某競技のアスリートで上半身の筋力不足という問題を抱え、普通の練習メニューとは別に週に4日公営のプールで3000m泳ぐ生活を18ヶ月続けたことがありますが、それだけやっても薄い胸板に細い腕は変わらず、逆に恥ずかしくて他人には言えませんでした。

やはり、言えたのはそれなりのレコードホルダーとなってからでした。

5の努力をしなければ、才ある1の人に並べないのであれば自分は5で満足することなく「他人に言われるまでも無く自分には努力が足りない!!」と10の努力をするのが私の周りにいたアスリートと呼ばれる人種でした。

スポーツの話で無いようなのであまり参考にはならないと思いますが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/05/04 22:47

>自分の評価は自分ですれば良いんです。


他人が決めることではありません。
そうですね、その通りです。
だからこそ「自分がどう他人に見られるか?」が重要になってしまうのです。
他人は相手の何物をも理解してないわけですから、それを他人に理解させるということは必要なときもあります。
逆に「必要が無い場合」というのは、それよりももっとたくさんあります。

「自分は努力してきました」ということは、それが自分にとって「有利に働く」と判断するのならば他人に理解してもらうことも良いかも知れません。
ケースバイケースです。
逆にそれを訴えることで、他人から誤解や差別意識を持たれるくらいならば「言わぬが花」ということになりますよね?。
他人と自分との関係性は、それくらいに「あやふや」であり、それゆえに細心の注意をはらわなければいけないのです。

「慢心」という人がみな「思いやりが無い人」とは言えませんし、認めていないということでもないのです。
基準は自分自身にあるのは先に言った通りですから、その基準に従って感想を述べているに過ぎない。
自分に厳しく他者に厳しい人もいます。
自分に甘く、他者には厳しい人もいる。
自分の経験から、基準が出来ていて、それで他者への判断を下しているわけです。
もちろん「それは言わないし、言えない」という結論に達する人もいますよね。

二人以上の人間がいた場合、考え方が共通でなくても、それは当たり前のことです。
自分がしてきた努力が、社会的に評価されるかどうかは、あくまでも他者に委ねられてしまうものなのですよ。
努力を「手放しで」評価してくれる社会というのは、残念ながらこの地球上には存在しないでしょうね。
一見「そうみえるような」社会もありますけど、それは「見せかけ」ですから間違えないようにしてください。
「自由の国」とか「万人へのチャンス」とか謳っている国にも、ちゃんと「暗黒」が存在するものです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/05/04 22:47

人に言ったところで、何も変わらないと思います。



努力してても結果がでない限りは、その努力は(無駄とは言わないまでも)効果的ではありません。

ただ、効果が見えない場合もめげずに努力を続けた人が、きちんと成果を出しているように感じます。

自分の中で「自分は努力している」と自信を持てるくらい努力を続ければいいことかと思います。

人から「もっと努力しろ」と言われるのは、余計なお世話としか感じないですが、努力の仕方
(かける時間、やることの再考)を考え直すいいきっかけだと思えばいいかと。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/05/04 22:46

生きることは苦労の連続。


人は苦労を選ぶ自由があるだけさ。


謙遜ってレベルじゃない。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/05/04 22:46

人間社会で価値があるのはどんな奇麗事をいっても結果だからです



例えばご自身商品を選ぶ時 音楽でもレストランでも

努力はしているが不味い店 一方努力はしてないが素晴らしく美味い店

努力はしているが学芸会レベルの歌手のCD 一方努力はしてないが素晴らしく感動的なCD

どちらにお金を払いますか? 


努力そのものなんて別になんら価値があるわけではありません 

外的評価を得たい場合必要に迫られてやる行為です 

もちろんあまりにドライでもよろしくないので「過程が重要」「皆勤賞」みたいな

考えがありますがそこがメインではないでしょうね

残念ながら結果を出すしかありませんそれがこの社会の掟です
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/05/04 22:45

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