佐江衆一さんの「わが屍は野に捨てよ」、吉川英治さんの「親鸞」、五木寛之さんの「蓮如」といったような、仏教の歴史小説を読みたく思っています。これらの他に、どういったものがあるのかもしよろしければお教えくださいませ・・・

A 回答 (1件)

真継伸彦 『鮫』『無明』(やや入手困難かも…)



岳宏一郎『蓮如 夏の嵐』(これは新品売っていると思います)

丹羽文雄 『蓮如』『親鸞』(文庫で巻数多かったかと思いました。古本でばらばらに注文になるかも。)

倉田百三 『出家とその弟子』(戯曲。これは超ベストセラーなので、やたら色々な文庫にあったはず。)

津本陽『弥陀の橋は 親鸞聖人伝』(文庫)『無量の光』(こちらは現時点では単行本しかないのではないかと思います。どうしてもやや重複ぎみか?単行本のカバーは格好良いです)
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Q法然と親鸞

法然と親鸞
法然は浄土での往生の方法として、出家や修行ではなく専修念仏のみでよいと説かれました。それを継いだのが親鸞だと思います。
今、法然の浄土宗より、親鸞の浄土真宗の方がよく広まっているのはなぜでしょうか?また、二派の考え方の大きな違いは何でしょうか?

Aベストアンサー

> 大乗仏教、小乗仏教。一つの説は、大乗は国家や、社会を救い、小乗は個人を救う。
> もう一つは、大乗は、出家者、在家者すべてを救い、小乗は、出家者だけを救う。


竹村牧男 『大乗仏教入門』

 十地の道程を進めば、やがて仏になるはずです。そして、そこに菩薩の究極の目標があるはずです。しかし、菩薩のなかには、仏となることを拒否する者もいます。あえて仏にはならずに、菩薩のままでいたいというのです。それは、いつまでも衆生とともにいて、そして衆生救済に励みたいからなのです。[...]

 一般に、仏になりえない者を「一闡提」といいます。大乗仏教では、本来、仏になりえない者はいないのですが、あまりにも煩悩が深重で善を修める能力のないものや、正しい教えと真理を誹謗する人などは、仏にはなりえない、一闡提と呼ばれるのだとあえていうのです。その一闡提のなかに、菩薩の一闡提もいるのです。それは、仏になる能力を欠くからではなくて、大悲によって自ら仏にならないからです。そうした菩薩の一闡提を、大悲闡提といいます。

 大悲闡提の菩薩は、自分から進んでわざわざ苦しみ悩む人のそばに赴きます、むしろ自ら願って苦悩の深い世界、悪趣に生まれようとするのです。十地を上ってさらに仏となるよりも、あえて人間界やさらには地獄界に往って生まれようとします。自ら求めて困難の多い、重苦ののしかかる世界に生まれ、働こうとするのです。こうした菩薩を、願生の菩薩といいます。 [...]
仏になったからといって衆生救済の活動ができなくなるはずはありません。しかし大乗仏教徒たちは、あえて涅槃に入らない菩薩、仏にならない菩薩という考え方を提示したのです。ここにともかく、自ら悪趣に生じてまで、一切衆生を救済するのだという菩薩の理想が示されています。『法華経』の法師品第十には、「大願を成就せるも、衆生を愍むが故に、この人間に生れたるなり。」「清浄の土を捨てて、衆を愍れむが故に、ここにうまれたるなり」ちにあります。この切なる願いに、菩薩道の本義があると考えられます。

 十地の菩薩道は、菩薩がいかに向上していくか、ということを描くだけが本意ではありません。むしろ、どのように一切衆生救済の主体となっていくかが主題であるともいえます。そして、その究極は、仏となることを自ら拒否し、あえて願って悪趣に生まれる菩薩となることにあります。ここに大乗仏教の核心があるのです。

> 大乗仏教、小乗仏教。一つの説は、大乗は国家や、社会を救い、小乗は個人を救う。
> もう一つは、大乗は、出家者、在家者すべてを救い、小乗は、出家者だけを救う。


竹村牧男 『大乗仏教入門』

 十地の道程を進めば、やがて仏になるはずです。そして、そこに菩薩の究極の目標があるはずです。しかし、菩薩のなかには、仏となることを拒否する者もいます。あえて仏にはならずに、菩薩のままでいたいというのです。それは、いつまでも衆生とともにいて、そして衆生救済に励みたいからなのです。[...]

 一般...続きを読む

Q五木寛之「親鸞」特別版をネット予約したい

 今年の8月ごろまで地元紙で連載されていた五木寛之さんの小説「親鸞」が、この度書籍化されるらしく、紙上に広告が載っておりました。

 しかしこの作品、どうやら講談社出版の通常版と、地元新聞社出版の、加筆された特別版が存在するらしく、後者の方は完全予約販売になっていて、通常の書店には並ばないらしいのです。
 しかも予約方法が、その新聞社の本局支局、販売店、県内の特定書店のみ受付となっていて、ネットでの予約は無し。
 交通の便が悪い田舎のため、該当場所はどこも遠すぎて予約ができないと考えていた矢先、あることが頭をよぎりました。

 夏に旅行へ出かけた際、津々浦々のローカル紙を読んだのですが、そこでも「親鸞」が連載されていた新聞が結構あったのです。
 もしかすると、こちらの地元紙には無くても、他県にはネット予約を受け付けている新聞社があるかもしれない。
 
 そこで、もし「親鸞」特別版のネット予約を行っている新聞社がございましたら、情報提供をお願いできますでしょうか。

 では、よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

東京新聞の出版物はインターネットでの注文も受け付けているようなので、メールを入れてみてはいかがですか?
http://www.tokyo-np.co.jp/tbook/order.html

https://cgi2.chunichi.co.jp/cgi-bin/tokyo-np/bookorder/syo/bookorder.cgi

Q浄土宗と真言宗の共通点

浄土宗の葬儀に出て真言宗と共通点が多くある事に気が付きました。
それは以下の点でした。

1、浄土宗では子供がなくなった場合なぜお地蔵さんを建てるのですか?
2、亡くなった人には阿弥陀さんが迎えに来るのになぜ追善供養を必要とするのですか?
3、葬儀の時、導師は引導を渡す必要があるのでしょうか?
4、お念仏と阿弥陀経の他に阿弥陀如来根本陀羅尼を読んだりするのは何故ですか?

新義真言宗では亡くなった方は阿弥陀さんがお迎えに来て蓮華座に乗せて西方極楽浄土に旅立つと和尚さんは御法話されました。そして地域によっては阿弥陀経を読んだりお念仏もします。阿弥陀講もあります。まるで浄土宗のようでした。
新義真言宗は浄土宗の影響を受けているのでしょうか?それならば両者ともなぜ塔婆を立てて追善供養したり白装束を着せて三途の川の渡し賃の六文銭を持たせたりするのでしょう?法要ごとに十三仏による裁判とは何でしょう?

さらに浄土宗は浄土真宗と大きく阿弥陀さんの本願についての解釈がことなるようです。
阿弥陀さんの本願に「全ての人を往生させる」と言っているのになぜ癖になるくらい常に口称念仏をしなければならないと法然さんは仰ったのですか?そこまでしなくても臨終には御来迎されるでしょうに。法然さんと親鸞さんでなぜここまで解釈がことなるのでしょう。
この宗派は現世で生きる希望を失った人がせめて来世で救われたいと願う人の為にあるような気がします。元気一杯希望一杯の人には向かない気がしました。

どなたか分かる方宜しくお願いします。

浄土宗の葬儀に出て真言宗と共通点が多くある事に気が付きました。
それは以下の点でした。

1、浄土宗では子供がなくなった場合なぜお地蔵さんを建てるのですか?
2、亡くなった人には阿弥陀さんが迎えに来るのになぜ追善供養を必要とするのですか?
3、葬儀の時、導師は引導を渡す必要があるのでしょうか?
4、お念仏と阿弥陀経の他に阿弥陀如来根本陀羅尼を読んだりするのは何故ですか?

新義真言宗では亡くなった方は阿弥陀さんがお迎えに来て蓮華座に乗せて西方極楽浄土に旅立つと和尚さんは御法話され...続きを読む

Aベストアンサー

本当はかなり難しい問題ですが、素人にとって分かり易いのは、浄土宗は他力本願、真言宗は自力で悟りを得る、点が基本的に違います。

儀式その他は似たところはあるでしょうから、あまり気にすることはありません。
お経はそうでもない。
たとえば般若経は浄土宗では読みません。般若経は自力の御経だからです。
浄土宗、浄土真宗では阿弥陀様のい救っていただくことによりはじめて成仏できる、と教えますので、自力の御経を大切にするなど、とんでもない。ことです。
とはいえ、浄土宗でも般若経を読む例もあるとか最近聞きましたが、何か読めるような屁理屈を作っているのでしょう。

Q三国志(5)(吉川英治)の冒頭文を教えてください

最近、図書館から三国志を借りてきて読んでいて、4巻読み終えました。

今まで、「吉川英治歴史時代文庫」の三国志を読んでいたのですが、帰宅後今日借りた第5巻を見てみると、「吉川英治文庫」のものでした。

「吉川英治文庫」の「三国志(5)」は赤壁の巻のつづきで、「渦巻く水、山のような怒涛、そして・・・」で始まります。

読み損なってしまう部分があったら嫌なので、「吉川英治歴史時代文庫」の「三国志(5)」をお持ちの方がいらっしゃれば、冒頭が上記のものと同じかどうか教えていただけませんか?

くだらない質問ですみません。どうぞ宜しくお願いします。

Aベストアンサー

「吉川英治歴史時代文庫」の「三国志(五)」の最初からですが。。。

赤壁の巻(つづき)
亡流

渦まく水、山のような怒涛、そして岸うつ飛沫。この夜、白河の底に。。。

「吉川英治歴史時代文庫」の「三国志」は全8巻。間違いないと思います。
ちなみに、最後の8巻「後蜀三十年」の下りの部分は涙モノです。吉川英治という作家は本当に格調高い文章を書かれていたのだなぁ、と感動しました。
その感動部分ですが、魏将鄧艾(とうがい)の軍門に下り、成都開城により蜀が滅亡した後にこう続けています。
「昭烈廟の松柏森々と深き処、この日、風はいかなる悲愁を調べていたろうか。定軍山の雲高き処、孔明の眦はいかにふさがれていたろうか。なおなお、関羽、張飛、そのほか幾多の父、幾多の子、また、無数の英骨、忠臣、義胆の輩はいかに泉下の無念をなぐさめていたろうか。。。。」
あっ、あまり続けちゃうと楽しみがなくなっちゃいますねw。
ともかく、間違いではないと思います。

Q法然・親鸞・道元・日蓮はお互いの面識は?

各聖人は生きた時代が重なってる様ですが、法然聖人と日蓮聖人は重なってませんが。  
  各聖人たちはお互いを知ってたのでしょうか?

  お互いの会った事は有るのでしょうか?


特に日蓮聖人は禅は魔界に入る  浄土宗真宗は無間地獄と言っていると認識いているのですが。

私自身凡人身では有りますが、確かに禅は難解で有りますが魔界転じて自覚が得られような気がするのですが、浄土系も取り様によっては現実逃避的に見えるのですがよくよく思案しますと立派な教えだと思うのですが。

聖人たち自覚の底は繋がっていると思うのですが、お互い面識が有り語り合えば解りあえた様な気がするのですが。

法然・親鸞両聖人は師弟関係の様ですから別ですが。

Aベストアンサー

>>法然・親鸞・道元・日蓮はお互いの面識は?
>>お互いの会った事は有るのでしょうか?
質問者ご自身がおっしゃるように法然上人と親鸞聖人は師弟関係にあったわけですから、面識はあったでしょう。道元禅師と日蓮聖人は、質問にある方とは面識はないと思います。

>>特に日蓮聖人は禅は魔界に入る  浄土宗真宗は無間地獄と言っていると認識いているのですが。
 「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」ってやつですね。この中でも、日蓮聖人は法然上人を中心とする日本浄土教に関しては非常に厳しい批判を加えていますね。
 こういった批判が行われたことは親鸞聖人の弟子(親鸞聖人は「弟子一人ももたず」といっていますけど)唯円が著わした『歎異抄』第二条の中にもうかがうことができます。

おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

このように関東の念仏者は何かを不安に思い、親鸞聖人をたずねたわけですね。ひとつには浄土教の教えを曲解した同門のものたちへの不安という内的な要因と、もうひとつは浄土教外部からの批判というものがあったと考えられます。その外部からの批判としてあげられるのが日蓮聖人であったろうといわれます。しかし、当時親鸞聖人はマイナーな人だったはずですから、日蓮聖人も直接会って話してやろうということは思ってもみなかったと思いますよ。

>>聖人たち自覚の底は繋がっていると思うのですが、お互い面識が有り語り合えば解りあえた様な気がするのですが。
 これについては先にも述べている人がいらっしゃいますが、やはり末法の克服というのがその根底にあるでしょうね。「末法」とはわかりやすくいえば「修行できない、悟りを開けない時代」ということだと思っていただければいいと思います。
 法然上人や親鸞聖人は、末法という時代に住む自分の弱さや愚かさや醜さを徹底的に見つめ、悟ることができない私であるという自己反省から出発します。そして、悟りを開くためには阿弥陀仏の御本願を信じ「南無阿弥陀仏」と称えて、極楽というすばらしい環境で悟りを開くしかないと考えます。
 道元禅師はお釈迦様は誰もが悟れることを説かれている。また、お釈迦様ももとは凡夫であったはずだと考え、たとえ時代が末法であってもお釈迦様が悟られたときのように、座禅を組み座りぬくことこそ悟りへの近道と考えます。
 日蓮聖人は天台大師智ギの経典理解に基づき、「法華経」を最高の経典と考えます。この真実の法門たる『妙法蓮華経』にこそお釈迦様悟りのエッセンスが詰まっており、さらには「妙法蓮華経」の題目の中に集約されているといいます。そして、「南無妙法蓮華経」と唱え題目を受け取ることこそ、末法に凡夫の中に仏の世界が展開される唯一の方法と考えます。
(乱暴な説明ですが、ご容赦ください。)
 このように克服方法は違いますが、鎌倉新仏教と呼ばれる仏教の祖師たちの根底にあるのは「末法の克服」ということになります。
 まぁ、だからといって分かり合えたかどうかはわかりませんが、影響しあったかもしれませんね。例をあげれば、日蓮聖人が若いころには法然浄土教はもうメジャーな教えですから、必ず学んでいたでしょう。そうでなくては批判することはできませんしね。日蓮聖人は最終的には法然浄土教を批判する立場になられましたが、法然浄土教から多大な影響を受け「南無妙法蓮華経」の題目を生み出したと考えるのが一般的ですね。

 長々書き連ねましたが、まとまらぬ文章であることどうぞお許しください。文意を読み取っていただきたく存じます。
 合掌 南無阿弥陀佛

>>法然・親鸞・道元・日蓮はお互いの面識は?
>>お互いの会った事は有るのでしょうか?
質問者ご自身がおっしゃるように法然上人と親鸞聖人は師弟関係にあったわけですから、面識はあったでしょう。道元禅師と日蓮聖人は、質問にある方とは面識はないと思います。

>>特に日蓮聖人は禅は魔界に入る  浄土宗真宗は無間地獄と言っていると認識いているのですが。
 「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」ってやつですね。この中でも、日蓮聖人は法然上人を中心とする日本浄土教に関しては非常に厳し...続きを読む

Q吉川英治の平家物語は全何巻まであるのですか?

 古本屋で本を探しています。なかなか見つからず、インターネットのオークションを検索したら、全4冊や全16冊など、同じような文庫本なのにまちまちで、買いたいけどどうしていいか困ってます。どなたか教えてください。

Aベストアンサー

 こんばんわ。吉川先生の御著書は手元にはないのですが、以前地元の文学館で吉川英治展をやったときに、見た(知った)のですが、「平家物語」(正しくは『新・平家物語』ですが)の文庫は全部で16巻あったと記憶しています。
 講談社から「吉川英治歴史時代文庫」として出ているようですね。
 安く・良い状態で本を入手できると良いですね!

Q愚禿釋親鸞

[1] なぜ「愚禿」といふ名を選んだのですか。

[2] 「愚禿釋親鸞」は、「愚禿釋・親鸞」ですか、「愚禿・釋親鸞」ですか。
「ここに愚禿釋の親鸞、よろこばしきかな西蕃月氏の聖典、東夏日域の師釋、あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえたり。」
(親鸞『教行信証』金子大栄校訂 岩波文庫 24ページ 序)
と書いてあるので、「愚禿釋・親鸞」だとずつと思つてゐたのですが、ネット上では「愚禿・釋親鸞」もあるやうです。
http://ryoukakuji.net/04butuji/okamisori_index.html

Aベストアンサー

こないだはどうも。真宗のボーズと呼ばれているものです。

>>[1] なぜ「愚禿」といふ名を選んだのですか。
 この愚禿の「禿」の字ですが、今は髪の毛がない事ですが、ここでは禿は「かむろ・かぶろ」という事で、剃髪したあと伸びてきたから剃るでもなく、伸ばして髷を結うわけでもない、ぼさぼさ頭を指します。この「禿」という言葉の根拠を経典から調べますと、『涅槃経』(いわゆる大乗の『涅槃経』です)の中に、

戒を破り法を護らざる者を禿居士と名づく。
爾の時に多く飢餓の為の故に発心出家するもの有らん。是の如き之人を名づけて禿人と為す。

とあり、禿とはいわば「偽物の坊さん」という意味で説かれます。また、日本仏教においても伝教大師最澄は「入山発願文」の中で、自身の事を

愚中の極愚、狂中の極狂、塵秃の有情、低下の最澄

と述べ、この文中から「愚」「禿」双方の文字を読み取ることができます。こういった、自己反省は浄土教の流れの中には強く受け継がれ、 恵心僧都源信は『往生要集』序に自身の事を「予がごとき頑魯のもの」と述べていますし、法然聖人も自身の事を「愚痴の法然房」と述べています。
 特に愚禿という言葉は、親鸞聖人を法然聖人のもとへ導いた兄弟子聖覚法印が『十六門記』の中で

愚禿。此篇を記するに身毛爲竪て雙眼に涙を浮ぶ。

とあって、自身の事を愚禿と呼び、法然聖人の事を思い起こしながらその時のことを書いている最中に涙が浮かんでいると記しています。この聖覚法印は『唯心鈔』の著者であり親鸞聖人に大きな影響を受けた人物としても知られます。
 また、親鸞聖人は『教行信証』化身土巻に

僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす。

として、愚禿とは「非僧非俗」の名乗りとしておられますが、この非僧非俗の語は『徒然草』に影響を与えたといわれる『一言芳談抄』の中で

賀古の教信は、西には垣もせず、極楽との間をあけあはせて、本尊をも安ぜず、聖教も持せず、僧にもあらず俗にもあらぬ形にて、つねに西に向かいて念仏して、其餘は忘れたるが如し

とあります。この書物は1297年から1350年ごろ成立と考えられますので、1263年に亡くなっている親鸞聖人が御生前『一言芳談抄』自体を見たとは考えられませんが、『一言芳談抄』の中に登場している教信沙弥に親鸞聖人はあこがれていたようです。それは、三代目覚如上人は『改邪抄』の中で親鸞聖人が「我は是加古教信沙弥の定なり(私は加古の教信沙弥みたいになりたい)」と常におっしゃっていたとあります。きっと、この『一言芳談抄』に収録されている言葉をどこかで目にしておられたと考えられます。
 このように親鸞聖人の「愚禿」という名乗りは数多くの方から影響を受けて成立したお考えであることが分かります。そして、この愚禿という言葉を流罪より亡くなる直前まで使い続けたの親鸞聖人のお考えの根幹に通底てしているのは、浄土教的な自分自身への反省であると考えます。親鸞聖人の師法然聖人は『往生大要抄』の中で

初めには我が身のほどを信じ 後には仏の願を信ずるなり

と御示しになり、お念仏の教えの始まりはまず自分自身の愚かさを知ることとしています。そして愚かさを知るからこそ、そんな愚かな自分を仏にしてやりたいという阿弥陀仏の本願のありがたさを本当の意味でいただけるとしています。この深い自己反省こそがお念仏の教えにおいては大変重要になります。
 しかしながら、親鸞聖人のひひ孫存覚上人は『六要鈔』の中で

「 愚禿」というは、「愚」はこれ憃なり。智に対し、賢に対す。聖人の徳は智なり、賢なり。実には愚憃にあらず。今「愚」というは、これ卑謙の詞なり。「禿」は称して姓と為す。

として、いわば謙遜の詞としておっしゃったとし、また『歎徳文』のなかでは親鸞聖人自らが末法の世に住まう凡夫の状態を示して阿弥陀仏がそんな凡夫を救いたいという心を示すために「愚禿」と名乗られたのだともしています。しかし、この存覚上人の説には私は賛同しかねます。
 私は愚禿の名乗りはそういった謙遜や教化のための言葉ではなく、やはり親鸞聖人自身の深い自己反省からなる語であると思います。この愚禿が表す非僧非俗と似た言葉に半僧半俗という言葉がありますが親鸞聖人はお使いになりません。そう考えるとき非僧非俗という言葉の中には、現実の自己への否定と、他者への肯定が内在しているように感じます。
 まず「僧」とはどのような人々を指すかといえば、「親鸞聖人御消息」の中において

聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真 言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。

と説いて、親鸞聖人は他宗の自力の修行者たちの事を否定していません。他宗の修行者たちは人々に仏教とはこれほど厳しいものであると教えてくださる仏たちであると考えておいでです。そして、心の底から人々のため修行に励む人たちを尊敬し、「僧」としていると考えられます。
 そして、「俗」に関しては直接あらわした言葉を見出すことはできませんが、親鸞聖人は『一念多念文意』の中で

「恒願一切臨終時 勝縁勝境悉現前」といふは、「恒」は、つねにといふ、「願」はねがふといふなり。いまつねにといふは、たえぬこころなり、をりにしたがうて、ときどきもねがへといふなり。いまつねにといふは、常の義にはあらず。

として、お念仏の教えにおいて「つね」という時は、「常」ではなく「恒」という意味で、「恒」とは俗事に追われながらも、朝晩のお勤めや法要等の何かのおりに思い出して、お念仏を称えて極楽往生をねがう事とされています。まさにこれは俗人の姿です。このように世俗にまみれながらもお念仏に励む姿を「俗」していると考えられます。
 しかし、自分に目を向けてみれば、人々のために修行に励む僧にもなりきれず、俗事に追われながらもお念仏を称え素朴に生活を送る人にもなりきれない。そんな僧にも俗にもなりきれない自分を非僧非俗とし、「愚禿」と称しておられると考えます。


>>[2] 「愚禿釋親鸞」は、「愚禿釋・親鸞」ですか、「愚禿・釋親鸞」ですか。
 これはですね、いろいろ分類の仕方もあると思いますが、細かく分けるとしたら「愚禿・釋・親鸞」となるかと思います。愚禿に関しては上述の通りです。
 では、「釋」はどのようなものかといえば、これは中国の訳経家釋道安に由来する釈号と呼ばれるものです。釋道安には多くの功績がありますが、この方は四世紀頃の人なのですがこの当時の僧侶は安とか支とか竺とか康という姓を名乗っている人が多いのですが、釋道安は「すべての僧侶はお釈迦様の弟子(釋子)なのであるから、釋を姓とすべきである」として自らも釋道安と名乗っています。これは、釋道安独自の見解ではなく、経典によるもので『増一阿含経』の中に

四河は海に入りて、本の名字なく、同一鹹味の海水となる。四姓亦如来所において出家学道せば本姓なく、沙門釋子と称すべし

とあって、当時のインドはカースト制という身分制度に区切られておりましたが、名前を聞くだけでその身分が分かってしまったようです。ですが、お釈迦様は『スッタニパータ』第三章の中で

650 生まれによって(バラモン)となるのではない。生まれによって(バラモンならざる者)となるのでもない。行為によって(バラモン)なのである。行為によって(バラモンならざる者)なのである。

とあって、人は生まれによってバラモン(ここでは聖者というぐらいにとらえてください。)になるのではなく、行いによってバラモンになるとおっしゃっているように、真理を求めるのに身分は関係ないという立場でした。ですので、出家者となったならば、身分制度の名前を捨てて、仏弟子(釋子)であると名乗りなさいとしたようです。しかし、この経典が中国に輸入された際、仏弟子という意味であった釋子という言葉が釋道安によって姓として解釈されできたのが釋号という事になります。
 親鸞聖人が「親鸞」と名乗る前のお名前に関しては「綽空」「善信」という名前であったことが知られますが、元久元年(1204年)親鸞聖人が法然聖人から『選択本願念仏集』の書写を許された際、その書写を終えて法然聖人に提出すると、法然聖人がの冒頭に

「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と「釋綽空」

と直々に内題を書いてくださったと『教行信証』化身土巻の後序に記しておいでです。またここには、次の年法然聖人の真影(姿を描いたもの)を制作し法然聖人に提出するときに名前を善信と改めたとあります。また、そのことについて親鸞聖人の門下である性真上人の『親鸞聖人血脈文集』の中で、その真影に法然聖人が

若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現 在成仏 当知本誓 重願不虚 衆生称念 必得往生 南無阿弥陀仏 釈善信

と書いてくださったとありますので、綽空の時代も善信(こちらの名前は晩年も使っています)の時代も親鸞と御名乗りになっても釋号は変わらず使っておられます。
 上述のように、「釋」の字は釋号というもので、わたくし個人的には「愚禿・釋・親鸞」と分解した方がわかりやすいように思います。

急ごしらえの為、誤字脱字乱文ご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛

こないだはどうも。真宗のボーズと呼ばれているものです。

>>[1] なぜ「愚禿」といふ名を選んだのですか。
 この愚禿の「禿」の字ですが、今は髪の毛がない事ですが、ここでは禿は「かむろ・かぶろ」という事で、剃髪したあと伸びてきたから剃るでもなく、伸ばして髷を結うわけでもない、ぼさぼさ頭を指します。この「禿」という言葉の根拠を経典から調べますと、『涅槃経』(いわゆる大乗の『涅槃経』です)の中に、

戒を破り法を護らざる者を禿居士と名づく。
爾の時に多く飢餓の為の故に発心出家す...続きを読む

Q小野不由美さんの「屍鬼」という本

小野不由美さんの「屍鬼」という本に興味を持ちました。
でも1000ページくらいあるようなので、読むのは大変そうです。
できるだけ詳細なストーリーとどの辺が面白いのか
読んだことのある方がいたら教えてもらえませんか?

Aベストアンサー

文庫版で全5巻を持っています。

これは内容を書くと面白くないので、1章は我慢して読んで、人の名前と関係をしっかり覚えてください、としか言えません(笑)
たしかに、和製ゾンビですねえ。

場所は閉鎖されたムラ社会が生き残っている山の中の村です。
そこに転居者が来て……が限界です。

どの辺がおもしろいか、ですが、とにかくどんでん返しの繰り返しです。
ただ、謎は文庫の3巻でわかります。(手元にないので、何章かわからないです。ゴメンナサイ……)
ですが、そこからの展開が面白いので、そこまでがんばってください。
逆に言うとそこまでがちょっと辛いですねえ。
登場人物が多すぎるんですよね。それがそのまま全部伏線です。
謎が解けてから、誰がどう動くのかが見物ですよ。

Q親鸞の「横に超える」とは?

親鸞について読んでいたら、「横超」という考え方を目にしました。

仏教で悟りを求めて、修行をして、戒律を守って自分を高めて
縦に超えて行くのはイメージとしてよくわかるのですが、
親鸞の横に超えるというのは、正直よくわかりませんでした。

どなたか親鸞に詳しい方の解説をお願いします。

Aベストアンサー

 どうも、真宗のボーズと呼ばれているものです。今報恩講シーズンで忙しいもんで、手短に書かせていただきます。
 この横超の語の説明として親鸞聖人の文章でわかりやすいのは『愚禿抄』の冒頭の文章かと思います。とりあえず引用しますと

聖道・浄土の教について、二教あり。
 一には大乗の教、二には小乗の教なり。

大乗教について、二教あり。
 一には頓教、二には漸教なり。

頓教について、また二教・二超あり。
二教とは、
 一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。
 二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。
二超とは、
 一には「竪超」即身是仏・即身成仏等の証果なり。
 二には「横超」選択本願・真実報土・即得往生なり。

漸教について、また二教・二出あり。
二教とは、
 一には難行道聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。
 二には易行道浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
二出とは、
 一には「竪出」聖道、歴劫修行の証なり。
 二には「横出」浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。

とあります。親鸞聖人は大乗仏教を「竪超」「横超」「竪出」「横出」で分類をしています。
 まず、竪横の違いですが、「竪」というのは、自力によって悟りを開くという考え方を表します。「横」とは極楽に往生して悟りを開くという事を表します。
 次に、超出の違いは、「超」は突然悟り、または悟りの世界が開かれるということです。「出」は徐々に悟りを開く、徐々に悟りの世界へ近づいていうことです。
 これを組み合わせますと上述のの四通りの悟り方があるという事になります。
 「竪超」は、何かのきっかけにハッと気が付いて突然悟りを開くこと。
 「竪出」は、長い時間をかけて段階を踏んで煩悩を消し去って、悟りに近づくということ。
 この二つを、自力の教えであるとしています。質問者のいう、

>>仏教で悟りを求めて、修行をして、戒律を守って自分を高めて
>>縦に超えて行くのはイメージとしてよくわかるのですが

というのは「竪出」のイメージかと思います。
 「横出」は、長い時間をかけて段階を踏んで煩悩を消し去って極楽浄土に近づくということ。
 このことを、他力の中の自力という書かれ方をしています。

 最後に本題の「横超」は順番に見てきたとおりの考えでいうと、煩悩にまみれているはずの人間に突然極楽往生というものがあたえられるという事になります。これは「正信偈」の中では、

煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり

とあって、煩悩を持つものが突如として仏の悟りへと導かれると説かれている部分がそれでしょう。
 このことがどのようなプロセスによって起こるかについては、『教行信証』信巻において

横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。

と説かれ、横超はすべて真実の行つまり南無阿弥陀仏を称えることに集約をされているとしています。そして、親鸞聖人は私たちの称える南無阿弥陀仏を聞けといいます。

しかるに『経』(『無量寿経』の下巻「聞其名号信心歓喜乃至一念」の中)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。


私たちの称える南無阿弥陀仏は、そのまま阿弥陀仏が浄土に往生させようと働いてくださっている姿そのままであったと聞こえた時、それが信心であり、この信心が極楽往生の正因であるとしています。

 つまり横超とは、煩悩にまみれた凡夫が、南無阿弥陀仏と称える中で、自分で称えていたはずの南無阿弥陀仏が自分の声ではなく阿弥陀仏の声と聞こえたその瞬間(『教行信証』等では「信楽開発の時剋の極促」とあります)に、煩悩を持ったままで極楽往生の正因を得た姿を言うようです。


 あと、余談ですが法然聖人が菩提心を否定したという回答がございますが、これは正確ではありません。『選択本願念仏集』の中で法然聖人は、

「発菩提心」、その言一なりといへども、おのおのその宗に随ひてその義不同なり。 しかればすなはち「菩提心」の一句、広く諸経に亘り、あまねく顕密を該ねたり。意気博遠にして詮測沖邈なり。願はくはもろもろの行者、一を執して万を遮することなかれ。もろもろの往生を求むる人、おのおのすべからく自宗の菩提心を発すべし。

と、菩提心の言葉は同じでも宗派によって使われ方が違うとしています。また、『逆修説法』の中でも法然聖人は浄土宗の菩提心について

次に発菩提心とは諸宗の意不同なり、今浄土宗の菩提心とは先ず浄土に往生して、一切衆生を度し、一切の煩悩を断じ、一切の法門悟り、無上菩提を証せんと欲する心なり。

と説いて、浄土宗には浄土宗の菩提心の考え方があることを示しています。つまり、法然聖人が否定する菩提心は「自力の菩提心」であって、浄土に往生し悟りを開こうという「他力の菩提心」は否定していません。しかも、否定というのも「往生には必要がない」という事ですのでご注意を。

 また、法然聖人の菩提心の考え方が、上述した親鸞聖人の横超の菩提心の原型であると考えられます。

 ちょっと時間がなかったので、かなりかいつまんでしまいましたがこんなところです。誤字脱字乱文はご容赦ください。
 合掌 南無阿弥陀仏

 どうも、真宗のボーズと呼ばれているものです。今報恩講シーズンで忙しいもんで、手短に書かせていただきます。
 この横超の語の説明として親鸞聖人の文章でわかりやすいのは『愚禿抄』の冒頭の文章かと思います。とりあえず引用しますと

聖道・浄土の教について、二教あり。
 一には大乗の教、二には小乗の教なり。

大乗教について、二教あり。
 一には頓教、二には漸教なり。

頓教について、また二教・二超あり。
二教とは、
 一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教な...続きを読む

Q親鸞

浄土真宗の宗祖の親鸞について知りたいのです。
歴史や仏教に疎い人でもわかる本を教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

どうも、真宗の俗にボーズと呼ばれているものです。お彼岸前で金儲けに奔走している糞ボーズなので手短に書きます。

>>浄土真宗の宗祖の親鸞について知りたいのです。
>>歴史や仏教に疎い人でもわかる本を教えてください。
>>よろしくお願いします。
書籍ではありませんが、ユーチューブで「Shinran Shonin, his wish and light」と検索してみてください。たぶん、本願寺派さんが親鸞聖人の750回忌の時に作ったアニメ映画が出てくるはずです。とりあえず入門としてはよいのではないでしょうか?

書籍としては、わたくしの恩師ひろさちや先生の書籍などが読みやすいかと思います。教え子であったわたくしが言うのもなんですがかなりひろ先生の親鸞聖人理解は間違っている部分(信心があれば念仏はいらないという部分が特にそうです。親鸞聖人は念仏と信心を別々に考えてはおられません。)も多いのですが、やはり読みやすさという事ではよいかと思います。

しかし、分かりやすさと正確さはなかなか共存するのはむずかしいのかもしれません。これは仏教に限ったことではないでしょうが、やはりある程度正確に理解するには、むずかいしい言葉や仏教用語も理解していく必要はあります。こういったとき、独学か人に教えを乞うかという事になるかと思います。
まず、独学の場合は辞書は必須のアイテムです。専門的な辞書は膨大で辞書を読むのに辞書がいるという事態は招きかねませんので、入門的な辞書としましては『岩波仏教辞典』あたりが良いかと思われます。比較的平易な言葉で書いてあります。そういったものを買うのもちょっとと思われるのでしたら、近隣の図書館で仏教系の辞書があるところに出向いて調べていただいてもよい思います。初学の人間には辞書は大変便利なものです。
次に人に教えを乞う場合、この場合は寺に出向いて法話を聞くという事もよいかと思いますが、個人的には大学などで行われている生涯学習のカリキュラムに親鸞聖人の事を取り上げているものに参加してみるというのはいかがでしょう。お寺での法話は親鸞聖人の教学を理解するという点においては整ったカリキュラムがあるわけではありません。大学であれば学校の授業の形式ですから、ある程度ととのったカリキュラムで学ぶことができるはずです。近隣の大学を調べてみてはいかがでしょう。

ここで親鸞聖人の師匠法然聖人の御言葉を二つ引用します。
学生骨となりて念仏やうしなわんずらん
(自分の知識を付けることが主軸になってしまって、本当に大切なお念仏を称えなくなってしまう)
往生のためには念仏第一なり。学問すべからず。ただし念仏往生を信ぜん程はこれを学ぶべし
(極楽に生まれるためには念仏が一番です。智慧を深めるために学問する必要はありません。ただ、お念仏を称えて極楽に生まれようという信を得るために、お念仏の教えを学びなさい)
つまり、お念仏のない学びなど浄土真宗を学ぶことでも、親鸞聖人法然聖人を学ぶことでもありません。ただの知識欲を満たすだけモノです。どうぞご考慮ください。

急ごしらえの為誤字脱字乱文ご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀仏

どうも、真宗の俗にボーズと呼ばれているものです。お彼岸前で金儲けに奔走している糞ボーズなので手短に書きます。

>>浄土真宗の宗祖の親鸞について知りたいのです。
>>歴史や仏教に疎い人でもわかる本を教えてください。
>>よろしくお願いします。
書籍ではありませんが、ユーチューブで「Shinran Shonin, his wish and light」と検索してみてください。たぶん、本願寺派さんが親鸞聖人の750回忌の時に作ったアニメ映画が出てくるはずです。とりあえず入門としてはよいのではないでしょうか?

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