とっておきの手土産を教えて

私は下記の理由により、同性愛容認に反対です。もしよければ、下記の意見を一読いただき、皆さんのご意見をいただければと思い、質問を立てさせていただきました。

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(以下、本文)。

(題名)同性愛を容認することが間違っている理由

★同性愛容認は、近親姦・獣姦容認とセットになっている

同性愛を容認すると、次に、近親姦や動物性愛などもまた「容認すべきだ!」という主張が出てくるはずで、その場合、現在論じられている同性愛容認のための同じ理論をもってすれば、それらの異常性愛行為もまた容認せざるを得なくなる。

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実際、同性愛はOKで、近親姦・獣姦はダメと、どこでどう区別するのだろうか。もし、後者が「気持ち悪い」「非常識だ」「良心が許さない」という理由で退けることが可能であるというならば、全く同じようにして、同性愛もまた退けることができるのではないだろうか。

また、同性愛支持者は、「差別するな!」と言うかもしれないが、近親姦・獣姦支持者もやはり「差別するな!」と主張するだろう。さらに、彼らも、社会から差別され、疎外感に悩み、苦しんでいるのだ・・・と切々と訴えると思われる。(これは単なる空想論ではなく、実際に、そういう人がすでに一定数存在している)。では、その時、同性愛者は救済するけども、近親姦・獣姦のために苦しんでいる人は放置する、ということができるのだろうか。結局、それらの人々の行為をも容認せざるを得なくなるのではないか。

=====

このように、同性愛を容認するということは、芋づる式で、近親姦も、獣姦も容認せざるを得なくなるということを意味しているのだが、果たして、同性愛を容認することに賛同している人の中で、そこまで意識している人が一体どれぐらいいるだろうか。

もちろん、ここ1、2年ですぐにそれらすべてが実現するわけではないだろう。しかし、同性愛を容認すれば、確実に、その次、またその次の段階がやって来る。その結果、同性ともOK、親子でもOK、兄弟どうしでもOK、孫ともOK、ペットともOK・・・という、とんでもない世の中になってしまうのだが、本当に、これが、私たちの目指す、また、子孫に残すことになるあるべき社会像だと胸を張って言えるのか甚だ疑問である。

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★自然の理(ことわり)に反する

ところで、近代になって、人間は科学の発達に伴って、おごり高ぶるようになり、人間の勝手な理(ことわり)をもって、大自然の理をないがしろにしてはこなかっただろうか。そして、自然破壊・環境破壊が起き、それは回り回って私たち自身の上に災いとして降りかかるようになった。光化学スモッグ、酸性雨、オゾンホール、温暖化、異常気象、海面上昇、また、水俣病、環境ホルモン、ハウスシック症候群・・・。これらは大自然からの「しっぺ返し」と考えざるを得ない。

この同性愛の問題も全く同じ構図だ。数千年も先祖が重んじてきた大自然の理を退けて、自分たちが考え出した勝手な理を実行しようとしている。果たして、大自然からの「しっぺ返し」をまたもや受け、痛い思いをしなければいけないのだろうか。

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★同性婚の制度化には反対

確かに、同性愛者の人々が悩み、苦しんでいるということは事実で、これを無視するべきではない。それを放置してよいとは思っていないし、別途救済策を考えるべきだろう。しかし、だからと言って、同性愛を始めとした性の逸脱行為を社会的に容認し、あまつさえ、それを制度化するなどということはあってはならないことである。

誤解がないように述べると、私は、同性愛を「禁止」すべきだと言っているのではない。その点まで強制することはできない。しかし、それを「制度化」する、つまり、同性婚を社会的な制度の一部として認めることには反対である、という見解だ。なぜなら、それは上述した通り、長期的な観点からすれば、社会の破綻をきたす第一歩になると容易に予測できるからだ。

(本文、終わり)。
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もしよろしければ、上記の意見に対する皆さんのお考え、感想等をお教えください。

尚、ネット時間に制約があり、回答をつけてくださったすべての方に返信できないこともあります。その際は、あしからずご了承ください。

質問者からの補足コメント

  • いろいろとご回答いただきありがとうございます。とても参考になります。

    ところで、肝心な点、今一度、質問し直させてください。

    ●あなたは、同性愛以外に、近親姦、獣姦、その他、異性愛以外の性的行為をすべて容認するのに賛成ですか? 

    つまり、そういう性癖を、「赤の他人」が持つのではなく、あなたの身近な家族、親族、友人、知人が持ち、かつ、それが公に容認されていて、その性癖を持つ目・態度を隠すこともなく、堂々と「あなたに」対して向けるのが日常の事柄となったとしても(あなたが嫌であってもなくてもかかわりなく)、それでも、それを容認できますか? 

    (つづく)

      補足日時:2022/08/25 13:50
  • (つづき)

    皆さんの回答を読んでみて、何か他人事のように考えているようにも思えたのですが・・・。すでにこの時点でさえも、トランス男子を、女子トイレや女子更衣室に入れる入れないで騒動が起きていますよね? あなたがもし女性なら、そういう自称「女子」の(生物学的には)「男性」を迎え入れることができますか? あるいは、あなたが男性なら、自分の妻、娘、その他の大切な女性と、そういう自称「女子」の「男性」が共にトイレや更衣室を使うことを容認できますか? 「赤の他人」のではなく、「あなた」の問題として考えていただきたいです。

    簡潔に、Yesか、Noかでも結構です。よければ、再度、ご回答いただければと。

      補足日時:2022/08/25 13:51
  • 補足です。

    >>現代社会が「個人の自由」を優先するかぎり、そして「相手の拒否権」が担保される限り、どんな思想も性的嗜好も自由、というが「社会的に正しい」となるわけです。

    この「個人の自由(=権利)」というのは、もちろん、相対的な意味においてですよね。つまり、ある人の自由というのは、他の人の権利を侵害しない範囲内でのみ有効・・・ということ。いわば、国境のようなもので、国境を越えて他の人のテリトリーにまで入ってしまうのはアウトですね。

    上記の「相対性」を踏まえて、私は、「公平」という点をこう考えています。つまり、「私は美味しい料理を食べるけど、お前たちは食べちゃダメだ」(私OK、お前ダメ)とか、逆に、「私は汚い仕事をやんないけど、お前たちがやれ!」(私やらない、お前やれ)みたいな一方的な言い分というのは「不公平」ですよね。

    (つづく)

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/08/31 14:54
  • (つづき)

    とはいえ、それは、互いが同等な条件下での話であって、例えば、女性が男性に、「私は女子トイレを使うけど、あなたは使ってはダメ」というのは「不公平」ではありません。(ちょっと小難しく書きましたが、とりあえず、次を)。

    そこで、私は、この論理を用いて、「性同一性障害」の人の論理が破綻していることを示したいと思います。つまり、彼らは、「自分の体の性」を疎ましく思い、それを退け、あまつさえ、(手術などして)それを排除することさえします。一言で言えば、「自分の体」を「いらない子」として否定・排除しているわけです。しかし、その一方で、彼らは、そのような自分のありのままの姿を、社会が「受容し、受け入れてくれる」ことを求めています。

    (つづく)

      補足日時:2022/08/31 14:56
  • (つづき)

    矛盾していないでしょうか? 彼らは、自分の体(の性)の「ありのままの姿」を否定・排除することさえしているのに、一方、赤の他人(社会)には、そのような自分の「ありのままの姿」を受け入れてくれ・・・と。上記の「公平」の原理を思い出してください。彼らは「私は自分の体を否定するけど、社会は私を肯定しろ(否定するな)」(私OK、お前ダメ)と言っているわけです。そうではなく、「彼らが自分の体を否定するなら、社会も彼らを否定する」か、「彼らが社会から肯定されたいなら、まず自分の体を肯定(受容)しなさい」のどちらかであるべきです。

    彼らの言い分は、「不公平」で、一方的な「わがまま」であると、私は考えます。この点、どう思われますか?

      補足日時:2022/08/31 14:56
  • HAPPY

    すみません。なぜか、立てていた質問が取り消されていまして・・・。

    改めて、こちらに立てました。よければ、引き続き、ご回答いただければ嬉しいです。

    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13127655.html

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/09/04 12:42

A 回答 (18件中1~10件)

#17です。

楽しんでいただけているなら、なによりです。こちらも楽しんでいます。

>ということで、もし、Phjさんの理論で、私の理論が完封できるのであれば、同様に、私の理論をもって、性同一性障害の人たちの理論をも完封できるということになるかと思います。

うーーん、私は「質問者様の論理の応用」をしたつもりなので「phjの論理」ではないし、それで完封してはいません。

あくまでも《質問者様の論理で、質問者様の矛盾をついて居る》はずなのですが、認知のズレが発生しているようです。

で、私がいう質問者様の論理とは
-----------------
「他の人(社会)に押し付け」ようとしている・・・と指摘しているわけです。

それで、もし、相手方がそういうことであれば、こちら側としても、同じように彼らを「不快だから」「押し付ける」ことも可となるべき
-----------------
という部分で、この論理を援用して私は
「私が質問者様の言論を不愉快に感じるので、質問者様には《同性愛を認めろ》という強制」
つまり「押し付け」を質問者様にすることが可になるはずだ、ということです。
これはphjの論理ではなく、質問者様の論理です。


なので
>でも、Phjさんの理論で私の理論が完封できるのであれば、私の理論では性同一性障害の人の理論は完封できない・・・。要するに、この理論そのものが矛盾していて、破綻しているということです。

これはそもそも矛盾した言い回しになります。
もし矛盾しているなら、それは「質問者様が提示した論理」であって、phjの論理=私が提示した論理ではないからです。

この辺りはもう少し厳密にご判断いただく方がいいと思います。

http://plsk.net/oshietegoo-2022
この部分に関しては、質問者様の「感想」「独断と偏見」でしかないと思います。
 他の要因で苦労している人の中にも甘えがある人もいます。少なくとも防災は私の専門分野なので「被災した後、自助努力をほとんどせずに甘える人」は確実にいる、と断言できます。

逆に性自認の問題において、たとえば自分で解決できずに自殺する人もいます。芸能界でも過去に何人か自殺していますので、調べてください。
 また性転換などについても、日本では割と厳密に調査され、長いカウンセリングを受けて確定診断に至らないと戸籍変更を含めた性転換は許容されません。

また「性自認」に限らず「自己肯定」について悩んでいる人は日本中にたくさんいるので、それを「甘え」という一言で断罪してしまうのは違和感があります。

もちろん「個人主権」を主体とした社会であるためには「自己肯定」が基本になります。とはいえ、私はそこまで自己肯定が強い人間だとは自認していないし、そこまでタフな人間が存在するのかも疑問です。

この点、自分自身をよく見て「他者を批判できるほど安定的な人間」だと言えるなら、質問者様はすごく特殊な方だと思います。

なので、ご指摘のURLの部分の内容についての感想は「他者への独善的な断定」ということになります。
そのうえで

>このダメなパターンは事前に回避できると思うのです
という部分については「回避するためには《お互いに弱い人間同士である》という認め合いから始めるべきだ」し、社会の不確かさはそれが原因であり、そこを相互に補完するのが「社会そのものである」という共通認識がなければ、回避できないと考えます。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ありがとうございます。では、パート2も立てました。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13125866.html

ですが、とりあえず、こちらのご回答への返信から。

>>あくまでも《質問者様の論理で、質問者様の矛盾をついて居る》はずなのですが、認知のズレが発生しているようです。

えーと、これはですね。後でよく考えてみれば、私か、あるいは、私と同じ見解の人が、「phjさんがyangmask(私のこと)に強制するのをやめるよう強制する!」と同じ理論で強制すれば、Phjさんの理論もまた完封されることになるのではないかと。完全に言葉遊びですけども。

まあ、そもそもは、

性同一性障害の人が、「自分の体」でさえも「否定」するのであれば、同様に、私(周囲の人々)が「赤の他人」の彼らの生き方・考え方を「否定」することも当然起こり得るでしょう・・・

ということでしたね。

そこで、

性同一性障害の人は自分の体でさえも「否定」できるのに、一方、私には、彼らの生き方・考え方を「否定」することは許されない・・・

というのは、アンフェアなのではないか? ということでした。

もう一旦、考えを深めてみたいと思います。

_______

>>「被災した後、自助努力をほとんどせずに甘える人」は確実にいる、と断言できます。

確かに。人間は、苦難に直面した時に、大きく2つのパターンに分かれると考えています。一つは、その苦難を克服し、さらに人間的に成長する人。もう一つは、その苦難を克服できずに、いつまでたっても心の傷を引きずり、自分を被害者呼ばわりして、自分以外の他の人や状況のせいにし、一生愚痴と不満をこぼすだけで無為に過ごす人。

社会の向上のためには、是非とも、多くの人に、前者になってもらいたいと心から願いますが、実際には、後者の人も結構いますね。

>>それを「甘え」という一言で断罪してしまうのは違和感があります。

はい。ですから、そのような人をいかにサポートし、その葛藤を克服できるように支援していくか、ということです。そういうサポートがめんどうなので、とりあえず、制度を彼らの低い「受容力」に合わせて「甘やかす」のは、長期的な観点で見ると、彼ら自身のためにもなりませんし、もちろん、社会のためにもなりません。

__

では、続きはパート2の方へ

お礼日時:2022/09/03 10:17

#16です。

お礼ありがとうございます。

>ですから、性同一性障害の人も「自分が不快だから」、自分の体の性を否定していて、かつ、それを「他の人(社会)に押し付け」ようとしている・・・と指摘しているわけです。

なるほど、ようやく論点の本質が理解できました。
ただ、それだと何度も私が書いている「きちんと拒否できる社会であれば問題ない」という所に帰結することになると思います。

私の回答を見返していただいてもいいのですが、私は「質問者様の考え方が間違っていて、だから同性愛者を容認すべきだ」とは書いていません。

私は「今の社会は啓蒙的個人主権なのだから同性愛者もその他も容認すべきだ」と主張しています。

で、非常に個人的なことを書くと《私個人は同性愛はともかく同性婚は容認していない》ですし《同性愛者が私に愛を向けても受け入れる気は全くない》です。つまり私個人としては同性愛を認めるつもりはない、のです。
(身内が同性愛者なら、大人になった後は個人の選択は否定しません。ただし肯定もしませんので、法的な性転換措置などがあれば受け入れるという程度です)

なので、質問者様にも「個人的な趣向での同性愛反対ならそれでいいのでしょう」としか言いようがないです。

でも「社会的に同性愛を禁止すべきだ」という論であるなら(というか、そういう論ですよね)「それは違う、個人の意思を可能な限り優先すべきだ」と反論することになるわけです。



>それで、もし、相手方がそういうことであれば、こちら側としても、同じように彼らを「不快だから」「押し付ける」ことも可となるべきでしょう。

には賛同できません。なぜなら「自分が自分自身を不快だと思って受け入れないこと」と「他者が不快だから押し付けていいこと」は全く別のことで、論理的に正当ではないからです。

もし質問者様が「彼らを「不快だから」「押し付ける」ことも可となるべきでしょう。」という論法で行くなら、たとえば「同性愛を不快だと感じる質問者様は私から見て不快な存在だから、私の考えを強制できる」ということになります。

ということで、一旦「私が質問者様の言論を不愉快に感じるので、質問者様には《同性愛を認めろ》という強制」をしたいと思います。

質問者様の論法を封じるにはこれで十分なはずです。

矛盾せずに突破できるような補足をお待ちしております。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。白熱した議論、いいですね、非常にいいですね(笑)。

>>でも「社会的に同性愛を禁止すべきだ」という論であるなら

あ、いや、それはそうではないです。話が長くなったので覚えておられないかもですが、一番最初の質問欄にて・・・

(以下、引用)

誤解がないように述べると、私は、同性愛を「禁止」すべきだと言っているのではない。その点まで強制することはできない。しかし、それを「制度化」する、つまり、同性婚を社会的な制度の一部として認めることには反対である、という見解だ。

(引用終わり)

・・・と表明しています。基本は、Phjさんと同じ考え方のようですね。

_____

>>なぜなら「自分が自分自身を不快だと思って受け入れないこと」と「他者が不快だから押し付けていいこと」は全く別のことで、論理的に正当ではないからです。

うーん。これはですね、要するに、そういうことをしていいと言ってるのではなく、「あなた(性同一性障害の人)の論理が可なら、私の論理も可でしょ?」と言うことで、相手方の見解の不備・矛盾を指摘しているということです。

これは、後半で、phjさんも「>>質問者様の論法を封じるにはこれで十分なはずです。」と言っておられるのと全く同じですね。

ということで、もし、Phjさんの理論で、私の理論が完封できるのであれば、同様に、私の理論をもって、性同一性障害の人たちの理論をも完封できるということになるかと思います。

でも、Phjさんの理論で私の理論が完封できるのであれば、私の理論では性同一性障害の人の理論は完封できない・・・。要するに、この理論そのものが矛盾していて、破綻しているということです。

ということで、性同一性障害の理論も、私の(強制)理論(=本意ではありませんよ)も、phjさんの(強制)理論も、すべて矛盾していて、破綻している・・・ということですね。私としては、これで十分です。

_____

文字数の制限でオーバーしたので、続きは、下のページに書きますね。

http://plsk.net/oshietegoo-2022
http://plsk.net/oshietegoo-2022-1 (こちらは予備。内容は同じ)。

お礼日時:2022/09/02 12:30

#15です。

補足拝見しました。


対論としては2つ
①質問者様の不公平論を受けての反論
②そもそも質問者様の不公平論が間違っていることの指摘
です。

①質問者様の不公平論を受けての反論

私は、この論理を用いて、「性同一性障害」の人の論理が破綻していることを示したいと思います。つまり、彼らは、「自分の体の性」を疎ましく思い、それを退け、あまつさえ、(手術などして)それを排除することさえします。一言で言えば、「自分の体」を「いらない子」として否定・排除しているわけです。しかし、その一方で、彼らは、そのような自分のありのままの姿を、社会が「受容し、受け入れてくれる」ことを求めています。
矛盾していないでしょうか?

矛盾しているとはいえません。なぜなら、それは「精神障害」つまり病気の状態だからです。

質問者様はこうも書いておられます
>「彼らが自分の体を否定するなら、社会も彼らを否定する」

ここで問題になるのは「自分の体」という点です。
たとえばガンや糖尿病、さらにはうつ病などを治療することは「自分の体を否定すること」になりえます。少なくとも質問者様は同性愛と一般的な病気が「違うもの」だとする基準を示す必要があります。

特に「うつ病」などの精神障害に関していえば、基準は「社会」であって人間の本質的な形態ではありません。たとえばアメリカ社会のうつ病病理判定基準を使うと、日本人の8割、イギリス人の5割がうつ病になると言われています。

また身体障害者はどうでしょうか、生まれたときから四肢が欠損しているような人が「手が欲しい、足が欲しい」と望むのはわがままでしょうか?
 質問者様は「彼らが自分の体を否定するなら、社会も彼らを否定する」と書いておられるわけですから、そのままの論理だと障害者が自分の体を車椅子で代用したり、乙武氏がやっている「ロボット足をつけての二足歩行」なんかも否定されるはずです。

性自認や同性愛がどの程度許容されるかは、その社会によって異なります。つまりその社会を構成するマジョリティの認識次第によって公平にもなり得るし、不公平にもなり得るわけです。

ですから、質問者様は「病気や精神障害さらに身体障害と性自認障害の違いを表す基準を示す」必要があり、それがどのような思想に基づくものなのかを明らかにする必要があります。

②そもそも質問者様の不公平論が間違っていることの指摘

平等と公平の説明でよく使われる図がありますので、まず提示します。

https://pbs.twimg.com/media/EzOLlDCVIAc-zkZ.jpg

平等のほうは「一人1個箱が用意されている」状態で、背が低ければ見えません。逆に公平のほうは「見ることができる高さまでの箱をそれぞれ用意してあげる」というものになります。

平等と公平の根本的な違いはどこにあるか、というと「誰かが用意してあげるかどうか」です。

平等は法制度など基本的なルールがあれば社会全体がそれを実現するように動きます。「野球観戦には一人1つ箱を用意しなければならない」という基準を示せば、そのように整えられるわけで、制度設計には社会思想に基づく恣意性があるとしても、いったん決まれば自動的に適応されます。これが平等です。

しかし公平の箱の分配は「都度都度、誰かが恣意的に判断するもの」です。
この図には乗っていませんが《もう一人、箱が2つ必要な小さい子がいたら、2人で1つの箱を共有するように求められる、かもしれない》わけです。

それを決める「誰か」が居て、つまり「その誰かが決める基準が公平性の基準である」ということになります。

それを指摘したうえで、質問者様の不公平の説明である
>上記の「相対性」を踏まえて、私は、「公平」という点をこう考えています。つまり、「私は美味しい料理を食べるけど、お前たちは食べちゃダメだ」(私OK、お前ダメ)とか、逆に、「私は汚い仕事をやんないけど、お前たちがやれ!」(私やらない、お前やれ)みたいな一方的な言い分というのは「不公平」ですよね。

というのは不公平ではなく、不正義なだけですし「誰がどのように決め、どれだけの強制性があるのか?」が明確ではないので、不公平の説明にすらなっていません。

>例えば、女性が男性に、「私は女子トイレを使うけど、あなたは使ってはダメ」というのは「不公平」ではありません。

これも同様に基準が不明確ですが、少なくとも「トイレ・風呂」などの性別限定に関しては「同等なものが用意されること」という社会的ルールが認知されていて「ここは男子トイレだから女子は使っちゃダメ、その代わり隣に女子トイレがあるよ」という平等性が担保されるのが一般的です。

そのルールが「ない」というなら、不平等であって「公平・不公平」という概念ではありません。




申し訳ないのですが、質問者様の論は今のところ「自分が不快だから、その不快感を他人に押し付けていい」というレベルを出ていません。

社会学者である宮台真司氏は「てめえの快不快には公共性が無い」と指摘しています。

それをご指摘差し上げたうえで
>「彼らが自分の体を否定するなら、社会も彼らを否定する」か、「彼らが社会から肯定されたいなら、まず自分の体を肯定(受容)しなさい」のどちらかであるべきです。

という基準なら性自認だけじゃなく
・自分がバカだと思ったらそれを肯定しないと社会にも否定される
・自分の体が貧弱だと思ったら、それを肯定しないと社会にも否定される
ということになってしまいます。

しかし、世の中には「学習塾」など「バカかもしれないが、それを改善し《なりたい自分になる》ための施設」があるし、貧弱なボディをナイスバディにする「補正下着とか化粧品とか整形手術など《なりたい自分になるため》の方法」が世の中にあふれています。

このような社会、つまり何度も書いていますが「個人の思想の自由・意思の自由」を認める社会において《なぜ性自認だけ、なりたい自分になってはいけないのか?》という論拠を質問者様は示せてないのです。

だから#12に書いたように
「今の質問者様の論理の筋なら、私はいくらでも抜け道を作り出せます。」
とご指摘差し上げたのです。

質問者様は「日本の社会において、個人の意見は自由だが性自認だけはそれの例外である」か「日本の社会は実は個人の自由はなく、他者が決める公平性を押し付けられている社会だから、同性愛は否定されている」などの、啓蒙的個人主権の日本の価値基準において客観性に耐えうる論を補足していただきたいです。

(日本が啓蒙的個人主権の国ではない、というなら別の方向性なので、新たにスレを立てる方がいいと思います)
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この回答へのお礼

引き続き、ありがとうございます!!

>>質問者様の論は今のところ「自分が不快だから、その不快感を他人に押し付けていい」というレベルを出ていません。

うん。ですから、性同一性障害の人も「自分が不快だから」、自分の体の性を否定していて、かつ、それを「他の人(社会)に押し付け」ようとしている・・・と指摘しているわけです。

それで、もし、相手方がそういうことであれば、こちら側としても、同じように彼らを「不快だから」「押し付ける」ことも可となるべきでしょう。つまり、「あなたがOkなら、私もOKでしょ?」ということ。

__

>>というのは不公平ではなく、不正義なだけですし

つまり、ここで言いたかったのは、議論一般において、「自分はOKだけど、あなたはダメ」とか、またその逆というような一方的な論理展開というのは、アンフェア(=不公平、不公正)でしょう?ということです。

つまり、「あなたがその論理を用いて持論を展開できるというのであれば、同様の論理を用いて、私の論理を展開することもできますよね?」・・・ということ。

__

>>少なくとも質問者様は同性愛と一般的な病気が「違うもの」だとする基準を示す必要があります。

>>また身体障害者はどうでしょうか、生まれたときから四肢が欠損しているような人が「手が欲しい、足が欲しい」と望むのはわがままでしょうか?

一般の病気というのは、体に異変が起きているということですね。それで、普通、人は、「自分の体が大事(=肯定している)」なので、そのような異常な状態を治そうとします。一方、性同一性障害の人は、自分の体(の性)を「否定している」わけで、そこが決定的に異なりますね。

また、身障者の方の場合、彼らが義手や義足等を用いたとしても、別に、自分の体を「否定している」わけではなく、足りないところを補っているにすぎません。確かに、身障者の方も決して自分の状態に満足しているわけではなく、相当な葛藤があることだと思います。しかし、多くの場合、その葛藤を乗り越え、自分の体と折り合いをつけて、それを受容しているのではないでしょうか。(性同一性障害の人たちも、たとえ葛藤があったとしても、同じように頑張ってもらいたいと思うわけです)。

ですから、大切なのは、自分の体を「肯定している」か、「否定している」か、という点ですね。

__

お礼日時:2022/09/01 12:57

#14です。

お礼ありがとうございます。

>すでに起きているこのような傾向から考えると、phjさんが言われる「きちんと拒否できる」社会というものは担保できないと思われます

それはちょっと歴史を知らない過ぎるんじゃないでしょうか。
たとえば平民が政治参加できるのは今では当たり前ですが、フランス革命以前は無理で、上流階級に拒否されていました。

労働者階級はストライキ権を法律で担保されるまで違法行為でしたので、社会から拒否されていたといえます。

女性が自由に恋愛できるようになったのだって、欧米は100年ぐらい前ですし、イスラムはいまだにできない国があります。

なので「新しい権利」が当たり前になり、きちんと拒否できる又は普通に権利として行使できる社会になるには時間がかかり、同性愛の権利などは今過渡期であるといえます。


>私が言うように、「性の自由(奔放)」は、思わぬ副作用(=害)をもたらすという論も真実味を帯びてくるのではないでしょうか。

上記にも書きましたが、女性に「性の自由」が解放されたのは100ほど前にすぎません。

で、副作用はありましたか?まあ、少子化などもあるので害が無かったとはいいませんが、それでも「そうすべき社会」というのが現在の価値観です。

結局ここも「個人の自由(個人主権)」という価値観と質問者様の言う弊害がぶつかっているわけで、現代社会が「個人の自由」を優先するかぎり、そして「相手の拒否権」が担保される限り、どんな思想も性的嗜好も自由、というが「社会的に正しい」となるわけです。

>ところで、結局、この「同性愛容認論」というのは、「かわいそう」と「許容しても特に実害はない(だろう)」という点に依存しているのではないでしょうか。

違います。明確に違うと言えます。
同性愛などが容認されるのは「個人の思想の自由を縛ってはいけない」という現代民主主義社会の根幹である啓蒙思想を基準としているからです。

>特に、後半の「実害はない(だろう)」という予想については、私は「いや違うのでは?」との見解です。今回、phjさんと意見が分かれているのはその点ではないでしょうか。

「実害はない」というのがどのようなものか、それ自体が議論の対象になるわけです。

質問者様がお礼に書かれた例で「「使わせたくない」と考える女性がいても、それを「不寛容!」と罵る人たちもいるようです」というのがありますが、啓蒙的主権という基準からみれば、使わせなくないと考える人たちは「不寛容」であるといえます。

もちろんそれに対応できるように社会ができることもあって、たとえば欧米では男女にかかわらず洗面台は共用、個室内は個人のプライバシーというジェンダーレストイレも増えています。

これならそもそも「使わせたくない」という発想はありえません。「男がいるから、トランスジェンダーがいるから使いたくない」というのは個人の思想なので自由ですが、少なくとも公共として提供しているものに対して「使わせたくない」と勝手に思い込むのは、啓蒙思想として許容してはいけないことです。

何をもって「害悪」だというのか?はその社会や時代背景、時代的思想によって全く異なります。

先ほども書いたように、女性に性の自由を与えることが「害悪」だった時代もあるし、イスラムなどはいまだに「害悪」と考えています。だから女性に布をかぶせるわけです。

私たち日本人は、民主主義社会で「何をやるのも自由、何を考えるのも自由」という価値観の中に生きています。それなのに「同性愛は制限すべき」という論調を許容するのは、むしろ「〇〇は制限すべき」という制限事項がどんどん増える結果しかもたらしません。

私はそんな窮屈な社会のほうがイヤです。

だから「相手がどんなことを考えていても、自分にそれが及ばない拒否権がある限り、どんな自由も許容する」わけです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

引き続き、ありがとうございます。真剣に答えてくださり、本当に感謝です。


>>啓蒙的主権という基準からみれば、使わせなくないと考える人たちは「不寛容」であるといえます。

ふーん。嫌だと思っている人の「拒否権」はないということでしょうか?? 

例えば、男女の恋愛で、男性の側がプロポーズしたのに、女性の側がそれを拒否する場合、その拒否の理由が「啓蒙的主権という基準」にかなっていない(例えば、単に感情的な問題だとか)ゆえに認められない・・・ということがあるでしょうか。

___


>>少なくとも公共として提供しているものに対して「使わせたくない」と勝手に思い込むのは、啓蒙思想として許容してはいけないことです。

これは、「分煙」の問題と同じではないかと。これは、やはり、「公共の場」において、「副流煙を吸いたくない(=タバコを吸ってほしくない)」という人の「権利」が認められた結果ですね。

これは、「公共の場・施設内で」、他の人が行なう行為が、自分に何らかの影響を及ぼすという場合に、それに対する配慮を示すよう要請する「権利」はある・・・ということを支持しているように思えます。

この判例からしても、私は、今回挙げた、女子トイレ・更衣室という「公共の場・施設」に関して、「トランス男子に使用してほしくない」と考える女性に対して、社会としては、それに対する配慮を示す義務があると考えます。

・・・となると、やはり、phjさんもおっしゃるように、「分煙」ならぬ、トイレや更衣室の「分離」化が、着地点となるのでしょうか。

いずれにしても、「お前は不寛容だ、我慢しろ。とにかく、認めろ!」というのは単なる脅迫で、それこそ、人権尊重に逆行するやり方ではないかと。

お礼日時:2022/08/30 15:03

#12です。

お礼ありがとうございます。

少々、強い言葉で煽らせていただきましたが、質問者様の本質的な懸念が見えてきたように思います。

>そういう「誰とでもOK」みたいな世の中になることを望まない、そういう人の意見もまた、尊重されるべきだということになりますよね。

勘違いしてはいけないのは「意見は尊重される」ということ「それが社会的に許される行動である」というのは別のことである、ということです。

たとえば性的なことを離れて「たくさん人を殺したい」と思うのは、個人の思想の自由から言えば全く問題ありません。でもそれを表明して刃物を手に入れたら警察は監視するでしょうし、何かあれば予防的に理由をつけて拘束するでしょう。

性的な問題も同じで#12に書いたように《本人が望むからといって、相手がOKかどうかは別。オファーをすることはともかく、相手が拒否したらそれ以上のことはできない》わけで、それが担保されているなら今の現状と何も変わらないわけです。

もう一回書きますが、今だって《男がこの女とやりたい》と思ってベッドに誘っても、女が拒否し、その拒否で男があきらめるならそれは普通のことだし、同性愛でも全く同じです。

>何でも「自由」なのは喜ばしいことのように感じるかもしれませんが、しかし、実際には、何の規制もない自由というのは、単なる混沌・無秩序であるゆえに、何事にも、自由を規制する「縛り」は必要ではないかと考えます

はい、その点は同意します。「社会」である以上は規制が必要で、性的な部分に関して言えば「オファーはしてもいいが、相手が断ったらあきらめる」ということです。

>これは、性の問題においても、同様ではないでしょうか。何でもOKという規制なしの自由は、無秩序(=害)をもたらすと私は予想します。

はい、ですから何度も「本人の性嗜好はどんなものでもOKだが、相手がそれを望まず拒否することが担保されるなら何も問題ない」と説明しています。

逆に補足していただきたいことがあります

「オファーを受けた側はOKもできるが拒否もできる」ということが担保されない世界なら、今の男女関係自体が成り立たないはずですが、それには質問者様は同意なされないのでしょうか?

それとも「異常性愛は相手の意向を無視するから、異性愛と違って規制すべき」ということなのでしょうか?

異性愛だって規範を飛び越えて、犯罪になる人はたくさんいますけど、その点はどう考えておられるのか、補足していただけるとありがたいです。

>phjさんがおっしゃる通りの世の中になった場合に、何の弊害・副作用もないと断言できるものでしょうか。あるいは、phjさんとしても、気がかりな点が何かありますでしょうか?

何度でも書きますが「オファーを受けた方が断る権利を有する」というのが自由な社会におけるもっとも基本的なルールです。

これを商売に当てはめば「売る方が勝手に売りつければ恐喝、買う方が勝手に買えば窃盗」です。人を殺したいという欲求に対する制限の在り方は上記に説明してあります。

つまり「自由な思想をもち、自由に行動できるとしても、それを相手が断ったら、受け入れてそこで止める」ということができるなら、同性愛などが社会に在っても何の弊害も不都合もありません。

そのうえで、幼児性愛や死姦のような「本人が許諾/拒否の意思を表明できない」ものは規制すべきですし、それはすでに行われています。

したがって、私個人が弊害というか絶対的に守るべきルールとしてもう一つ付け加えるなら「自由」というのはあくまでも個人主権の能力をもつ《成人》に限定すべき、ということです。
 能力を持たない未成年または死者などについては、法的な保護が必要です。

他の方へのお礼ですが
>しかし、上でも書いたように、現代人は、これまでにも何度も何度も、大自然を無視して、天に唾を吐くようなことをしてきて、「罰」を被ってこなかったでしょうか

について少し書きます。

これについていえば「現代人」だけでなくそもそも「人類」が何度も自然を無視して、天に唾を吐くようなことを繰り返してきていますし、罰とも思えるような天変地異に何度も遭遇しています。

そもそも質問者様は「どの時代に戻れば人間は、自然の理に適う生活スタイルに戻れる」とお考えなのでしょうか?

日本で言えば江戸時代などでしょうか?でも日本は平安時代には衆道が発展していきますので《自然の理》に沿うのは古代でしょうか?

ヨーロッパもギリシャ文明は同性愛が盛んだったので、ローマ以降の質実剛健の時代以降が《自然の理》に適うのでしょうか?

しかし《自然の理》という概念から見るなら、そもそも農業自体が《自然の理》に反しています。
 人間が農業をするようになった時点、つまり紀元前5000年ぐらいから、地球は《自然の理》を失っていったし、その点において人類は何度も自然からしっぺ返しを食らっています。

ということは、質問者様のいう《自然の理》は一体いつの時代を言うのでしょうか?
 ぜひ、補足をお願いしたいところです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。思考の刺激になりますし、ご意見大変参考になっています。

>>それとも「異常性愛は相手の意向を無視するから、異性愛と違って規制すべき」ということなのでしょうか?

先に述べたように、すでに、トランス男子に女子トイレや女子更衣室を使わせる使わせないという問題が起きていますね。「使わせたくない」と考える女性がいても、それを「不寛容!」と罵る人たちもいるようです。

https://www.asahi.com/articles/ASN6F3GTXN6DUHBI0 …
https://www.tvgroove.com/?p=72978

phjさんの言われるように「きちんと拒否できる」社会であれば、この問題はもっと単純に解決できるように思えます。すでに起きているこのような傾向から考えると、phjさんが言われる「きちんと拒否できる」社会というものは担保できないと思われますし、そのような前提であれば、私が言うように、「性の自由(奔放)」は、思わぬ副作用(=害)をもたらすという論も真実味を帯びてくるのではないでしょうか。

____

>>そもそも質問者様は「どの時代に戻れば人間は、自然の理に適う生活スタイルに戻れる」とお考えなのでしょうか?

この点は、是々非々で評価すべきだと思います。現代科学がもたらした「すべてのもの」が悪で、取り去るべきだと主張しているのではありません。井戸から水を汲んで、かまどで火を焚いて・・・というような生活に戻るのは、ちょっと・・・。

そうではなく、この質問で、この点を挙げたのは、「こうこうすればうまくいく(はず)」と豪語して、実行したはいいものの、思いがけない副作用(=害)を被ったという事例がたくさんある・・・という事実であり、人間の予測は当てにならないということでした。

____

ところで、結局、この「同性愛容認論」というのは、「かわいそう」と「許容しても特に実害はない(だろう)」という点に依存しているのではないでしょうか。

特に、後半の「実害はない(だろう)」という予想については、私は「いや違うのでは?」との見解です。今回、phjさんと意見が分かれているのはその点ではないでしょうか。

明日、月曜はお休みしますが、火曜以降にまた、考えをまとめてご返信したいと思います。

お礼日時:2022/08/28 13:27

自分ごととして究極に考えるのであれば、私は私以外の他人を許容することなどできない。

ただ私や他人や社会はすべて完璧ではないし、正しくないこともある。その中で相互的にみんなできるだけ快適に生きていけたらとねがっている。
私は社会の中でルールが制定されるのであれば社会の善性を信じて盲目的に従うような人間だから、できたルールや価値観に合わせ生きていく。賢いみんなが考えた賢いルールや価値観に表面上は従うといったスタンスだろうか?
自然のしっぺ返し恐れて古代からのスタイルを守っていくみたいなのは、シャーマンのいる土人の村が頭に浮かんだ。確かにそういったものも大事だし、それを忘れ、禁忌を侵した時に悪いことが起こる(頭の中に保育園児のときみた帰ってきたウルトラマンのオクスター回が思い出される。)ことは当然ある。
ただそんなことでは土人の村のままであったかもしれない。祈祷によって豊作や病の快復を願っているようでは、発展はなかったと思う。
今日の人類の発展には間違いなく既存の社会的における禁忌を侵すことが必要だったし、これからもそうだと思う。
この辺は常に社会のなかで綱引きをしてバランスを取って行ければいいと思ってる。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>>自然のしっぺ返し恐れて古代からのスタイルを守っていくみたいなのは、シャーマンのいる土人の村が頭に浮かんだ。

うーん。これはですね、単に、これまで現代人は、「こうこうすればうまくいく(はず)」と実行して、その結果、思いがけない想定外の「副作用」を被ってきた(光化学スモッグ、酸性雨、オゾンホール、・・・)、そういう「前科」があるゆえに、これから先、「同性愛を容認しても大丈夫ですよ!」と安易に言われても、「本当に大丈夫なのか?」と疑わざるを得ないということです。例えば、遺伝子組み換え食物の是非をめぐる問題もそれと同じような背景があると思います。

そういう「同性愛容認」の結果生じるかもしれない「副作用」(=害)について、もっと真剣に考慮すべきではないでしょうか。

_

>>祈祷によって豊作や病の快復を願っているようでは、発展はなかったと思う。

確かに。果敢な挑戦は必要かと思います。しかし、上でも書いたように、現代人は、これまでにも何度も何度も、大自然を無視して、天に唾を吐くようなことをしてきて、「罰」を被ってこなかったでしょうか。これらの事例から「学習」することこそが、進歩であって、同じことを繰り返してまたもや害を被ることは愚かなことで、そちらの方が、発展のない「土人的思考」のように思えます。

お礼日時:2022/08/27 15:31

#4です。

お礼ありがとうございます。補足も拝見しましたし、他の方の回答とお礼も全部拝見しました。

まず補足の部分から
>●あなたは、同性愛以外に、近親姦、獣姦、その他、異性愛以外の性的行為をすべて容認するのに賛成ですか? 

はい賛成です。私は個人の自由を何より尊重するからです。
「公認され、あなたやあなたの家族などに性癖が向けられる」としても、特に問題はないと考えます。

なぜかというと、そもそも今の時点で「自分がイヤな性的オファーは断れる」のが普通だからです。
 実際、私は男ですが、学生時代にゲイのお誘いを丁重にお断りしたことが何度もありますし、異性愛としての女性のオファーを断ったこともあります。

したがって、どのようなものでも「断ることができる」という権利が担保される限り問題ありません。
 「限度を超えて性癖を向けられたら」という質問もされたいのでしょうが、だとすれば現在でもストーカー規制法などで規制できますので、その時点で公認されないものになります。

犯罪を犯す意図をもって、自分の性癖をかなえる人は今現在でもいますので、その点は議論の対象にならないと考えます。

>自称「女子」の「男性」が共にトイレや更衣室を使うことを容認できますか? 
容認できますし、容認すべきです。それが「個人の自由を認め、個人主権を確立すること」であるからです。

お礼の内容と補足を見てハッキリと分かったのは《質問者様は生理的な嫌悪と理性的な平等主義の違いを区別できていない》という点です。

そもそも「同性愛」はLGBTQのような「性自認」と言われるものは、啓蒙的個人主権の流れの中で出てきたものだということを知る必要があるし、制限を加えるなら、逆に流れを加速するなら「個人主権の実現とその平等性」という論点で考える必要があります。

だから、他の方のお礼に対して「それをどういう理論をもってそうするのか、つまり、認めないということを大衆に納得させるのか、ということですよね。」という議題であるなら、生理的な嫌悪感とか社会的な不都合という視点ではなく、あくまでも「啓蒙的個人平等」の論理でないと納得させることはできません。

少なくとも、今の質問者様の論理の筋なら、私はいくらでも抜け道を作り出せます。
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この回答へのお礼

>>はい賛成です。私は個人の自由を何より尊重するからです。
>>したがって、どのようなものでも「断ることができる」という権利が担保される限り問題ありません。

そうですね。個人を重んじるのであれば、そうなると思います。

では、そもそも、私もそうなのですが、質問でも挙げたように、そういう「誰とでもOK」みたいな世の中(ソフトに書きましたが、これ、そうとうえげつないですよ)になることを望まない、そういう人の意見もまた、尊重されるべきだということになりますよね。

ところで、何でも「自由」なのは喜ばしいことのように感じるかもしれませんが、しかし、実際には、何の規制もない自由というのは、単なる混沌・無秩序であるゆえに、何事にも、自由を規制する「縛り」は必要ではないかと考えます。例えば、日本国憲法の第9条でも、国家に、戦力という手段を用いないように「縛る」ことで、平和を実現しようとしているわけですよね。また、同様に、交通法規においても、スピード制限や、信号・止まれなどの規制があり、それよって安全を得ているわけですよね。

これは、性の問題においても、同様ではないでしょうか。何でもOKという規制なしの自由は、無秩序(=害)をもたらすと私は予想します。

もしも、phjさんがおっしゃる通りの世の中になった場合に、何の弊害・副作用もないと断言できるものでしょうか。あるいは、phjさんとしても、気がかりな点が何かありますでしょうか? ぜひ、意見を聞いてみたいです。

お礼日時:2022/08/27 15:18

> 同性愛以外に、近親姦、獣姦、その他、異性愛以外の性的行為をすべて容認するのに賛成ですか?



意味のない質問です。
ではオナホやラブドールの利用まであなたは禁止するのでしょうか?

同性愛は否定すべきではないですが、同性婚という制度を認める必要がないというだけの話です。婚姻は近親以外の男女間にのみ認められた特権であり、その特権を制度化する合理性があるわけで、同性愛者がいくら愛し合ってもなにも問題ないですが特権を得られるだけの資格がないだけです
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>>同性婚という制度を認める必要がないというだけの話です。

はい、そうなんですが、では、それをどういう理論をもってそうするのか、つまり、認めないということを大衆に納得させるのか、ということですよね。「ダメだからダメ」と言うだけではダメだと思うわけです。

===

よければ、「補足」や他の回答者さんとのやり取りもご覧ください。

お礼日時:2022/08/26 13:15

子供が生まれない気がする。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

よければ、「補足」の方もご覧ください。

お礼日時:2022/08/26 13:15

★同性愛容認は、近親姦・獣姦容認とセットになっている


  ↑
その通りですね。
同性愛を認めろ、という根拠は
愛だけですから。



★自然の理(ことわり)に反する
 ↑
自然の摂理に反することをやると
思わぬしっぺ返しが来ます。

アフリカの風土病に過ぎなかったエイズを
世界的な病気にしたのは米国の男性同姓愛者達でした。

今、はやっているサル痘も男性同性愛者です。



★同性婚の制度化には反対
 ↑
陰でひっそりやる分には仕方が無いですが
制度化しておおっぴらにやるのは問題です。

どんな副作用が起こるか、判りません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>>陰でひっそりやる分には仕方が無いですが
>>制度化しておおっぴらにやるのは問題です。

確かに、そういうことですよね。概ね同感です。

よければ、「補足」や他の回答者さんとのやり取りの方もご覧ください。

お礼日時:2022/08/26 13:17

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