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性愛論は いかに為すべきでないか。

 橋爪大三郎の議論を批評してくださいませんか?
 ▲ (橋爪大三郎:性愛論) ~~~~~~~~~~~~~
 それでは 人間の身体はなぜ 性愛へとさし向けられているのか? 身体はなぜ もうひとつの身体を求めるのか?
 個々の人間にとって 他者の身体を求めることは 絶対の条件ではない。少なからぬ宗教が禁欲を課し 生涯を通じて信者(特に聖職者)に一切の性愛行為を禁じている。性愛を拒否して生きることは可能で そうしたとしても人間の条件から外れたことにはならない。しかし 注意しなければならないのは あるひとが性愛を拒否して生きることは そのひとがそもそも性愛と無縁でありうることを意味しないどころか その反対だということだ。性的身体をそなえた存在だからこそ ひとは性愛を拒否できるのである。性愛を拒否するかぎりにおいて そのひとも潜在的にやはり性愛にさし向けられている(他者の身体と性的に関係している)と言える。
 この意味で すべてのひとは 性愛へとさし向けられている。そして 性愛(他者の身体を求めること)へとさし向けられている自己のなかに ひとは愛を自覚する。
 愛はどのように修飾され 精神化されようと その根本は 他者の身体を求める自分の身体のダイナミズム(欲動)にある。そしてひとは そのダイナミズムがなぜ自分に訪れてくるのか 理解できない(*)。それは身体にそなわっており そこから自分のところ(精神)にまで立ちのぼってくるように感じられる。そのことは どうしようもない与件である。もっともひとは それに支配されるわけではない。それを否定したり それにあらがったり それを無視したりすることも可能である。身体のダイナミズムは それによって押しとどめられ 一定の形態を与えられる。
   * もし理解してしまえば たぶんそれはダイナミズムではなかったことになってしまうであろう。
 実はそうした選択と加工と変形のプロセスこそが 愛を形成する。誰かれ構わぬものを愛とよばず このひとでなければという選択を愛とよぶように 身体に根ざしたダイナミズムがそのままストレートに表われたものは 愛ではない。大脳の精神機能が介在し そのダイナミズムを特定の対象のうえに照準(選択)し その社会のコードに合わせて分節し言語化したときに(加工と変形) それはその社会における愛のかたちとなる。
 ひとは 性愛のダイナミズムがいったいどこから訪れるか 知らない。だが それがどこへたどりつくかということならば 知っている。それは その社会の性愛に関するコード すなわち性文化のシステムなのだ。それは こう言い換えてもいい。自分がなぜひとを愛するかは たぶん誰にもわからないだろう。しかし いかに愛するか(愛すべきか)ということなら 誰でも知っている(わきまえている) と。

  性愛のダイナミズム(いわゆる性欲)は もちろん 人間が有性生殖をする動物であるという条件に由来している。脳のなかのどこかに そのダイナミズムが組み込まれていると思われる。ひとは 自分にそのダイナミズムがそなわっていると感じる。そして どの社会も このダイナミズムを一定の規範に従わせる 性文化をもっている。《愛》の観念は 西欧社会からわが国にもたらされたが だからといってそれ以前のわが国が 性文化(愛の文化)をまったく欠いていたわけではない。しかしそれは ほかの文明の場合とちがって 明確な社会規範をもたらさなかった。
 《愛》という漢字は 中国のものである。日本にはこれが 仏教用語として入ってきた。・・・
 (『性愛論』1995 序章 ひとはなぜ愛するか pp.11-13)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 引用を途中で切りました。この立論を批評・批判してください。
 
 わたし自身の議論はほとんど無いのです。いかに議論すべきでないかについて 少しく述べます。
 ▲ (橋爪 同書) ~~~~~~~~~~
 サカナをはじめとしてさまざまな動物の行動〔は〕 生得的な反射の連鎖(積み重ね)によってできている。その証拠に・・・本物の代わりにそっくりの色をぬった張りぼてのサカナをくねくね踊るように泳がせたりすると 彼らはすっかり間違えてそれに応ずるのである。・・・ 
 ・・・それに対してわれわれは 人間の《愛》は決して反射の積み重ねなんかではない という感想をもつ。この感想が正しいかどうか いちおう疑ってみる必要があるとしても われわれは《愛》を 〔それよりも〕はるかに複雑なものと想定しよう。
  (pp.1-2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりこの《複雑さ》を 《反射行動の積み重ね》なる型に嵌め込んでしまってはなるまいと。(ニ千字にて)。

A 回答 (9件)

1 愛の対象は、他者の身体には限られないのではないか、ということと、


2 「誰でも知っている」「一定の規範に従わせる」というところが多少乱暴ではないか、と思われました。
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この回答へのお礼

 くりなるさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 1 愛の対象は、他者の身体には限られないのではないか、ということ
 ☆ これは たぶんおっしゃるとおりだと――まづは特に現象から捉えて―― 考えます。
 そして 橋爪もしくはわたしは この《他者の身体を求める》という欲動に発する感情と思惟とさらにはその意志行為 これをここでは《愛》とよび この定義に 狭い形においてとしても まづは決めますし こだわるものと思います。
 言いかえると その定義からはみ出すほかの内容は 提出され問題提起されたときに そのつど取り上げるという段取りです。
 もし不都合な点があれば あるいは これこれこのように定義したほうがよいだろうという提案などがありましたら おしえてください。

 ★ 2 「誰でも知っている」「一定の規範に従わせる」というところが多少乱暴ではないか、と思われました。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 すなわち性文化のシステムなのだ。それは こう言い換えてもいい。自分がなぜひとを愛するかは たぶん誰にもわからないだろう。しかし いかに愛するか(愛すべきか)ということなら 誰でも知っている(わきまえている) と。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここですね。どうですかねぇ。
 たとえば 《近親婚の禁止》 これも性文化のシステムの中に組み込まれていると思います。《誰もが知っている》と言えませんか?
 否定命令もしくは禁忌というかたちで受け取る場合と そうではなく性愛を含む愛を――それが 単純に捉えて 人間どうしの社会的な関係であるのですから――近しい間柄からさらに遠くへ広げるという欲求であり動きであると受け止める場合とでは違うかも知れませんが このシステムの一環について 人びとは《いかに愛するか(愛すべきか)ということなら 誰でも知っている(わきまえている)》と言えませんか? 単純にすぎますか?
 次には
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  脳のなかのどこかに そのダイナミズムが組み込まれていると思われる。ひとは 自分にそのダイナミズムがそなわっていると感じる。そして どの社会も このダイナミズムを一定の規範に従わせる 性文化をもっている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここですね。たぶん次のようにきちんと述べていればよかったかも知れません。(他人の文章について 勝手に思うだけですが)。
 ▲(修正) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ひとは 自分にその〔《愛》をめぐる〕ダイナミズムがそなわっていると感じる。〔そしてこのダイナミズムをしっかりと受けとめて 生活の全体として・また人格の全体として 自己表現をおこなう。自己表現しつつ わたしたちは生きる。
 そのときの生活態度が思想であり この思想は 人びとそれぞれの互いの生活態度として言わば競い合う。対話であり 話し合いである。そこから共通のよき中身を取り出したものが 共同の主観(コモンセンス)である。この《常識》にもとづき 人びとは共同生活および共同自治をおこなう。
 共同主観は 一定の単位体としての社会において取り決められたとするなら 掟(置きて= laid ⇒ law )となる。この結果 一定の歴史を経ていくと〕どの社会も このダイナミズムを一定の規範に従わせる 性文化をもっている。〔という情況が現われる〕。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 少し乱暴でしたね。素通りしていました。よく読まれていますね。
 (1)など また何かありましたら よろしくどうぞ。

 あっ 《規範に従わせる》という制約もしくは押しつけの要素がいけないということでしょうか?
 それはそうでしょうね。
 あくまで人びとが 自由に話し合って取り決めたということですが たぶんときが経つにつれて 昔の共同主観は観念化してふるい共同観念になってしまいます。もしくは新しい時代の現実には合わない共同の幻想でしかないようになる。こういった歴史的な流れがあるということでしょうか?

お礼日時:2010/05/24 19:40

オコリザルです。


「愛」と言う言葉の刻印が書き記す通り、性愛もまた欲動とは無縁です。
>もし理解してしまえば たぶんそれはダイナミズムではなかったことになってしまうであろう。
これが正解。
ただし、理解不能が欲動では無く、感情で無いのが欲動です。
感情に由来しなければ「脳」及び身体からも遊離している事になります。
欲動の謎についてはこのように解釈しています。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 「愛」と言う言葉の刻印が書き記す通り、性愛もまた欲動とは無縁です。
 ☆ 愛は ブディズムで渇愛とか言って そして昔はその系譜で一般に受けとめられていたようで むしろそのまま性愛という概念にも近いものだったようですね。(たとえば戦後からは もうそのような使い方は お目にかからなかったとも思いますが。つまり ラヴと同じような意味で使っていたと思います)。
 たしかに性愛は 欲動と言った場合にも 単なる感情と捉えて済ませるものでもないでしょうね。
 ▲ 性愛にさし向けられる
 ☆ と橋爪は言っていますね。《感情にさし向けられる》といった状態は あまりないですから。感情は われわれの意識が性愛にさし向けられたそのあとの気持ちなのでしょうね。あるいは その前の気持ちもあるでしょうか。好きだとか。ウマが合うだとか。
 《身体》に根ざす力のような動きが ひるがえって もし汲めども尽きぬ泉のごときものであるのならば それは何らかのかたちで われわれ人間の存在それ自体の伸びだとも考えられます。《善》だとも考えられます。考えられませんか?

 少しご議論の中身で言葉が錯綜している部分があるように思いましたが 上のような感想を持ちました。いかがでしょう?

お礼日時:2010/05/25 22:57

少しズレますが、社会の問題点は競争原理だと思います。

誰もがあらゆる場面で戦略を強いられ、比較され、差別視される格差社会です。その中に比較に左右されないで接することが可能な関係があります。家族や友人や一部の恋人などの関係です。宗教でよく云われる教えは、簡単には比較に左右されないということです。しかし現実は前に書いた装飾や本能…競争原理に支配されているため、比較に終始して表面的になってしまう。
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この回答へのお礼

 19841116 さん ご回答をありがとうございます。

 なるほど。ひとは 自分をほかの者とつねに比べてしまうということですね。
 少しでも あいつより上でありたい。あの人間よりは上にいたい。
 だから ほんとはそんなことをしたって 大した差をつけられるものではないのに 《不自然なかざり》を自分にはつけようとする。ややもすると この飾りをつけからかして自分の周りに垣根をつくってしまう。へたをすると 友だちに対してさえこの孔雀の羽根をひけらかしてしまう。たしかに
 ★ 社会の問題点は競争原理だと思います。
 ☆ でしょうね。そうして わたしなどは《宗教に言われる》前にも そうは言うものの
 ★ その中に比較に左右されないで接することが可能な関係があります。家族や友人や一部の恋人などの関係です。
 ☆ と思うし これを一人ひとりがしっかりと 柔軟にも 固めたいですね。
 そうして たぶん このふつうの社会的な愛は 性愛論とかかわっているのだと思います。いえ 《論》とではなく 実際のツイ関係とそして一般の二角関係とですね。
 それだったら 通俗的に言って 二人は 三角関係に落ち入るおそれは少ないでしょう。もしややもして そういう泥沼に陥るというときには 一方は容易に分かりますし ひょっとすると周りの友だちでさえ感づくようになるとすら思えます。
 こうなると メロドラマなどは上がったりになるかも知れませんが。

 あれーぇ また話しが勝手にすすんぢゃって。
 ★ しかし現実は前に書いた装飾や本能…競争原理に支配されているため、比較に終始して表面的になってしまう。
 ☆ だいじょうぶですよ ここまで人びとも分かっているとしたなら。
 ひょっとすると われわれ日本人は たしかにご多分に漏れずこの競争原理に立っている部分が大きいと思われるとした場合 それでも 日本人は互いにゆづり合いつつ 謙遜しつつ 競い合っているのかも知れません。つまり《飾り》を出来るだけ落とそう・つけないでおこうというかたちで競争しているのかも知れません。――ふるいですかねぇ。

お礼日時:2010/05/25 22:39

ぶらじゅろんぬさん。

こんんちわ。
6番です。
丁寧なご返信ありがとうございます。

すみません、あまり元気がないので一言だけです。

他の場所で、
☆人間にとって必要不可欠と思われる「族」を
 維持するのはとても困難に思われる、
 それはダイナミズムを持っているからで、
 なぜダイナミズムを持つのか、

というような内容の質問を拝見し、
(質問の内容を誤解しているかもしれませんが)、


「さよならだけが人生だ」
これは、
>人間の《愛》は決して反射の積み重ねなんかではない
:これを受けて、
ダイナミズムは必ずさよならする、
生まれては消える、
ダイナミズムから自由になった時間を持つことができる、
という意味で書きました。

たとえば家の中に転がっているエロ本を
勝手に捨ててしまっても、
たぶん買った人はそんなに困らないように、
という説明でいいのだろうか。


>《流動しない》ですか?
>あくまでも想定であり 
:それが、この人の言っている【愛(?)】
なのかなあと思って「流動しない」と書いたのですが、
【】の中は、「愛」で、いいのかなあ。


あと、少し違和感を覚えたのは、
>ダイナミズムがそのままストレートに表われたものは 【愛】ではない。
:ここなんですが、「愛ではない」のですか?
単に「愛」という言葉の意味を
わたしがよく理解できていないだけかもしれませんが、
「愛」は「欲」以外の何ものでもないように思っていたので。
【】の中に別の言葉が入っていたら納得したかもしれません。



すみません、しゃべる気満々だったのですが、
個人的事情により、
数日か数週間か数ヶ月、電子媒体から離れます。

お邪魔しました。
ありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ねうとらるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 電子媒体から離れます。
 ☆ いやぁ お忙しいかただ。それが どうも活力の源であるのかも知れませんね。
 分かりませんから それは措いてとしまして。

 誤解してしまったようですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 「さよならだけが人生だ」
 これは、
 ・・・
 ダイナミズムから自由になった時間を持つことができる、
 という意味で書きました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。分かりました。ただ
 ▲ 性愛のダイナミズム(いわゆる性欲)
 ☆ に対して《さよならする》ということは どうなんでしょうね? どういう事態を言うのでしょう? ブディズムで言えば 出家するといったことなんでしょうか?
 いえ だって 何なにから《自由になった時間》というのは その《何々》を捨てるとか離れるとかだけを意味するわけでもないでしょう。《ダイナミズムを自由に 公共の観点からも塩梅よく自由に 用いることができる》という意味もあるのぢゃないですか? それは パートナーとの共同の意志行為でもあるはずですが?
 とは言うものの 歳を取っても そして若いならなおさら そんなことはむつかしいのですが。でも思いきって 大ほらを吹いておきましょうか。たぶん ダイナミズムから自由な時間というのは すでに境地が違って来ていて――そのツイ関係において 二人がそれぞれ及びともに 境地を深めて来ていて―― いわば次元が違うと言えるかも知れない。

 その意味では エロ本を買って持っている人の自由意志をも尊重してやってください。境地を高めていく巡礼の旅路を 本人の心のおもむくところに従って あゆむように見ていましょう。
 もしエロ本を勝手に処分するというのでしたら それに対してはぎゃくにわたしから こう返しましょう。
 ★ ~~~~~~~~~~~
   >ダイナミズムがそのままストレートに表われたものは 【愛】ではない。
 :ここなんですが、「愛ではない」のですか?
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ただし さらに二転三転して これは《愛》ではないとわたしは思います。
 これも微妙だと思われることには 《ダイナミズムがそのままストレートに表われたもの》は 愛ではないと言えると思いますが
 《〈ダイナミズムがそのままストレートに表われたもの〉を ひとりの人間として社会的な存在として・その意味で公共的な人間関係という場に身を置く者として そのダイナミズムにわが精神がひざを折るかのごとく屈するという場合がある》と思います。このとき その判断を為す意志は 《愛》に属していると考えます。


 まぼろしの声として:
 ところが 《神は愛なり》と言われたようなのです。
 結婚は善であると。手段として善であるというよりは 結婚それ自体が善であるのだと。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 他の場所で、
  ☆ 人間にとって必要不可欠と思われる「族」を
  維持するのはとても困難に思われる、
  それはダイナミズムを持っているからで、
  なぜダイナミズムを持つのか、

 というような内容の質問を拝見し、
 (質問の内容を誤解しているかもしれませんが)、
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この部分は ピンと来るようでいて 全体としては――過去の質問を探してみましたが――まだしっくりと理解がおさまらないでいます。ちょっと保留とします。考えたりしてみます。

 前言をひるがえしても《自由》の概念を裏切るわけではないと思いますよ。

お礼日時:2010/05/25 14:54

葡羅儒論縫さん。

こんばんわ。
宙ぶらりんです。やっとかめでございます。

すみません、回答ではなく、
お願い、をいたしたく、お邪魔しました。

引用の文を斜めに読んで、
なんとかわたしが拾うことができたのは、


無視というのは、
communication(あるいは表現?)の一つで、
所詮「無関心である」ことはできない。


>反射の積み重ねなんかではない
:常に流動し、常に自由であることができる。
(さよならだけが人生だ?)


しかし、人間には、どうやら、
流動しないものが、あるらしい、
と考えることもできそうである。


と、だいたいこのようなことなのですが、
わたしが理解できていない部分で、
(あるいはわたしが誤解している部分で)、
どうしても省くことのできない、
どうしても強調しておくべき要素があれば、

できれば
もう少し平たく説明していただけませんか。

とりあえず、
教えてもえらいたくお邪魔したのですが、
次にいつ現れるか、分かりません。
現れるか現れないかも分かりません。

しかし補足欄に何か書いていただければ、
必ず読みます。

この回答への補足

 やっとかめは 八十日ぶりということですか? ぢゃあ もっと行っているかも知らんですな。
 《 photo 》は絵ですか写真ですか?
 《縫》は 訓読みだ。おもしろい。
 こんばんは 非右非左さん。ご回答をありがとうございます。

 ★ 無視というのは、 / communication(あるいは表現?)の一つで、 / 所詮「無関心である」ことはできない。
 ☆ まづその箇所を読みなおします。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~
 自分の身体のダイナミズム(欲動)・・・がなぜ自分に訪れてくるのか 理解できない(*)。それは身体にそなわっており そこから自分のところ(精神)にまで立ちのぼってくるように感じられる。そのことは どうしようもない与件である。
 もっともひとは それに支配されるわけではない。それを否定したり それにあらがったり それを無視したりすることも可能である。身体のダイナミズムは それによって押しとどめられ 一定の形態を与えられる。
   * もし理解してしまえば たぶんそれはダイナミズムではなかったことになってしまうであろう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 微妙ですが ここでの《無視》は その対象が人間という存在ではないということだと思います。ただ 確かに生命の躍動の一部であり 生の一部である。しかも その躍動には 相手がいる場合さえある。相手の存在がまぎれもなくあるなら 存在のことではないのか? という突っ込みが入りますから 微妙です。
 相手の存在がすでにある場合には おそらく それでもまだ 人間どうしの・人格全体をとおしてのまじわり(交通)には到っていない段階でのことだと推し測ります。どうでしょう?

 ▲ 人間の《愛》は決して反射の積み重ねなんかではない という感想をもつ。
 ☆ この命題の意味するところは 本能かそれに近い情動の次元ではなく ひとは自由意志によって選択し相手を互いにつれあいとして決めるということがある。両性の合意という鍵を握る行為が存在するのだと言っているのではないでしょうか?
 ★ さよなら
 ☆ も一般にあり得ますが 
 ★ 常に流動し、常に自由であることができる。
 ☆ とは言える段階と言えなくなる段階とがあるでしょう。何らかのかたちで二人のツイ(対)関係がその意思表示と合意があって成ったあとは あたかも―― 一般に婚姻の状態に入ることによって――二人は同じひとつの人格にさえなります。どちらも 自分だけの意志で 二人やその家のことを決められるものではなくなります。ただし しかるべき事由によれば さよならもあり得るのだと思います。

 ★ しかし、人間には、どうやら、 / 流動しないものが、あるらしい、 / と考えることもできそうである。
 ☆ これは 何でしょう? 《流動しない》ですか? 人間とそのものごとで朽ちないものはないですよね? 無常という言い方は控えますが 移り変わりゆくものばかりですね。もちろん《不動》の何ものかを想定することが出来ますが。あくまでも想定であり それは神のことですが。
 ですからこの神とわたしとの関係として それは 思考に非ずという非思考のことですよね? 非思考の領域では 《流動しないものがあるらしい と人はその主観内面において 自由に心の伸び(志向性)を持ちこれを見ていることが出来る》。ですかね? ――だったら たとえさよならをしても その心の伸びもしくは心の明けとしての窓のあたりでは わが愛はとわにあれかしと思っていることができると思います。


 お礼欄を開けておくことにしました。たとえ閉めたあとでも お礼欄なら何か書き込むことができます。
                     これでいいのかなぁ。

補足日時:2010/05/25 00:19
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オコリザルです。


AVビデオやその手の娯楽漫画の類をながめると、行為に置いて女優さんが「「いってー、いってーいっしょにいってー」とか何とか言って、実際に射精のタイミングに合わせます。
直感的に射精のタイミングが判っているからできるのですが、ならば精神的な愛を交わす交流を主体にした営みとなります。
女体を利用してただマスタベーションしているだけの潜在的な変質者については行為が愛の交流とならないためとてもへたくそなんでしょう。
明白にへたなら愛の不感症です。
性愛の本質は、愛の交流であり、耽美的な側面もありますが、生殖行為及び伴侶への愛撫として健康的な生きる営みにはついて回ります。
性愛について宗教的取り組みを禁欲と解釈するのは過ちです。
宗教家はアホです。
伴侶に対する愛し方の選択と自制が実際です。
性愛は自然の摂理にかなった営みであり、自制も本来はおかしいのですが、禁欲との対比なら自制が本来です。
人間を愛せない聖職者の語る神とはまやかしでしょう。
仏と表現してその実態を考慮しないクソ坊主は自分は信仰を全うしていると過信するのでなおさら始末が悪い。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづ思うことは 質問の趣旨における橋爪の文章とどう絡むのか分からないところです。
 また 性愛論は どうあってはいけないかについて問うています。性愛論そのものを――述べてもらってもよいのですが―― ここで説いて回答とするというのは 趣旨から外れると思います。つまり 性愛とはどういう事態かといった問いではないのです。(むろん定義をしたり 性愛の中身はこれこれこういうことだと説いてそのあと 橋爪理論やわたしの問いに答えてもらえればよいのです)。

 具体的に分からないところを挙げて行きます。
 まづ
 ★ 愛
 ☆ をどういう意味内容において使っておられるのかです。
 ★ 精神的な愛を交わす交流 / 愛の交流 / 愛の不感症 / 人間を愛せない聖職者
 ☆ これらの語句が分かりづらいです。性愛との違いですね。

 ★ 性愛は自然の摂理にかなった営みであり、自制も本来はおかしいのですが、禁欲との対比なら自制が本来です。
 ☆ いまここでの文章には 《摂理》という言葉を用いたなら やはり定義が必要になると考えます。
 ★☆ 自然にかなった営み / 人間にとって自然の営み
 ☆ だったら――非自然である文化と対比させたかたちにおいて―― 分かると思います。そこに《摂理》を持ってくると ややこしくなりませんか?
 ★ 自制・禁欲
 ☆ はいづれも おそらくこの質問では 主要な課題ではないと考えます。言いかえると この自制なり禁欲なりを議論に入れるとしたなら その結果 性愛論がどう変わるのか・入れないとどういう欠陥が議論に出て来るのか それを明らかにしていただくとよいと思います。そういう質問の趣旨ですが どうでしょう?

お礼日時:2010/05/24 23:34

#1の者です。


「性愛を隠さない伝統文化においても、性愛を表にあらわすと穢れでは」との事ですが、ブータンの民家の壁には巨大な男性器が描かれる(あるいは花や傘などの吉祥紋)ことが常ですが、これも「穢れ」で飾ろうとしているのでしょうか?
同様に、多くのアニミズムにおいて、男性器(金精様)や女性器を祀っています。
(ちなみにここは質問サイトであり、継続的な議論を招く回答やお礼は禁じられています。ガイドラインをお読み下さい)
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ (ちなみにここは質問サイトであり、継続的な議論を招く回答やお礼は禁じられています。ガイドラインをお読み下さい)
 ☆ これは面妖な。情報の交換だというふうに触れました。質問者からの情報も 意見を述べるかたちになっても 交換されてだいじょうぶですよ。それに 回答者は 質問者からいかに補足要求が――あ そう言えばこの用語はなくなりましたが――出されていても いつでも自由にやめることができます。
 やり取りしている情報の中につまびらかにし得ないことがあれば どちらからでも いくらでも問い求めるのは 何らおかしくありません。

 ★ 「性愛を隠さない伝統文化においても、性愛を表にあらわすと穢れでは」との事ですが、・・・
 ☆ まづ《性愛を表にあらわすと穢れでは》の《穢れ》を言ったつもりはなかったのですが あっ そんなふうに述べてしまっていたかとまづ思いました。不本意ですから。
 ところが 見直してみると そうは言っていませんね。つぎのようです。
 ☆☆ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
  おそらく表の世界も裏の世界もないと思うのですが いかがでしょう?
  と言ってもまだ何にも説明していません。つまりもともと おそらく特定のふたりの世界をかたちづくると思われるいとなみに関しては――すなわち着衣か無着衣かの問題はいま措いておきますが―― 言うとすれば密室のわざであり その限りでウラの世界にあると言えるのではないでしょうか?
  裸かそれをおおうかは どうでしょう? どうでしょうね? わたしにはよく分かりません。(あまり考えたことがないという意味にとってくださるとありがたいです)。いづれの場合にも すなわち裸にせよそうでないにせよ 肌を一部分は露出するにせよ一般の服装から見て異形と見える姿をよそおうが そのひとに下心があればあるということですし なければない。まづはこのように単純に捉えます。
 この限りで 主観史観に立ちます。個人史観ですね。《文明》? 何するものぞ! という心構えです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 表か裏かで 穢れかそうでないかを決めるとは言っていません。社会一般の風習によって決めるとも言っていません。総体としての文明のかたちや中身によっては決めないとさえ言っています。言いかえると
 ☆☆ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~
   ▲ (橋爪〔の代弁?〕) 「裸がワイセツ」ではなかったというその“文明化”以前 性愛はもし表の世界にあったとしたら それは《穢れ》てはいなかったのか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という問いを出したのは あくまで問い返しとしての表現です。最後の疑問を受けて 《やっぱり 〈穢れ〉だったであろう》といった見方を提出しているというわけのものではなかった。でも そういう解釈を与えてしまったのは わたくしの犯した行き違いでしたから その点 ごめんなさい。つつしんでお詫びを申し上げます。

 確認ですが あくまで
 ☆☆ おそらく表の世界も裏の世界もないと思うのですが いかがでしょう?
 ☆ これです。

 ですから
 ★ ブータンの民家の壁には巨大な男性器が描かれる(あるいは花や傘などの吉祥紋)ことが常ですが、これも「穢れ」で飾ろうとしているのでしょうか?
 ☆ につきましても 答えは イエスでもノーでもありません。それは そういう風習があるということなだけですから。表だからどう裏だからこうもなく またそのこと自体に穢れも清らかさもありません。と見ます。

 こんなところですが どうでしょう? (この問いかけに どうしても答える義務があるものではありません)。

お礼日時:2010/05/24 23:12

愛とは、社会の文明文化などにより装飾された不自然と、本能的な欲求が結びついているものです。

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この回答へのお礼

 19841116 さん ご回答をありがとうございます。

 たぶん おっしゃるとおりだとわたしも思います。
 ★ 本能的な欲求
 ☆ という《自然》は 橋爪の言うところの
 ▲ 他者の身体を求める自分の身体のダイナミズム(欲動)
 ☆ なのでしょうね。
 ▲ この意味で すべてのひとは 性愛へとさし向けられている。

 ☆ 性愛ないし性愛関係は 両性のツイ(対)関係としてわたしは捉えています。
 ▲ そして 性愛(他者の身体を求めること)へとさし向けられている自己のなかに ひとは愛を自覚する。
 ☆ おそらくここに自覚した《愛》は その水源としてのツイ関係(ないしその欲動)を含みつつ それを超え出ようともしている愛なのでしょうね。言いかえると 一般にふたりの人間どうしのまじわり(交通)としての二角関係――そこにおける 友情やら信頼関係だとかの愛――をも視野に入れているのだと思います。

 どうでしょう? ここまでの段階において この愛は 《自然》をはみ出してしまったでしょうか? 留まっていると見るべきでしょうか? すなわち
 ★ 社会の文明文化などにより装飾された不自然
 ☆ という要素に取って代わられたでしょうか? それともこれら両要素が それぞれ別々にあって ひとりの人間の内に合わさっていると見るでしょうか?
 
 ☆ たぶん ツイ関係としての《本能的な欲求:他者の身体を求める欲動・性愛》から二角関係としての《友情・信頼・それとしての愛》がつちかわれ これを基にして生活態度としての思想が編まれていき そこから――つまり 互いの思想のすり合わせをつうじて―― 非自然としての・つまりは社会制度としての文化が持たれる。
 おそらくこの時点では 《自然:性愛→愛→社会の仕組みとしての文化:非自然》というその文化も 人びとに共通の共同主観(常識)として まだ みづみづしい。
 そこから おそらく歴史の移り変わりをつうじて 常識もふるくなる。観念化する。現実から遊離する。幻想と化す。こうして しかもこの共同の観念もしくは幻想は まだまだ社会的に有力であって いろんな手練手管をつかって みづからを保守し持ちこたえる場合がある。 すなわち 
 ★ 社会の文明文化などにより装飾された不自然
 ☆ の様相を呈してでも 生き延びようとする場合がある。
 ここで愛も したがって たとば身分制のもとで 友情としても男女の愛としても その身分の差という観念に縛られて身動きすることが出来ない状態にもなると考えられます。そうであったと考えられます。現代では その縛りから自由になったでしょうか?


 あぁ ずいぶんおしゃべりでした。が どうでしょう?

お礼日時:2010/05/24 20:10

近代化以前の、自然と一体化し、千年単位の厳密な伝統文化(=モラル)が支配していた時代(今でも一部の途上国で)、肌を露出し、夜這いを常としても、性の乱れはなかった。


「裸がワイセツ」になった“文明化”以降、性愛は穢れた裏の世界に押しやられたのです。
原住民の裸がワイセツなのではなく、裸を目にすると四六時中発情するので衣服で隠さねばならない、現代人の心の方がワイセツなのです。

人類が認識力を発達させる上で、肉体に付属した感覚器官から入力されるため、それを成立させている遺伝子(=種)とは解離した、自己中心的な傾向があります(性欲も“自己チュー”に発露させるようになる)。
淘汰は、常に種の進化を指向するので、そうした自己中心性を抑圧する他律的システム(モラル、宗教、法規)を発達させます。
(だから「抑圧」する側の宗教者は、禁欲性が求められがち)

しかし、人の生きる真の目的である“精神的充足量の人生を通算した最大化”において、自己存在の本質(社会生命性の自覚化=愛)に基づく自律的生(達成の認識=充足)に比べて、先述の「他律性」はマイナスです。
裸が恥ずかしいのではなく、着衣の方が恥ずかしいのです。
(環境が快適で意識が社会的なら、裸こそが理想)
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この回答へのお礼

 サイテックスさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。近代・現代の文明批判をぶっておられますね。
 ★ 「裸がワイセツ」になった“文明化”以降、性愛は穢れた裏の世界に押しやられたのです。
 ☆ たぶんですが たぶん 橋爪大三郎が聞いたら こう問い返すのではないでしょうか? 

 ▲ (橋爪〔の代弁?〕) 「裸がワイセツ」ではなかったというその“文明化”以前 性愛はもし表の世界にあったとしたら それは《穢れ》てはいなかったのか?

 ☆ おそらく表の世界も裏の世界もないと思うのですが いかがでしょう?
 と言ってもまだ何にも説明していません。つまりもともと おそらく特定のふたりの世界をかたちづくると思われるいとなみに関しては――すなわち着衣か無着衣かの問題はいま措いておきますが―― 言うとすれば密室のわざであり その限りでウラの世界にあると言えるのではないでしょうか?
 裸かそれをおおうかは どうでしょう? どうでしょうね? わたしにはよく分かりません。(あまり考えたことがないという意味にとってくださるとありがたいです)。いづれの場合にも すなわち裸にせよそうでないにせよ 肌を一部分は露出するにせよ一般の服装から見て異形と見える姿をよそおうが そのひとに下心があればあるということですし なければない。まづはこのように単純に捉えます。
 この限りで 主観史観に立ちます。個人史観ですね。《文明》? 何するものぞ! という心構えです。

 ★ 自己チュウ
 ☆ という言葉を使われているのをよく見かけますが これは どういうもんでしょう? ――質問者が説教しはじめましたが 基本的に規約の精神としての《情報の交換》として捉えてもらうとありがたいところです――自己中心的でない人間はいますか? 利己的でないひとはいましょうか? 
 たしかにわたしも 勤勉とガリ勉とを区別しますので 自己中心主義や利己主義は 程度問題を超えた部分があると考えますが たとえばこうです。
 いくら自己チュウであったとしても――二人とも そうであったとしても―― 要は互いに自由に意思表示を為し(または それに相当する仕草や振る舞いを見せ) 自由に合意に達すること。これが出来れば だいじょうぶなのではないでしょうか? 人間どうしの二角関係もしくは両性の対(つい)関係は ふつうの人間の人間的な自然としても人間的な文化としても 成った。こう言えると思うのですが どうでしょう?

 ★ “精神的充足量の人生を通算した最大化”
 ☆ は いま述べた二角関係およびツイ関係――そこから第三角も生まれるでしょうし――が 人間的かつ社会的に成ったならばついて来るでしょう。そのことが
 ★ 自己存在の本質(社会生命性の自覚化=愛)
 ☆ の実際であるのではないでしょうか? その過程――つまり動態であるでしょうから――においては 
 ★ マイナスの《他律性》
 ☆ さえをもプラスに活かしていけるでしょうし ツイ関係なる二人という核が成ったならば だいじょうぶでしょう。たゆたえども 沈まず。(わたしは このとき ふつうの信頼関係としての二角関係の成立だけでじゅうぶんだと考えますし ツイ関係は この一般的な二角関係に どちらかと言えば含まれる。こう見ています)。

 ★ 宗教
 ☆ は その集団化・組織化が現われた時点で 個人〔の主観内面における非思考なる信仰〕は死んでしまうものだ。つまり組織としてのまた社会慣習としての宗教は 個人の信仰にとって自殺行為だと考えますので 
 ★ 〔淘汰は、常に種の進化を指向するので、〕 そうした自己中心性を抑圧する他律的システム(モラル、宗教、法規)を発達させます。
 ☆ ことは もっともだと考えます。(個人の非思考というなぞの世界から 個人としてのモラルないし倫理は 生活態度として表現されてくるでしょう。法も持たれるでしょう。それと同じようなことを 集団宗教も 何のかんばせがあってか知りませんが おこないます)。言いかえると
 ★ 淘汰は、常に種の進化を指向するので、
 ☆ という筋からとは別に 上のように考えます。個人の非思考――なぞの何ものかへの畏れ――は 淘汰にあらがってでも 存在のとうとさ・掛け替えの無さをうったえ続けるものと考えます。

 設問にあたって何にも考えていませんでしたが ご投稿を受け取って このような感想を持ちました。サイテックスさんも そろそろわたしという人間の傾向がお分かりになって来ておられると思いますので もはやすでに忌憚なく考えるところを述べる仕儀に出ることにしました。どうでしょう?

お礼日時:2010/05/24 19:01

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