【復活求む!】惜しくも解散してしまったバンド|J-ROCK編

江戸時代など、昔の人は結婚指輪はしていたのでしょうか?

結婚指輪の代わりに何か身につけていたのでしょうか?

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A 回答 (6件)

江戸時代の人は結婚指輪はしてません。

当時は指輪をつける習慣はなかったので。
男性は・・未成年と成人の区別はあったようですが、既婚未婚を区別するようなものは
なかったと思います。

女性の場合・・既婚者と未婚者では髪型が違いました
当時は身分・年齢のほかに既婚・未婚かを女性は髪型で区別してました。
既婚女性の場合は、「丸髷」(東日本)「先笄」(西日本・子なし)「両輪」(西日本・子あり)
といった髪型をしていて、あと
「お歯黒」(結婚すると必ずつける)をしているかどうかというのもありましたし
子供のいる女性(結婚した女性の場合もある)は、眉を剃り落としていました。
着物の柄・色などもどうやら未婚女性よりは地味かげんにするのが普通だったようですよ。
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日本で結婚指輪がポピュラーになるのが、戦後のことです。

特に、昭和40年代後半からでしょう。
都市部では昭和初期にもみられた風習ですが、やはりちょっとキザだと思われていたそうです。
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祖父や祖母の世代では、指輪をつけている人なんていませんでしたよ。

祖父母は明治の人でした。
夫婦で指輪をつけるようになったのは、戦後になってからです。それも団塊の世代以下でしょうね。私が小さなときに祖父におじいちゃんは結婚指輪はしないのかと聞いた記憶があります。
祖父の答えは、男が指輪なんてものはするもんじゃないというものでした。明治男でしたからね。

ではどうやって結婚の有無を見分けていたかって?そりゃ、かつては男も女もある程度の年齢になったら「結婚しているのが常識」だったのです。だから、ある程度の年齢なら結婚していること前提だったんですよ。結婚していない人がいたら、その人だけを「特別な人扱い」にすればよかったんです。もちろん、否定的な意味合いですが。
例えば、今、働いている人を見分けるために身につけているものってないですよね。なぜなら、「働いているのが常識」だからです。30歳くらいで無職でぷらぷらしていたらご近所や親戚にどう思われるか。それと同じことだったんです。30過ぎて結婚もしていないというのは、30過ぎて無職と同じか、あるいはもっと世間から批判的な目で見られるものだったんですね(30後半で独身の私がこんなことを書くのもなんですが)。

戦後、円谷幸吉という自殺したオリンピックマラソンランナーがいました。東京オリンピックとか、メキシコオリンピックなんていう時代です。彼が自殺した原因が、惚れた女性と結婚できなかったからだといわれています。そしてその結婚できなかった理由が、オリンピックだったのです。オリンピックが終わるまで、そうですね、当時2年くらい結婚を待ってくれと彼のコーチなどが相手の女性の父親に頼んだそうです。しかし父親の答えは、2年も待ったら婚期を逃すからそんなに待てないという返答でした。当時はそれが常識だったのです。余談ですが、私がハタチくらいの頃までは「女性はクリスマスケーキ」という言葉が残っていました。その心は「24まではチヤホヤされるが、25になったら売れ残り」です。
ちなみに、その女性は他の男性と結婚したそうです。女性を非難することはできません。当時は、女性は自分のことを決められない時代でしたし、親の言いつけには逆らってはいけない時代でしたから。
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江戸時代の既婚者の表現は多分男性は無くて、


女性がお歯黒と眉毛剃りではないでしょうか。
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16世紀ですからキリスト教で結婚指輪を交換する習慣が一般化したそうですので、江戸時代には大勢の人たちが結婚指輪をしていたとおもいます。


ただし、これはキリスト教の習慣ですから仏教徒やイスラム教とやヒンズー教徒などでは結婚指輪はしなかったはずです。

日本ではキリスト教徒は隠れキリシタンといってキリスト教徒であること公言しなかったので、江戸時代の日本では一般的ではなかったと想像されます。

参考URL:http://www.wedding-ring.jp/howto/history.html
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「結婚指輪」は、西洋の風習なので、江戸時代の人は付けてないと思います。



URLは、ご参考までに。

参考URL:http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=158029
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Q日本人が結婚指輪をするようになったのはいつごろから

日本人が結婚指輪をするようになったのはいつごろからなのでしょうか?
終戦後からですか?

Aベストアンサー

再度失礼致しますm(_"_)m

先にNo.3前回投稿の西暦訂正から

(誤)1878(明治6)年の雑誌記事では…(中略)…金銀の指輪を掛ける者多く、
(正)1873(明治6)年の雑誌記事では…(中略)…金銀の指輪を掛ける者多く、

続きましては、下記URL題目では指輪全般の事ではありますが、文中には、
小説での(結婚)指輪の登場『女学雑誌/1891(明治24)年1月1日』「こわれ指環/清水紫琴」、
基督教徒の結婚指輪『東京風俗志』(明治32年刊)、
明治37年、植田商店は、初の結婚指輪広告を『服装新聞』に掲載など
結婚指輪関連の断片情報も含まれますので、
…余り決定的な情報ではありませんが…
お時間の許す時にでも御一読頂ければと思います。

◇ジュエリー文化史研究会
http://www.j-bunka.jp/article/articletop.html
「指輪の普及とその要因の探求ー明治期から大正初期を中心にー」
(鈴木さんの京都造形芸術大学芸術学科 卒業論文(2012年度)です。)
http://www.j-bunka.jp/article/data/suzuki_harumi_01.pdf

第1章 日本の指輪着用の過程
第2節 小説・広告における指輪
1.記事における指輪の登場
<6/19>
『東京風俗志』(※明治32年刊)には、次のように結婚の儀式が記載されている
(※参考文献:山本駿次郎著『報道画家 山本松谷の生涯』 青蛙房 1991 年)。
基督教徒の結婚の如き爬、その式簡潔にして、会堂に於いて行ひ、婿は右に、娵は
左に立ち、牧師その間にありて、まづ夫婦たるの本旨を説き聴かせ、互ひに手を執ら
し偕老の誓をなさしめ、婿の指環を娵に授け、神にその霊護を祈りなどす。

2.小説における指輪の登場
明治24年の清水紫琴『こわれ指環』…
※初出『女学雑誌/1891(明治24)年1月1日』「こわれ指環/清水紫琴」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001146/files/43515_16581.html
…私がこの指環を私の手にはめる事となりましたのは、今よりてうど五年前のことで、
私が十八の年の春でありました。私はちようどその春結婚致しましたので……
夫から贈られたものなんです。…

第2章 指輪の普及の社会的要因
第1節 金工作家の活躍
1.媒体広告にみる専門店と指輪デザインの発展
<12/19>
明治 37 年、植田商店は、初の結婚指輪広告を『服装新聞』に掲載する。
それには結婚指輪や婚約指輪と共に金銀杯・簪がイラストで描かれている。
ダイヤモンドは、中心から放射線状に光を放ち輝く様が表現され、
当時の人々の目を惹きつけたことがうかがわれる(図16)。
※図16/明治37年6月植田商店初の結婚指輪広告は、下記URL<9/10>
http://www.j-bunka.jp/article/data/suzuki_harumi_04.pdf

以上 お騒がせしましたm(_"_)m

再度失礼致しますm(_"_)m

先にNo.3前回投稿の西暦訂正から

(誤)1878(明治6)年の雑誌記事では…(中略)…金銀の指輪を掛ける者多く、
(正)1873(明治6)年の雑誌記事では…(中略)…金銀の指輪を掛ける者多く、

続きましては、下記URL題目では指輪全般の事ではありますが、文中には、
小説での(結婚)指輪の登場『女学雑誌/1891(明治24)年1月1日』「こわれ指環/清水紫琴」、
基督教徒の結婚指輪『東京風俗志』(明治32年刊)、
明治37年、植田商店は、初の結婚指輪広告を『服装新聞』に掲載など
結婚指輪関連の断片...続きを読む

Q明治時代の婚姻について

先日75歳の女性の方に伺った話ですが、
彼女の祖母は13歳で結婚したのだそうです。

彼女は「明治だから」といっていましたが、
いくらなんでも早すぎると思い、帰ってインターネットで調べたところ、
明治の民法上結婚できる年齢は15歳でした。

「田舎だから」とも言っていましたが、
田舎では13歳で結婚するのは普通だったのでしょうか?

江戸時代の時代劇で見かける「奉公」みたいなものかなぁと想像してみてますが、
明治でもそういうのあったりしますか?

また、明治時代では読み書きできないのが普通なのですか?
明治でも義務教育はあったようですが、それでも学校に行かないものだったでしょうか?

Aベストアンサー

>誕生日
江戸時代までは庶民は自分の誕生日を特には意識する習慣がありません。従って現代人が言う所の正確な「年齢」と、本人が口にする「自分の年齢」には最大で±3年ほどの誤差があるのが普通でした。人によっては10歳近くズレがあったのですが、当時は特にそれでも問題ありませんでした。だって風営法も18禁も無い時代ですから(笑)。

結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性(父親ないし、それに準ずる立場の年長男子)の考えのみで決定されるのが普通だったので。やはり当人の正確な年齢とかどうでも良かったのです。

確か明治30年頃に富国強兵(=徴兵制)と言う事で、特に平民男子の正確な肉体的年齢を国家として管理する必要が初めて出て来たので。慌てて日本でも全国的に「子供が生まれたら正確な誕生日を役所に届けるべし」とのお達しが出され、それ以降から日本人に「誕生日」という考え方が一般的になったのです。

昔から日本人がむしろ記録に残して拘ったのは、生まれた日ではなくて、むしろ「死んだ日」です。お墓とかにも誕生日では無く、何年何月に死んだと書く習慣が昔からありました。昔は乳幼児死亡率が以上に高かったので、いちいち子供の誕生日を記録しても無駄になる事が多かったからかもしれません?一応、身分の高い貴族や皇室の方々、大名クラスの武家だと誕生日を記録に残し現代風に祝う習慣がある地域もあった様です。

また非常に重要な事ですが。江戸時代までは仮に本人が正確な誕生日を記憶していたとしても、今の現代人が言う年齢とは違います。何故なら昔の日本では「歳が増えるのは誕生日の時では無く、生まれて何回目の正月かで計算した」からです。さらにややこしい事に、昔は“生まれた瞬間が1歳”と計算するのが通例なので。冬場、例えば12月31日に生まれた赤ん坊は、翌日の元旦には2歳になる計算でした。

…と言う訳なので、そのご婦人の御祖母様が13歳と言うのなら、それ以上の意味はありません。まあ明治20年代以前に生まれたのなら十中八九、実際の年齢よりは1つ~2つは若い可能性があります(つまり小学6年生で嫁に行った!?)。


>読み書き
江戸時代は「読み書きソロバン」と言うくらいに子弟教育に熱心だったのですが。明治時代になって重工業化は進んだのですが、それまではその地域自治体に当たる藩主大名たちが行っていた子弟教育システムが維新によって崩壊してしまったので。東京などの一部を除けば、逆に教育はほぼ壊滅状態でした。

また個人家庭で勉強させていた場合でも、それまでの学問の筆頭であった朱子学などの儒教の教典を暗記する勉強が。明治になって一転、時代遅れのアジア学問という扱いになったため。富裕層でも子弟教育のあり方に混乱が生じていました。

で、教育に関するお触れは割と早い時期に出されるのですが。それは国民皆教育ではなく、あくまでも国家エリートを養成するための教育令だったので。長らく「義務教育」に関して放って置かれました。その後、やはり前述の徴兵制に関連して、戦場で使い捨てる兵卒候補としての幼年学校が必要と考えられ。え~っと確か明治22年?に「小学校令」というのが発布されます。ここから日本に於ける近代義務教育が始まる訳です。

一応、発足当時から男女共学だったのですが。特に農村部では女子に教育は必要無いという考え方が支配的だったので、例文の御祖母様の様に学校に通わせて貰えなかった女子児童も当時は多く居ました。またいわゆる戦後になるまでは、日本の近代女子教育には高等教育が無かったため(大学とかは男子校だった)。将来性が無い女子教育に金を掛けるのは無駄という考え方も一般的でした(そんな暇があったら針仕事の一つでも覚えさせろ!~的な)。

後、これも非常に重要な点ですが。明治33年(1900年)までは日本では、義務教育と言いつつ“有料サービス”だったので、授業料を払えないorケチな親だった場合は当然ながら男女を問わず学校には通わせて貰えませんでした。当時は毎月25銭~50銭を徴収すべしと法令にありました。昔の貨幣価値を現代に換算するのは非常に難しいですが。大体、月々5000円~1万円程度って感覚でしょうか?

逆に1900年以降は小学校が全国無料になったので、当時の資料でも就学率が90%に達した喜ばしい~と書かれています。

あともう1つ、これまた現代人には理解し難い点がありまして。当時の義務教育制度では修学年齢というモノが決めてなかった!つまり今みたいに満6歳になったら小学校へ~的な制度では無くて。あくまでもそれぞれの御家庭の事情に合わせて、好きな年齢の時に入学すれば良かったのです(一応、6歳~14歳の範囲で)。

なのでピカピカの1年生でも、同じクラスの同級生には6歳の子もいれば、妙にガタイの良い10歳の子も居るのが普通でした。後、今と違って義務教育中でも“落第”がありましたので。もう今年で3回目の1年生だよ!~みたいな落ちこぼれも居ました。

で、落第があると言う事はその逆、つまり“飛び級”もある訳でして。優秀な生徒は小学校を最短で4年で卒業する事が可能で(つまり10歳で中学へ進学可能)。逆に落第ばかりの劣等生だと、単位を取れなくても14歳になった時点で強制的に義務教育は終了させられました。

P.S.
いわゆる「ゆとり教育」という言葉が囁かれて久しいですが。明治時代にも言葉こそ無けれど、同じ様に教育の中身に関しては現代以上に行ったり来たりの試行錯誤だった様で。日露戦争当時には「最近の兵士はちゃんとした教育を内地で受けていないのか!?簡単な足し算引き算さえ出来ない馬鹿が多くて困っている!」と言う様な主旨の報告書が、現場の指揮官から送られています(笑)。

>誕生日
江戸時代までは庶民は自分の誕生日を特には意識する習慣がありません。従って現代人が言う所の正確な「年齢」と、本人が口にする「自分の年齢」には最大で±3年ほどの誤差があるのが普通でした。人によっては10歳近くズレがあったのですが、当時は特にそれでも問題ありませんでした。だって風営法も18禁も無い時代ですから(笑)。

結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性...続きを読む

Q1セントって円に換算すると?

よく○ドル○セントって言いますが1セントって円にすると何円になるんでしょうか?
1ドル=約100円というのはわかるのですが・・・
例えば1ドル50セントはいくらになるんでしょうか?
ぜひアドバイスよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

1ドルが100セントですから普通に、たとえば今日の1ドルが109円なら1セントは1円9銭です。
1ドル50¢ならば109円x1.5ですから163.5円ということになります。

Q昔の人は、散髪や爪切りはどうしていたのでしょうか。

日本と外国で、それぞれ答えて頂ければありがたいです。

文化的な道具がないと、散髪も爪切りも大変だったと思います。

現在の鋏のような器具があったのでしょうか。それとも、石とか竹などの他の道具をつかっていたのでしょうか。

教えてください。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>昔の人は、散髪や爪切りはどうしていたのでしょうか。

Wikipedia(NO2の方のサイト)にもあるように、
外国では、
紀元前1000年ごろの古代ギリシアのものとされるはさみが発見されており、古代から使われていたと考えられている。
と、ありますね。

日本では、
6世紀に中国を通して伝わったと考えられており、この時代の古墳からの出土例もある。量産されるようになったのは江戸時代からといわれる。
と、あります。

散髪について、
「はさみ」も昔は「量産」されておらず、大変「貴重品」でした。そこで、江戸時代頃までは、女性は、極端に言うと一生髪を切りませんでした。お市の方の肖像画のように、髪をたらしていました。
しかし、江戸時代頃からは、「はさみ」も量産されるようになり、女性も多少は「はさみ」で髪形を整えました。

また、男性は、月代(さかやき)を剃るのには、武士は「毛抜き」や「短刀」などで整えました。庶民はもっぱら「毛抜き」でした。「毛抜き」はちょっと痛そう・・・でしたが、我慢したのでしょうね。
なお、「かみそり」で月代を整えたのは、一説には織田信長が最初とも言われています。

そうした時代以前は「露頭(ろとう)」と呼ばれる「石器?」も使われたようです。
「路頭に迷う」とは漢字が違いますので、お間違えのないように・・・。

「かみそり」は神聖な物という考え方があり、お坊さんでは、かなり早くから使用していたようです。
ただし、現代の「かみそり」もそうですが、最初の切れ味は良いのですが、だんだんと切れ味の悪くなり、「研ぐ」という技術もありましたが、鍛冶屋などは、そんな小さな物は相手にしなかったため、無理やり「こそげる」ようにして剃髪していました。「痛そう」・・・。

また、仏門に入る時にも髪を切ったり、剃ったりしますが、この儀式はお坊さんが行いましたので、「かみそり」を使用しました。

爪切りについて、
「はさみ」も使用されましたが、江戸時代中期までは「はさみ」は高級品であったため、武士やその家族は主に「短刀」で切りました。
庶民は小型の「ノミ」で切っていました。
今でも中国で露天商に「爪切り」の商売がありますが、やはり、「ノミ」でこそげるやり方をしている、とも聞きました。

ことわざに、
「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」
と言いますが、
あれは「夜の、行灯(あんどん)などの明かりしかない暗い中で小刀で爪を削っていると、思わぬ怪我をして(細菌が入り)、親より先に死んでしまうので、親の死に目には会えない」と言われたようです。

大正時代頃からは「ニッパ」が登場したようです。
http://www.suwada.co.jp/aboutus/tsumekiri-history.html

現代のような「折りたたみ式」は、昭和の発明品です。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>昔の人は、散髪や爪切りはどうしていたのでしょうか。

Wikipedia(NO2の方のサイト)にもあるように、
外国では、
紀元前1000年ごろの古代ギリシアのものとされるはさみが発見されており、古代から使われていたと考えられている。
と、ありますね。

日本では、
6世紀に中国を通して伝わったと考えられており、この時代の古墳からの出土例もある。量産されるようになったのは江戸時代からといわれる。
と、あります。

散髪について、
「はさ...続きを読む

Q江戸時代、商家に奉公した女性について

カテゴリが違う方が有力な回答が得られるとのアドバイスを受けて、再投稿です。

江戸時代、女性が商家に奉公する場合に、どのような雇用制度でどれくらいの期間雇われていたのか、何と呼ばれていたのか、仕事内容、結婚事情など教えて下さい。
丁稚(小僧)―手代―番頭のような昇格システムは男性特有のものだったのでしょうか?

資料を探そうとしても、女性の奉公では武家奉公・妾奉公等、商家への奉公だと男性の物しか見つけられない……という状況で大変困っております。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代、女性が商家に奉公する場合に、どのような雇用制度でどれくらいの期間雇われていたのか、何と呼ばれていたのか、仕事内容、結婚事情など教えて下さい。

まず、雇用制度ですが、一般的には「住み込み」の「終身雇用」の形態が多かった。もちろん「身元保証人」が必要でした。

そして、現代と同じく、「給金」は、「晦日払い(みそかばらい)」と言って月末の支払いでした。
現代のように、月末が休日で銀行振り込みができないから、繰り上げて支給する・・・というようなことはなく、店の主人は自分で、常に、金銭を保管していましたから、休日とかの感覚はなく、月末の支払いでした。

また、店が何らかの行事で、一時的に多忙な場合は、「日雇い制度」もありましたし、「月ぎめ制度」もありました。
これらの「臨時雇い」は、その多忙な時期が過ぎれば、即解雇されました。
そして、乳児を育てるための「2年(~3年)切り」などもありました。

呼び方は、一般的に「奉公人」で良いと思います。

仕事内容は、主に「勝手方」で、その他としては、掃除、洗濯などでしたので、男のように「商品」に触れることはありませんでしたし、つまり、店の表には一切顔は出しませんでした。
従って、男のように、丁稚→手代→番頭、などという昇格はありません。

ただし、現代でも「お局(おつぼね)」が居るように、女性の世界では、「古株」が幅をきかせていました。
例えば、長年奉公していると、個室が与えられたりし、箪笥などの家具調度品もそろえることができました。
その他の奉公人は、相部屋暮らしをし、自分の持ち物は、「柳行李」に入れて区別をしていました。

結婚してからは、「住み込み」が解かれて、亭主の家や長屋からの「通い」になりました。

最近の言葉の「婚活」については、主人に認められて、同業者の男性と添わせたり、出入りの商人が見込んで、我が家の手代と一緒にさせたい・・・などというように、あくまでも、店の主人同士が決めました。
自由恋愛などは、全くと言って良いほどありませんでした。

また、女性の仕事としては、あなたのおっしゃるように、「武家奉公」「妾奉公」などがありましたが、これらは皆、「行儀見習い」のためでしたので、商家の娘たちが多かった。

では、庶民は・・・と言うと、女性が独立的に認められていた職業としては、吉原の「遊女」、辰巳などの「芸者」、料理茶屋の「仲居」などと限られていました。

しかし、現代でもそうですが「もぐり」の商売もあり、「女髪結い」や「私娼」もありましたが、これらも「認められた職業」の人たちも居ました。

例えば、「女髪結い」は、男性の髪を結うことは、たびたび、贅沢ということで「禁止令」が出されています、と、言うことは、「女髪結い」が居た・・・と、言うことです。もっぱら、店を構えず、と、言うよりも店を構えることができず、「行商」でした。
ただし、「芸者」の髪を結う女性だけは「女髪結い」として認められていました。
逆に、男が芸者の髪を結うと、
「風紀上よろしからず」
と、禁止令が出されていました。

また、「私娼」についても、江戸の四宿(品川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿)などでは、1軒に2人の「飯盛り女」が許可されていました。しかし、宿の表で客引きをするのは2人でしたが、一旦、宿に入って、裏へ回ればゾロゾロ・・・。

とにかく、女性の仕事が少ないため、そして、江戸で女性が働く場所がないため、地方から移り住むことができず、江戸時代を通じて、男65%、女35%と、圧倒的に男性の多い都市でした。

ですから、一生涯「独身」の男性も多く、それを癒すために、吉原が欲求のはけ口として存在しました。

完全な「私娼(=売女・ばいた)」としては、
江戸では・・・「夜鷹」・・・ゴザ1枚を小脇にかかえ、柳橋などに出没して、通りすがる男の袖をつかんで、川岸に積んである材木の上などでの「事」をすます。
京都では・・・「辻君(つじぎみ)」・・・なんとなく風情がありますね。
大阪では・・・「惣嫁(そうか)」・・・何でも食らいつくからとか。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代、女性が商家に奉公する場合に、どのような雇用制度でどれくらいの期間雇われていたのか、何と呼ばれていたのか、仕事内容、結婚事情など教えて下さい。

まず、雇用制度ですが、一般的には「住み込み」の「終身雇用」の形態が多かった。もちろん「身元保証人」が必要でした。

そして、現代と同じく、「給金」は、「晦日払い(みそかばらい)」と言って月末の支払いでした。
現代のように、月末が休日で銀行振り込みができないから、繰り上げて...続きを読む

Q「充分」と「十分」の使い分け教えてください

題名のとおりですが、どう使い分けるのか知りたいです。

たとえば、「私はじゅうぶん満足した」のときは、十分でいいんですよね???

どちらをどう使い分けるのか教えてください。

Aベストアンサー

そもそも【十分】と【充分】は別のことばです。

国語辞典では「十分」も「充分」も同じこと、を踏まえてのご質問と見うけます。
私は、事務的文書では「十分」に一本化していますが、私的文章では、両者を使い分けています。情緒的な差という人もいますが、語の本来の意味は異なります。
☆「十分」「充分」の意味が混同される原因は(推測です)、
 ・漢字本来の発音の違いが日本語では区別し難いため、便法で漢字音を決めた。
 ・旧かな遣いの時期は区別がし易かったが、新かな遣いになり混同を助長。
 ・漢字の学習の底が浅く安易になった、即ち本来の意味に注意を払わない。
☆この二つの文字の違いは何か?
【十】:1・2・・・・・・と来て数が満ちる。
  原意:古代に枝や縄の結節で数字を示した方法の延長が現在の字形。
     九が数の窮まった値として縁起よく、重視されてきた。
     更に9+1は十分大きい ⇒ 数が足りている状態。 
  ☆数詞、段階を踏むデジタルな思想です。
【充】:満ちる、満たす、余すところなく、担当する、埋める。
  原意:長い、高い から 成長した大人、肥満、肥大、振る舞う、 
     などを意味するようになり、現在に至っています ⇒ 充ちる(満ちる)。
  ☆基本は動詞、切れ目なく満ちる、満たす、果たす、アナログ的思想です。
【分】:実は、発音も意味も一意でないのです。
  【十分】の発音はshi2fen1   【分】fen1の意味は 部分、分割したもの など。
  【十分】の発音はchong1fen4 【分】fen4の意味は 成分、本分、職責 など。 

さて、お尋ねのこと「私はじゅうぶん満足した」はどう書くか。
 ・単純に量的に満たされたならば【十分】。
 ・心または腹が充足感を以って(徐々に内部から)満たされた場合は【充分】。
    としたいところです。
  
【充】については以下の用法で感覚をつかんで下さい。
 充電・充填・充足・充実・充溢・充血・充ちる(潮が、悪意に、月が、刑期がetc)
ついでに、
  「十分ご説明をいただいて、充分満足いたしました」のごとき用法も。

いまや、【十分】【充分】を使い分けるか否かは個人の好みです、読む人の感性に合わなければそれまでのこと、自己満足の域を出ません。いずれにせよ、公式文書や事務的文書では、好悪を捨てて、国語辞典を標準とするに越したことはありません。

そもそも【十分】と【充分】は別のことばです。

国語辞典では「十分」も「充分」も同じこと、を踏まえてのご質問と見うけます。
私は、事務的文書では「十分」に一本化していますが、私的文章では、両者を使い分けています。情緒的な差という人もいますが、語の本来の意味は異なります。
☆「十分」「充分」の意味が混同される原因は(推測です)、
 ・漢字本来の発音の違いが日本語では区別し難いため、便法で漢字音を決めた。
 ・旧かな遣いの時期は区別がし易かったが、新かな遣いになり混同を助長。
...続きを読む

Q耳の後ろ後頭部のズキッとした痛みについて。

耳の後ろ後頭部のズキッとした痛みについて。
耳の後ろの神経がズキッと痛みます。
3日ぐらい前から数分に一回のペースでズキッとします。
この痛みはなんなのでしょうか?
何科に診てもらえばよいですか?

Aベストアンサー

 後頭神経痛か、偏頭痛です。実際は同じものでしょう。
 昨晩回答したばかりなので、下記のURLをご覧ください。

  http://okwave.jp/qa/q6188313.html

 原因は、目から来る自律神経の緊張と、パソコン作業等の首コリです。
 コンを詰めて仕事するが、自分に無頓着な人の、職業病です。

 自分のワーキングスタイルに原因があるので、それを何とかしないと、医者もマッサージも効果は今ひとつです、玄関を出れば元通りのコリコリになります。(^o^)わははは・・・
 「頚性神経筋症候群」という病気のとらえ方が参考になると思います。

 私は、救急車のお世話になるところまでいきました。お大事に。


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