プロが教えるわが家の防犯対策術!

 つぎの文章を読んで 哲学的なご所見を述べてください。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~
 ひとが人のたましいを尋ね求めるのは わがたましいをいつくしむごとく 相手のたましいをうやまうためにと そして そうではなく たかぶりの心によって相手のたましいをおとしめようとしてと。

 けれどもなかには たましいをころそうとして近づくばあいがある。

 かみのごとくいかなる者の下にも立つまいと心に決めたばあいである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわちこのようなたましいが もし現実にあったとしても その毒麦を引っこ抜くことは人間の為すことではないと考えられます。となりの麦をもいっしょに引き抜いてしまいかねないからです。収穫のときまで待てと。
 たとえば罪を憎んで人を憎まずと言います。 
 あるいは その人の存在を生かし持てる能力を活かすようにすることこそ 愛であると。そしてその傍らで――あくまで傍らで―― 欠点を憎み 批判し 互いにそこから自由に成って行こうというわけです。
 わけですが この務めがいかにむつかしいことか!!
 ご所見をうかがいます。

 
 なお メフィスト―フェレスとは いわゆる悪魔のことです。何ものをも否定する精神。
 すべてを削除し削除しまくる人生を送るということのようです。
 ひとが悪魔じたいであることはありませんが。ですから そういう思想と捉えるのがよいと思います。
 悪魔にたましいを売ったというよりも 悪魔を家来に従えたかたち。なぜなら かみのごとく如何なるものの下にも立つまいとこころに決めたものだからです。

A 回答 (17件中1~10件)

#15です。



たぶん、私の表現力不足で言いたいことがきちんと伝わっていないのだろうと思いますので、もう一度だけ繰り返します。

> いづれにしましても 《対比》は想定することなどがわたしにはあり得ません。

「悪魔的人格と神的人格」という対比でなくとも結構です。
いずれにしても、「善を纏った存在、あるいは、善に帰り咲ける要素を持った存在」と「悪魔」を完全に別の存在だと断定するところから論を進めようとなさっていますよね。
つまり、悪魔というのはこりゃもうどうしようもないものなのだ、と「どうしようもあるもの」と対比する形で話をすすめようとなさっているので、それは善悪の本質に近づく道標足り得ないのではないでしょうか、ということを申し上げているわけです。
「どうしようもないもの」というレッテルを貼られているものを、どのように考察しても、どうしようもないもの、という結論しか出てこないのではないでしょうか。
いずれにせよ、「対比していない」とおっしゃるのであれば、「悪鬼と悪魔には決定的な差異がある」とは言えなくなると思いますが。
ともかく、この分類で論を展開することは私には難しいようです。

> ☆ これは前回にお応えしています。突然そうなる場合と 一たん善き人になろうとしたあと一転して悪魔になると決心した場合とです。何でもうたがう・疑うために疑う。相対主義の徹底したかたちの《諸行無常》観を あらゆる人に飲み込ませるというような役目を みづから絶対的に負おうとした これが出現の過程です。

これは、過程の一部でしょう。
最も肝要な、「出現したきっかけ」「出現した理由」に触れていません。
なぜ
>突然そうなる

のか。
なぜ、
>一たん善き人になろうとしたあと一転して悪魔になると決心した

のか。
ということです。
これを探ろうとする、あるいは、これに思いを馳せようとする姿勢がないまま、悪魔を論じようとするのは不条理だとは思われないでしょうか。

> これは《心の闇》と言えばそうなのでしょうが 問題はそれがきわめて活動的であることです。現実に作用していると思われることです。つねに目に見えない投網は投げかけられています。

全体の流れを知らないので、公平を期すためにあくまで一般論として感想を述べます。たしかに、押し付けの香りがする場合もあるでしょうが(つまり、そうだと判断することは可能でしょうが)、見解というのは多少なりともそういった香りを漂わせているものだとも言えそうです。
ただ、(こちら側から見ての)投網にせよ、(相手側の主張するであろう)そうでないものにせよ、(常々)無視したり、うっちゃったりしていない点に、bragelonne さんの誠実さを感じます。
喧嘩は敬意の表明、を地でいっているのでしょう。
この点は(僭越ですが)本当に高く評価します。

bragelonne さんは、ご自分のキャパシティの範囲で、喧嘩を買う。
それで(つまり現状で)良いのではないでしょうか。
相手がわかるまで、が理想ですが、いつもそううまくはいきません。
むしろ、「わからせるような表現」は難しい、という根底の事実に思い当たり、形だけにせよ、相手が拳を降ろしたなら、それで(一件落着という意味ではなくて、とりあえずの)終着とすべきでしょう。
拳を降ろした場合は、論理的応酬に終止符を打つ、という宣言でもあるはずです。
(どちらのせいでそうならざるを得ないのかは不問にしつつとはいえ、)泥仕合を避ける意図があるわけですから、そこをさらに、自らの論理の正当性を認めさせようというのは、やや深追いになるような気がするわけです。
見栄も矜持もあるのが人ですから。

bragelonne さんは、論理が通じなくなることを悪のように思われているかもしれませんが、つまり、それを意図的に行なっているのだと感じておられるのかもしれませんが、必ずしもそうとは限らないでしょう。
私なども、後で自分の言を読み返してみて、ありゃ?と思うこと結構ありますし。
そうであれば、見解など述べずに大人しくしていれば良さそうなものですが、他者との遣り取りの中で学べることも多いため、(他の方にはご迷惑かもしれませんが)なかなか止められません。
しかし、喧嘩と侮蔑の違いは、もしかすると、論理的であるか否かの違いなのかもしれないな・・・。
という感想も合わせて持ちました。
回答に参加した(というのもおかしな表現ですが)甲斐があったと感じます。
      
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 いやもう 次のひとことです 鍵は。
 ★ ~~~~~~~~
 しかし、喧嘩と侮蔑の違いは、もしかすると、論理的であるか否かの違いなのかもしれないな・・・。
 という感想も合わせて持ちました。
 ~~~~~~~~~
 ☆ ――ご回答をありがとうございます。――そしてよくぞ言ってくださいました。つまりわたしの場合には 相手が《論理的であることから離れた》と見た時点で いちばん無難な応対としては《お互いに見解の相違で合意するところに来ましたね》と言って 終着駅に着いたとしようと言います。

 今回のもんだいは それでも応酬がつづくという場合です。

 ★ ~~~~~~~~~~
 全体の流れを知らないので、公平を期すためにあくまで一般論として感想を述べます。たしかに、押し付けの香りがする場合もあるでしょうが(つまり、そうだと判断することは可能でしょうが)、見解というのは多少なりともそういった香りを漂わせているものだとも言えそうです。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち このときの《見解》というのがすでに論理的な内容から離れてしまった場合なのです。放っておいても まだ発言を続けて来ますし 中で議論のかみ合うと思われる主題を見つけて 部分的にですが 応答すると 今度は(今度も)焦点をずらし主題をすり替えて来るという繰り返しになります。
 しかもその傍らでは おぬしは愚昧なる精神なりというキャンペーンを張るといった事態です。

 それで こういう場合これまでは 何らかの観念として――のっぺらぼう史観でも通用するのではないかという淡い期待のような観念として――そういう振る舞いが出て来ているのではないかと思っていたのですが 今回はこれをそうではなく はっきりと人間がその意志によっておこないつづけているのではないか。こうふと思った。これがこの質問の真相です。

 このような応対ぶりについて誠実さを感じると言っていただいて うれしくありがたいと思います。つまりはこの設問までも つながっているというわけです。でも どこかキャパシティの不足があるのでしょうし たぶんしつこいという感想を持つという人びとも多いことでしょう。
 ですから つまりは そこまでのことを見越して何やかやずるずると引きずっているというそのこと自体が もしそうだとしたら悪魔の作戦であるのではないか? つまりそれが そういうふうに人間と人間の関係やそこに繰り広げられる議論の性質とそのおまけのようなもとしてくっついて来るのではなくそうではなく 実際に人間がそこまでのことを見越して 作戦としておこなっているとしたら いったいどう成るのか?
 こういうふうでした。

 ★ ~~~~~~~~
 最も肝要な、「出現したきっかけ」「出現した理由」に触れていません。
 なぜ
 >突然そうなる
 :
 のか。
 ~~~~~~~~~
 ☆ これは 憶測として言えば 《さとり》によるのだと思います。ヒラメキとして この世の無常を見た。さとった。あとは このことを愚昧なる人びとにおしえ込まねばならない。という使命を感じた。身にまとった。これは 真理である。後戻りはない。と。
 神のごとくあらんではなくて もはや神であると思っているかも知れません。

 ただし この事態はまだ体験して間もなく 湯気が立っています。考えが深まって行くとよいと思います。
 でもここまで考えることが出来ました。感謝申し上げます。ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたしたいと思います。
 
 重要な補遺などありましたら どうぞ明らかにしてくださいませ。

お礼日時:2011/02/12 15:26

#16です。



> ですから つまりは そこまでのことを見越して何やかやずるずると引きずっているというそのこと自体が もしそうだとしたら悪魔の作戦であるのではないか? つまりそれが そういうふうに人間と人間の関係やそこに繰り広げられる議論の性質とそのおまけのようなもとしてくっついて来るのではなくそうではなく 実際に人間がそこまでのことを見越して 作戦としておこなっているとしたら いったいどう成るのか?
 こういうふうでした。

このご説明はわかりやすかったです。
実際問題としてはあり得ることでしょうね、そのぐらいのことであれば。
被害者づらなり、天使づらをさげつつ、何食わぬ顔をして、でも、その程度のことは悪鬼でもできるでしょう。
ただ、これは見方を変えると、ここが肝心なのですが、『このように現に思い悩む(というわけでは無いと思いますが、あるいは、貴重な時間を無駄に浪費する)こと自体』によって、その意図が実現される結果になるのではないでしょうか。

>今回はこれをそうではなく はっきりと人間がその意志によっておこないつづけているのではないか。こうふと思った。

これは、当事者間の微妙な綾というものがありますから、つまり、売り言葉に買い言葉ということもありますから、そして、詳しい経緯を私は知らないので何とも言えませんが、そう思わせるということ自体が(相手にとって)不幸なことですよね、むろん(こちら側が)「思うこと」と同様にです。

> ☆ これは 憶測として言えば 《さとり》によるのだと思います。ヒラメキとして この世の無常を見た。さとった。あとは このことを愚昧なる人びとにおしえ込まねばならない。という使命を感じた。身にまとった。これは 真理である。後戻りはない。と。
 神のごとくあらんではなくて もはや神であると思っているかも知れません。

なるほどですね・・・。
よくわかります。
しかし、私からすると、宗教者というのは全て(と言い切るのは控えますが)に近いほど、こうした傾向を持っているのではないだろうか、と考えています、実は。
というか、理想なり理性なり善なり(と乱暴にまとめてしまいますが)の追求という現象について言えば、「丁度良い追求」というものに遭遇するのは難しいのではないか、と思うからです。
その結果として生じる様々な不都合は確かにあるでしょうが、しかし、それは技量・力量の問題であって、それが無いという点を責めても虚しいのではないか、と考えます。

また、宗教者といえども、生身なので、理想・理性・善といったものと真逆の要素も当然抱えているわけで、このバランスをご本人がどのようにとっているのか、ということによっても、その啓蒙度合いや様式は違ってくるでしょう。
このへんは話し出すと長くならざるを得ないでしょうから、おさめますが、「啓蒙指向や善や理想の追求という欲求が自らの内面に兆した要因」を知る(あるいは知ろうとする)宗教者が本物の宗教者だろうという気がします。
つまり、あくまで「他者を救うということは自分自身を救うということだ。少なくとも同義だ」という理を、どの程度認識しているかによって違ってくるのでしょう。

どうも、口幅ったい物言いに終始してしまった感があり、お恥ずかしい次第です。
上手に受け止めてくださり、ありがとうございました。
あまり出没する機会もないでしょうが、こちらこそよろしくお願いいたします。
      
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ええっと それでは簡単にまいります。

 ★ 被害者づらなり、天使づらをさげつつ、何食わぬ顔をして、でも、その程度のことは悪鬼でもできるでしょう。
 ☆ いわゆる《深謀遠慮》 これを悪鬼でも出来るか? 出来ればそれなりのワルですね。

 ★ ただ、これは見方を変えると、ここが肝心なのですが、『このように現に思い悩む(というわけでは無いと思いますが、あるいは、貴重な時間を無駄に浪費する)こと自体』によって、その意図が実現される結果になるのではないでしょうか。
 ☆ それもあるでしょう。たぶんわたしはそれよりも ギャラリにおよぼす影響のほうが 大きいかとも考えます。引きずっているのは わたし(ぶらじゅろんぬ)のほうだと思う人が出てしまいます。放っておきますが そういう所謂る付和雷同の場合もなきにしもあらずでしょう。

 ★ これは、当事者間の微妙な綾というものがありますから、つまり、売り言葉に買い言葉ということもありますから、
 ☆ どこからが売り言葉でそしてそれに対する買い言葉かという論議になり茶の木畠に入って行ってしまいます。

 ★ しかし、私からすると、宗教者というのは全て(と言い切るのは控えますが)に近いほど、こうした傾向を持っているのではないだろうか、と考えています、実は。
 ☆ これは或る程度は 区別がつきます。悪魔はつねにひとりで事を運びますから。
 それに宗教者は たとえ無常観をつたえるというときにも ただの看板だけだとしてもあくまで《よきこと》として説きます。悪魔は無常をホンネとしては 死であるとしてそこへいざないます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~
 このへんは話し出すと長くならざるを得ないでしょうから、おさめますが、「啓蒙指向や善や理想の追求という欲求が自らの内面に兆した要因」を知る(あるいは知ろうとする)宗教者が本物の宗教者だろうという気がします。
 つまり、あくまで「他者を救うということは自分自身を救うということだ。少なくとも同義だ」という理を、どの程度認識しているかによって違ってくるのでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 組織を作らず組織に拠ることがないならばという条件がわたしには 必要です。(勉強会といった程度までの集団ならかまいませんが)。


 またこのところ動きが出て来ているようで 見守ります。あらたな問い求めるべき主題が思い浮かんだときには 設問します。
 ありがとうございました。
 もうしばらく開いています。

お礼日時:2011/02/12 22:26

#14です。



> 質問者の問い求め方は 人間が悪鬼たちとは別格の悪魔になったとしたら それは どういう性格であると考えるか? 社会の中にどう位置づければよいか? どのように扱えばよいか? というかたちで進めています。

悪鬼でも悪魔でも性格に大差はないと思います。
ハマチ(悪鬼)とブリ(悪魔)のようなもので同じ魚に違いはありません。
bragelonne さんは、
ブリの正体は、実は、見たこともないような、そして、人間の手には【決して負えないような恐竜的魚類】ではないだろうか、と想定なさっているわけですから、およそ現実的対処を模索されているとは受け止め難いですね。
私としては、ブリが(あくまで例えです)いかに捕らえづらいとしても、同じ魚類なのだから知恵を絞れば捕獲可能だろう、という想定の元での議論に参加しているつもりなのです。
メルヘンとしての恐竜的魚類、あるいは、概念としての悪魔であれば、宗教に疎い私の出る幕ではないでしょうから、このへんで失礼したほうが貴重なお時間を浪費させずに済むことにもなります。

> 言わば人間をそのたましいにおいて死に追いやるという仕事をパンとして生きている(死んでいる)のだと考えます。それ以外にすることはないという存在です。

そういう悪魔もいるかもしれません。
それは、網から逃げるブリもいるだろう、という程度の問題にすぎないでしょう。
仮に全てそうなのだ、という論旨であれば、それは人間が誰しも持つ(陳腐な表現で恐縮ですが)心の闇と捉えて論じるしかない問題になるような気がします。

>認識が大幅に違う

とすれば、
先に触れたように、神と悪魔、善と悪は、あくまで相互象徴的関係にある【だけ】だ、ということです。
ですから、悪魔的人格と神的人格という対比は私にとっては無意味に感じられるわけです。

> ★ 悪魔が存在するとしても、では、その出現の過程を知ろうとしないまま殲滅しさえすれば事足りると(おっしゃっているようにしか聞こえないのですが。というのは、この点に関して述べた私見に対する反論をまだいただいていないからですが)いうのは、どうなんでしょうか、本質的解決につながるのでしょうか。
 ☆ これは 対策の問題ですね。

いえ、違います。
「出現の過程を知ろうとしない」ということは、根拠のない排斥と同等の不条理につながるのではありませんか、と言っています。

> ☆ ぶっつけ本番で考えていますので そこのところは割り引いて受け取ってもらえばありがたいです。

それはこちらのセリフです。

私の述べたいことは、大体言い尽くしたような気がします。
色々と勉強になりました。
特に必要がなければ、あるいは新たな視点が浮上していないようなら、このへんで失礼したほうが、貴重なお時間を浪費させずに済むかと思われます。
ありがとうございました。
      
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 そうですね。悪魔はわたしにとっては 現実の現象であります。それが 観念として人間と人間のあいだに現象しているだけなのか? それとも ひとりの人間があたかもいま想定しているような悪魔に成り切っているかたちなのか? これは必ずしもまだ定かではありません。
 そういう出発点です。

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。明らかに違う認識である点を述べて 互いに問い求めの必要があるかどうかを判定していただこうかと思います。

 ★ ですから、悪魔的人格と神的人格という対比は私にとっては無意味に感じられるわけです。
 ☆ 上に《わたしにとっての現実の現象である》と述べましたが 《神的人格》というのは事実だとは見ません。想定もしません。非経験つまり非思考の場を 神〔と人との関係〕として想定するのみです。この想定によれば イエスは イエスという名の人間である貌とキリストと呼ばれるようになった神の子であり神である貌との両方の貌を持ったという想定です。神であり人間であるという想定です。
 《神的人格》というのは どういう定義になるのか分かりません。いま述べた想定のほかの内容でしたら それはわたしも無意味に思います。
 《悪魔的人格》は 《人間が悪魔になった》という作業仮説としてなら扱っています。悪魔に従属する悪鬼としてなら 現実に起きている現象だと見ています。
 いづれにしましても 《対比》は想定することなどがわたしにはあり得ません。

 ★ 「出現の過程を知ろうとしない」ということは、根拠のない排斥と同等の不条理につながるのではありませんか、と言っています。
 ☆ これは前回にお応えしています。突然そうなる場合と 一たん善き人になろうとしたあと一転して悪魔になると決心した場合とです。何でもうたがう・疑うために疑う。相対主義の徹底したかたちの《諸行無常》観を あらゆる人に飲み込ませるというような役目を みづから絶対的に負おうとした これが出現の過程です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
  > 言わば人間をそのたましいにおいて死に追いやるという仕事をパンとして生きている(死んでいる)のだと考えます。それ以外にすることはないという存在です。
 :
 そういう悪魔もいるかもしれません。
 それは、網から逃げるブリもいるだろう、という程度の問題にすぎないでしょう。
 仮に全てそうなのだ、という論旨であれば、それは人間が誰しも持つ(陳腐な表現で恐縮ですが)心の闇と捉えて論じるしかない問題になるような気がします。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここがまさしく問い求めている課題そのものではないでしょうか? 網から逃げるブリであるだけではなく わたしの感覚から行けば たしかに別格なのです。すなわちすでに悪魔となったなら《網をブリらを捕らえる網ではなく ぎゃくにブリらを捕らえる網を作る側の人間たちを捕らえるものとして別様につくりあげる。その投網で人びとを一網打尽にし言わば生きながら死んでいるゾンビのごとくに仕上げ自分の手下とする》。
 これは《心の闇》と言えばそうなのでしょうが 問題はそれがきわめて活動的であることです。現実に作用していると思われることです。つねに目に見えない投網は投げかけられています。
 アース役は 悪鬼との上下関係で起こることですが この悪魔の投げかける投網は この《意識の排泄役とアース役との単位的な上下関係とその錯綜する構造から成る社会の全体》をつねに視野に入れた行動であるというものです。
 この構図が メルヘンであるに過ぎないかどうかですね もし追究するに値するとしたら。

 具体的な事例が欲しいですか?
 【Q:《常識のない高齢者》です。思う存分ご批判をどうぞ】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6433458.html
 そのNo.68お礼欄を見ていただけるとよろしいかと。文脈が不案内ですが そのひとまとまりだけでもおおよそがつかめていただけるのではないかと。(削除のおそれがありますが 削除しましたというお知らせをもらってから 数日まだそのままになっています)。お手数ですが。

お礼日時:2011/02/12 09:39

#13です。



>最後のひと突きは おのれの意志に強く突き動かす力を感じ それにのっとって悪魔に変身するのだと見ます。

それはわかりますが、その最後のひと突きがなぜもたらされたのか、という点に関しては全く斟酌なさる余地はないとお考えでしょうか、ということをお尋ねしているわけです。

>言いかえると そのほかの割り合いとしては大きな部分を占めるかとも思われる要素要因は しかしながら 決定因とはならない。こう見ています。

とおっしゃるのですが、「そのほかの割り合いとしては大きな部分を占めるかとも思われる要素要因」とは、(広義での)環境からの影響を意味していますよね。(違っていればご指摘願いますが)
そうすると、環境の影響を全く受けない自己決定としての「最後のひと突き」というものが果たして出現し得るものでしょうか。
私は悪魔の責任論について論じているわけではありません。
悪魔の成り立つ所以について検討したい、と思っているだけです。
「だけです」ですが、重要な論点ですよね、おそらく、今回の場合は。
ぜひ、明確なお答えを期待いたします。

>はっきり言って 悪魔は 人がもしそれになるとしたら 人がみづから進んで望みそうなるのだと。

ですから(と不遜にも注釈させていただきますが)、「みづから」と言ったところで、では、「自ら=自己」の定義はすでに普遍的に定まっているものでしょうか。
あるいは、「みづからの知らない私」というものは存在していないのでしょうか。
繰り返しますが、責任論を論じようとしているわけではありません。
悪魔が存在するとしても、では、その出現の過程を知ろうとしないまま殲滅しさえすれば事足りると(おっしゃっているようにしか聞こえないのですが。というのは、この点に関して述べた私見に対する反論をまだいただいていないからですが)いうのは、どうなんでしょうか、本質的解決につながるのでしょうか。

>いちど何らかのかたちで失敗を味わったということからでしょう。失敗をなめるような人間は わたしではないと心をつよく持ち直して その過去の自分をさげすみきっぱりと棄てる。二度と振り返り見ることはないのだと。

なるほどですね。
これは非常にわかりやすい解説でした。
しかし、これは、失敗した事実を自ら強く認めていることになるわけで、ここに重大な問題が透かし細工のように浮かび上がってくるように思われます。つまり、
失敗した事実を認めても差し支えない環境、つまり、失敗した事実を本人が、と同時に周囲が、受け入れる、再チャレンジすれば済むことだという、至極当然の意識を持たせる環境に、彼(彼女)はなぜ恵まれなかったのだろうか。
ということです。
その環境が整っていなければ、
「>失敗をなめるような人間は わたしではないと心をつよく持ち直して その過去の自分をさげすみきっぱりと棄てる。」
しかないのではないでしょうか。
つまり、私が言いたいことを三文戯曲風に現わせば、
「これ悪魔よ、お前は良くないぞ。だが、それはお前のせいではないことを私は良く知っている。だから、お前を責めたりなど決してしないぞ」
というような感じになるかもしれません。

>おそらく《存在》ではないでしょう。存在ではなくなるのだと考えます。空気のような存在です。わづかにありとあらゆる人間存在をそのたましいにかんして凹ませ沈ませ 自分と同じように無となるようにいざなう。たましいの死者が出ればよろこぶ。そんな空中の権能だと思います。

絵になりそうな描写ですね。
なかなか真に迫っています。
私としては、超自我的存在としての神が、あくまで心の動きのひとつの象徴(必然的に自然界の摂理ということにもなるわけですが)としての意味しか持っていないのと同様に、悪魔も心の動きの象徴として以外には想定できません。

> ★ けんか
 ☆ は たぶん悪魔のほうでは どうでもよいと踏んでいるでしょうね。まったくどうでもよいなのだと見ます。朝飯前だという意味にもなります。

 さてどうでしょう?

ですから、こちらも朝飯前だという状況で対応すべきだと申し上げているわけです。
つまり、#9でも触れましたがキャパシティの範囲で対応する、と述べたとおりです。
手にあまりそうなものに果敢にチャレンジするのは情熱家です。
しかし、完全に手に余る場合は撤退です。
情熱が萎れる前に定位置にスタンバイするのが常套でしょう。
悪魔を見捨てるわけではありません。
むしろ、自力による這い上がりを後押しすることになります。
必要であれば、bragelonne さんのキャパを(最低限の礼儀だと)考慮しつつ再接近してくることでしょうから、その時に再び対応なされば良いだけです。
  
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 はこぶるさん ご回答をありがとうございます。

 いまは 悪魔が悪鬼たちの仲間であり単なる兄貴分であるか それとも次元を異にするほどの境地にあり親分にあたるか これをひとつの焦点としていると思います。
 もうひとつには もし親分格であるとしたら それは ただの思想や観念であるだけではなく 生身の人間がそうなり得るのか これをも問うています。

 質問者の問い求め方は 人間が悪鬼たちとは別格の悪魔になったとしたら それは どういう性格であると考えるか? 社会の中にどう位置づければよいか? どのように扱えばよいか? というかたちで進めています。
 その過程で 互いの異同をきちんと捉えつつ 一つひとつ明らかにして行ければよい こう思っていることになります。

 今回は 違いを取り上げ考えをおよぼして行きたいと考えます。

 ★ 悪魔を見捨てるわけではありません。・・・ / 必要であれば、bragelonne さんのキャパを(最低限の礼儀だと)考慮しつつ再接近してくることでしょう
 ☆ これは 認識が大幅に違うところです。悪魔はねらった獲物を途中で見捨てるとか一休みして最接近して来るとか そういうふうに出来ているとは思えません。悪魔にとっては 相手をたましいの死にまでみちびくか それとも 自分の破滅か 二つに一つだと思いますよ。
 言わば人間をそのたましいにおいて死に追いやるという仕事をパンとして生きている(死んでいる)のだと考えます。それ以外にすることはないという存在です。

 ですから そのときにも 過去を振り返るということもないでしょうし 失敗という語もその辞書にないのだと考えられます。
 最後のひと突きは 最初で最後の絶対的なひと突きとしての《悪魔の誕生であり死であり仕事のエンジンがかかることである》のだと思います。高炉に火が入ったら もう燃え続けるほかに道はないことになります。

 環境要因はすべて 最初で最後のひと突きのために総動員されると捉えればよいのではないですか?
 なぜ その最後のひと突きを しかも自分から 求めるのか? 自分で悪魔になるというが いったい何のために 何を好き好んでそうするのか? 何の得があるのか?

 簡単なきっかけは 《うたがう》ということだと思います。愛とか永遠とか善とか真実とか《よきこと》を そんなものは果敢無いものだという《さとり》にもとづき徹底的にうたがう。つまり否定する。否定しきる。
 立ち上がるもの・燃え上がるもの これらをすべて横に寝かしつけ消してしまいたい。均し棒で均したい。モグラたたきを超えて モグラを死なしめたい。
 たぶん無常をさとったからだと思います。カッコウをつけたことすべてを黙らせたい。のでしょうね。

 この全否定の《仕事》に或る日或る時何の予告もなく突然就くという場合と そしてそうではなく初めは むしろさとりの偉人になるという志をもって徹底的に人間的な人間になろうとした。その失敗――いや実態としてはむしろ成功した 成功したけれども むしろ周りの人びとがそれもただのドングリの背比べなんだから いかに人間的な人間だと言っても 大したことはないよと言って いわば欺かれてしまった―― その失敗を跳ね返すために 或る日或る時 そうだおれは悪魔になるんだと別様にさとったという最後のひと突きを経て その全否定の仕事を専門とする悪魔商会に就職したという場合とがあると思われる。

 ★ 悪魔が存在するとしても、では、その出現の過程を知ろうとしないまま殲滅しさえすれば事足りると(おっしゃっているようにしか聞こえないのですが。というのは、この点に関して述べた私見に対する反論をまだいただいていないからですが)いうのは、どうなんでしょうか、本質的解決につながるのでしょうか。
 ☆ これは 対策の問題ですね。わたしに分かっていることは:
 1. 悪魔に人間が素手で立ち向かっても勝ち目はない。なぜなら 相手は空気のような存在なのだから。

 2. 《出現の過程》は 今回もつづいて考えて来たように むろん知ろうとしている。さらにつづける。

 3. ですから ただし《殲滅》しようとは考えない。勝利とするところとは 悪魔がそこにいたとしても もはや何の影響もおよぼされることのない関係をたもつことだと思います。(それによって自然消滅するかも知れません。かまってもらえないことが 案外死因になるかも知れないから)。

 4. 《本質的解決》は さらに時代を経るにしたがって 社会情況が変わって来て そのときそのような解決方法が見出されることになるかも知れません。いまわたしには分かりません。


 ☆ ぶっつけ本番で考えていますので そこのところは割り引いて受け取ってもらえばありがたいです。

お礼日時:2011/02/11 22:53

#12です。



>☆ お待ちします。

どうも、表現不足でしたが、模索という偉そうな物言いをしましたが、なに、暗中模索ということです。
常々模索中、ということでもあります。
その過程で、新しい視点が何か得られるかもしれないという期待のもとに、今回も参加させていただいたようなわけです。
論拠とはいっても、感覚で得られた内容を、論理的に、また実際的に吟味し、検証するという形になるかと思います。
以上をまずお伝えした上で、今回も多少感ずるところを述べさせていただきます。

> だとしますと 悪魔になった人間は むしろ自分で自分を《侮蔑》したのかも分かりません。そのふるい自分を捨てた。棄て切った。

それも【含まれる】と考えます。
しかし、『何もないのに、いきなり、自分で自分を侮蔑する』そのような作用というか現象を想定するのは無理でしょう。
である以上、「なぜそうなるのか」に着目しなくては、根本の解決は得られないように思うわけです。
しかし、今回のやりとりでの内容から敷衍しますと、bragelonne さんは、
「ふるい自分を捨てた。捨てきったのが悪魔である」という前提から論を進めようとする姿勢を崩そうとはされていないように見受けられます。
つまり、今回ご提示のことに絡めて言うならば、私は「なぜ自分から捨てたのか」を検討すべきと思うのですが、bragelonne さんは、「いや、それが悪魔というものだからだ。さてどうすべきか」とおっしゃっているように思うわけです。
これでは平行線、と思うのは、私の理解不足でしょうかね。
こういった要素に着目した上で下記についてもご返事いただけると論点がさらに絞れてくるように思います。テレビではありませんが、ここで質問です。

【質問1】
「抜き差しならぬ悪魔に仕立て上げるひとつの要素になっているのではないか」
という私見に対して、「むしろ~」と応じていらっしゃいますが、これは、
「抜き差しならぬ悪魔に仕立て上げる」という(悪魔以外の他者からの)力に関しては検討するに値しない、とおっしゃっていることになるでしょうか。
そうでないとすれば、その点に関してはどう思われるでしょうか。
以下に2点補足的に述べますがが焦点を絞るため、以上のか「質問1」へのご回答を重点的にお願いできればと思います。

> そしてそういう場合には たしかに社会における境遇などから来る必然性に押されてでしょうが だったらおれがその悪魔になってやろうという《こころざし》を持って踊り出る場合もあるだろう。こう言いたいし 見ることをまだ捨て切れない。といったところです。

これは、というか、これも、
「社会における境遇などから来る必然性」に関しては検討する必要がない、あるいは、瑣末な問題である、とお考えになるでしょうか。
そうでなければ、この点に関してはどのように思われるでしょうか。

> じわっじわっと相手のたましいを死なしめるそういう精神を悪魔と呼びたいと思います。

これは確かにそう呼びたい気持ちになりますね。
幸い法治国家ですので、直接的被害が及びそうな場合は法律上の手続きに委ねるとし、
それ以外は無視か喧嘩かどちらかになると思います。
喧嘩の場合、可能な限り(あくまで侮蔑抜きで)相手をしてあげれば悪魔君は(這い上がりのきっかけの感触、または暇つぶしの快楽を得られるので)喜ぶでしょうから、キャパシティの許す限りお相手して差し上げれば良いと思いますが、いつまでも喧嘩してるのも(エネルギーの無駄なので)馬鹿馬鹿しいですし、また、無視するにしても、納得しないまま無視しては自己の内面無意識領域にわだかまりが残り、それが無駄な言動を誘発する危険性もあります。
つまり、喧嘩するにせよ無視するにせよ納得が必要になります。


面白そうなブログですね。(英語のほうはわかりません、というか英語は、というか外国語は読めませんが)
四位一体説については初めて知りましたが、(また、詳しくはわかりませんが)いかにも精神分析者らしい視点だと感じます。
生命の本質は矛盾である、と捉えるのが(私の知る限り、あるいは私の同意できる)精神分析の考え方です。
そして、両者の相互象徴によって、あるひとつのものは体現される(されている)。
神と悪魔、善と悪にしても同様の考え方を私はします。
>悪魔が根元だと言い張るなら いや善なる神も同等に根元だと言い返せば 話は成り立たない。

ということではなく、二つでひとつの根元を形成しているのであって、何らかの理由によって、その時々に、相互に象徴し合うわけです。
悪魔70%神30%の(悪鬼)ときもあれば、悪魔100%神0%の(悪魔の親分)こともあるかもしれません。
しかし、神が消滅したわけではない、という見方です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 今回は割り合いお応えしやすいです。

 ★ 【質問1】
 ☆ 境遇などの社会的な必然性に押されて自分の行動を決めざるを得ないようになるといった要因を どう扱っているのか?
 わたしは《最後のひと突き》を問題にしている というのが答えです。最後のひと突きは おのれの意志に強く突き動かす力を感じ それにのっとって悪魔に変身するのだと見ます。言いかえると そのほかの割り合いとしては大きな部分を占めるかとも思われる要素要因は しかしながら 決定因とはならない。こう見ています。(つまり 悪鬼になる要因であるとは見ています)。

 はっきり言って 悪魔は 人がもしそれになるとしたら 人がみづから進んで望みそうなるのだと。

 ★ しかし、『何もないのに、いきなり、自分で自分を侮蔑する』そのような作用というか現象を想定するのは無理でしょう。
 ☆ いちど何らかのかたちで失敗を味わったということからでしょう。失敗をなめるような人間は わたしではないと心をつよく持ち直して その過去の自分をさげすみきっぱりと棄てる。二度と振り返り見ることはないのだと。

 その失敗の事例は 次のようです。
 ☆☆(No.9お礼欄) ~~~~~
  わたしの考えでは 《投げやり》ではなく たぶん必然性の過程からでしょうが自分ですすんで悪魔になる場合もあるのではないか。
 それは 初めの意志として 人間のいと高き境地を目指した。いよいよ人間的になったところで 周りを見回したら その境地に誰も関心がない。ゆえになのではないかと。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは ニ千字目前で舌足らずでしたが したがって早い話としては 悪魔になるというそのときには 愚鈍なる人間をさげすみさらには斬り捨てるのだと考えます。過去の自分を切り捨てるのと同じように すべての人びとを下に見る。これから先は われは神のごとくあらんと。われはそれにあたいするのだと。あとは もう見直しはいっさいないということに。

 これは 推測するに 悪鬼からの成り上がりの場合もあるでしょうし あるいは ふつうの人間から一気に一足飛びに悪魔になるという場合もあるのではないでしょうか? 
 人間存在としては 連続体ですが 性質としては役者の地位がほかの悪鬼たちとは断絶するかのように飛びぬけた存在になるものと思います。

 ★ ~~~~~~~~~~
 悪魔70%神30%の(悪鬼)ときもあれば、悪魔100%神0%の(悪魔の親分)こともあるかもしれません。
 しかし、神が消滅したわけではない、という見方です。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 三位一体としての神は 非経験・非思考の場(その想定)です。数としてなどのかたちを持たない。もしくはかたちを超えているという想定です。
 つまりちなみに 非思考の場は 絶対であり無限でもありますが その神の三分の一とは 無限÷3=無限 ということで やはり無限なのです。父なる神も子なる神も聖霊なる神も それぞれ無限であり絶対であるという想定です。百分率にはなじみません。あり得ません。
 また そういう仮説であるからには 唯一神のほかに別の位格の神がいるということは 考えられません。この物語〔における神学〕では 悪魔は 神に仕えるものなのです。

 ですから 上に述べられていることは あくまで経験世界におけることがらです。数やかたちで規定することができるものは 《根元》の問題には成り得ません。つまりは ひとりの人間において ざっと見積もって 善の要素が何割で悪の要素はその残りの部分だと言っているという内容です。
 で もし悪魔が人間として起こり得るとすれば 仮りにそのように表わそうとおもえば: 
 ○ 悪魔とは 神のごとくあらんとする限りにおいて その善の要素も悪の要素も 人に対して見せるそのわざとしては 自由自在にあやつり得て如何ようにも見せることができるまぼろしである。
 ☆ おそらく《存在》ではないでしょう。存在ではなくなるのだと考えます。空気のような存在です。わづかにありとあらゆる人間存在をそのたましいにかんして凹ませ沈ませ 自分と同じように無となるようにいざなう。たましいの死者が出ればよろこぶ。そんな空中の権能だと思います。

 ★ けんか
 ☆ は たぶん悪魔のほうでは どうでもよいと踏んでいるでしょうね。まったくどうでもよいなのだと見ます。朝飯前だという意味にもなります。

 さてどうでしょう?
 

お礼日時:2011/02/11 18:05

#11です。



大事な点について述べることを忘れていました。

> ▲(精確ではありませんが) 悪魔は歳を取っていて 老獪である。こちらが押していると思っていても じつは押されているということがある。
 ☆ と言います。侮蔑するかしないかくらいではびくともしない。

とおっしゃる点に関してなのですが、
私の言う意味は、(むろん、自戒を込めてなのですが。いい子になろうとしているわけではありません)侮蔑そのもの、侮蔑という力こそが悪魔を形成するのではないか、ということです。
あるいは、悪鬼を、抜き差しならぬ悪魔に仕立て上げるひとつの要素になっているのではないか、ということです。
ほぼそうだとは思うのですが、論拠を(多面的に)模索しているということです。

  
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 つづきになります。

 だとしますと 悪魔になった人間は むしろ自分で自分を《侮蔑》したのかも分かりません。そのふるい自分を捨てた。棄て切った。

 そうでない場合を考えていらっしゃいましょうか。
 ★ ほぼそうだとは思うのですが、論拠を(多面的に)模索しているということです。
 ☆ お待ちします。

お礼日時:2011/02/10 23:10

#9です。



まず、
★★(回答No.8) しかし、どうにもならない、悪鬼を脱皮しつくした悪魔とでも言うべき存在はたしかに存在するでしょうね。

について、念のため補足させていただきます。
おっしゃるように、悪魔、悪鬼と分類したとしても、全く別のものであるとは思っていません。
あくまで脱皮であり、遺伝子は受け継いでいるわけです。
その極致としての悪魔の存在はあったとしても、悪鬼に毛が(しかし、かなり手強い毛が)生えたようなものという捉え方です。
「脱皮しつくした」の意図するところは、そういったことです。

>見直しがかなわないという場合にも・つまりはまじわりが普通には出来ないという場合にも ではどう対処するか? という問題はあるわけですから 訊いています。

そうすると、無視するか、逆イエスとして断罪するかぐらいの2択になってしまうのではいでしょうか。
実質的には、無視できない場合(が問題なのでしょうから)は断罪するしかない、という1托が最初にありきのご質問になってしまうような気がします。
そうなると、これは、私の理解不足かもしれませんが、法律の分野に委ねるべき課題になっていくような気がします。

>やはり悪鬼たちの人間類型とは別だという悪魔観をやはり持ちますね。親分でないかも知れないが 相当程度においてあたかも人間を超えているかのような能力存在であるのではないかと。

ロマンチックに善悪を語ろうとするのでないかぎり、
「人間を超えているような能力存在」という概念自体がまず理解できません。
現実的存在としての神を信じていらっしゃるわけではないだろう(と思いますが、そうでなければ平行線は維持されますね)と同様にです。

>わたしの考えでは 《投げやり》ではなく たぶん必然性の過程からでしょうが自分ですすんで悪魔になる場合もあるのではないか。

これはおっしゃるとおりと思います。
ただ、「すすんで」であっても、たとえば(あくまで、たとえばです。つまり他に適当な例があれば入れ替えていただいて結構です)、ヒトラーがすすんでユダヤ虐殺を指揮したのだとしても、なぜ「すすんで」やる気になったのか、ということに目を向けるべきではないでしょうか。
それが、人間の可能性を広げようとするムーブメント(哲学に目的があるとすれば、これだと思っているのですが、違っているようなら教えていただきたいと思います)となるように思うわけです。
「ヒトラーは悪魔だ。どう対処しようか」というのは、哲学の問題となり得るものなのでしょうか。

>それは 初めの意志として 人間のいと高き境地を目指した。いよいよ人間的になったところで 周りを見回したら その境地に誰も関心がない。ゆえになのではないかと。

神に(祝福される人間に)なり損ねたので、いじけて(あるいは居直って)悪魔になった、という意味でしょうか。
そういう意味とは違うのかもしれませんが、仮にその意味だとすれば大いに同意します。
当初の目標もどこへやら、投げやりになって、いじけて、居直ってしまった、というわけです。
投げやりにさせ、いじけさせ、居直らせた要因については不問にすべきというお考えでしょうか。

論点が煮詰まってきたような気がしますが、私のような哲学素人と会話するのはお疲れになるでしょう。
勉強させていただくつもりですので、よろしくどうぞ。
  
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 はこぶるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 はこぶるさんは フロイト系でしょうが ユングは 聖書の神の三位一体( Trinity )を見なおして四位一体( quaternity )という仮説を立てました。父なる神・子なる神そして聖霊なる神の三つの位格にさらに第四の位格として悪魔を持って来ました。
 これは ヰキぺには資料がなかったのでした。個人のホームページかブログのようなサイトにしか出て来ません。一応挙げておきます。
 ● 四位一体   ユング
 http://ameblo.jp/huruhon/entry-10538603710.html
 ■ From Trinity to Quinternity  ~~~~~~~
 ――A Potential Case Study of Jungian-Christian Dialogue
  http://www.innerexplorations.com/jctext/quin.htm

 This completion, he felt, could take the form of the good Trinity being brought into closer relationship with evil as the 4th, represented by the devil,
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 何が言いたいかと言うと まづこの説が 《善も悪もすべては互いに融通し合うかのごとくに結局のところは 世界はのっぺらぼう》を意味します。ところが このように善なる神と悪なる神をいわゆる互いに同等の二元に置くという見方は まったくかわいい見解なのです。
 なぜなら 善と悪というように互いに対立しあう二つの事項をどちらも同じく根元に置くということは けっきょくどちらも根元ではないと言っていることになるからです。悪魔が根元だと言い張るなら いや善なる神も同等に根元だと言い返せば 話は成り立たない。このことのくだらなさは目に見えています。 
 でも このようにかわいいへそ曲がりを素直に提出するのではなく そうではなく 隠然とそののっぺらぼう史観を信奉しているという手合いは少なくないようなのです。
 かのザラトゥシュトラ(ゾロアスター)は 善悪の二元論に立つが 経験世界では 悪なる神が優勢であり ただし世界の終わりにおいては 善なる神が悪なる神にたたかいを挑み勝つといった史観(?)を掲げます。一時期 ここからマニという男がそのおしえを説いたようです。けっきょくこれはほろびましたが クリスチアニズムでは グノーシス主義という系譜(いくつかの派に分かれる)が やはり二元論を唱えて 異端とされ迫害を受けほぼほろびましたが その神秘的でかつ理知的な経験思想としての系譜は 或る程度生き延びて来てもいるようです。
 
 ★ 「人間を超えているような能力存在」という概念自体がまず理解できません。
 ☆ これは舌足らずでしたが 要するに《悪魔》の思想は そこここに人びとの生活の場に思考形式として影響をおよぼしている。あたかも人知を超えたような勢力としてなお生き延びているかに思われると言いたいのでした。これに人が根拠を置こうとすることはあるでしょうし 単にそのように仕えようとするだけではなく 自分がみづからその悪魔になろうというやからが出ないとも限りません。
 そしてそういう場合には たしかに社会における境遇などから来る必然性に押されてでしょうが だったらおれがその悪魔になってやろうという《こころざし》を持って踊り出る場合もあるだろう。こう言いたいし 見ることをまだ捨て切れない。といったところです。


 ヒトラーは ヒトラー一人に悪魔ぶりを着せるのは 何となくしっくり来ないように思います。
 民主主義的に選ばれて政治家になったのですし 民族虐殺は戦争の中でおこなわれた(つまり 不戦条約に違反するとは言え当時 戦争が起こることにまだ強い反対はなかったかも知れない)のですし そのせん滅を指示された人間がどう受け止めどう処理したかなどもかかわって来るでしょうし。
 それに 人を殺せとはっきりと言うのなら それはすでに明らかにここでの悪魔の定義からは逸れているように思えます。
 じわっじわっと相手のたましいを死なしめるそういう精神を悪魔と呼びたいと思います。また おおむね一対一の関わり合いとして捉える場合がそれだと思います。

 何もお応えし得なかった感じがしますが 再考へとつなげます。再考をなしえましたら 補足欄なりにてお伝えします。

お礼日時:2011/02/10 22:36

まず、結婚している私にとって、悪魔のささやきといえば、ズバリ、夜遊びにでたがる”離婚している女友達”です。



頭の中にある悪魔のシナリオは”落とし穴を掘ってから、美しい顔で誘惑する:私が穴に落ちるまで舌なめずりして楽しそうに見ている。”

予防法は、魔方陣を作って、そこから先には一歩も出ないことです。夜遊びは厳禁です。

以上、処世術でした。


麦と毒麦について (マシュー13:24-20):

違った土壌にまかれた種の例え話~目に入るけれども観ていない・耳に入るけれど聞いていない~耳目から想起されるイゼア6:9-10(この部分の正当性を表わす)~種の例え話の説明

そして、麦と毒麦の例え話~からしの種~パン種の例え話~その説明と続きます。

この構成を注意深く見てゆくと、ご質問の麦と毒麦の例え話がないほうが、話がスムーズに進むように見えます。

蒔かれた種の例え話の説明の最後で、”豊かな土壌に蒔かれた種は三十倍、六十倍、百倍以上にも増えるものなんだ。”と結び、からしの種は小さいけれど、大きく育つ、そして、パン種は大きく膨らむ。。ひとまとまりの広がりを具現します。

そのちょうど真ん中にポンと、毒麦の話がさし入れられます。いかにも唐突な感じがします。

それは、ここで、イエスがどうしても、毒麦の話をしたかったからでしょう。

畑に蒔かれた種が、すばやく鳥の嘴についばまれて、芽を出すこともなく消化されてしまう様子と、せっかく育った麦が、何者かに蒔かれた毒麦にじわじわ取り囲まれてゆく様子が鮮明に対比されています。鳥と毒麦を蒔いたものが共に”敵”であり、ただの”死”ではなく、”永遠の死”を象徴しているのですから。

つまり使い魔はあっさり人々に死をもたらすことも、じわじわ苦しめることも出来るということでしょうか。

その毒麦が、いかにも毒々しい姿をしていれば誰も騙されないでしょう。黙示録でも、アンチ・クライストは弁舌もさわやかで、社会的に地位もあり、いかにも容姿がよくて、誰もが魅了されてしまうと形容されていたように思います。餌が魅力的でなければ、誰も罠にはまらないのです。

ファウスト博士も”この世で望むものを何でもあげよう”といわれて、確か再びの若さを望んだのではなかったでしょうか。私でも迷うところです。

小説の中では、メフィストフェレスは、最終章で、直接、神にファウスト博士の魂を下げ渡すよう、交渉に行きました。ちょっとジョブ記を思わせる演出です。ジョブ記では、序章でサタンが神に苦情を言いに行きます。英語ではなぜか、Accuserという称号が付いています。公正で神聖な神に言いがかりをつけ、苦情を述べにゆく存在。神と人間を常に互いに見失わせ、仲たがいさせようとする意思、それが悪魔の本領なのでしょう。神の人間に対する愛と信頼に嫉妬しているようにさえ見えます。

以上、ただの世間話でした。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ちゃおぽるぽさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 夜遊びは厳禁です。
 ☆ ここから悪魔の糸口が始まるというのは 案外実践的な見方であるかも分かりません。と思いました。(もっとも 野菜ばかりを食べるのではなく 何でも食べるという仲間もいるかも知れませんが)。

 ★ ~~~~~~~~
 ・・・
 そのちょうど真ん中にポンと、毒麦の話がさし入れられます。いかにも唐突な感じがします。

 それは、ここで、イエスがどうしても、毒麦の話をしたかったからでしょう。
 ・・・ 
 ~~~~~~~~~~
 ☆ この位置づけには 大きな意味があるとおっしゃろうとしていると思うのですが どうでしょう 毒麦そのものを警戒するというよりは 毒麦を蒔いた者がいる その黒幕を警戒せよといったところでしょうか?
 ★ ~~~~~~~~
 その毒麦が、いかにも毒々しい姿をしていれば誰も騙されないでしょう。黙示録でも、アンチ・クライストは弁舌もさわやかで、社会的に地位もあり、いかにも容姿がよくて、誰もが魅了されてしまうと形容されていたように思います。餌が魅力的でなければ、誰も罠にはまらないのです。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ したがって毒麦は 序の口である。背後にひかえていて天使のような姿になっても現われて来る者がいるようだと。


 ★ 小説の中では、メフィストフェレスは、最終章で、直接、神にファウスト博士の魂を下げ渡すよう、交渉に行きました。ちょっとジョブ記を思わせる演出です。・・・
 ☆ ちゃんと答えることができるほどでないのに メフィストーフェレスのことを出してしまいました。ヨブ記と同じように 悪魔も神に仕えているということは 述べられているのですね。たしか世界を徘徊していましたと サタンは神に返事をしていたようですが。
 
 ★ ジョブ記では、序章でサタンが神に苦情を言いに行きます。英語ではなぜか、Accuserという称号が付いています。・・・
 ☆ これですと むしろ神がその愛する子を鍛えるために 鞭で打つというときの鞭に悪魔があたるとも解せられます。あるいは 毒麦のほうかも知れませんが その鞭はむしろ それによって打たれるわれわれのそれぞれ心の思い人でさえあるかも分かりません。
 そういう捉え方も無きにしもあらずと考えるのですが それでも 実際に鞭に打たれ試練に遭い鍛えられるというときには たいへんなことになるとは思います。
 ★ 予防法
 ☆ もあるとおっしゃっていますが。

お礼日時:2011/02/10 23:06

#8です。



> 《見直し》がありうるはず。でも まじわりやかかわりまで失くしている状態にあるかも知れない。

お礼欄に関しては興味深く拝見いたしました。この部分に焦点を当ててよいと思います。
骨子としては、
まじわりかた、関わり方、によっては、わずかな≪見直し≫の可能性すら消滅させる結果につながるように私は考えます。

つまり、私の感覚からすると、悪魔(的な存在)とは、一種の投げやり状態を自らのうちに形成しているのだと思われます。
もっと言えば、自らを持て余している・・・。
だからこそ、これでいいのだ、私は間違っていない、と強く自他に確認を迫る必要が生じるのでしょう。
ですから、「それでよくない」「君は間違っている」と喧嘩を吹っかけることはむしろ愛である、ということになるわけです。
しかし、その理由として「なぜなら君は悪魔だから」と言ったとして、そこにどのような進展の可能性があるでしょうか。
悪魔はよんどころない事情で悪魔的になっているわけですから、悪魔であること自体を責められると逆上せざるを得ないのは理の当然でしょう。
そうではなく、「ただ、俺の気に入らないから、よくないのだ」という単純な理由で良いように思うわけです。
そこから、では「俺」なり「お前」なりについて語ろうという気がある悪魔であれば(有意義にー無論、本人にとってだけですが、それはそれで良いのではないかと思います。這い上がろうとする所作のひとつと捉えるわけです)継続するでしょうし、ここで初めて、本来の対話形式に持ち込むことができるように思います。
排斥なり懐柔なりも、関係性を紡ぐ手法ではありますが、それは、対話でないことはもちろん、対話の意図とは逆効果を、わざわざもたらそうとするものでしょう。
かといって、それが全く不要な手法なのか、と言えば、そうと言い切ることもまた難しいと思います。
これは、個々人のキャパシティに関わる問題です。
つまり、そのような方法をとらなければ本人が自滅してしまうような状況も、(一過性であれ常態であれ)人は抱えることがある、ということです。
さらに、排斥、あるいは懐柔と気づいていない場合も往々にしてあるでしょう。
ひとすじ縄ではいきません。なにしろ、メフィスト―フェレスは、わが内に、いつ出現するかわかったもんじゃないのですから。
対話の価値を否定する立場に転換なさるおつもりはないとすれば、≪絶対的悪魔≫の存在、あるいは存在形式は、その基盤が明確に脆弱である、つまり、一種の幻である、という根幹の認識が揺らいではならないように思うわけです。

宗教には全く疎い者がこんなことを言うのは良くないかもしれませんが、イエスが磔刑を受け入れたのは、最初に、復活というシナリオがあったればこそ、ではないか、という気がしますねえ。
≪絶対的、とことんの、どうにも救いようのない悪魔≫を創出するためには、そういうシナリオが最も効果的だというだけだったのではないか、ということです。
単なる余談ですが、つまり、≪絶対的悪魔≫は創出されたのではないでしょうか。
ただ、誤解を避けるために申し添えますが、悪と闘うべきではない、とか、無条件に許すべき、と言っているわけではありません。
先回も触れましたように、まだ考えがまとまっていないのですが、喧嘩は大いにすべし、しかし侮蔑してはいけない、的な結論に至る論理を模索中です。

補足欄も拝見しました。
どうも宗教は苦手です。
私としては、神=超自我、悪魔=本能、の(部分的ですが)象徴という捉え方しかできません。
神だけの人間、悪魔だけの人間、は存在しない、ということです。
たしかに、この点にすれ違いがあるのかもしれませんね。
それにしても、
>だからこれを生ぬるいというわたしの側では むしろ逆に もし人間が悪魔だったら もうその人間であり神である悪魔なる存在に実地にかかわりを持つことは出来ないと見ている。

のであれば、
>☆ だからさらに尋ねてみたい。どうするか?

という問いはなぜ発せられたのでしょうか。
やはり、模索に値する何かがあるはずだ、という思いは(多数の人々の間で)共有できていると思うのですが、これも生ぬるい理解なのでしょうか。
たまたま、その方法論が(むろん、一筋縄にはいかない多様な要素によって)見つかっていないだけではないでしょうかね・・・。

あくまで感覚としてなのですが、現段階では、まず「喧嘩はすべし、侮蔑は控えるべし」的な結論に至る論理を多角的に探っている昨今です。
  
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 対処法が知りたいのですが それは 悪魔を人間の存在として取り扱うかどうかで変わってくるであろう。こう見ると なかなか定まりません。
 おそらく悪鬼たちとの交通については それほど見解の違いに大きな幅はないように思われます。
 その悪鬼たちと 相対主義の定規の上をスライドして行ける連続体であると悪魔を見るならば それほど特別の見方扱い方があるというわけではない。こうも考えられます。果たして どうか?

 どうも二つの見方があるように思われて来ました。
 ひとつは おっしゃるように悪魔を悪鬼らの単なる兄貴分と見る場合であり もうひとつは そうではなく親分と見る場合です。
 親分と見る場合には 連続性が断たれているとも考えられます。

 この遅疑逡巡には わけがあると思います。次のように見ておられることが ただやり取りの中での軽い譲歩としての発言でないならば むしろ悪魔は人びとの親分であって 他者からの交通(意思疎通)が不可能な存在であるという場合に当たるかも知れません。
 ★★(回答No.8) しかし、どうにもならない、悪鬼を脱皮しつくした悪魔とでも言うべき存在はたしかに存在するでしょうね。
 
 ★ ~~~~~~~~~~~
  >☆ だからさらに尋ねてみたい。どうするか?
 :
 という問いはなぜ発せられたのでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはですね。見直しがかなわないという場合にも・つまりはまじわりが普通には出来ないという場合にも ではどう対処するか? という問題はあるわけですから 訊いています。

 ★ あくまで感覚としてなのですが、現段階では、まず「喧嘩はすべし、侮蔑は控えるべし」的な結論に至る論理を多角的に探っている昨今です。
 ☆ 否定しようとして言うのではありませんが 一面においてまだ生ぬるいという場合が出て来るのではないか? それは 誰だったか M.ヱーバーだったかが言った言葉として
 ▲(精確ではありませんが) 悪魔は歳を取っていて 老獪である。こちらが押していると思っていても じつは押されているということがある。
 ☆ と言います。侮蔑するかしないかくらいではびくともしない。まして けんかなどはお茶の子さいさいであると。悪魔には 失敗ということがなく そうだとすれば見直しということもなく あらゆる情況も場面も難なく切りぬけて行くのだというイメージをわたしは持っています。
 ううーん。連続性をどう見るかをいま別として やはり悪鬼たちの人間類型とは別だという悪魔観をやはり持ちますね。親分でないかも知れないが 相当程度においてあたかも人間を超えているかのような能力存在であるのではないかと。


 神は 無根拠です。悪魔は この無根拠をまねる存在です。あらゆる人間的な(思考しうる限りの)論理を難なくすり抜けるちからを持つと。超自我をも本能をもむろん含んでいます。

 イエスの磔刑は ユダヤ人たちが――高等法院での議論の結果として―― 支配者であるローマ帝国からこれ以上の抑圧や弾圧をこうむらないようにと 一人ふさわしい者をえらびこれを犠牲にしてローマのご機嫌をうかがうという手に出たからです。民衆をさわがしているあのイエスという人間に白羽の矢を当てた。
 もっともこの筋の運びをも神の計画のうちだと言うのであれば たしかにイエスの自作自演であることにもなりますが。つまり 《復活》などということは 誰も考えていませんでした。張りつけのあとよみがえるというシナリオが神の側にあったかどうか。あったかも知れません。
 ただし《絶対》としての悪魔は あり得ません。それに近いという意味での《絶対的悪魔》は イエスの出現にかかわらず 想像されていたのではないでしょうか。


 ここでは悪魔が あくまで神をまねるという意味ですでにあたかも《霊》でありあたかも《絶対》であるとしたら どうなるか? しかもこのことを実在の人間が起こしたなら どう捉えどう対処するかと考えようとしています。
 たぶん 実在の人間は これを部分的に演じるとまでは想定できるのではないかと思われます。そのとき人びとは どう扱うことができるか? です。

 
 ★ 私の感覚からすると、悪魔(的な存在)とは、一種の投げやり状態を自らのうちに形成しているのだと思われます。 / もっと言えば、自らを持て余している・・・。
 ☆ わたしの考えでは 《投げやり》ではなく たぶん必然性の過程からでしょうが自分ですすんで悪魔になる場合もあるのではないか。それは 初めの意志として 人間のいと高き境地を目指した。いよいよ人間的になったところで 周りを見回したら その境地に誰も関心がない。ゆえになのではないかと。

お礼日時:2011/02/10 15:50

#6です。



私見ながら、どうもまとまりのない内容にお付き合いいただきありがとうございます。
今回のご質問内容は、かなり本質についての道標たり得べく検討するに値するものである、という印象を受けています。
一朝一夕にはいかないでしょうが、じわじわと接近し、(凡才としては休み休み)深めてみたい課題のひとつです。

> ☆ つまり正体は 《相対主義またその徹底》 というところでしょうか?

そうですね。
相対的価値判断に徹する、徹せざるを得ない、ということを、貌の差異を超えた共通項とみなしても、検討・分析上の瑕疵は生じないのではないか、ということです。

>その相手あるいはその情況にふさわしい言葉をえらんで使うけれども そこに善悪観はもはやなくなっている。のではないか?
 ですから 顔が歪んでいるというよりも 顔無し ではないか? と思ったのです。

なるほど。
顔なし、というのはそういう意味でしたか。
千と千尋の顔なしはかわいいとこもあったようですが。
このことに関連して、#2で述べました次の箇所を再掲させていただきたいと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここで重要なのは、自ら好んで歪んだ顔になりたいと考える者はいない、ということです。
毒麦になりたくてなる麦はないのと同じです。
100歩譲って、なりたいと思ったのだとしても、そう思わなければ、麦として芽を出すことが叶わなかった、なんらかの必然的な因果関係に立脚した理由があることは明白でしょう。
ここでの最大の前提は、存在するものはすべて(当初は)あるようにしかない、つまり、存在するものは全て自然である、ということです。
そして、歪んだ顔は自然とは言えません。(無論、造作のことではなく、表情、あるいは眼ーまなこ のことを言っています)
この前提から、好んで歪んだ顔を欲するものはいない、ということをひとつの真理として共有できればと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
千と千尋の顔なしは、当初、傍若無人のように見えましたが、実は内面に深い悲しみを湛えていたのだと思います。
特に明かされてはいないので、たぶんですが。
これになぞらえるというのもなんですが、おっしゃるところの顔無しも、顔無しであることに心底満足しているとは思えないのです。

> 今回 人間のあり方として悪魔という類型を取り上げてみたのでした。

私としては、これ以外に想定し得ませんでしたが。^^;
浅いのでしょうか。
しかし、どうにもならない、悪鬼を脱皮しつくした悪魔とでも言うべき存在はたしかに存在するでしょうね。
特に見解を異にしようとするものではありません。
ただ、だとしても、悪魔として【心底】満足しているものはいないだろう、と推測する点が多少の違いになるのでしょうかね。
ここは案外(検討上の)重要な分岐点になるかもしれません。

> もっとも《相対主義とその徹底。しかも あらゆる存在に対して その主義を心から感服したうえで飲ませる》といった《仕事》をするのだとすれば 悪魔の類型なのでしょうね。

直前に述べたことにも通じるのですが、果たしてこのような「類型」が存在し得るものでしょうか。
表面的な(と軽々しく表現することは避けるべきなのでしょうが)結果としては確かに存在したでしょうし、し得るでしょう。
しかし、それが『感服したうえで』というのはちょっと想像しがたいように思われます。
つまり、相対の徹底というのは自己の絶対否定ですから、果たしてそのような存在が存在し得るかというと、通常の状態では無理だろう、という気がします。
それは、一種の心理学的、あるいは脳科学的な欠陥症状としか私には推測できません。
これはこれでまた問題ではありましょうが、また別の科学的分野の視点が必要となるでしょう。
ただ、非常に近い状態になることは実際問題としてあるかもしれません。
しかし、それはやはり、最終的には(むろん、過去には発見し得なかった)論理の枠内で解決できるはずのものである、という気がします。

>☆ だからさらに尋ねてみたい。どうするか?

 ☆ わたしの今の感触では:
以下におっしゃっているとおりで良いのではないでしょうか。
少し付け加えるとすれば、繰り返しになりますが、
(自己責任で何とかしろと言って)責めないで、
(未完成品として)扱おうとしないで、
そして、悪魔(悪鬼)としてより他者に関われない者の悲しみに、一瞬なりとも(同情ではなく)思いを馳せ、それを言霊に乗せて発信するなども面白いような気がしますが。
まあ、このへんは釈迦に説法じゃないでしょうかね。
他の方々からも含め、何か勉強させていただければと考えております。
  

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。

 まづ話の前提 そしてそれがきっかけであることとしては こうです。
 ○ 《なぜ悪魔を引き合いに出して哲学の話をするのか》 ~~~~
 1. 悪魔に仕える悪鬼たちは 《善は善 悪は悪》の上に《善は悪 悪は善》を乗っけようとしますが 善い悪いの区別そのことについては まだわきまえることを知っています。

 2. いえ 親分である悪魔もこれをわきまえてちゃんと使いこなすのですが ただしそれらはどうでもよいと思っています。ゼンとアクとの発音上の違いに過ぎないものであると。

 3. つまりは言ってみれば 世の中には善なる神と悪なる神つまりおのれとのふたつの神がいると 思いこんでいます。 

 4. 言いかえると 悪鬼たちは 悪魔を〔善なる神とともにそのほかに〕自分たちの神としますが 悪魔は あたかもともかく神であるのです。そういった《信条》であり世界の当たり前の事実だということのようなのです。

 5. 人は悪魔に成りきれるか? の問いは もしこのようであるなら 《人は神であるか?》という問いにもなっています。

 6. 仮りに悪魔になった人間を現実のこととしますと いまの問いは 神をわれわれはどう扱うのか? にもなっています。

 7. あるいは少し飛躍して別の角度からは 悪魔がそれでありそれを制作すると考えられるところの《死》 これは絶対か? 死とは神のごときものか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 聖書の思想としては 《最終的に死がほろぼされます》という命題が挙げられています。

   死よ おまえの勝利はどこにあるのか?
   死よ おまえの棘はどこにあるか?
      (コリント前書 15章55節)


 《罪》が 《死のとげ》です。とげが患部をつくり そこから死因もつくられる。と見る。つまり罪は 悪魔からの使いである。
 したがってイエスには 大工ヨセフの子である人間イエスとしてはともかく その神の子であり神であるキリストの貌としては《罪がなかった。ウソをつくことがその能力によって出来ない》という意味で 死に勝利している。だから死んでも生きているつまり《復活した》と受けとめられている。
 まただから 悪魔は その死の現場には自分が〔同じように復活してそのあとすぐさま〕ほろびるのを恐れてよう行かない。立ち寄ることができない。言いかえると 《理論》の上で イエスは死を克服しそしてじんるいは そのかれの十字架上の死によって 悪魔を克服した。理論じょう 死は克服されきった。
 (通俗的な話をすれば だから人びとはドラキュラに対して 十字架をもって対抗する)。

 この理論(←テオーリア=観想)に拠ってアウグスティヌスは このように書くことが出来た。
 ◆ (ユリアヌス駁論 1・5〔16〕) ~~~~
  かの全能者は 最初の人(アダム)からであれ その後に加えられたわたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪をその満ちあふれる恩恵によって滅ぼしている。
  (金子晴勇訳=アウグスティヌス著作集) 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 悪ないし罪を 次から次へと起こるが早いか ほろぼしている。われわれは こういうかたちで――イエスのあとの世界では――日々刻々〔魚が網によってそうされるように〕掬われている。


 ということであるか それとも 《悪魔のうたがい》は いまも・いつまでも じんるいの歴史に引き継がれるものであるのか? つまりは 《死》は 絶対であり神であるのか? 
 あるいは 言いかえることができる。
 【悪魔のうたがいとその問い】:われわれは 悪魔という親分に仕える悪鬼どもであるだけではなく じつは悪魔を父とするその子たちであるのか? 血筋であって 血はあらそえないということか?

 ☆ もしこうであるなら 次のように示していただいた対処法は まだ生ぬるい。こう思われてなりませんが どうでしょう?
 ★ ~~~~~~~~~~~
 (自己責任で何とかしろと言って)責めないで、
 (未完成品として)扱おうとしないで、
 そして、悪魔(悪鬼)としてより他者に関われない者の悲しみに、一瞬なりとも(同情ではなく)思いを馳せ、それを言霊に乗せて発信するなども面白いような気がしますが。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ただしその内実は 複雑です。
 この対処法によれば じつはむしろ《悪魔も見直しする心を残している》と見ているはずですし だからこれを生ぬるいというわたしの側では むしろ逆に もし人間が悪魔だったら もうその人間であり神である悪魔なる存在に実地にかかわりを持つことは出来ないと見ている。
 ここでも二つの見解は錯綜しています。

補足日時:2011/02/10 10:32
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ★ しかし、どうにもならない、悪鬼を脱皮しつくした悪魔とでも言うべき存在はたしかに存在するでしょうね。
 ☆ 今回はこのあたりをめぐって考えます。

 ご回答をありがとうございます。

 以前つぎのようにわたしは書いています。全体としても中間報告だと言っています。また表現の上で悪魔を人間の存在として捉えているような印象を与えるかも知れませんが そうは そのとき(そして今回の設問をするまで)思っていなかったです。

 ☆☆【Q:キリスト教の予定説に何故「悪魔」の概念が必要なのですか。】~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3117799.html
 (回答No.3)
 ・・・
  わたしの理解する悪魔は みづからの意志を殺した存在です。存在をみづから死なしめた存在です。

  それでも存在であるというのは 他人についてもその意志を発動させないようにする意志だけは残しているというものです。存在であろうとする意志をことごとく死滅させようとする意志であり 精神です。すべてを否定する精神であり その否定するという作用だけは保持したかたちにおいて精神です。

  さらに言いかえると 死そのものです。
  ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ あるいは別様に捉えるなら 悪魔は すべてを疑う精神に発しているとも考えます。しかもこれは疑いをとおして何かを探究するというよりは すでにその出発点に《どうせ死ぬ身ぢゃないか》という思いが横たわっている。つまり 相対主義でもあります。
 したがって 《ものごとが よくある。 / 向上する。 / ウソをつかない(悪を為さない)》といった事柄やそのように下す判断そのことをうたがい すべてを枡にあふれる米を均し棒で均すように 心の思いや叫びを何の特徴もないかたちに・つまりのっぺらぼうにしてしまいたい。
 ところが 人はこの精神そのものに成りきるとは思わなかった。それは 反省があると思うからです。自分じしんの考えにもうたがいを持つと思うからです。《見直しや 心を改めること》がある。千と千尋の《顔無し》も そういう柔軟性があったということですね。つまり人は この悪魔の精神にあたかも憧れるように近づくこと(つまり 悪鬼であること)はあっても 悪魔そのものに成りきるとは思えなかった。
 そうして今回
 ★ 悪鬼を脱皮しつくした悪魔とでも言うべき存在
 ☆ を考えるに到ったし 取り上げたのでした。
 ☆☆ 《相対主義とその徹底。しかも あらゆる存在に対して その主義を心から感服したうえで飲ませる》といった《仕事》をする
 ☆ ところの悪魔です。《感服したうえで》というのは 自分もそうですし ほかの人間もそうだということです。

 人びとは《日の下にあたらしきこと無し》ということと似てのごとく ウソをつかない人間はいないと思う。悪魔はこれを徹底させた。ユダヤ人は この悪魔に拠って神の子と自称するイエスを とうぜんのごとくうたがった。疑い尽くした。死を迫ることによって そしてけっきょく死んだならウソをついたと白状するだろうと踏んで(?) 磔にしようとしたし そうした。
 毛を刈られる羊のごとくおとなしく けっきょく悪魔を受け容れたイエス。ですから かのボドゥレールに 《きみはバカか?》と問われなければならなかった。
 【Q:ボードレールの詩 《聖ペテロの否認》】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6388762.html
 その趣旨説明での詩です。
 つまりは 死をも受け容れるまでにして 悪魔のうたがいに答えた。答えきった。そうして悪魔に見直しを迫った。
 〔きわめて単純に解説しているという自覚があるのですが〕 悪魔は見直しをするまでには到らなかった。相変わらずである。ただし おのれが死の淵にまでは行かない・行けないということについては 自覚がはっきりとしっかりと植えつけられ このことに《見直し》はもうないというところまで世界は一歩あゆみ切った。
 じんるいは そのあとニ千年を経た。神の目から見れば 二日だそうな。

 ということは――議論が我が田に水を引くかたちになってしまっていますが―― もしここでこの悪魔が 単なる想定上の〔しかも思想として現実の〕観念であるだけではなく 特定の人間であるかたちを取ったとしたら どうなるのか? これをどう捉えるのか?
 このことで まだわたしは戸惑っています。仮りにその人間が悪魔的であったとしても 百分の百その存在・即・悪魔であるとは まだとらえ難い。
 《見直し》がありうるはず。でも まじわりやかかわりまで失くしている状態にあるかも知れない。

 補足欄にて もう少し考えます。

お礼日時:2011/02/10 08:39

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!