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僕は自分のすべての行動の動機が、自分自身になければならないと考えているのですが、
最近自分の考え方と他の人の考え方にギャップを感じたので質問させていただきます。

たとえば、誰か困っている人を見かけた場合、
「その人を助けてあげよう」ではなく、
「自分の良心がその人を助けよと命じている。だから自らの心に従うべきだ。」
といった具合です。

というのも、完全に他者のための行為など思いつかないし、
もしも「誰かのために」と考えているならば、それは外界からの制限であって、
自由で責任のある行動とは言えないと思うのです。
また、自発的な動機によってのみ人は真に活動的になるのではないでしょうか。

ひとつ、極端な例を挙げますと、
「親が子供をかばったために死ぬ」という場合。
これは究極的な愛情の表現だと思うのですが、
親は子供を愛していて、「子供が生きる」ことを願ったという点や、
自らの意思に殉じているのではないかと考えます。

究極の愛情はまったくもって没我的でなければならず、
どのような形での見返りも行為自体に関係がないようにあるべきだと思うのです。

僕の行動は自らの動機によってのみ為されるという意味で、
自分は利己的であると思っているのですが、
これは一般的な利己的の意味とは、自らの良心に従っている点で異なります。

僕の考え方でいくと、全ての善行は自己満足という形態しか取れないと思うのです。
この世の殆どの人は聖人ではなく、全く他者のために行動することが不可能だと思われるからです。

僕の考え方は一般的な考えとかけ離れていて、受け入れがたいものなのでしょうか?

A 回答 (5件)

 今だけだよ、そんなに考えるの。

あんまり深く悩むことではないよ。

 文章から知的な欲求は高そうだから、今のうちにたくさん本を読んでおきな。今、結論が
出なくてもいつか納得の行く結論が出るよ。まあ、今回の件には結論なんか無い、ってわかるん
だけどね。

 むしろ、「他人のため」にかこつけて行動することの恐ろしさの方が深刻。やりすぎの場合がある。
でも、本人は「あなたのためにやっているのに、なぜわからない?」となるから厄介。


 せっかくの頭なんだから今はいろいろ蓄積しときな。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>今のうちにたくさん本を読んでおきな。
そうですね。僕も今は本を読むべき時期だと思ってるので月に10冊ぐらい読んでます。

>「他人のため」にかこつけて行動することの恐ろしさの方が深刻。
その通りだと思います。
僕がこんな考え方を始めるようになったのも、そんな経験を避けるために、そういう傾向があることをあえて自覚しようと思ったからでした。

お礼日時:2010/10/24 00:28

興味深い考えですね。

学術的な議論がしたければ「哲学」の方で質問したほうがよいかもしれませんが。

あなたの質問はマーク・トゥエインの「人間とは何か」という本で述べていることに近い気がします。
あの「トムソーヤの冒険」の著者とは思えないようなテーマですが、中身は対話調に描かれているので、ご存じでなかったら興味が読んでみるといいかもしれません。


 善行が自己満足か否かということを議論するなら、結局「善悪」とは何かということが重要になってきます。たとえば「人を殺したらいけない」というのが「善」かもしれないですが、仮にある人物の存在の性で自分の生存が脅かされるとしたら、その人を殺す以外の手段がその恐怖から逃れる手段がなかったらそれは「その人」やあるいは「その人と同じように恐怖を感じている人」にとって「善」となるのでしょう。 最も多くの人が良いとすることこそ「善」とする「最大多数の最大幸福」もあれば、人の命とお金を比較するなどのたとえ少数であっても「善」の質で絶対的な価値観があるとする考えもあるわけです。キリスト教の信者にとってはイスラム教と合わないことがあるかもしれないですし、極論を言えば結局「善」そのものが共通する基盤はあれど、自己満足というか特定の倫理基盤に基づく独断的なものと言えるでしょう。

私個人的には「人間は生まれて本能的には善人」だと思っています。細かい議論は違うにせよ、誰しも本当は誰かしらの役に立ったり、役に立ったりしながら結局自分も満たされることを望んでいるはずだということです。それが、なかなか実社会での個別な事例ではうまくいかないため、不満をため込んダリするので本質的なものがうすれ、結果自己が協調されすぎたり、自己が抑圧されすぎたりする事態になるのではないかと思います。端的にいうと「誰だってはじめは仲良くしたいと本心で思ってるけど、、、実際はね」というところなのではないかと。だから、「マズローの欲求段階説」ではないですが、本当に個人が幸せになるには他者とのかかわりというのが不要のようで必要になるのだと思います。

結論としては、「善行」が結局「自己満足」であることは本来の「善行」の完成した形であって問題ではないのではないかと思います。いやいや「善行」をやるならそれは「偽善」の域を完全に出ていないのであって、また本人が「善行」であっても周囲が被害を受けるのならそれは「自己満足」の域に偏りすぎているのです。自分を無理に犠牲にしない、程よいところでお互いがwin-winになるようなものでなければならないと思うのはそのためです。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>学術的な議論がしたければ「哲学」の方で質問したほうがよいかもしれませんが。
このままでも十分な意見が聞けそうなのですが、哲学をしている方の意見も聞きたくはあるので検討してみます。

>あなたの質問はマーク・トゥエインの「人間とは何か」という本で述べていることに近い気がします。
気になるので読んでみたいと思います。

>善行が自己満足か否かということを議論するなら、結局「善悪」とは何かということが重要になってきます。
僕の中では「善悪」はあんまり考えてなかったですね。善悪の定義は各人で異なるのが普通だと思ってたので、僕の中の定義は、善行はそれぞれが思う善行、というものでした。

>私個人的には「人間は生まれて本能的には善人」だと思っています。
(中略)
>自分を無理に犠牲にしない、程よいところでお互いがwin-winになるようなものでなければならないと思うのはそのためです。

全面的に同意します。特に、
>結論としては、「善行」が結局「自己満足」であることは本来の「善行」の完成した形であって問題ではないのではないかと思います。
の一文がグッときました。覚えておきたいと思います。

お礼日時:2010/10/24 00:43

そこまで説明したいほど考えている人というのは珍しいと思います(笑)


参考までに言うと、私が自分の行動にそこまで考えていたのは大体高校3年くらいまでですね
それからは考えることは少し減っています。

>僕の行動は自らの動機によってのみ為されるという

ああ、面白いですね。高校生のときはそう思っていました。
脳、理性が自分の行動を支配しているという考え方ですね。
脳ってそんなにすべてを熟知して考えてるわけではないですよ。
最近、面白い対談がありましたのでリンク入れておきます。

脳を研究している池谷さんの対談です。
(12回の連載と長いですがすべて読むとほおーっと勉強になります、
次へボタンを押してオヒマならどうぞ)
<<http://www.1101.com/ikegaya2010/2010-09-27.html>>
「身体事実がまずある。
そこにあとから脳がそこへ適応していくというか、
事実への解釈が後づけで起こる」という言葉が出てきます。
あなたへのヒントになれば幸いです。

だれかが道に迷っていて助けた人がいて
「なぜ助けたの?」と聞かれたらどう答えるかということだと思います。
もちろん自己満足のために助けるということもあります。しかし、
本当に考えずに助けたということは、普通に存在しうると思います。
助けた後になぜと聞かれて説明する言葉は、脳がつけた後付の説明です。

あなたの場合は「特に意味もなく助けたいと感じる=自分の良心が命じた」
とカテゴライズし「=自己満足のためにそうした」と
一度、どこかで定義する事があったのだろうなぁという感想を持ちました。

現状のままで人生全く困らないと思いますしそう思う方も多くいます。

人間は理性だけじゃない、
脳は体からのシグナルを受けて説明をつけているだけのこともあると
考える人もいると知ることはきっと面白いだろうなと思ったので
回答させていただきました。

人間そのものはもっともっとテキトウなんだなと思う30代の今のわたしです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

正直言って衝動的な行動はあまり考慮にいれてなかった、というのが本当のところです。
なので誤解を生んでしまったかもしれません。申し訳ありません。

僕の考え方は、
「自分の行動には自分で責任を取るべきであって、だから自分の行動の理由に他人を持ち出すのはフェアじゃない。」
という直観があったからたどり着いたものです。

>あなたの場合は「特に意味もなく助けたいと感じる=自分の良心が命じた」
>とカテゴライズし「=自己満足のためにそうした」と
>一度、どこかで定義する事があったのだろうなぁという感想を持ちました。

おそらく自己満足という表現がまずかったのだと思います。
僕が言いたかったのは、上にある通りであってそれ以外ではありませんでした。
大変申し訳ないです。

「事実への解釈はあとづけ」ということは聞いたことはあるものの、今まで忘れていました。
改めて考え直す機会をいただきまして、ありがとうございます。

お礼日時:2010/10/24 01:03

その点を論じた興味深い漫画がありますので、読んでみて下さい。

「新・ブラックジャックによろしく 移植編」です。主人公である研修医が、自分の腎臓をある女性に提供しようとする話です。その女性は研修医にとっては親族でも恋人でもなかったので、病院側は研修医の動機が理解できませんでした。しかしある医師が、徐々に主人公に理解を示すようになり、最後には他の医師たちを説得してくれるようにすらなります。「善意は欲だとさ。正論だとは思わんかね?」
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この回答へのお礼

>「善意は欲だとさ。正論だとは思わんかね?」
僕の考え方を端的に表した言葉だと思います。
自分のためにと考えていけば、一般的な人よりも他の人に貢献できると思うんですよね。
たとえば、労働環境が厳しくても、社会に必要な仕事につくことも厭わないでしょう。
ですから功利主義的にみれば正しいのかと思います。

お礼日時:2010/10/24 13:14

まあ、厳密にいうと、それぞれの言葉をどの領域で定義するかと言うのが大事なのですが。



まず、人間の体は、その人間の神経系の作用でのみ行動します。
物理的な決定は自分と言うことです。

さて、それに関する心理的な説明ですが、原因や理由は他者とか外界からによるが、
責任と判断は自分にある。という感じだと思います。

結局行動は、自分の意志決定によるのです。

そして、その決定プロセスを没我的とか利己的とか言うのは国語の問題だと思います。

その国語の問題の範疇であなたの定義はまあありえます。
問題分の例は多数派ではないかも知れません。

個人的には「あなたのためにしてあげたのに」みたいなことを言わなければどうでもいいです。
自分の思う正しい行動をして、それに満足していれば多少のことは大丈夫です。
何言われても気にしませんが、色々批判されたらちょっと悲しい、その程度のことです。

まあ、一意見としてはこのような感じです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
僕はモチベーションの話をしようと思っていたので、
僕の用いた言葉はすべて国語の範疇ということで正しいと思います。

>問題分の例は多数派ではないかも知れません。
やはりそうですか。

>個人的には「あなたのためにしてあげたのに」みたいなことを言わなければどうでもいいです。
>自分の思う正しい行動をして、それに満足していれば多少のことは大丈夫です。
僕がどう考えようと、周りに害がなければ特に気にすることもないということですね。


たぶんこのような態度を持たれている方が多数派なのだと思います。
参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2010/10/25 17:23

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