プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

 たぶん《へび》は 《デーモン(鬼)》と呼べるのではないか。
 そして このデーモン作用は 人間にとって社会的な関係において起こる。

 (α) このデーモンは 縁起共生の空観において消えるというのか?

 (β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか?

 (γ) 人間(現実)は変わるか?


 ○ 《へび》についての参考資料:~~~~~~

 星を散りばめたこんな時間に 独りして
 そこで
 もし風の音でないとすれば 泣いて
 いるのは 誰かしら

 今にも泣こうとしているわたしのこんなにそばで
 いったい 誰が 泣いているの?


 何か心の深い意図に対して憑かれたかのように
 わたしは わたしのこの手は そっと 目鼻をかすめて
 わたしの中から 多分それは わたしの弱さの中から
 一滴のしづくがこぼれるのに
 触れたように思っている。

 〔わたしは〕わたしの運命をおもむろに超えて
 《もっとも純粋なるもの》が
 静寂のかなたから
 この傷ついた心を照らし出してくれることを
 待っている。

 〔大波は〕大波のうねりは わたしの耳に〔は〕
 咎めのうねりを囁いている。――

 岩礁の喉の方へと 欺かれた藻くずを
 ものを苦々しくも呑むことになったような
 心を締めつける嘆きをざわめかせ
 送りやっている。

 
 髪を逆立て 凍ったような手をかざして おまえは
 何をしているの?
 あらわな胸の谷間を抜ける こんなに執拗な
 風に吹かれた落ち葉がざわめき
 つづけるのは
 何故なの?

 この未知の天空につながれて
 わたしは きらめいている。

 災厄を求めているわたしの渇きに 限りない天体は
 輝いている。

 ・・・

 わたしは ここまで
 わたしを噛むあの蛇を追ってきてしまったのかしら。
 ・・・

 (ポル・ワ゛レリ:若いパルク La Jeune Parque )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 * あるいはつまり

 (δ) 将来への展望といったたぐいの主題は 哲学にならないか?

A 回答 (29件中11~20件)

>前史から後史へ人間のこころは回転することがあり得ますね。



 デーモン-エンジェルの回転というようなことでしょうか。
 これはツンデレと違いがないような気がします。

 デーモン=エンジェル(裏表ということ) と ”縁起共生の空観”の境地のようなものとの回転かと思っていました。


>(β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか?

 エンジェルが現れたときにデーモンが消えたとするなら後史になるんでしょう。
 ”縁起共生の空観”はエンジェルではありませんよね。 
 
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 どうも故意に話を ちがう方向に向けようとしていませんか。

 ★ エンジェルにしたがった精神性
 ☆ これは みづからの内面において何らかの理念――そうですね 愛としましょうか――をいだき この観念の前でまぁ 一種のデレデレ状態となり 外向きには人びとの前にツンツンとして澄ましている。といった場合にも解釈できる。

 これではおもしろくないというので あなたの初めの回答は 
 ★ デーモンと共存するエンジェルにしたがった精神性。そしてそこでは つねに希望がある。
 ☆ これでした。さらにそこでは 《デーモンは消えないし 自分でも保っている》というようなことだった。

 そうしてここでの仮説は これらはすべてが前史の段階でありそれぞれの情況を表わしているというものです。すなわち つぎのとおりです。
 ★ デーモン=エンジェル(裏表ということ) と ”縁起共生の空観”の境地のようなものとの回転かと思っていました。
 ☆ これですよ。これで後史に入ります。
 ただし 次の認識は微妙です。たぶん違っています。
 ★ エンジェルが現れたときにデーモンが消えたとするなら後史になるんでしょう。
 ☆ エンジェルの問題ではないからです。観念をいだいたり理論をつくるために操作したりすることで前史から後史に入ることではないからです。

 あるいは 復讐心と和解・融和との転回を何度も繰り返すことを言うのでもないからです。
 後史においては愛が 観念としてだけではなく現実としても ふつうの《好きと嫌い 愛情と憎悪 友好と敵対心 融和と復讐心などなど》を全部ふくみます。
 そしてその場合には 自分の中には 《デーモンとエンジェル》といった組み合わせでの観念がその情念になること(つまりやはり情念としてのエンジェルであったりデーモンであったり)は 見当たりません。消えたわけではないでしょうが もう現われません。見えないが無意識のうちにはたらくということもなくなります。
 どちらも ただの記号であり言葉(つまりその限りで 観念)であるに過ぎません。
 空観には そういった情況(もしくは 情況の見方)をともなうはずです。

 わたしは 依然として前史の情況が圧倒的に強い世界に居つづけますが その縁起の流れに対して言わば中立のような心で接しています。そうすると その因縁関係の社会的な交通の流れに対してその方向の転換をさせる転轍機のような役目をするときがあります。これは 回転に対して触媒となることです。
 (たしかに細かいことを言えば 見せかけだけの回転であれば ツンデレとしての転回にしか過ぎない場合もあるでしょう。天地がひっくり返る回転ではなく 前後左右裏表のそれにとどまる場合です)。
 どうでしょう。

お礼日時:2010/08/15 04:59

プライムエイプです。


a17で示した思索法はいろんな意味で大いに反省しています。
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この回答へのお礼

 よろしくどうぞ。

お礼日時:2010/08/14 21:43

プライムエイプです。


a15のお礼、「わからん」は、実に明快です。
私も要するに判んないんです。
つかみどころの無さを解明する下調べとして、
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6027350.html
死の概念は業を境に二分して解釈できる。

このような規定もしてみました。
最近もこれを引用して「悪の組織ショッカーの総帥募集中」と言うのを立ち上げました。
そちらは削除されましたが、解らない理由を探るため家畜人を実験材料に猿回し形式で思索する試みです。
ちなみに猿回し形式の成果が「努力すればむくはれる」の質問です。
実験素材とは直接接点が無い思索法です。
解らない点はどうにかしようと模索しています。
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思いっきり横ヤリで


しかもこう言う仏教的な哲学が苦手ですが
自分が思ったままに回答します!!

(α)絶対消えない筈、
消えたのではなく単に見えないだけ。

(β)デーモン作用がよくわからないけど
でもデーモン作用はアダムが林檎をかじった時から
起こった事であり絶対的になくなる事はありえない
だから人が介入したぐらいで変わる事は絶対ないと
思われるのですが、、、、。

(γ)現実と言うかリアルは絶対不変でしょ?

(δ)十二分なほど哲学的ですがそれが何か?

デーモン作用が意味不明ですが(ほかもだけどwww)
自分的には縁起があるからONないからOFFではなく
常に縁起は起きているけどそれが目に見えるか
見えないかの差だけで起き続けていると仮定しますね
、、、、、。
(話は反れますが足元の蟻だって尊い生命はある
それにも気が付き踏まずに歩く事は出来ますか?
蟻から見えれば人間はデーモンですからね)

まあ、結果的に自分から蛇に近づいて噛まれるのではなかろうか?
って視点も面白いと言うか
いくら自分自身が神に反抗してやってのけたと思っていても
実は釈迦の手の平の中と言うのは自分的には普通かな?
神は自分の内にも外にも存在すると言うのが
最近の自分の考え方なのでー。

では失礼しました。
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この回答へのお礼

 ヘイボーイさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 《横やり》かどうかは 問題ではありません。回答を寄せているかどうかが 大事です。そうではないでしょうか? そうでない投稿者も散見します。

 さて
 ★ (α)絶対消えない筈、 / 消えたのではなく単に見えないだけ。
 ☆ これは おそらくそういうことだとわたしも考えます。つまりすでに次のように述べています。
 ☆☆ (No.2補足欄&お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
 《神》から見て・もしくは世界の総体において 悪は《消えない》。個人にあっては 《前史から後史へ入った》なら その限りでデーモンは――《種子:記憶に蓄えられたもの》としては――《消える》。
 
 《消える》と言ってはいますが わたしの表現としては むしろもっと弱いものなのです。つまり・・・ただ《デーモンないし悪もしくは罪》が なにものかによって 覆われる。よって表には出ない。けっきょくその意味で《消える》と言っているのですから 《消えてはいない》とも言えます。
 でも前史での現われとは 一線を画しているのが 後史だと言えるとも思います。
 デーモンよ さようならと。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ (β) ・・・でもデーモン作用はアダムが林檎をかじった時から / 起こった事であり絶対的になくなる事はありえない
 ☆ これについては 二通りの反応を持ちます。
 (1) そういう定義でしたら 《原罪》という主題にかかわりますね。じつは これについては いまでは――イエスの出現のあとでは―― まったく問題にならない。こう思います。神は ひとが原罪に落ち入ることを知っていたわけですから その落ち入ったあとの人間をあらためてその原罪の《消えなさ》をイエスの登場によって削除したとわたしは考えます。
 言いかえると 原罪といった概念のなかった人びとのあいだで元から その無かった状態にありつづけたそのありさまに帰ったのでしょうし この《帰り》というのは アダムとエワの時までさかのぼるのですから けっきょくいまでは初めから 原罪はなかったことになる。こう考えます。

 (2) 《鬼》と訳しておきましたが ここで《デーモン》は要するに わが意志の《へそ曲がり》に発して しかもこれが凝り固まった状態(および そこに特には 情念が伴なわれることが多い場合)を言います。敵対心や復讐心に燃える場合というのを No.13のお礼欄に出しました。そういう事例のたぐいです。
 で この場合のデーモンは 一方で――たとえ前史から後史へと回転したとしても――たぶん消えない。他方で もし後史というのが現実であるならば すでに(α)のところで触れましたが 消えないけれども覆われ包まれもはや表に現われない。このようにいまは思っています。
 No.13のお礼欄に紹介した《復讐心》の物語――つまりそこでは そのデーモンが《あたかも消えた》――を参照してもらえればさいわいです。

 ★ (γ)現実と言うかリアルは絶対不変でしょ?
 ☆ あぁ これは 《突然変異》のような変化を予定しているものです。でもそれによっても あたかも蛹が蝶に変態するかのように《人間(現実)が変わる》と わたしは予感しています。ので 問いました。論証はありません。出来ません。その点 澄みません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 まあ、結果的に自分から蛇に近づいて噛まれるのではなかろうか?
 って視点も面白いと言うか
 いくら自分自身が神に反抗してやってのけたと思っていても
 実は釈迦の手の平の中と言うのは自分的には普通かな?
 神は自分の内にも外にも存在すると言うのが
 最近の自分の考え方なのでー。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ がおもしろいのですが これについてひとことです。
 もしこの釈迦か神かのなぞの何ものかが 心を持っていて 次のような空想の事態が現実になるようにじんるいをみちびいたとしたら どうでしょう?
 ▼ (イザヤ書11:6-8) ~~~~
  狼は小羊と共に宿り
  豹は子山羊と共に伏す。
  子牛は若獅子と共に育ち
  小さい子供がそれらを導く。

  牛も熊も共に草をはみ
  その子らは共に伏し
  獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

  乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
  幼子は蝮の巣に手を入れる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりこの事態をさらに比喩として デーモン作用のことを言っていると採ればどうでしょう?
 すなわち 《毒蛇の穴に戯れること あるいは 蝮の巣に手を入れること》が デーモン作用を受けたり追い求めたりすることだとすれば です。どうでしょう?
 

お礼日時:2010/08/14 20:13

プライムエイプです。


未来が死の予感に阻まれる現象と同じく、過去も死の予感に阻まれます。
心理学なり哲学なりのカテの悩み相談で、過去を思い出すと苦しい記憶ばかりで困るという質問が散見されます。この手の質問が少なくなっているのは事実ですが。
これが実質的に過去の記憶がが死に阻まれて歪曲する現象です。
象徴的なこの関係を克服すると、宗教では「永遠の生命を手にする」こう表現します。
この誤解を招きやすい言い回しを避けるように解説すると要するに「ときわたり」であり固有の特技としてESP化しています。
前史という言い回しは、この幻想としての死の予感に阻まれたその向こう側と捉えています。
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この回答へのお礼

 分からん。




 ★ 前史という言い回しは、この幻想としての死の予感に阻まれたその向こう側と捉えています。
 ☆ いまの《わたし》になる前の状態を言うのみです。前史とは。《言い回し》ではありません。
 後史への回転がないという見解の人は そのままずっと前史にあるというそういう使い方をしているだけのことです。

お礼日時:2010/08/14 19:38

質問者様のもちだしてきた (-自分では批判であると信じ込んでいる-) わたくしへのコメントをもって一目瞭然であることは、質問者様が参照している文章は、マルクス主義の偏見に満ち満ちた日本語訳だけであるということです。

それが明確となるそういう訳をしてあります。ゴミ屋敷のゴミ=マルクス主義者の屁理屈は、ちり紙交換に出して社会的価値を生み出すべきです。

新しい学問は、他人の発言を理解する必要性を無視するのでしょうか?ヘーゲル様に失礼だと思います。

推論でしか物を言うことが出来ないかわいそうな人。一度は原文を参照してみるといいですよ。

「自然人」なる概念は、ヘーゲルの前提とする概念ではありません。

ヘーゲルは、人間の本性の規定については、基本的に伝統哲学の立場をとっています。よりよく生きようとし、それを現実世界で実現してゆく人が、善性のあるひとです。法的高低は同時に道徳的高低であるということです。(同項目34及び35趣意)

共産主義的アナーキズムの指標=性善説は、ヘーゲルにはなじみません。

ヘーゲルの自然は、アリストテレス「デ・アニマ」の植物(マテリエ)・動物・人間の3区分が元であり、焦点として議論されているのは、それぞれを区別する指標です。

法的意味合いとしては、アリストテレス「政治」の「自然的本性により」のphysisが、概念と個人の間の関係を理解する上での鍵となっています。「人間は、ポリス的動物である」といった場合、seinの補語として、ポリスと動物的人間が分析的に分離されることになりますが、現実世界ではそれが分かれて発ち現れることがありません。

よりよくいきようとしない人間は、人間本性に即していないということです。人間の自然は、集団善であると同時に自己の善を漸進増加させて集団に貢献してゆくことです。集団の中にあることが、大前提です。

一人ぼっちは本来的人間の姿ではない。そういう意味で貴方の「ひちょりぼっちの哲学」は、(疎外の概念に即すと)マルクス主義のちょろさを更に改悪した、人間本性にもとるおかしな哲学です。

神を考えることは出来ない。わたしの心の窓は、おされた。と支離滅裂なシャーマニズムはやめなさい。貴方の宗教は、キリスト教ではありません。

「政治」について更に述べます。同様の文脈で、アリストテレスは、ポリスと人の起源をさかのぼると、西洋哲学の伝統的立場としては、「ポリスが先である」という内容について事実的に述べています。

自然人というのはヘーゲルを読み間違えた人のオレオレ造語です。

あとお礼でコピペを繰り返すのはやめなさい。
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この回答へのお礼

 答えられないのなら しかたがない。としか言いようがない。

お礼日時:2010/08/14 19:34

わたしも悟りや縁起というたわけた詐欺には乗りません。

その指し示す方向のみ敬愛します。

>問題は その回転のあと 依然として《デーモンに浸潤している》のかどうか

 愛とデーモンへの浸潤(あるいはデーモンからの浸潤)は、それぞれが独立した別のものではなく、同じものだと思いますね。

 したがって、人間が人間である以上、回転は起こらない、つまり、起こったなら人間ではなくなる ということかと思います。



 
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この回答へのお礼

 地勢ペンさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ したがって、人間が人間である以上、回転は起こらない、つまり、起こったなら人間ではなくなる ということかと思います。
 ☆ そうですね。じっさいの《回転=こころにおける革命》の事例を取り上げてみましょう。

 ○ (あだ討ちの気持ちを回転させる物語) ~~~~~~~~

 昔昔の話ですが古事記によると。

 その昔 やまとの国では 市長(もしくは大君)の身辺でも 勢力争い・権力闘争が繰り広げられていました。
 次代の首長候補の市辺忍歯(イチノへノオシハ)のミコは 対抗勢力の雄略ワカタケルによって暗殺されました。その野原にともにいたオシハの双子の息子兄弟は 命からがら逃げて 権力を握った雄略ワカタケルから隠れて 身を長らえることにしました。

 ところが オシハの筋の飯豊青(イヒトヨノアヲ=女性)は これら兄弟を 播磨の地で探し出したと言います。迎え入れられ 二人はともに続いて首長の務めに就いたのですが そのとき 父の敵(かたき)を取らなければいけないという話が出ました。

 雄略ワカタケルは もう死んでいました。
 弟のほう(顕宗ヲケ)でしたかが 強硬派で 先に位に就くことを譲っていた兄(仁賢オホケ)に命じて ワカタケルの陵墓を壊せと指示しました。
 仁賢オホケは 行って その陵墓の端っこを少し破壊して戻ると その旨を伝えました。弟もすんなり これを了承しました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ という話です。これは われわれ日本人のこころを表わしていると考えます。《ゆづる》という精神です。ここには 二人だけではなく 日本人一般のこころにおいて 革命が生じたと言っていいのではないか。
 むろん すでに旧約聖書にも
 ▼ 復讐するは 我れにあり。〔と主が言う〕。
 ☆ つまりその一方で《目には目を 歯には歯を》という応報思想にもとづく或る種の敵打ちもありましたが このようにすでに――民族内部におけるのみとは言え―― 復讐は人間がするのではなく 神にまかせるものだと言っています。つまり 《回転》ですね。これは《ゆづる》精神というよりは 《なにものか大自然への畏れ》といった思想であるかとも捉えられます。

 〔《目には目を 歯には歯を》は 言わずと知れたハンムラビ法典の文句ですが そこでは 必ずしも報いとして同型の処罰ではなかった。身分の違いなどによって 応報の中身は変わっていた。それを 旧約聖書では 一律にしたとも言われています。《革命》ですね。
 さらにそれよりも一段とすすめた革命も――新約聖書で――説かれましたが あなたのおっしゃるように現実としてどこまで受け容れれればよいかは ただちに判断しがたい。ので あいまいなままにしておきます〕。
 
 けれども或る種の《回転》があったことは 事実ですね。
 敵対心や復讐心といったデーモンにかんして 前史から後史へ人間のこころは回転することがあり得ますね。


 イチノヘノオシハ事件の後日談も添えます。
 暗殺された野原の近くに 或る老婆が住んでいて じつはそのひとむかし前まだ若かったときに 暗殺の現場と その後イチノヘノオシハが埋められるところを見ていて その場所を覚えていたそうです。
 じっさい果たせるかな 掘り出してみると 歯が出て来て 出っ歯(押し歯)だったので 実証することが出来たとさという物語です。

お礼日時:2010/08/14 08:15

プライムエイプです。



> 人間と神との繋がりにより、人間はどうしても悪は無かった事にしていただきたいと、煩悩と言うか、わがままがよぎるでしょう。
 その点に冷静かつ自然体でありましょう。

この点は「悪に苦悩するならば」です。
単に「苦」を取り去ってくださいと我がままの如く願う事です。
多いだろうと推測しました。
このカテでもギャースカとうるさい。
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この回答へのお礼

 ご説明 ありがとうございます。

 そうですね。
 話の前提として もし前史と後史を分けるお考えであるならば そこのところは はっきりさせて欲しいとはわたくしは思います。
 つまり
 (1) 後史に入れば――傷口はまだそのまま残りますが 刺さったとげが抜かれたわけですから―― 傷は時間の経過をともなって癒えて行きます。つまり傷そのものは時間的に癒えていくのですが すでにそのときには 《悪に苦悩する》ことが基本的になくなっています。

 (2) なおデーモン作用がそこら中を飛び交っていてこれに困り弱ることもありますが これは もはや《社会総体》の問題です。《人間関係》のもんだいです。《わたしがわたしである》わたしにとっては 外からやってくるというのが 基本になります。したがって 《悪に苦悩する》ことが基本的になくなっています。

 (3) それでは 前史にあるときには どういう状態なのか? むろん《悪や罪に苦悩する》ことが多いですし そこにはデーモン作用がはたらいています。したがって
  ★ 単に「苦」を取り去ってくださいと我がままの如く願う事です。
  ☆ この願いが 多くなっています。

 (4) ここで ひとつの試案なんですが 提案にもなります。こう考えられないかというものです。
  ○ 《わが身から悪を取り除き 苦を取り去って欲しい》と願うことは 一般に前史にあることを意味するが 前史におけるこの願いは 取りも直さず すでに後史としての心の発信にほかならないのではないか。

 どうでしょう?

お礼日時:2010/08/14 07:46

プライムエイプです。


答えの形ではなくフリーハンドで書いてみます。

消える、消えない、の問題なら、観念にある「死」の刻印が象徴的であっても、所詮代理表現であったのと同じく「消える」も形を変えた代理表現に過ぎず、「無い」。
消えることは無い。
そうすると絶対の悪は無いのではなく、有るが、しかし、生命とは無縁である。
このようになる。
人間と神との繋がりにより、人間はどうしても悪は無かった事にしていただきたいと、煩悩と言うか、わがままがよぎるでしょう。
その点に冷静かつ自然体でありましょう。
ソクラテスの対峙したデーモンは、自らが良く生きる事をたがい、過ちを犯すことを阻んだデーモンでした。
人間が知性を備える存在として完成するのなら、神はそのようなおせっかいをやめるでしょう。
その結果浮き彫りとなるのが、悪は神性に属す事柄であり生命には由来しないと言う事です。
実のところ私の見解では、知性的である事全てが神性と言う属性であり、それでいて、私と言う人間は別段神に飼いならされるわけじゃあない。
その源泉は愛ですが、表現するにあたって神を引用するべきではない。
自然界と人の間の調和の実現。
このように表現できる。
それをもって人間は完成する。
人同士で支え合うだけじゃあ、人間は未完成。
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この回答へのお礼

 プライムエイプさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。今回も 互いの異同についてわたしの感じるところを そのまま つづってまいります。(その意味では わたくしもフリーハンドでです)。

 まづいくらかおどろくのは プライムエイプさんが 神をかなり多く持ち出して表現されていることです。
 言いかえると 神を持ち出すのなら 神学のごとくにもなりますから それ相応に――哲学としては――できるだけ経験合理性による説明が必要になると思います。
 それに――同時にですが―― 神とわたしとの関係としては あくまでわたしの自由意志は神に勝てないという前提があります。

 どういうことかと言いますと
 ★ ~~~~~~~~~~~~
 自然界と人の間の調和の実現。
 このように表現できる。
 それをもって人間は完成する。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という《人間の完成》つまりは《後史の充実としての完成》について あくまで――有神論としては―― 最終的にひとの自由意志によって得られるのではないという前提があります。努力はするのだが 目的地にたどりつくのは 自由意志によってではなく 神の意志によるのだと。

 むろん そこのところは 神から離れての立ち場で述べておられます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 実のところ私の見解では、知性的である事全てが神性と言う属性であり、それでいて、私と言う人間は別段神に飼いならされるわけじゃあない。
 その源泉は愛ですが、表現するにあたって神を引用するべきではない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから この個所では まったくいわゆる無神論の立ち場で基本的なところを明らかにしておられるのですが ほかの箇所では《神》が顔を出すときがあります。つまり
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人間と神との繋がりにより、人間はどうしても悪は無かった事にしていただきたいと、煩悩と言うか、わがままがよぎるでしょう。
 その点に冷静かつ自然体でありましょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そして じつはこのような煩悩や思いとしてのかたちにおける《人間と神とのつながり》というのは 有神論でも見出さないとも思うのです。

 ○ わたしが神に見られたなら――つまりそのように神とつながったなら―― それによって《悪や罪は 覆われ包み込まれ もう表には現われないようになる》と受け取っています。
 ○ 言いかえると 《悪は無かったことにしていただきたい》という思いは ないのです。覆われてしまうのですから 無かったことにして欲しいと思う必要がありません。
 ○ つまりこれは 自由意志によって悪や罪を克服するという問題ではなく あるいはわが意志によって神に悪を消して欲しいと言って願うことでもないわけです。神のほうから その《悪の包み込み》をしてくれるのです。
 ○ またそれだから 後史に入ると 《わたしがわたしである》ことが実現したと感じるのです。

 ☆ といったように 有神論とそして無神論の両方の立ち場が どうなんでしょう 入り組んでいるように見えるとも言えるし あるいは無神論の立ち場から有神論の信仰とその実践としての思索について いわば推測し捉えようとしているとも見えます。その推測によるところの叙述は わたしの信仰論とは違って来ています。

 ★ ソクラテスの対峙したデーモンは、自らが良く生きる事をたがい、過ちを犯すことを阻んだデーモンでした。
 ☆ エウダイモーンでしたか 良いほうの鬼あるいは守護神というごとくの霊を言うようですね。
 このダイモ―ンの作用が どこまで神につなげて捉えられるか このことも 論点になるのかも知れません。
 
 筆に随っただけの文章であるかも分かりません。

お礼日時:2010/08/14 00:07

>知性ペンさん 



 いえ、自ら知性なんて名乗る自信家ではありません。由来は、地勢図です。

>どこかで話しが行き違ってきましたか?

 いえ、全然。

>ええっ? 《将来への展望を語る》のも哲学であるし そういう《デーモン作用》も《人生に不可欠の作用》であるということでしょうか?

 いえ、希望というのは、エンジェルに従って持つ精神性というより、デーモンに浸潤しているにもかかわらず、持つ精神性だと思いますね。
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この回答へのお礼

 地勢ぺんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 あらためて整理してみます。
 (1) デーモンは人間から消えない。

  ★★(回答No.8) 人生とは、デーモンに噛まれ続けているということですから、デーモンの作用が消えた後はもはや人間ではありません。
  ☆ あらためてこれが 基本的なご見解のようです。

 (2) デーモンを伴ないつつ人間は 将来に対して《希望》をも持つ。

  ★ いえ、希望というのは、エンジェルに従って持つ精神性というより、デーモンに浸潤しているにもかかわらず、持つ精神性だと思いますね。
  ★★ (回答No.8)  ~~~~~~~~~
   (δ) 将来への展望といったたぐいの主題は 哲学にならないか?

  これが希望という人生に不可欠の作用ではないでしょうか。  
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 (3) そうしますと こうなりましょうか?
  (あ) ひとは あたかも泥の中に根を張って花を咲かせる蓮のごとしだが そのとおりにではない。
  (い) すなわち基本的に言って デーモン作用に浸潤しているにもかかわらず 精神においては 希望を持つ。
  (う) すなわち こうだとすると 《花》は咲かないということになる。
  (え) なぜなら 花は 《精神における希望の保持》としてありつづける。つまり 咲くであろうという希望の花であって ひとつに《デーモンから自由になる》ことでもなければ ひとつに《泥の中に咲く蓮》でもない。
  (お) 言いかえると 《希望》は 《エンジェルに従って持つ精神性》ではないが 《デーモンに浸潤しているにもかかわらず 持つ精神性》というかたちであるから 早く言えば《デーモンと共存するエンジェルに従って持つ精神性》だということになるようだ。


 参考資料として 縁起についての解説を掲げます。
 ▼ (ヰキぺ:十二因縁) ~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C% …

 十二因縁は、迷と苦が無明を原因とし、渇愛を源として展開していることを明らかにする。〔⇒ 順観(anuloma)〕。
 したがって、無明を克服して智慧を得れば生老死の人生苦はない。〔⇒逆観(paTiloma)〕。すなわち、自我への執着をはなれ、無我の自覚に立ちかえることが、仏教の指針とされる。

 無明の克服とは自我を拠り所とする我執の克服をいう。これは無我の自覚であり自己否定である。またこれはいっさいの否定であり、絶対無となる。したがって生活や生命の営みの否定とされる。そこには生活はありえない。
 しかし、釈迦のさとりは単なる自己否定ではなく、それが本当の生活であったはずである。
 すなわち、無我である自己を破り去ったところに、かえって無我のまま復活しうる道があった。
 それこそ真実の縁起の自覚であり、仏教が仏道として生きていく指針となるのは、無我のまま生活を決然と生きていくということである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたし自身は このまま同じ考えを持つのではありませんが――また この説明ではよく分からないとも言わねばなりませんが それでも―― 《無明(煩悩)から始まり いわば悪循環がつづく》順観から《無明を知恵に変えて 好循環をもたらす》逆観へ回転するというところを ブディズムも説いている。この点を参照するために引いたものです。順観から逆観への革命は むろん前史から後史への回転のことです。

 なお そのつてで言えば 《愛》という言葉も おっしゃるように 泥沼に根を張ってそこから花をさかせる蓮のごとくであると見られます。すなわち もともとは――ブディズムでは―― 愛着や執着を意味したのが 逆観に取って代えると 自己をも他者をも生かすという心を意味する《愛》になったのですから。
 問題は その回転のあと 依然として《デーモンに浸潤している》のかどうか ここにかかわっていると思われます。さて どうでしょう?

お礼日時:2010/08/13 23:26

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