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No.3
- 回答日時:
ドン・キホーテを「現代小説の始祖」と最初に呼んだのは、ドイツの詩人ハイネです。
ハイネは1837年、ドイツで発刊された『ドン・キホーテ』の新訳の序文で、そう讃えたのです。ハイネは、それまでの小説、すなわち「騎士小説」というのは、中世の叙事詩を散文に改めた空想的な騎士の物語だったことを指摘します。セルバンテスはこの騎士小説の世界に、従来は決して登場しなかった低い階級の人びとをいきいきと描くことによって、「濃淡をつけたり、照明を当て」た。そうして騎士と空想上の産物しか登場しなかった従来の騎士物語を「うち倒す」ことによって、わたしたちが近代小説と呼ぶ新しい小説に手本を提供した、といいます。以来、特にイギリスにおいて、セルバンテスを手本とした小説が陸続と書かれていった、と。(参照:『ドイツ・ロマン派全集 第16 ハイネ』)
ただ、ハイネが指摘したのは、むしろ今日にあっては「近代小説の祖」とでもいうべき質で、今日「『ドン・キホーテ』が現代小説の祖」である、と言われたときに含意されるのは、以下のようなことが多いように思います。
「(※『ドン・キホーテ』は)小説の小説であった。または小説に反抗した小説とも言えよう。いやむしろ、小説読者の小説、ドン・キホーテの頭脳を通過し、ついで現実生活に彼によって肉となり骨となってもち回られた一連の小説群の小説である。…略…『ドン・キホーテ』は小説のなかで行われた小説の批評なのだ。かつまた小説読者の前に提示された小説読者の歴史でもある」(ティボーデ『小説の美学』)
わたしたちが個々の小説から離れ、小説とは何か、と考える。あるいは、読者とは何か、と考える。あるいは、小説を批評するとは何かを考える。つまり、小説について何かを考えようとする(メタ的な立場に身を置こうとする)とき、そのお手本になるのが、『ドン・キホーテ』になるのです。
現代小説と近代小説のあいだに線引きをするのは、実のところ簡単ではないし、人によってさまざまな定義があるのですが、簡単にいってしまうと、先行する小説に対して決して無自覚ではいられないのが現代小説、ということになるかと思います。つまり、現代小説は大なり小なりメタ小説の部分を含まないではいられない。そうした意味で、『ドン・キホーテ』は現代小説の祖とされるのです。
さらに注目すべきは『ドン・キホーテ』のメタ的な構造は、不思議な空間にわたしたちを誘うという点です。
「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」(『伝奇集』所収)という不思議な短編小説を書いたボルヘスは、「これら一連の奇怪な曖昧さは、後篇に至って頂点に達する。『ドン・キホーテ』の主人公たちは、『ドン・キホーテ』の読者でもある。つまり、彼らは前篇を読んでいるのだ」と「『ドン・キホーテ』の部分的魅力」(『異端審問』所収)の中で驚きをもって語ります。
どこが驚くべきことかというと、「物語の作中人物たちが読者や観客になることができるのなら、彼らの観客であり読者であるわれわれが虚構の存在であることもありえないことではないから」なのです。
わたしたちはばくぜんと、「自分」の存在をゆるぎのないもの、自分を取り巻く「現実」とゆるぎのないものと感じているけれど、ほんとうにそうなのだろうか。現実/非現実(虚構・フィクション)という線引きに、どこまでの根拠があるのか。
こうしたことを問うたのが現代思想でもあるのですが、その意味で、『ドン・キホーテ』はすぐれて現代的なところがある。ですから、『言葉と物』でのフーコーを始めとして、多くの人びとが『ドン・キホーテ』を考察することになったのです。
以上、参考まで。
No.2
- 回答日時:
暗喩、隠喩、そして狂気(狂人)というヨーロッパ小説の今日的王道の先駆けであるからと思われます。
また、作者自身が作中に登場し、道化を演じるという手法の先駆けでもありました。ですから、現代哲学や現代思想は死滅したが、ドンキホーテは死んでいないという有識者が大勢いるわけです。そういう考え方が、今日的な流行かと思われます。
現に、近頃のノーベル賞作家の多くが、暗喩、隠喩、狂人(精神病者)を描いていますね。
No.1
- 回答日時:
ドン・キホーテにはなれず、それ故『ドン・キホーテ』を涙なしでは読めなかった、凡庸な一中年オヤジです。
>ドン・キホーテはどうして現代文学の走りといわれているのですか?
思うに、旧・新の時代思想の対立が、そのままドン・キホーテと周囲の現実社会との対立という構図に置き換えられ、鮮やかに描き出されているからではないでしょうか。
歴史的には、旧思想が新思想に敗北する過程が、社会的には、個人の良心が現実社会に敗北する過程が、リアルに、かつ鮮やかに描き出されているのではないでしょうか。
なお、以下は、私が読んだ中で最も共感させられたドン・キホーテ論の一節です。
「ドン・キホーテとは何ものであるか」この小説を読んだ者は誰しもこう自問して、その問いが直ちに僕等自身の生活の根底への疑惑と結びつくのに気付いてはっとする。僕等はかつて自分の心の最良の部分をなしたものをドン・キホーテに認め、またそれが青春とともに死滅したことをも多少の羞恥と後悔の念を混えて確かめるのである。
信ずる力と勇気、僕等がドン・キホーテになれなかったのはこの二つが欠けていたためである。「我々がドン・キホーテであった年頃」を或る詩人は郷愁を籠めて回想する。僕等が二十歳のとき、老人から戒められた「青年の客気」こそ、或いは僕等の人生が持った最上の宝ではなかったか。
この小説は何時か僕等の心につもった時間の垢を削ぎ落す。そしてドン・キホーテが僕等の心に完全な人間として育ったとき、僕等はセルバンテスの魂に面接する。ここには戯画の仮面を脱して一箇の道徳的英雄が立っているのである。(中村光夫「ドン・キホーテ」)
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