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歎異抄の解説本を読んだ感想

最近、歎異抄の解説本を読みました。
内容はすばらしく共感できる部分が多かったです。

一つ質問があるのですが、他力本願についてです。

他力本願の考えの特徴として、対象(?)となる人の素養を
問わない所があります。

他力本願では悪人でさえも成仏するのは納得がいきますが、
悪人は実社会の一般の考え方と考え方が違い、多くの標準的な
人とは、折り合いよく暮らせないというのも事実です。

宗教として、元々仏教は、死を大きな局面と考える宗教と
私は認識しておりますが、実社会への係わり合いが無い、
実社会で活用できない(人が生きて行くために必要となる拠り所)
ものは、器として小さい気がしております。

純然たる宗教としての一面として、成仏や救済というせまい範囲
でのみ、他力本願は成立すると考えて大きな誤りはないのでしょうか?

一つの、大きな悩みとして、考え方で、
涅槃=絶対的な目標、正しい状態
と考えるならば、他力本願的に考えると、
どのようなことをしている人間も肯定されるとの考えることができます。

負の救済の局面でしか適応できない考え方は、正しく無いと
私は思っております。

どなたか、私の悩みにお答えいただけますと、ありがていです。

A 回答 (11件中11~11件)

負の救済の局面でしか適応できない考え方は、正しく無いと私は思っております。



○常識的に考えておかしな考えは、その通りおかしいんですよ。
極重悪人が念仏を唱えても救えないものは救えないのですね。
例えば、みな成仏したとして、だれも悪人とはいたくないでしょうね。それは、この世もあの世も同じですからね。
このことを端的に表現したのが、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」ですね。どのような悪人でも全てが悪人ではないのですね。この小説の主人公のカンダタは悪の限りを尽くして地獄にいたのですが、生前一匹の蜘蛛を救ったということでお釈迦様が蜘蛛の糸をたらして成仏させようと試みますがやはりだめでしたね。
つまり、念仏を唱えたからといっても悪行以上の善行を積まない限り成仏はしないのですね。人生の平均値で裁かれるわけですからね。
まあ、親鸞は妻帯したということで罪意識が強かったようですが、妻帯ぐらいで悪人とはなりませんからね。お釈迦様も出家前は妻も子もいましたからね。
釈迦の時代に、99人(999人という話もある)も殺害し釈尊も殺そうとした極重悪人のアングリーマーラという人がいて、釈尊は彼を弟子にするのですね。当然アングリーマーラは托鉢に出かけると石は投げられるし、ひどい日々を重ねたのですね。でも自身の罪を謝罪し、数十年の後には人助けもして民衆に立派な僧として認知されたという逸話があるのですね。これなんかは親鸞も手本にしたのかもしれませんが、親鸞のいう「極重悪人唯称仏」にはほど遠い話ですね。親鸞も単なる弟子ですから「はしょった」のでしょうね。
歎異抄は、その程度に解釈しておけばいい程度のものです。弟子本の一つでしかないことを忘れてはいけないということですね。親鸞だけではなく日蓮もそうですね。弟子の言葉や解釈はいつも正しいわけではないということですね。
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この回答へのお礼

御丁寧な回答ありがとうございます。

歎異抄が親鸞の思想の一部を描写したものとの認識を忘れないようにします。

本題ですが、

極悪人=八正道を守らない人間

ならば、仏陀は「そんなことはいかん」と必ずおっしゃるはずです。

他力本願の視点には、この仏教の基本に相反する面を持つと思っています。

最終目的である成仏へ向かうための「方便」として「八正道」がある
と認識しております。

私の、今の理解としては、他力本願が成立するのは、仏教の研鑽を積んだ
人間への戒めと考えております。

少し、考察しまして、考えがまとまりました、ご意見感謝しております。

お礼日時:2010/07/15 09:08

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