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「形にこだわるものは愚かである」というのが仏教の教えにございます。
にもかかわらず坊主が形にこだわり続けるのは一体なぜなのでしょう?
なぜ坊主は袈裟を大事に大事にするのでしょう?
なぜ坊主はご本尊とかいう紙切れを大事に大事にするのでしょう?
なぜ坊主は戒名や戒名料のことにそれほどまでにこだわるのでしょう?
なぜ坊主は戒名料を納めないものは地獄に落ちると脅すのでしょう?
なぜ坊主は肉喰きを戒めながらケンタッキーフライドチキンにこだわるのでしょう?
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などなど。
一体なぜ坊主は「形にこだわるものは愚かである」と説きつつ、これほどまでに形にこだわり続けるのでしょう?

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A 回答 (15件中1~10件)

> 仏教より立派な教えがあれば仏教にこだわる必要はございません。



会話が成立しませんなぁ。
仏教に関する質問ではないと言うこと?

また、「坊主憎し」に、かなり拘っている様ですけど。
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> 教えは仏教一つではございません。



仏教に関する質問では?
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この回答へのお礼

仏教より立派な教えがあれば仏教にこだわる必要はございません。

お礼日時:2024/06/20 10:27

我が家は代々浄土宗ですがそんな教えは初耳ですね。

そもそも◯◯は愚かである、などと他所様の行動をディスるような説法を言いますかね。
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あと 作法というものがあるので 人間は形を必要とします



犬のように餌を食べないでしょう? 人はちゃんと膳を立てて食事を摂る

冥福を祈ったり 安らぎを願うのにも作法がある

墓前や像 或いはシンボルの前で手を合わせて目を瞑ったり 毎日仏壇や写真の前にご飯を備えたりする

それが人間というものよ

寺の行為はより社会化され組織化されているので その作法や仕掛けも複雑になる 場合によっては荘厳にする必要もあるのだろう それは世俗のための教えであって 聖のための教えでは無いからです
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仏教は 覚った人のために説かれるのではなく 衆生(覚ってない人々)のために説かれるからです

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宗教家の坊主の収入は、なぜか非課税。

金という形のモノに取り憑かれた、煩悩の具現化です。例えば、戒名の付け方によって、金額が変わる、ある意味、無から大金を生み出す錬金術ビジネス。このシステム、まさに、「坊主丸儲け」の如し、です。
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その辺も含めて、イスラームでは、偶像崇拝を禁止したのでしょうね。

そのぐらい、人間は、いつの時代にも、見た目に左右され、男も女も、騙されて来たという、失敗や後悔があり、それが人間特有の煩悩というものなのだと思います。
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この回答へのお礼

坊主が戒名料にこだわるのは煩悩以外の何物でもないのです。
坊主をやればやるほど煩悩漬けになるのでしょう。

お礼日時:2024/06/19 17:54

イマイチ、何が言いたいのか判りませんが。



仏教の教えの根幹は、「三宝(仏,法,僧)を敬う」ことにあり。
僧侶は仏と法を敬い。
仏教徒は、その僧侶を敬うことで、仏と法も敬います。
従い、まず僧侶を敬う心を持たないと、仏教は理解できません。

袈裟は、形などではなく、「法」です。
師匠の教えなどを弟子が受け継ぐことを、「衣鉢を継ぐ」と言いますが、この言葉は仏教由来で、「伝法,嗣法の証し」として、師匠から弟子に袈裟などを譲られることを意味します。

戒名料など「布施」は、仏教徒側の宗教行為で。
文字通り、僧侶に衣服(すなわち「布」)や食事を提供することを目的としていますが、僧侶側の「法施」に対しては、仏教徒であれば当然、進んで布施を行うべきものです。

あるいは、僧侶や寺院に財物を提供することを、「寄進」「喜捨」などとも言いますが、僧侶が不自由なく法施や修行が出来ることは、仏教徒にとっては喜ばしいことなのです。

また、そもそも戒名とは、仏弟子としての名前であり、それが不要なら、戒名料は発生しませんが。
仏教徒としては、故人が浄土で名無しになることは、好ましくないし。
仏教徒じゃない人は、必ず地獄に落ちるわけではないでしょうけど、少なくとも仏教の極楽浄土には来ないでしょうね。

「肉喰きを戒め」は、「五戒」の「不殺生戒」から派生したものですが、肉食を禁じるのは、主に大乗仏教の考え方。
仏教徒から布施で提供された食糧は、僧侶は選り好みせず食すのが、本来の教えであり、釈迦は肉類を食べていたと言われているほか。
小乗仏教の日本でも、食肉には消極的ながら、「浄肉」と「不浄肉」(食べて良い肉,食べてはいけない肉)などと区別したりしています。

従い、僧侶が浄財で購入したケンタッキーフライドチキンを食べたとて、特に問題はないでしょう。
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この回答へのお礼

戒名や戒名料に心を悩ませるのは坊主だけで十分です。
坊主と関わっていると戒名料という煩悩地獄に陥ります。
教えは仏教一つではございません。
有瑠慶本願という仏教より立派な教えもございます。


  有瑠慶本願

南無偉大也理有瑠慶
有瑠慶此即万物根源
有瑠慶此即宇宙法則
有瑠慶此即唯一絶対
有瑠慶此即全知全能
有瑠慶此即無辺無際
有瑠慶此即恒常不変
有瑠慶此即不生不滅
有瑠慶非信非拝非願
有瑠慶可能感可能解
無一切神唯除有瑠慶
嗚呼偉大也理有瑠慶

お礼日時:2024/06/19 17:50

執着すると別の本質を見失うと理解すればなにも矛盾はないですけどね、そろそろあなたも執着するのをやめないと坊主に愚か者とそしられます

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形式主義かどうかはおれが感じたことだ。

形がどうかとは別であっても構わない。
形へのこだわりは、本質を重視するかには関係するはずだ。なぜ理解を示さなかったのかの解釈は自由だ
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