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1. 自由な相互批判がおこなえるほどに ユヅリアヒも助け合いもが成り立つ。


2. 《われは生まれて来たこととこれまで生きて来たことにおいてすでに神の愛をじゅうぶんに享(う)けた。ゆえにあとの人生はすべてこの神のめぐみをたたえ感謝をあらわすことにあてる。そうしても まだお釣りがくるくらいである》
――と言って〔その意味での・また比喩的な意味をふくむ〕修道院生活を送る道がある。

3. この神の愛は すでに隣人愛をそこにふくむ。と見られますまいか。タテの愛は ヨコの愛にそのまま通じるのではないか。そういう自然本性としてわれらが《ひと》という存在があるのではないか。

4. もしこの――この意味での――自給自足のような独り暮らしをえらばないなら 隣人愛は とうぜんのごとく身近な人とのマジハリをともなう。つまり普通に言う社会生活に入る。と考えられます。



5. では 隣人愛とは何か?

6. [2]の理論にしたがえば 身近な人とのあいだにおけるヨコの愛は 神とのタテの愛につうじる。ということになっている。では どういう実際のことになるのか?

7. たとえば互いにその思想をめぐって自由な批判をすること。神に対してわが身と心とその人格のすべてを知られるがごとくこころの明けが成り立っているように 自由な相互批判が 隣り人どうしの愛ではないか? 〔それでも人は 他人(ひと)には隠し事をする〕。

8. この互いの批判の積み重ねと過程とが 人間資本としての社会資本を築くことができる。のではないか? (つまり 哲学の出番ではないか?)






9. むしろこの《資本》というのは 人びとの愛――互いの社会的な生活関係のみで まづコトは足りる――から成り立っている。

10. 人びとの関係とは そもそも自然本性どうしの・つまり生まれつきそなわった互いのカカハリが想定され さらに実際の社会生活の中での必要なだけのマジハリ(交通)のことだ。

11. 厄介なこととしては 愛――人間関係――には それがヱクトルであるかのように 正(プラス)だけではなく負(マイナス)の向きもあり得ていることだ。

12. 好悪 / 愛情と憎悪 / 味方と敵対等々がある。ということは それらを全部ふくめて どう共同自治するか ? ここに問い求めの筋・愛のたたかいの場がある。と言えるか?

質問者からの補足コメント

  • №3お礼欄つづき

    ★ 泉とは人間の、愛が生じる等身大の無尽蔵の心です。無尽蔵でも等身大なので、誰かを圧倒したり、足りなかったりすることもないです。全ては愛に目覚めて人を護るようになることで道は開ける。光は呼ばれる。
    ☆ 
    ③ ところが この《光》は なおも諸行無常ないし諸法無我の世界では 相対的で有限の光にとどまるのではないか。

    ④ 【Q:闇を照らす光と闇を晴らす光と】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12926060.html

    なる質問で問いましたが それは 《等身大の人間の無尽蔵の心そして知性で 人体にとってのや精神ないし社会にとっての病いなる闇を照らし 道はひらける》と思われますが このときその人間の光では 闇を晴らすことはむつかしい。と。

    照らされて開けた道が なおも闇につつまれることが起きます。


    ・・・問題の指摘までですが。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/05/10 01:33
  • №6お礼欄つづき

    ★ だから、自分は愛を受け取るにふさわしい人間なのだと先ずは信じる事。
    心を開く事。
    ☆ 《心の明け》は まだ泉へ到る道筋です。泉に成るとは雲泥の差です。

    ★ 愛に触れ、それを得たなら、私も愛したいと思うようになります。
    ☆ 《息のかかった言葉――神ないし愛――に触れたなら その泉から飲もうとするし 飲む》。なら 他人(ひと)にも飲むようにと勧める。でも まだ泉になったわけではない。

    闇は照らされたけれど 晴らされてはいません。と思います。しつこいようですが。

    〔闇を晴らすことは 人間には無理ではないか とも。

    人間がその自由意志によって ウソ・イツハリを侵した・そのツケがまわって来ているのが 闇です。自業自得です。

    昼の光(泉)を浴びることは出来ても みづからは――仏性に基づきつつもその知恵は――薄暮の光です。むしろこの自覚からこそ 真昼を体験しうる〕。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/05/11 03:22

A 回答 (7件)

論証によってはこの隔たりは越えられない。

それでは人は満足しない。
解答は、生きた言葉は、生きた人の口から貴方自身に向けて発されます。それを心に受けて全てがわかる。その言葉には実がある。
優劣は捨てて、素直になって求めるなら出会う。
貴方の実践に、実際の歩みによるのであって、これ以上は私は応援できませんけれど、どうぞそのまま出発されて下さい。
どこに行けば分からない時は自分に問えば良い。心に深く問うたなら、思い浮かぶでしょう。自分は本当はどうしたいのか?問うのです。

そして勇気が出なくなった時には、また誰かに尋ねれば良い。貴方のことを分かってくれる人ならば、「大丈夫、貴方は知っている、自分の答えを示すんだ、一つのもので生きろ」このように応えてあなたをご自身に導いてくれる。
クドクドと道を説く必要は貴方にはもうないし、それを聞く必要もない。もう十分に備わっているのだから、貴方は自分の道に漕ぎ出せば良い。そのうちに神からも独立して、しっかりとした自身をみることができるでしょう。
では。
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この回答へのお礼

★ 論証によってはこの隔たりは越えられない。それでは人は満足しない。
☆ いえ この点では 話が違うと思います。

☆☆ (№6お礼欄・編集しました) ~~~
 論証されていないと〔いうのは〕

 泉〔の話を耳にしこれを心に受け容れ(つまり 信じて)その泉〕から飲むことと そして じぶんがみづから泉になることとは 別です。
~~~
☆ つまり あほなさんは 別ではないかのように断定されています。

また 《論証では分からないような現実があり得る》という点では こう応じました。:

☆☆ (同上) ~~~
 ★ 言葉だけでは桃を食べさせることが出来ないように、言葉だけでは愛を知ることは出来ないのです。
 ☆ いや とわたしは考え直します。

 なぜなら 愛の基礎(源泉)としてのブッダター(仏性)は 人間の身(つまり感性)や心(知性)を超えている。愛のうつくしさは 桃の美味を凌駕するから。
~~~
☆ つまりは 感性による実感〔や知性による論証〕以上に重要な領域があるという主題です。



★ 解答は、生きた言葉は、生きた人の口から貴方自身に向けて発されます。それを心に受けて全てがわかる。その言葉には実がある。
☆ ですからこれは 知性や感性を超えたヒラメキの問題です。生命性という主題であると。

しかもこの問題は 本人の主観内部でのみことが起きるという条件(制約)があります。自分ではさとったと〔それとして〕言えるとしても 他者を説得しがたい。


★ ~~~
優劣は捨てて、素直になって求めるなら出会う。
貴方の実践に、実際の歩みによるのであって、これ以上は私は応援できませんけれど、どうぞそのまま出発されて下さい。
どこに行けば分からない時は自分に問えば良い。・・・

そして勇気が出なくなった時には、また誰かに尋ねれば良い。貴方のことを分かってくれる人ならば、「大丈夫、貴方は知っている、自分の答えを示すんだ、一つのもので生きろ」このように応えてあなたをご自身に導いてくれる。
クドクドと道を説く必要は貴方にはもうないし、それを聞く必要もない。・・・
~~~
☆ これは 相対性の世界にとどまる経験思想です。黄金原則といった絶対性にかかわっていますが 相対的な価値としての人間の言葉で書かれています。

いづれにしましても お疲れさまでした。

お礼日時:2022/05/11 17:40

闇夜に月が昇り、昼の黒雲が大地を癒す。


季節は流れ様々な様相を見せて、同じ振る舞いはしないのに巡ってまた春が来る。
光、闇、明るい、暗い、有限、無限、とこだわらずに、愛するだけで問題は解決します。

愛する人は世の中にはたくさんいます。愛される人も又たくさんいます。
愛する人は愛されます。愛される人も又、愛するようになる。自覚が生まれる。泉は尽きません。

>ただ それは――観念論でなくても――主観の内における真実であって 他者を説得しうるかは 分からない・・・となるようには思います。

桃と言う美味しい果物があるから、桃は美味しい、一度食べてみると言い、産地は何処で、季節は夏だ。と、桃のおいしさを知る人は、桃のおいしさを知らない人に勧める。しかしそれを聞いて、ほんとだ、桃は美味しいと心から納得することが出来るのは、桃を食べた人だけです。言葉だけでは桃を食べさせることが出来ないように、言葉だけでは愛を知ることは出来ないのです。誰かの息の入った言葉でなければなりません。実際に縁のある人からの、自分のために費やされた言葉や行いでなければならないのです。それが恋人からもたらされるのか、友人からか、先生や先輩からか、父母や兄妹からか、赤の他人からか、どこかの子供からか、それは分かりません。その人が求めているものとして現れるでしょう。

>相対的な人間が 絶対性なる光として現われるわけには行かない・・・とは思います。

人は死ぬ。渇きをいやしたその泉は消える。しかし、この泉に癒された渇きは、二度とは生起しない。一度飲めばその人が泉になるからです。そしてまた、その泉にやって来る人がいる。

実に多くの人が泉になっています。人に成ると言う事はそういう事なのだと思います。しかし、口を開かなければ水は飲めません。他者の愛を受け取れなければ、愛を知ることは出来ません。しかし気高く忍耐あり、しかも可哀そうな人は、この水を汲んだコップの形は嫌だ、この場所にある泉は嫌だ、この温度では嫌だ、この量では嫌だ、今は欲しくない、などと我侭を言っては、数ある水を飲むチャンスを不意にする。自分の要求のど真ん中に来なければ飲もうとしないし、たとえど真ん中に来ても身を逸らしてしまう。
彼は愛を受け取ることを怖れる。自分には愛は相応しくないのだと、自信を持てないでいる。
自ら水を飲みに行く、自ら他者の愛を受け取ろうとする姿勢がない限りは、自らの求めに従わない限りは、愛を知ることは難しい。

だから、自分は愛を受け取るにふさわしい人間なのだと先ずは信じる事。
心を開く事。
心を開きたいと思える人に出会う事。
それを求める事。
これらが大切な事になって来るのではないでしょうか。

愛に触れ、それを得たなら、私も愛したいと思うようになります。

大丈夫です。心配要りません。
貴方は出来る人です。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ ・・・
光、闇、明るい、暗い、有限、無限、とこだわらずに、愛するだけで問題は解決します。
☆ その根拠は?


★ 愛する人は世の中にはたくさんいます。愛される人も又たくさんいます。
愛する人は愛されます。愛される人も又、愛するようになる。自覚が生まれる。泉は尽きません。
☆ つまり たとえば――神にとっては 千年が一日と言われるかのごとく・また民主制が時を経て歴史に沿って根付いていくように――長い目で見て 人間性ないしその黄金原理に依拠してよい・・・でしょうか。


☆☆ >ただ それは――観念論でなくても――主観の内における真実であって 他者を説得しうるかは 分からない・・・

★ 言葉だけでは桃を食べさせることが出来ないように、言葉だけでは愛を知ることは出来ないのです。
☆ いや とわたしは考え直します。

なぜなら 愛の基礎(源泉)としてのブッダター(仏性)は 人間の身(つまり感性)や心(知性)を超えている。愛のうつくしさは 桃の美味を凌駕するから。


★ 誰かの息の入った言葉でなければなりません。・・・
☆ 神あるいは愛は――後者は 大和言葉ではないですが――すでに無名の人たちによってであっても 《息がかかっています》。


☆☆ >相対的な人間が 絶対性なる光として現われるわけには行かない・・・

★ 人は死ぬ。渇きをいやしたその泉は消える。しかし、この泉に癒された渇きは、二度とは生起しない。一度飲めばその人が泉になるからです。
☆ これはまだ 論証されていないと思います。

泉〔の話を耳にしこれを心に受け容れ(つまり 信じて)その泉〕から飲むことと そして じぶんがみづから泉になることとは 別です。

★ 実に多くの人が泉になっています。
☆ ううむ。《泉に成った気がしている》に過ぎないかもとは考えられませんか?

★ 人に成ると言う事はそういう事なのだと思います。
☆ 論証はむつかしいが すでにこの生身の存在で生活していることが 実証だということでしょうか?


つづく

お礼日時:2022/05/11 03:07

>愛の自覚によってゲームは完了するという黄金のルールは 或る程度の闇は 仕方がないとして済ませるのですか? となります。



完了するというか、愛の行使によりプレーヤーになるのです。愛を忘れたら闇、愛を覚えたら光、なので、ある程度闇という意味が分かりかねます。

>一部の人たちが それはただの観念論に過ぎないではないかと批判したとしても 取り上げるに足る民の声ではないとなりますか?

知られないところの言葉の指し示すところを理解するのは難しいことです。食べたことのない果物の味を説明することに似ています。ハッキリ言って無理なので、観念論と捉えてしまうのは仕方のないことで、そのように捉えざるを得ないからです。
しかしだからと言って、そのような致し方ない反応をもらっても、うんざりすることはありません。
やることも言うことも、表現は変わっても、その意味は別に変わりません。

>そして 闇は ずいぶん明るく照らされています。ただ 晴らされてはいない。そこのところに哲学は もう心を当ててみる余地はないのか? といった問いかけです。引き留めるようですみません。

いえ、大丈夫です。
簡便に、光の二つの性質、側面を説明します。
一つは、見えないものを見えるようにする、知の側面です。
そして一つは、闇(=かなしみ)を照らすもの(=やさしさ)なのです。

前者は、光の兆しであり、後者が光の本体と言えるでしょう。
前者は透明であり、後者は人の純粋な実現ということになると思います。

哲学は兆しを求める人々の営みです。
兆しを得た人は光の本体を求め、それに出会うでしょう。
本体になった人は、照らすだけです。

自分の求めに従うべきです。その求めが生まれ変わって、自分の内側から泉を湧き起こす原因になるのです。
その泉に触れた人が、また愛の存在に気づき、自らも愛を行使したいと思うようになる。
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この回答へのお礼

☆☆ >愛の自覚によってゲームは完了するという黄金のルールは 或る程度の闇は 仕方がないとして済ませるのですか? 

☆☆ >一部の人たちが それはただの観念論に過ぎないではないかと批判した〔なら〕・・・?

★ 知られないところの言葉の指し示すところを理解するのは難しいことです。食べたことのない果物の味を説明することに似ています。ハッキリ言って無理なので、観念論と捉えてしまうのは仕方のないことで、そのように捉えざるを得ないからです。
☆ この《愛の自覚》といった命題をめぐっては なかなか噛み合うやり取りが出来にくいといったところでしょうか。

★ しかしだからと言って、そのような致し方ない反応をもらっても、うんざりすることはありません。
やることも言うことも、表現は変わっても、その意味は別に変わりません。
☆ ううむ。それが 《自覚と覚悟》なんでしょうね。

ただ それは――観念論でなくても――主観の内における真実であって 他者を説得しうるかは 分からない・・・となるようには思います。


☆☆ >そして 闇は ずいぶん明るく照らされています。ただ 晴らされてはいない。そこのところに哲学は もう心を当ててみる余地はないのか? ・・・

★ いえ、大丈夫です。
簡便に、光の二つの性質、側面を説明します。
一つは、見えないものを見えるようにする、知の側面です。
☆ つまり《知性が闇を照らし明るくする》。

★ そして一つは、闇(=かなしみ)を照らすもの(=やさしさ)なのです。
☆ ん? 《思いやり》としては分かりますが。

★ 前者は、光の兆しであり、後者が光の本体と言えるでしょう。
☆ たしかに《光の本体(ないし光源)》であるなら闇を照らすだけではなく――影がなお出来るとしても――晴らしていると考えます。

ただし 相対的な人間が 絶対性なる光として現われるわけには行かない・・・とは思います。


★ ・・・
兆しを得た人は光の本体を求め、それに出会うでしょう。
本体になった人は、照らすだけです。
☆ 光の本体を求めることとその本体になることとは そのあいだに絶対の隔たりがあるように思います。

★ 自分の内側から泉を湧き起こす原因になる
☆ ことを成就した人は いますか? (この件での最後の問いかもです)。

お礼日時:2022/05/10 22:01

>☆ UN事務総長だったら どうするか? 自分がぜレンスキー本人だったら・・・? プーチン自身になったら・・・? 



強力な立場には強力な束縛の力が働いていると思います。私には中々、想像するのが難しいです。いつ暗殺されるかも分からない、そんな状況で何が出来るのか?心を正常に保てるのか?大変に難しいと思います。
しかし、一兵卒や一市民の気持ちにならなんとか近づけます。

>ところが この《光》は なおも諸行無常ないし諸法無我の世界では 相対的で有限の光にとどまるのではないか。

僕らはいつか死にますから、それで光も有限という意味にもなりますが、愛に生きている間は覚悟が備わっているので、死は精神的には克服されています。

その意味で、時間の長短ではなく実存として勝っていると言うことになるかなと。

つまり死は解決されているということになります。それは死の否定によってではなく、死を、山を越えるように越えて、新しい地平に出ているのです。

この有限の光が、透明で障壁を透過するその光と同化するので、無限なるものが有限なるものに化すると言えるでしょう。ブラジェロンさん寄りに語ると、このような表現になります。限りが無いとは、障壁がないと言うことで、広さや長さの概念の及ぶところではありません。永遠というのは、長さのことではないということですので、人生の長さが数十年でも、数年の長さでも、なんなら一日でも、障壁の無いところに出たなら、永遠を生きているのだと言えるでしょう。死んでも何も変わらないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

>☆☆ UN事務総長だったら どうするか? ・・・

★ 強力な立場には強力な束縛の力が働いていると思います。私には中々、想像するのが難しいです。いつ暗殺されるかも分からない、そんな状況で何が出来るのか?心を正常に保てるのか?大変に難しいと思います。
しかし、一兵卒や一市民の気持ちにならなんとか近づけます。
☆ これは・これも 別様の問い求めになるかと思い 保留します。(ちょっと迂闊でした)。

☆☆ >ところが この《光》は なおも諸行無常ないし諸法無我の世界では 相対的で有限の光にとどまるのではないか。

★ 僕らはいつか死にますから、それで光も有限という意味にもなりますが、愛に生きている間は覚悟が備わっているので、死は精神的には克服されています。
☆ いや ここはちょっと誤解です。舌足らずだったかも分かりませんが 医学なら医学という知性の光で闇を照らしたとしても 闇は別のかたちで起き続けます。つまり人間は 闇を晴らすことが出来ない。

では 愛の自覚によってゲームは完了するという黄金のルールは 或る程度の闇は 仕方がないとして済ませるのですか? となります。


★ その意味で、時間の長短ではなく実存として勝っていると言うことになるかなと。
☆ 自覚と覚悟がそなわったなら 死は精神的には克服されているというとき 一部の人たちが それはただの観念論に過ぎないではないかと批判したとしても 取り上げるに足る民の声ではないとなりますか?


★ つまり死は解決されているということになります。それは死の否定によってではなく、死を、山を越えるように越えて、新しい地平に出ているのです。

★ この有限の光が、透明で障壁を透過するその光と同化するので、無限なるものが有限なるものに化すると言えるでしょう。・・・障壁の無いところに出たなら、永遠を生きているのだと言えるでしょう。死んでも何も変わらないのではないでしょうか。
☆ これは 《永遠の現在》という考え方だと思います。過去は記憶として 未来は期待として すべて現在という地点におさまっていると。そして 確かにそういった覚悟の問題だとも思います。

そして 闇は ずいぶん明るく照らされています。ただ 晴らされてはいない。そこのところに哲学は もう心を当ててみる余地はないのか? といった問いかけです。引き留めるようですみません。

お礼日時:2022/05/10 20:23

>☆ 道草を喰いヨコミチに逸れ脱線している仲間たちについては・・・? わが道草の《前科》から得た教訓をおしえてやる必要はないか 余計なお世話か?



愛をもって、接するしかない。貴方達は人なのよ、分かるだろ?なら、、、と語りかけるくらいしか思い浮かびません。

実存主義と理念についてはよく分かりませんでした。
仏性を持つことも人であることも、理念でも実存でもないので、人と言われているからです。これは法と言っても良いかもしれません。

また、空に関しては、泉が湧き出るのであるからコップの中の澱んだ水は捨てよう(空にしよう)くらいのニュアンスで良いと思います。泉とは人間の、愛が生じる等身大の無尽蔵の心です。無尽蔵でも等身大なので、誰かを圧倒したり、足りなかったりすることもないです。全ては愛に目覚めて人を護るようになることで道は開ける。光は呼ばれる。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ 愛をもって、接するしかない。貴方達は人なのよ、分かるだろ?なら、、、と語りかけるくらいしか思い浮かびません。
☆ UN事務総長だったら どうするか? 自分がぜレンスキー本人だったら・・・? プーチン自身になったら・・・? 




★ 実存主義と理念についてはよく分かりませんでした。
仏性を持つことも人であることも、理念でも実存でもないので、人と言われているからです。これは法と言っても良いかもしれません。
☆ 法・ダルマは やっぱりオシへですね。その絶対性が――絶対真理が――そのまま服を着て街をあるいているわけではない・・・ので 理念とよびました。

(個人の主観真実として・その神観として 絶対性そのまま――つまりは そういう信仰――であり現実であると捉えていることはある と言えるかと思います)。

(この信仰が そのまま全面的に現実であり世界の実際である・・・というふうには 成っていないと思います)。

経験的にして有限の世界。うつろいゆかざるを得ず ついには 朽ちざるを得ないとも言わなければならない存在。このような相対性の世界にあって その謂われも根拠も分からない中で 生きる・社会生活をおくる。この姿が 実存なのだと思います。

そして 実存主義となると 理念や法(ダルマ)は その実存のあとからその実存の中から人間が知り得た〔と思っている〕ものだと説くはずです。



★ また、空に関しては、泉が湧き出るのであるからコップの中の澱んだ水は捨てよう(空にしよう)くらいのニュアンスで良いと思います。
☆ 重箱の隅のツッツキとしましては:

① 《濁った水》は――精神において《シューニャター(空)》と捉えることは出来ると思いますが それでも――なかなか捨てづらい。分かっちゃいるけれど・・・となり勝ちです。

② ボディサトヴァ(無住処涅槃)なら きれいな水のほうよりも きたない水のほうに――泉の湧き出る水のチカラを〔出来るものなら〕そそぐべく――心を向けるでしょう。

つづく

お礼日時:2022/05/10 01:32

解答を読んでくださり、丁寧にお返事を下さりありがとうございます。



>目的――仏性の発露――の自覚だけでよいってこと?

仏性を持つことが人であると言う事を意味するなら、そうだと思います。
人は相手を対等な人として見ないときに、人間関係をこじらせると思います。子どもだから、女だから、老人だから、若いから、男だから、異邦人だから、異民族だから、弱い立場だから、とか、色々な属性によって判別して対等な人として見ることをしないときに、黄金のルールから逸脱するのだと思います。

案外シンプルな話かもしれません。

人としての自覚があり、相手にもその尊厳を認めるならそれはプレーヤーになれていると言う事ですので、後は生きているだけで愛らしいと言う事になると思います。

思想の交換を交通整理だとするならば、自覚と尊厳の認定のある間柄では不要なものになる気がします。
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この回答へのお礼

★ 解答を読んでくださり、丁寧にお返事を下さりありがとうございます。
☆ むつかしい。微妙ですね。

実存思想なら ぎゃくに《実存――現実存在――こそが 本質(あるいは理念)に先立つ》という命題をかかげて対抗するでしょう。

☆☆ >目的――仏性の発露――の自覚だけでよいってこと?

★ 仏性を持つことが人であると言う事を意味するなら、そうだと思います。
☆ ということは 実存は 理念ないし本質の現実的展開であるに過ぎないと!?

★ ~~~
人は相手を対等な人として見ないときに、人間関係をこじらせると思います。子どもだから、女だから、老人だから、若いから、男だから、異邦人だから、異民族だから、弱い立場だから、とか、色々な属性によって判別して対等な人として見ることをしないときに、黄金のルールから逸脱するのだと思います。

案外シンプルな話かもしれません。
~~~
☆ 仏性どうしのゐやまひ・たふとび これで人生のゲームは完了する。これが ゴールデン・ルールだ。

だけど 諸行無常とも言います。また 色即是空 空即是色とも。仏性のほかに広く中立的な呼び方での人間性もあり 人生やこの経験世界全体は 空であり仮象だ。しかもその仮象としては 空ながら 現象として実存している。と。

うむ。やっぱり 理念と それの現実的展開である実存と。この両者の兼ね合いがどうか? になるんでしょうか。

オシへはシンプルなんですが。あたかもクリスマスツリーの 樅の木とデコレーションとの兼ね合いそしてまたその全体・・・ということで シンプルな黄金則(樅の木原理)を 実際にどう捉えどう――もし人間に出来るものなら――運用してゆくか?


★ 人としての自覚があり、相手にもその尊厳を認めるならそれはプレーヤーになれていると言う事ですので、後は生きているだけで愛らしいと言う事になると思います。
☆ ただ 海の向こうのどこかでは いまも同じ人間仲間が ドンパチをやっている。ということに もう触れないでよいか? 自業自得であるのだから 放っておくしかないか?


★ 思想の交換を交通整理だとするならば、自覚と尊厳の認定のある間柄では不要なものになる気がします。
☆ 道草を喰いヨコミチに逸れ脱線している仲間たちについては・・・? わが道草の《前科》から得た教訓をおしえてやる必要はないか 余計なお世話か?

お礼日時:2022/05/10 00:19

隠すものは何もなくて、説明しなければ分からないものも別に無く、ただ、”既に解っておくべきことは互いに分っていること”が、愛の証拠なのだと思います。

なのでそこには、”安心”がある。っ個で言う既に解っておくべきことと言うのは、互いの信頼の基となるこころの事です。

なので、お互い理解し合おうとして、互いの思想を説明しあったり批判し合ったりすることは、例えばゲームをプレイする前のルール策定の相談の様なもので、ゲームプレイの楽しみという本体(=目的)ではありません。

ゲームのルールを理解しているということは”人”を理解していることであり、他者や自分といったプレーヤーの個性を理解していることとは別の事です。互いの思想の開陳と説明と相互批判は、この、プレーヤーとしての個性の如何を言語化して問う事であり、それがゲーム本体なのか、ゲーム以前の問題なのかはその会話によると思います。思想と言うものがその人の心の顕れ、つまり言葉そのものであるなら、それはゲームそのものであるし、頭で考えた物事の説明のための話であるなら、ゲーム以前の問題と言う事になると思います。

ゲームをして遊び楽しむことは、愛ある交わり、関わりをする事であり、”人”を理解していることが前提ではありますが、その理解はあくまで補助的なものであると言う事もまた知られている状態です。

喩えますと、ルールには目的があります。ゲームを滞りなく成立させると言う目的です。そしてゲームが存在する理由は、それをして皆で楽しむためです。

愛と言う目的があり、人であるという前提のもとに、それ(=生)が実現するのです。

言葉もまた、この時には補助的なものであると思います。言葉、発音、発話の元になる念いが、その本体であると思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 隠すものは何もなくて、説明しなければ分からないものも別に無く、ただ、”既に解っておくべきことは互いに分っていること”が、愛の証拠なのだと思います。
☆ ん? あぁ 稀にはそういった親和性を初対面の相手から感じる場合はありますね。ただそういったすでに相互理解をマジハリの中に含んでいると感じる場合は めったにないでしょう。

あほなさんが何を言おうとしているか 見ていきます。

★ なのでそこには、”安心”がある。っ個で言う既に解っておくべきことと言うのは、互いの信頼の基となるこころの事です。
☆ まだ 前提の中身を言ったにとどまるのでは?


★ なので、お互い理解し合おうとして、互いの思想を説明しあったり批判し合ったりすることは、例えばゲームをプレイする前のルール策定の相談の様なもので、ゲームプレイの楽しみという本体(=目的)ではありません。
☆ ううーん。でも ルール確認が必要なときがありませんか? まだ 前提を想定したというところまでだと受け取らざるを得なにのですが。


★ ゲームのルールを理解しているということは”人”を理解していることであり、他者や自分といったプレーヤーの個性を理解していることとは別の事です。
☆ ふむ。これではまだ 《一切衆生 悉有仏性》といった理念を言ったまでではないだろうか。


★ 互いの思想の開陳と説明と相互批判は、この、プレーヤーとしての個性の如何を言語化して問う事であり、それがゲーム本体なのか、ゲーム以前の問題なのかはその会話によると思います。思想と言うものがその人の心の顕れ、つまり言葉そのものであるなら、それはゲームそのものであるし、頭で考えた物事の説明のための話であるなら、ゲーム以前の問題と言う事になると思います。
☆ ちょっと茶の木畑に入ったような。

《互いが互いの人間にそなわった仏性をゐやまふ》 これでゲームは完了しているってこと?


★ ~~~
ゲームをして遊び楽しむことは、愛ある交わり、であり、・・・

喩えますと、ルールには目的があります。・・・

愛と言う目的があり、人であるという前提のもとに、それ(=生)が実現するのです。

・・・言葉、発音、発話の元になる念いが、その本体であると思います。
~~~
☆ 目的――仏性の発露――の自覚だけでよいってこと?

お礼日時:2022/05/09 07:23

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