単二電池

わしが禅宗の坊さんにこんなこと言うたら、
その坊さんは怒ったり気悪くしたりするかなー。
そんなこと無いよなー。
もしその坊さんが怒ったり気悪くしたりしたら、その坊さんはただ修行が足りんつーだけやろ。
それしか無いよなー。

「人は死ねば消滅し無になる。
だから人は誰しもそのうち否が応にも無を体験することになる。
しかも思う存分、永遠に無の世界を体験できるわけだ。
これ以上完璧な無の世界はない。
だから生きとる間に無を体験しようなどと考える必要は更々ない。」

A 回答 (9件)

どうぞ、一度、禅宗の坊さんにそう言ってみてください。


怒る人も、気を悪くする人も、一人もいないと思います。
いくら修行の足りん坊主でも、そう言われても何とも思いません。

禅宗の坊さんは、「無になりなされ」「無になることが最上だ」などと人に説いて回ることはしませんから、「死んだらどうせ無になるのだから、生きてる間に無を体験しなくてもいい」と言われたからと言って、“ヘ”とも思いません。
「無」を否定されても反論する人もいないでしょう。

ただ、そう言われてどう答えるかは、坊主の力量によって違うでしょうね。
坊さんにそう言ったら、どう答えるか。面白いのはそこから先でしょう。

この回答への補足

ここで肝心なのはその坊さんの力量で返って来る答えが何なのかちゅーことやけど、
まあ返って来るもんはただの「へー」やと思う。

補足日時:2010/07/22 15:18
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この回答へのお礼

 
禅宗の坊さんもやっぱ世間のことは気になるやろ。
いくら修行つんどるちゅーてもやっぱ世間の人の考えることは気にすると思う。
禅宗の坊さんとてただの人やからな。
坊さんは坊さん、わしはわし、まあここに落ち着く以外ないやろ。

お礼日時:2010/07/22 09:50

 「おまえは本当にダメな奴やな~」と親や教師に言われ続けた人間が[×]を出されて怒るのは修行が足りないからです。



 それで奮起して何かをなそうとするのは宿命です。
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この回答へのお礼

  

お礼日時:2010/07/23 04:17

「坊さん」なる方の思考を存じ上げませんし、禅宗なるものの本質を存じ上げませんので、後段の部分のみについて、少し。

。。

> 人は死ねば消滅し無になる。
消滅することはない。
物質のみとして考えても、最終的には体を構成している分子・原子レベルまでばらばらになるかもしれない。
もし、(たとえば対消滅にて)質量エネルギーに変換されたとしても、逆に対生成として粒子が生じる源になりうる。
物質以外においても、「思い・念」という概念で捉えうるものを介して、あらゆる繋がりを介して死後においても影響を及ぼしうる。

> だから人は誰しもそのうち否が応にも無を体験することになる。
もし、「死ねば消滅し無になる」のであれば、「無を体験することはできない」。
無を体験する主体が無い。

> しかも思う存分、永遠に無の世界を体験できるわけだ。
「思う」主体があるのなら、そこは「無の世界」ではない。

> これ以上完璧な無の世界はない。
「無の世界」があったなら、「これ以上」とか「完璧な」とかいった修飾は不要。
そのような修飾を考える人がいたとすれば、「無に近いが有を捨てきれない」とかいった未練を感じてしまうし、「完璧だ!」と言った途端に「やっぱり無ではなかった」とかいったつぶやきが漏れてきそうな気がする。

> だから生きとる間に無を体験しようなどと考える必要は更々ない。
生きている間に「無」は体験できない。
単に「想像・空想・夢想」して彷徨うことはできる。
死んでからも「無」は体験できない。
死後に主体が消滅するなら、体験できない。
死後に(何らかの形で)主体が存続するなら、「無」ではない。その場合できることは「無」というものを「想像・空想・夢想」することぐらいでしょう。。。

この回答への補足

この回答のおかげで人間、宗教漬になると一々話すのもくたびれる、疲れるちゅーのがよー分わかりました。
もうこれで終わりしよー思うて付き合いました。
 

補足日時:2010/07/23 01:47
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この回答へのお礼

>> 人は死ねば消滅し無になる。
>消滅することはない。

いや、人が死ねば間違いなく消滅し無になる。これは誰しもが知っとることや。

>物質以外においても、「思い・念」という概念で捉えうるものを介して、あらゆる繋がりを介して死後においても影響を及ぼしうる。

人が死んだ後その人の幽霊が出てきたりはせん。そんなことは決してない。
心霊、幽霊なんぞ考えたところで一銭の価値も生まれん。

>> だから人は誰しもそのうち否が応にも無を体験することになる。
>もし、「死ねば消滅し無になる」のであれば、「無を体験することはできない」。

人は死ねば消滅し無になる。だから人は死んで無になり、無の世界に仲間入りすると言うとるだけや。
無を体験するとは無の仲間入りをするということや。このあたりは日本語の解釈能力の問題やで。

>> しかも思う存分、永遠に無の世界を体験できるわけだ。
>「思う」主体があるのなら、そこは「無の世界」ではない。

ここも上と同様、日本語の解釈能力の問題や。
死ねば消滅し無になるんやから、「思う」主体もなにも有るわけがないやろが。
“思う存分”いうのは単にわしの文学的表現を使うたまでや。ほんまに疲れるよなー。

>> これ以上完璧な無の世界はない。
>「無の世界」があったなら、「これ以上」とか「完璧な」とかいった修飾は不要。

ここも上と同様、日本語の解釈能力の問題や。
ここで完璧というたのは禅宗の坊さんが座禅で求めんとする無と、実際に人が死に消滅した結果の無を比べたときどちらがより完璧な無かちゅうことをいうとるんや。

>> だから生きとる間に無を体験しようなどと考える必要は更々ない。
>生きている間に「無」は体験できない。

生きている間に「無」が体験できるとは言うとらん。その必要は更々ございませんと言うとるんや。

お礼日時:2010/07/23 01:39

その空想を(死後の世界)明確に証明できなければ哲学とはなりません

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>ちゃんと筋道通った話しやろ。

何にもおかしなところはないで。

まず仏教が「無に浸る」ことを目的としているなんてどこに書いてあるんですか。
仏教はそんなこと目的としません。

それに自分が無くなってしまったら感じるも浸るもないでしょう。
不可能なことが出来ると言っている時点で筋は通ってないです。

この回答への補足

 
やっぱこの哲学カテはレベルがドンドン下がってきとるのう。
前はそれほどでもなかったけどなー。
こんな宗教オタクばっかの溜まり場となり、明らかにレベルが落ちとる。
文章の解釈力、問題の設定状況に対する想像力ちゅーもんがまるで無い。
この哲学カテ全体が宗教漬になっとる証拠や。これは大変な事態やで。
いい加減退散せんとロクなことないな。こりゃほんとアカンは。
 
 

 


 

補足日時:2010/07/22 18:14
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 [×] 残念でした!

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この回答へのお礼

 

お礼日時:2010/07/23 11:10

教義や理性も生の前提あってのこと


社会が前提と云っても良いが
生を超える教義や真理があったなら
それが個人的にせよ、あるならば崇高さ以外に表現はありませんね
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この回答へのお礼

 
生を超える教義はそこいらを見渡せばわんさとあるが、崇高なもんなど一つもない。
  

お礼日時:2010/07/22 09:59

たぶん怒るのは坊さんじゃなくてあなたですよ。


あなた仏教のこと何にもわかってないんだねって言われて終わりですw

そもそも死んでから体験とか、一般人に言っても笑われるだけだと思いますが・・・。
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この回答へのお礼

人は死ねば消滅し無になる。
そして思う存分、永遠に無に浸ることができる。
わしにとってはこれで何の問題もない、上等なんや。
だから生きとる間に無に浸ろうなどと考える必要は更々ないちゅーことや。
ちゃんと筋道通った話しやろ。何にもおかしなところはないで。

お礼日時:2010/07/22 12:36

宗派によりけりですが



屁理屈対策は修行のうちです

それくらいでは怒らないでしょうね

この回答への補足

 
何かここんところの哲学カテはレベルがドンドン下がってきよるのう。
昔はそれほどでもなかったのじゃが。
寂しいかぎりじゃのう。
 

補足日時:2010/07/22 14:54
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この回答へのお礼

宗派によりけり?
つまり宗派によっては怒ったり気分悪くしたりするちゅーことやな

お礼日時:2010/07/22 09:04

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