No.7
- 回答日時:
徳川幕府の目指したのは、管理貿易という名前の徳川家による貿易独占です。
江戸時代初期における、主輸入品は 生糸。
糸割賦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E5%89%B2% …
対外的には、言うことを聞かないと、ぶっ潰すぞというもの。
鎖国は祖法であると言い出したのは、松平定信。それまでは、鎖国しているとも、祖法で変更しちゃいかんという意識も希薄でした。
迫り来る海外勢力に対する、松平定信としての回答が、鎖国は祖法。
19世紀頭までは、定信の政治理念が指導しました。外交方針は、寛政の遺老が無くなったなんとなく続いていいて(まぁ方針を考えるような指導者がいなかったんでしょう)
フラフラしています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AA%E6%B0%B4% …
No.6
- 回答日時:
幕府の政策がどうこうというより、日本人という民族が本質的に引きこもり体質であるからのような気がします。
鎖国していたのは、別に徳川幕府に限った話じゃないんですよね。平安時代も、鎌倉幕府も室町幕府も本質的には鎖国政策で、白村江の戦い以降の日本史では海外との関わりは遣隋使や遣唐使などが政府レベル、民間(?)レベルではいわゆる倭寇で国家挙げての海外進出なんてのが全くありません。
幸か不幸かお隣の朝鮮民族もある種日本人以上の引きこもり体質なので、双方に統一政権が樹立し国内が安定するとお互い「我関せず」で関係が成立してしまうのですよね。だから、日本では国内が乱れると戦争になり軍隊ができますが、国内が統一されると軍隊は「解散」してしまうのです。
平安時代の日本の軍事力は文字通りゼロでしたし、鎖国全盛期の江戸幕府の軍事力も実質ゼロです。名目上武士は軍人ですが、江戸初期以降の武士というのは官僚に他なりません。戦国時代から幕末まで約200年間メインウェポンが火縄銃のまま進化しなかったし、それでも安全保障上問題にはならなかったのです。幕末にアヘン戦争で欧米の進んだ軍事技術を知り、これじゃマズいと西洋式で軍隊を革新しようという動きができるんですが、それさえも抵抗する勢力ってものすごく大きくて、西洋式軍隊を作ろうとした高橋秋帆は投獄されるほどだったのです。
だから日本人の間では「軍隊を解散すると戦争はなくなる」というのが通じるのですね。実際にそういう歴史だったんです。国土をドイツとロシアとの狭間で翻弄されてきたポーランド人あたりにゃそんなの通用するわきゃありません。外国人からすると「警察がなくなれば犯罪がなくなる」くらいの珍説です。
ちなみに最近の日本人のメンタルもものすごく「内向的」になっていますよね。外国の脅威なるものが大手を振っていて、積極的に海外に出ようとか、もっと外国人(移民)や外国企業(規制緩和)を受け入れようなんて声はほとんどありません。
しかもこういう世論は今に始まったわけじゃなく、実は日本の絶頂期であったバブル期も「新鎖国論」というのがちょっとブームになったんですよ。
この回答へのお礼
お礼日時:2010/09/08 04:01
回答有難うございます。確かに徳川幕府以前も外国との関係は希薄な気がします。
また「技術は進歩する。」ということも感じていなかったようですね。
No.5
- 回答日時:
中世の歴史の流れにおいては、日本は小さい離れ小島でした。
戦国時代末期あたりから、海外の軍事力を日本は恐れており、
実際、軍隊を呼び込んで主導権を得ようとした大名もいました。
したがって、江戸幕府の秩序を保たせるためと考えるのが無難です。
離れ小島だから成り立つ方法です。軍事力ではるかに劣る日本が手を出すと、
肘から食われてしまいかねない状態でした。
これ以上、海外の知識を導入させず、軍事力も介入させず、離れ小島で
秩序を保つのが目的ではないでしょうか。
当時の離れ小島だからこそ、成立する戦略ですね。
No.4
- 回答日時:
bungetsuです。
<続き>
(8)また、「鎖国」とは言っても、「四口(よつのくち」と呼ばれて、
*中国から琉球へ、そして、薩摩藩を通じて幕府への路。
*中国から朝鮮へ、そして、対馬を通じて幕府への路。
*中国やオランダから長崎へ、そして、幕府への路。
*蝦夷地(アイヌ)から松前藩を通じて幕府への路。
が、開かれていました。
「鎖国」という言葉について:
(1)ドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが江戸旅行をして、帰国後に書いた「日本史」(1712刊)の中にある、
「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、また、此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理」
と、いう一文を、蘭学者である志筑忠雄(しづきただお)が享和元年(1801)「鎖国論」において初めて使用した「造語」である。
(2)しかし、嘉永2年(1849)に成立した「徳川実記」では、寛永12年(1635)の措置を「海禁」と書かれている。
(3)近年、「鎖国」という言葉は、研究者の間でも使われなくなってきており、学校の教科書などでも、山川出版「新日本史」では、本文中には一切「鎖国」という文字は出てきていない。
(4)著者の東大教授藤田覚氏によると、
「幕府は、最初から鎖国を意図したわけではない。その状態が、たまたま200年ほど続いたから『なんとなく鎖国』だった」
と、考えた方が自然ではないか・・・とコメントしている。
No.3
- 回答日時:
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
これまでの考え方:(通説)
(1)「神の下では、万民が平等」という教えが、徳川幕府を頂点とした「封建社会の秩序」を乱しかねない。などの理由が挙げられていますが、戦国時代あたりから日本に「布教活動」を活発に行い始めたのは、主に、イギリスやポルトガル、スペインを中心としたキリスト教の中でも、カトリック系の宣教師たちであった。
(2)そして、確かに、私たちは、学校教育などの現場で「キリスト教徒」の進出に恐れて、日本が植民地化されるのではないか、と言う「懸念」から「鎖国」をした・・・と、習ってきましたね。
(3)しかし、長崎の出島においてはオランダとの交易は「許可」をした。
これには、オランダも植民地化を推進する国ではありましたが、一言で言うと、日本から「輸入」する「産物」が乏しかった。つまり、東インド会社などのように、当時、ヨーロッパが欲しがるような「香辛料」などは、日本の風土の中では、全くなかった。
さらに、金銀などにしても、当時は「銀」が主な流通貨幣でしたが、メキシコにおいて銀山の開発が本格化して、大量に輸出されたため、「黄金の国ジパング」とは言われても、その産出量は比較にならないほど少なかったためにスペインはいち早くメキシコとの交易に転じた。
そして、オランダはキリスト教の中でもプロテスタント系が多く、東インド会社を巡っては、オランダはイギリスに勝利をしイギリスは排除され、日本からも撤退せざるを得なかった。しかし、すでに、日本が戦国時代頃から布教がされていたカトリック系をプロテスタント系に改宗せよ、と言っても、すでに根付いてしまったものを覆すことは、非常に困難であり、無理だと考え、布教活動に対する「魅力」は何もなかった。
(4)そこで、布教活動をするよりも、交易による利権に目を向けた。
もう一つの考え方:(日本側)
(1)どのような国の支配者たちも、自らの権力の「維持」「強化」を目指すものであり、海外との交渉で諸問題が発生するよりも、「閉ざされた社会」の方が「管理」をしやすい。
(2)当時の諸外国と言えども、中国や朝鮮でも同様に「閉ざされた社会」であり、例えば、明にしても、朝貢以外を排除し、中国人の海外渡航を禁止している。
(3)幕府としては、「開国」することにより、日本の諸藩が貿易による「財力」や「兵力」の拡大を強く恐れた。
(4)ただし、こうなると、諸外国の「情勢」が何も見えなくなって、いわゆる、「独裁国家」になるため、幕府権力だけでは日本を「独裁的」に統治する力は、まだ「完全」とは言えず、とは言っても、幕府権力という独裁的立場を確立するために、「布教活動をしない」という約束のもとで、長崎の出島のみでのオランダとの交易を許可した。
そこには、日本の諸藩を介入させず、幕府だけが「富」と「情報」を独占するためであった。
しかし、幕府の力が、まだまだ弱いことを印象付けたのは、寛永14年(1637)10月25日より発生した「島原の乱」では、幕府軍は苦戦をし、オランダに依頼をして、海上から原城への砲撃をさせています。
(5)「鎖国」をする・・・と、言うことは、とりもなおさず、国家の中だけで「自給自足」をすることになるわけですが、秀吉の頃からは、日本国内でも「灌漑」「治水」事業が発達して「新田開発」なども盛んになった、また、「農業技術」や「農機具の発明」などで徳川幕府としては、「国内生産」「国内消費」だけでも統治できる・・・と、考え「鎖国」に踏み切った。
(6)やがて、幕府権力も充実してくると、海外との戦いでも、必ずしも「最新の兵器」だけで勝てるわけもなく、「兵力数」や「食料の補給路」で、さらには、戦国時代としう戦いにおいての「戦略」や「戦闘技術」では、幕府は諸外国に対抗できる・・・と、考えた。
これには、秀吉が朝鮮出兵で「補給路」を絶たれて敗北した経験が、そうした考えとなった。
従って、徳川幕府としては、「鎖国」をすると同時に「海外進出」には一切目を向けていない。
寛永12年(1672)6月25日、幕府評定所の話し合いで酒井忠勝は、
「我々は、他の人の奉仕を受けることができるかぎり、日本の船を国外に渡航させる必要はない」
との諮問を出している。
(7)幕府は、一気に「鎖国」をしたわけではなく、徐々に発令していった。
*慶長17年(1612)、キリスト教禁止令を出す。
*寛永10年(1633)、奉書船(渡航が許可された船)以外の海外渡航を禁止。
*寛永12年(1635)、日本人の海外渡航と帰国を禁止。
*寛永14年(1637)、島原の乱。
*寛永16年(1639)、ポルトガル船の来航を禁止。
*寛永18年(1641)、オランダ商館を平戸から長崎の出島へ移転。
字数制限ですので<続き>へ
No.2
- 回答日時:
力の差を感じたから、恐れたんだと思います。
自慢をしたり、すると、こんなことが、よく起こる気がします。
大目に見てあげたほうが、いいと思いますよ。
それに、もともと、日本一の将軍様で、本当は、すごく、いい人だったんだと思いますよ。 それでも、ヨーロッパには、叶わなかったんでしょう。
外国から見れば、対したことなく見えても、大切にしたほうが、いいものは、少なくても、日本にはあると、僕は思います。
どちらにしても、大きなことを、すると、大きく返ってくる、という、将軍さまからの、メッセージだと思えば、昔の人に、喜んでもらえると思います。
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