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 つぎの文章を読んで 哲学的なご所見を述べてください。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~
 ひとが人のたましいを尋ね求めるのは わがたましいをいつくしむごとく 相手のたましいをうやまうためにと そして そうではなく たかぶりの心によって相手のたましいをおとしめようとしてと。

 けれどもなかには たましいをころそうとして近づくばあいがある。

 かみのごとくいかなる者の下にも立つまいと心に決めたばあいである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわちこのようなたましいが もし現実にあったとしても その毒麦を引っこ抜くことは人間の為すことではないと考えられます。となりの麦をもいっしょに引き抜いてしまいかねないからです。収穫のときまで待てと。
 たとえば罪を憎んで人を憎まずと言います。 
 あるいは その人の存在を生かし持てる能力を活かすようにすることこそ 愛であると。そしてその傍らで――あくまで傍らで―― 欠点を憎み 批判し 互いにそこから自由に成って行こうというわけです。
 わけですが この務めがいかにむつかしいことか!!
 ご所見をうかがいます。

 
 なお メフィスト―フェレスとは いわゆる悪魔のことです。何ものをも否定する精神。
 すべてを削除し削除しまくる人生を送るということのようです。
 ひとが悪魔じたいであることはありませんが。ですから そういう思想と捉えるのがよいと思います。
 悪魔にたましいを売ったというよりも 悪魔を家来に従えたかたち。なぜなら かみのごとく如何なるものの下にも立つまいとこころに決めたものだからです。

A 回答 (17件中11~17件)

こんにちは。

ぴっくすです。
昨日から今日にかけて、また戦ってきました。そして、気がつきました。
ANo3の
(1)そして、その頃、私は、メフィストと出会いました。
とても愛想良く、人の気をそらさぬ話しの上手な事に驚きました。
(2)また、別の人にも出会っています。その人は、やる事すべてが
気のままなのです。一見、悪者にさえ見えました。

実はこの二人、私が死に直面する以前の、自分そのものだったのです。
私の昔の姿は、こんなだったのかと思わず苦笑いしてしまいました。

これを仮に、死に直面したことをきっかけにした、季節の移り変わりと
捉えるならば、私自身が(1)から(2)へと変化したことを
一日という単位で捉えることが、できるかもしれません。
気球が自転しながら太陽の周りを移動することに似てるからです。
このことから、”事象の反転”ではなく、意外に、ぐだぐだで
だらだらと変化しそうな気もします。

 なぜ、枝葉の葉先から宇宙まで関連づけるのかというと
昔の言葉に「万象は心より生ずる」と、あるからです。
また、「一事が万事」ともいうからです。

私は、お寺と神社に挟まれた環境で生まれ、お寺でお菓子を食べ
神社で宿題をしたり、遊んだりして育ちましたので、
正直、この考えからは抜けられません。
 また「縁(えにし)によって、知るが良い」というお坊様の言葉が
頭から離れませんので、実際の体験から発想に及ぶ、という手段を
用いるほかにないのです。

最近は、あまり時間の余裕もありませんので、このへんで。
 何かのヒントになれば幸いと思います。
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この回答へのお礼

 そうですか。そうなんですか。――ぴっくすさん ご回答をありがとうございます。――でもぎゃくに このように種明かしをされたあとぎゃくに ではどういうことになるのか? と考えると またまた分かりにくくなって来ます。
 
 取り敢えずともかく貴重な資料として参考にいたします。ありがとうございました。



 感想程度のものになりますが:
 右と左 上と下 前と後ろ これらは案外互いに通じている。実際には時間を経たうえでその実態が分かるのだけれど むしろ人はこれをあらかじめ知っているかに 初めから振る舞って来ているし あとではあぁそうだったとやはり分かる。そういう縁起共生と言いますか 人生や社会関係の問題があるようだ。


 たかぶりの心によって人をおとしめようとする動きがわれにある。
 いやいや すでに相手をそのたましいが跡形も無く海の底に沈んでしまうほどにころそうとする動きさえ われにある。
 この心の動きに沿って むしろその悪魔の気持ちに沿って行動した。ところ 我れに還った。
 生き返ったとも言えるし そのふるい我れは死んだとも言える。


 はこぶるさんとのやり取りで書いたことですが 悪魔は 人間の死の淵にまでは来ない。よう来ない。自分が死ぬからである。一たんはむしろ その死の現場に臨んで 我れに還り 生きる。よみがえる。けれども その復活した途端に 悪魔は むしろ跡形も無く ほろぶ。一巻の終わりとなる。
 だから 悪魔は死の淵にまでは来ない。他人の死についてはむしろよろこんでいるのに 自分の死についてはこれを極端におそれる。

 これをくぐり抜けて――火の中をくぐり抜けて来た者のように――生還されたと えらそうに言っていいのでしょうか?
 われらがたましいよ きょうもあすも さいわいなれ。





 ちなみに わたしのモットーとしては 《何もしないたたかい》です。この質問でのやり取りで思い出して来たことがいくつか出て来ていますが 《相手が――つまりは 相手の悪魔の部分が――自分勝手に踊り出して来てのように 踊り狂ったのちに ほろぶに到る》 これを至上命題としています。たたかいとしては です。

 山よ おまえはなぜ逃げるのか?
 海よ おまえはなぜしりぞくのか?



 言いたい放題のようでした。ご容赦あれ。

お礼日時:2011/02/09 15:51

> これを除けば 分析なさった全体として《相手のたましいをおとしめようとする》この第二類型として理解しているのですが どうでしょう?



そう思います。ただ、私はあくまでこの類型こそが本質だと捉えたのでそのつもりで回答しました。
つまり、

> ○ すべての存在――存在は善ですから――を消したい・無くしたいという欲求から動きを始めています。その欲求が 生涯にわたって貫かれます。
 ○ すべてを否定する精神である。です。無条件に。否応なく。です。
 ○ 途中で脆弱性を現わすという気づかいはない――どういうわけかと思いますが――存在であるようなのです。

という第三類型と本質的に大差は無いと捉えたわけで、何より、本質問の骨子である、対処法としてわざわざ分類するまでもないと考えたものです。
「いっしょくた」にすることで、分析上の特に重大な問題が生じるようにも思われませんがいかがでしょうか。
《相手のたましいをおとしめようとする》のも、
「すべての存在――存在は善ですから――を消したい・無くしたいという欲求」
も、通底する要素は同じでしょう。
つまり、相対的にしか自己存立の基盤を確保できない指向性(嗜好性と言っても構いませんが)であります。(ここは「です」よりも「あります」と表現したいところです。深い意味はありませんが)
相対性に頼るという点で自己脆弱性が顕になっている、と断定すれば、その湧いてくる源に、検証(分析)上での差異を、あえて設ける必要もないような気がするわけです。
この意味で、特に錯綜して受け止めたつもりはないのですが、あえて類型的に分別する必要性が必須であればお知らせいただければと思います。
こう書いてきて、

> さしづめ考えられることは 第二の類型である《ひとを次から次へと貶めようとするたかぶりのたましい》は 第三の《悪魔》の類型なるたましいにかしづくその家来としての《悪鬼》と呼ぶとよいかも知れません。デビル=ディアーブル(サタン)とデーモンです。

という記述を読ませていただきましたが、あえて分類したい意図が理解できました。
格下の悪鬼について語らずに、本丸の悪魔について語れよ、とおっしゃるわけですね。
ただ、どうでしょうか、ハマチとブリの違いのようなものではないか、というのが私の感触で、むしろ、その起源に遡る、あるいは同一視することで対処法なり、分析自体も明快になるような気がするのですが・・・。

アウグスティヌスという人は、なかなか面白いことを言っていますね。
抜粋は全て、さもありなん、と思わせる内容でした。
「 さらにつまりは 相手や周りの皆が死ぬことは 何ともないわけです。自分と同じ状態になったと むしろ喜んでいる。」
などという箇所も、さきほど触れた「相対性に頼るという点で[の]自己脆弱性」に合致しそうです。
ただ、結局は、冒頭部分に今回の関連部が集約されているようです。
つまり、
> 悪魔は すべてを否定するけれども 自分を否定することは出来ない。自分の存在が無になるということについては あたまが回らない。

とおっしゃる点に関して、
「あたまが廻らない」からと言って責めるのか?
ということになると思うわけです。
とはいえ、

> さて だから どうなのか? どう扱えばよいのか? 上の見方は妥当であるか?

ということが確かに問題として残されることに変わりはないのでしょう。
適確な振りだと思いますが、前回述べたことも含めて簡潔に述べるとすれば、私としては、
責めないで、
扱おうとしないで、
ただ、自らの気の赴くままに対応する、ということが、まず大前提になると思います。
その上で、「どのような気の赴き方を自らの内面に醸成していくのか」ということが、自己の問題として残されるのだろう、という気がするわけです。

因みに、
「メフィスト―フェレスは常に、いつでも自らの内なるメフィスト―フェレスであるはずでしょうから。」
という私見解についてのご感想などがございましたら、後学のため教えていただければ、と思います。
特に無ければ無くて構いませんし、また、全く急ぎませんし、あるいは辛らつなご批判でも殆んど気にしません。
  
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
  《相手のたましいをおとしめようとする》のも、

   「すべての存在――存在は善ですから――を消したい・無くしたいという欲求」

 も、通底する要素は同じでしょう。
  つまり、相対的にしか自己存立の基盤を確保できない指向性(嗜好性と言っても構いませんが)であります。(・・・)
  相対性に頼るという点で自己脆弱性が顕になっている、と断定すれば、その湧いてくる源に、検証(分析)上での差異を、あえて設ける必要もないような気がするわけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり正体は 《相対主義またその徹底》 というところでしょうか?

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。この相対主義の《徹底》と《中途半端》とで どこか性質が違うのではないかと いままでは思っていたようです。のっぺらぼうの親分と子分たちというようになりましょうか?
 善は善 悪は悪 だけではなく 善は悪でありえ 悪は善でもありうると言う――こういう世界観を のっぺらぼう史観と言いたいと思うのですが 悪鬼たちはまだこの善悪観を 部分的にでも保っている。
 しかるに悪魔は じつは言葉で善とか悪とかを使っても どっちもどっちであり それはただゼンとかアクとかの発音の違いだけであると捉えている。その相手あるいはその情況にふさわしい言葉をえらんで使うけれども そこに善悪観はもはやなくなっている。のではないか?
 ですから 顔が歪んでいるというよりも 顔無し ではないか? と思ったのです。

 もう少しどうでもよいことを添えますが わたしは必ずしも悪魔のほうは 人間の存在形式としてはないだろうと踏んでいたのです。架空の霊――へんなたとえであり想定ですが――として悪魔が言語習慣では用いられている。ただし 人間の存在としてありうるのは その悪魔に仕える悪鬼らだけであると思っていたのです。
 今回 人間のあり方として悪魔という類型を取り上げてみたのでした。

 違いは 悪魔はすでに死んでいる。もしくは その生を死から始めている。悪鬼らは その否定の精神に拠ろうとするけれど まだふつうに生きている部分をも持ち合わせている。

 ★ 「メフィスト―フェレスは常に、いつでも自らの内なるメフィスト―フェレスであるはずでしょうから。」
 ☆ これは ですから その《自らの内なるメフィストーフェレス》が どういう内容であるのかによって 判断することになると思います。
 ▲ (ヰキぺ:メフィストフェレス) ~~~~~
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%95% …

 しかしながら、地獄に堕ちたことを後悔しており、努力次第で天界に行ける人間をうらやましがっているとされ、最後の審判に許されて天界に戻る日を待ち望んでいるという。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ドイツ民間説話の内容に限って捉える必要もないわけですが もしこのような《死》についての中途半端な考えであるのならば 悪鬼に近いとも考えられますし けれども ファウスト博士を同じ死の状態に陥れるちからをそなえているとすれば ふつうの悪魔だとも見られます。
 もっとも《相対主義とその徹底。しかも あらゆる存在に対して その主義を心から感服したうえで飲ませる》といった《仕事》をするのだとすれば 悪魔の類型なのでしょうね。

 ただしこのように区分したうえで 両者はあたかも光のスペクトルのように連続しているということかも知れません。ともに《相対主義》が源であるのなら。――どうでしょうか 親分・子分の区別があってもよいかも知れませんね。役割分担が見られるかも知れません。

 すでに対処法が述べられています。
 ★ ~~~~~~~~~~~
 責めないで、
 扱おうとしないで、
 ただ、自らの気の赴くままに対応する、ということが、まず大前提になると思います。
 その上で、「どのような気の赴き方を自らの内面に醸成していくのか」ということが、自己の問題として残されるのだろう、という気がするわけです。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの今の感触では:
 ○ 悪鬼たちとのまじわりでは おおむねふつうに話のやり取りをして行けばよい。ずるかったりするであろうが それならそれで指摘して行けばよい。 
 ○ 悪魔の類型には そもそも《まじわり(交通)》がないのではないか? ひょっとすると《かかわり(関係)》もなくなっているのかも分からない。
 ☆ だからさらに尋ねてみたい。どうするか?


 

お礼日時:2011/02/09 00:16

うっかり忘れるところでした、この命題に関連する事象の反転についてです。



私は、哲学に関しては、学ぶ機会がありませんでしたので
事象の反転について、鏡を用いればよいのか、またはメビウスの輪
の様なものなのか、あるいは、数学を用いるべきか、それとも
まったく別の空間を定義しなければいけないのか・・・・・?
皆で解決すべき、問題です。
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この回答へのお礼

 つづきになります。

 この《反転》 これは 知っていても知らなくても どちらでもいいのではないでしょうか。

 前もって分かっているに越したことはないでしょうが。

 つまりどんでん返しは あるとすれば そのしかるべき所で起こるでしょうし ないならないで それまでと同じようにたどって来た道に就いて さらに一歩一歩すすんで行っていいと思います。


 そうですね。たとえば 眼差しを上からそそぐ側とそして下に位置してそそがれる側とがあるとしたら もしどんでん返しが起こるのなら その上下関係の反転というよりは 水平対等の関係が 動態的に 築かれるということでしょうし。
 あるいは 社会力学としてのような一般市民とその上層代表部との関係については どうか? どんでん返しが起こるということは 社会の基礎としての市民社会の目線が 基本になるということなのでしょうね。
 たぶん この社会(ないし国家)としての上下関係は いまおそらくむしろ逆立ちしている状態であると思われますので この逆立ちが元に戻されるとは考えます。でも いわゆる西欧型の革命のごとく 上下が逆転するといった話ではないように思います。市民社会の市民たちは ただ上層部に対して その昔《くにゆづり》をしただけの話ですから。ゆづり戻され 国家上層部は 市民社会のために尽くすようになるといったことでしょう。

 ★ 皆で解決すべき、問題です。


 ☆ 方程式をカッコよくまとめるのは どなたか適任の方にお願いしたいと思います。

お礼日時:2011/02/08 18:36

#2です。



> ☆ すなわち《仮面》は天使のそれをかぶると思うのです。心の裏側で悪魔である状態を演じている。(ただし 行動や思惟は オモテに現われたかたちがあり それは悪魔的であるとは見ます。何ものをも否定するという傾向のことです)。

おっしゃる意味はわかります。
ただ、「>心の裏側で悪魔である状態を演じている」ような天使面(づら)をするのも、なかなか厳しい心情持たざるを得ないように強いられてきた歴史にもとづいているのではないか、ということです。
天使面にせよ悪魔面(いわゆる悪ぶる、というやつですが)にせよ、私にすれば、その不自然さ、あるいは不自然さをもって対外的な自我とせざるを得ない者の悲しみゆえに、同義ではないかと思われます。

この意味で、
> 天使のよそおいをして悪魔を演じる人間は ひとつに《すでに救われていると思っている》はずです。

という見解とは確かに対立するのかもしれません。
たしかに、「救われていると思っている」場合もあるのかもしれませんが、「救われていると実感する」ことは難しいのではないか、と私は考えます。
「悪を為す者は悪を為していることを自ら(無意識的に)知っている」
と前回記したのは、そのような意味でもあります。

つまり、「救われていると思い込もうとする」までは可能なのだが「救われていると実感する」までには至らない。
このギャップが【やるせなさ】となって内面に蓄積し、それを晴らさんがために他者への矛先となって現出してくるわけでしょう。
自我のある程度強い者は、現実社会において「自分が救われない原因となっていると自らが考える対象」に直接働きかけることによってそれを(様々な方法で)晴らそうとしますが、自我の弱い、つまり自立への道程で何らかの問題を抱えるべく余儀なくされた者にその力はありません。
力(あるいはエネルギー)が無いので、矛先は必然的に弱いもの、基本的には自らの安全を確保できるような立場で晴らそうとすることになります。
現実的な弱者であったり、あるいは、こういったカテでの匿名性が利用されることになります。

このように、利害の直接的対立以外の場合、アース役を必要とするような者とは、自我脆弱性を常に抱えている者であることが明白です。
ただ、絶対的自我強固性、とでもいったものを保持できている人間は稀ですから、誰しもが、こういった要素を持っていることもまた事実でしょう。
要するに程度問題なのだと思われますが、「悪魔的である」と他者に感じさせること自体は、多かれ少なかれ、限度を超えた自我脆弱性の現われと捉えてよいのかもしれません。

限度を超える【かもしれない】関係性を他者と持とうとする場合、相手の同意が得られるものなのか、そうではないのか、という点に留意するのが(精神的に)自立した人間の思惟として働くわけですが、自立の条件としては先に触れたように、自我脆弱性がある程度まで自ら克服されている必要があります。
限度を超えることを怖れていては何もできませんし、その行為自体は責められるべきではないでしょう。
ただ、この留意が無いままに関わってくる場合に悪魔的という認識に至るのではないか、と思います。

こういった自我脆弱な存在と関わる場合、その自我脆弱性の自己責任を問おうとすることは殆んどの場合、無意味になるはずで、それもまた当然と言えば当然なのかもしれません。
ですから、
>かみのごとく如何なるものの下にも立つまいとこころに決めた

のは、なぜか、という点に思いを馳せる。
それが面倒であれば、少なくともそのこと自体を責めない。
ということでしょうかね・・・。

また、対話の過程において、大いに喧嘩するというのも有効な手段になると思います。
これは、というか、これもbragelonne さんが常々おっしゃっていたことだと思いますが、大いに同意できます。
喧嘩はある意味で敬意の表明でしょう。
この(正当な)喧嘩の土壌すら整える気が無い、と相手を判断した場合は、怒り、次に(あるいはいきなり)無視、で良いはずです。
(ある部分では実践なさっておられるようにお見受けもしますが)相手が這い上がるのをひたすら待つという愛の形ですね。
ただ、引き上げようとしたりしてはおそらくいけないのであって、
また逆に、相手のキャパシティを超えて追いつめてしまう程に、喧嘩の手を緩めない、というのも大人気ないという気もします。

>おそらく演技を終えるときは 生物物理的に終わりを迎えるときではないか。こう考えます。

その可能性は否定しません。
しかし、殲滅するわけにはいきませんし、また、しても解決にはならないでしょう。
メフィスト―フェレスは常に、いつでも自らの内なるメフィスト―フェレスであるはずでしょうから。
  
  
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この回答へのお礼

 はこぶるさん ご回答をありがとうございます。

 分析内容がなぜ錯綜するのか。これが分かりました。
 はこぶるさんは 趣旨説明に挙げた三つの類型の二番目のそれ すなわち

 ○ たかぶりの心によって相手のたましいをおとしめようとして 人のたましいを尋ね求める。
 ○ そしてつまり人に近づき おのれの好きなように相手に合わせつつも みづからの欲しいままに相手を手なづけようとする。

 ☆ この類型について分析なさった。のではないか? 自我脆弱型が 途中で挫折するというのも この第二の人間類型にピッタリあてはまると思います。

 ★ ~~~~~~~~~~
 喧嘩はある意味で敬意の表明でしょう。
 この(正当な)喧嘩の土壌すら整える気が無い、と相手を判断した場合は、怒り、次に(あるいはいきなり)無視、で良いはずです。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ この《無視》という事項について但し書きを添えれば わたしの描く《たかぶりの心としての第二類型》にあとはほとんどそのまま当てはまると思いました。
 《無視》は わたしの場合 基本的にこちらからはしません。相手に応じてそうする場合はあります。つまり《放っておく》場合が だいたいそれだと考えます。
 これを除けば 分析なさった全体として《相手のたましいをおとしめようとする》この第二類型として理解しているのですが どうでしょう?

 すなわち わたくしが《毒麦で悪魔だ》というのは 三つ目の類型です。(毒麦は 第二の型にも見られると思います)。
 ☆☆(趣旨説明) ~~~~~~~~~
 けれどもなかには たましいをころそうとして近づくばあいがある。

 かみのごとくいかなる者の下にも立つまいと心に決めたばあいである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 前提条件がはっきり決まっています。

 ○ すべての存在――存在は善ですから――を消したい・無くしたいという欲求から動きを始めています。その欲求が 生涯にわたって貫かれます。
 ○ すべてを否定する精神である。です。無条件に。否応なく。です。
 ○ 途中で脆弱性を現わすという気づかいはない――どういうわけかと思いますが――存在であるようなのです。

 ☆ わたしがこの悪魔をきちんとしっかりと分析出来ているというものではありません。いまぶっつけ本番です。
 さしづめ考えられることは 第二の類型である《ひとを次から次へと貶めようとするたかぶりのたましい》は 第三の《悪魔》の類型なるたましいにかしづくその家来としての《悪鬼》と呼ぶとよいかも知れません。デビル=ディアーブル(サタン)とデーモンです。

 この悪魔は ですから それほど数が多いとは思われません。でも いれば あたかも生まれたときから 一定の社会に君臨するかのような地位に就く定めになっていたというような人間類型ではないかと推測されます。


 次に述べることは アウグスティヌスのうろ覚えです。申し訳ないですが いまはそういう格好です。
 悪魔は すべてを否定するけれども 自分を否定することは出来ない。自分の存在が無になるということについては あたまが回らない。永遠の存在だと思っている。百年内外を生きて死んだとしても 世界に生き続けると思っている。
 ですから かのイエスというナザレの人間が 自分の無実を主張しつつも神の子だと言うその発言について死罪をうったえるユダヤ人たちの手の中に落ち入って とうとう磔になったとき 最期の最期までその死地に従順だった。
 ところがかの悪魔は その死の淵までは来なかった。来ることが出来なかった。《死》は自分のあたまの中で考えられないのだと思われる。いえ 想像はするのであろうが 実際の死の淵にまでは自分の身を置いてみるということは かなわない。出来ない。
 どうしてか よく分かりませんが 実地に死におもむくと ひょっとすると すでに今の状態が死んでいるのであるから ひょっとして死の淵にみづからを立たせると かえって生きるという状態に戻るのかも分かりません。
 ただししかも その生きた状態に戻ったあと・つまり復活したあと もうあとはただちに死ぬ。みづからの姿はたちまち消える。ということから 死を恐れるのかも分かりません。
 さらにつまりは 相手や周りの皆が死ぬことは 何ともないわけです。自分と同じ状態になったと むしろ喜んでいる。けれども自分の死にかんしては 精神錯乱になるほどおそれるのではないかと推測されます。

 さて だから どうなのか? どう扱えばよいのか? 上の見方は妥当であるか?
 取り敢えずここまでとします。

お礼日時:2011/02/08 18:01

的を2つに絞っていただき、ありがとうございます。


これに答えるには、私の過去4年間の体験を
お話ししなければなりません。

4年前、私はある理由から、命の危険にさらされ
友人に、命を助けられました。
そのときから、一切の争いをやめ、戦うことを放棄しました。
それからというもの、受け身に徹して、右を向けと言われれば
右を向き、左を向けと言われれば左を向く様な、生活をしていました。
私の心が、そうさせたのです。
 不思議なことに、その間は、出会う相手の本性が手に取る様に
私の目には、見えてしまうのでした。

(1)そして、その頃、私は、メフィストと出会いました。
とても愛想良く、人の気をそらさぬ話しの上手な事に驚きました。

(2)また、別の人にも出会っています。その人は、やる事すべてが
気のままなのです。一見、悪者にさえ見えました。

こんな生活をしているうちに、今年に入ってから、私の心が
こう言いました「これからは戦いなさい」と。

いま、まさに戦いを始めたところでした。
でも、(2)の方とは、まったく戦う気が起きません。
これは、なんとなくですが、”孔子”が論語のなかで
「巧言令色鮮し仁」について語る場面で
むしろ、愚か者は、”仁”に近いと言われた、愚か者その人だから
かもしれません。でも確かにその人も、鞭を使うのです。
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この回答へのお礼

 いやぁ むつかしい。正直に言って 判断材料が少ないという面もあるでしょうが――ぴっくすさん ご回答をありがとうございます―― 人のたましいの次元での思いや動きを推し測ろうというのですから むつかしくないほうが おかしいでしょう。

 今回は 中間報告のような応答です。
 No.2&4のはこぶるさんのおっしゃっていることは 或る程度――最終的に妥当かどうかをいま別として――わたしのあたまと胸に比較的すっきりとおさまる内容なのです。
 ぴっくすさんのおっしゃっていることは その言わばジャンルとして 同じです。一体何が起こっているのかについて 大筋で分かります。ただ 個別具体的にどう捉えどう扱えばよいのか。これは途方に暮れるような感じを持ってしまいます。

 取り敢えず思ったことは こうです。
 ふたりの存在としての《鞭》がいま現われているわけですよね。
 (2)の気ままなムチさんは 鞭で打とうとして来ているわけだけれども その様子やその人の思わくといったことについて こちら(ぴっくすさん)は 案外分かる。あるいはむしろ手に取るようにその一部始終が分かってしまう。
 ですから 少し飛躍して言えば その鞭はわが心の思い人であるのかも分からない。願ってそういう人に遭わせて欲しいと思っていたのかも知れない。と。

 (1)のメフィストさん。どういうことになりましょう。
 思いきって一つには このメフィスト氏も 大きくは先の(1)の気ままさんと同じように わが心の思い人であるという捉え方があるかと ふと思いました。

 もしそうでなければ――または そうでありつつ 別の面からの捉え方としては―― はこぶるさんとのやり取りで考えたまさに《悪魔くん》であるかも分かりません。No.4の後半にうろ覚えながら その分析を試みています。ただしそのあと では どう対処するか? これについてはまだ考え中です。


 そうですね。いま現在 残念ながら ここまでです。考えがすすみません。
 何だか大掛かりになって来ましたね。
 取り敢えず行きつくところまで行ってみましょうか? 

お礼日時:2011/02/08 18:24

>なぜなら かみのごとく如何なるものの下にも立つまいとこころに決めたものだからです。



なかなか面白い表現だと感じました。
触発されて、私見を述べると同時に、なんらかの糸口が見出せないか、少し実験的に参加させていただきます。
また、他の方々からも含め、もしかすると新しい見方を教えてもらえるかもしれない、あるいは醸成されるかもしれない、という期待も込められています。

1.
で、かみのごとく ですが、なぜそう決めるに至ったのだろうか、という点に焦点を当てると良いのではないかと思います。

まず、非常に辛い人生を強いられてきたとすれば、そうなる場合もあるだろう、ということは、(たとえば私のような)最低限の想像力を持ってしても想像すべきだろうということが挙げられます。
おそらく、これがひとつの重要な要素になるものと考えています。
辛いかどうかなど分かろうはずが無いのだから無理だとおっしゃる向きもありそうですが、相手が辛いと言ったら辛いのだ、と判断すれば良いだけです。
無論、悪魔になるような精神はひねくれていますから、同じ辛いでも、素直に表現されることは稀でしょうが。

常々おっしゃっておられるアース役に関しては、無理に買って出る義務まではないでしょう。
買える人が買えばよいのですから。捨てる神あれば~です。
つまり、共感だけでもできれば、かなり違うのではないか、ということが第一の要点です。
悪魔の顔は多様ですが、共通しているのは顔が歪んでいることでしょう。
これも常々おっしゃっておられたことだと思いますが(違っていたらすみません。しかし大した違いはないと思います)、悪を為す者は悪を為していることを自ら(無意識的に)知っている、ということです。

ここで重要なのは、自ら好んで歪んだ顔になりたいと考える者はいない、ということです。
毒麦になりたくてなる麦はないのと同じです。
100歩譲って、なりたいと思ったのだとしても、そう思わなければ、麦として芽を出すことが叶わなかった、なんらかの必然的な因果関係に立脚した理由があることは明白でしょう。
ここでの最大の前提は、存在するものはすべて(当初は)あるようにしかない、つまり、存在するものは全て自然である、ということです。
そして、歪んだ顔は自然とは言えません。(無論、造作のことではなく、表情、あるいは眼ーまなこ のことを言っています)
この前提から、好んで歪んだ顔を欲するものはいない、ということをひとつの真理として共有できればと思います。
そして、「そのことを私は知っている」と伝えることが、(その場の反応はどうであれ)おそらくとても重要であるように思えます。
具体的な方法に関しては、難しく、あるいは多様にならざるを得ないものと思われますが、考えがすっかりまとまっていないので、とりあえず、次に進みます。

2.
では、悪魔は救われたがっているかと言えば、それはおそらく違うと思います。
悪魔は救われたいのではなく、這い上がりたいはずです。
自らの力で。

自らの力で這い上がりたいのだが、自らの力で這い上がるには、この世は、あまりに私に厳しすぎる。
這い上がることすら許されないような状況は、私が生きるために打破されなければならない。
打破の仕方は私独自のものにならざるを得ない。
這い上がることさえ許さないような世の基準に則って、それを打破しようとすることほど愚かなことはないだろう。

人があえて顔を歪ませ悪魔の仮面(と敢えて表現しますが)を被り、あるいは、麦が毒麦となるには、およそ、こういった内面の経過が存在しているような気がします。
このようにして、(一見すると)理不尽な悪魔なり毒麦が存在することになり、あるいは、私たち自身が悪魔になったり毒麦になったりすることになります。
純真無垢の天使や、毒を全く含まない麦が果たして存在し得るでしょうか。
毒麦ではなく、麦を毒麦に為らしめた、その土壌をこそ呪うべきではないだろうか、ということなのですが。
これは罪を憎んで~と同じ意味になるでしょうが、人を憎まずとは、麦が毒麦となった土壌に原因があるのであって、毒麦自体に罪はないという(至極当然の)事実をまず認めることでしょう。
こういった場合、同じ土壌でありながら毒麦にならない麦もあるではないかという反論が生じがちですが、1で触れたように、好きで毒麦になる麦は無い、ということです。
これを信じることによって、毒麦は信頼されたと感じるはずです。
その感覚は心にユトリをおそらくもたらすことでしょう。
そのユトリによって脳細胞から分泌される物質が、おそらくあるでしょう。
これが、おそらく、自らの力で這い上がるエネルギーを生み出すような気がするわけです。
2千字にて。
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この回答へのお礼

 はこぶるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 その部分部分の分析あるいはむしろ全体の志向性のようなものとしての和音のような調子 これに接する人は 多かれ少なかれ 同感におもむくようにしてまづは共感を得るものと思われます。そういう第一印象です。

 たとえば
 ★ 悪魔の顔は多様ですが、共通しているのは顔が歪んでいることでしょう。
 ☆ この部分についても 一方でわたしにとってはその表に現わすもの(表現)としては 次のようです。
 ▲ でも驚くにはあたりません。悪魔も天使をよそおうのです。
 ☆ ですが 他方では・つまりはその内面においてと言いましょうか 裏側においては《顔は多様ですが 共通しているのは顔が歪んでいる》ことになると思われるからです。

 それでですね ともかく表現は使い慣れたものをここで用いることにします。そうしますと そのオモテのかたちとしては むしろ対立するようなものになってしまうのですが そういう話の前提において受け取ってもらえるならありがたいと思います。

 早速ですが 次のように対立するところも出て来ます。
 ★ 人があえて顔を歪ませ悪魔の仮面(と敢えて表現しますが)を被り、あるいは、麦が毒麦となるには、およそ、こういった内面の経過が存在しているような気がします。
 ☆ すなわち《仮面》は天使のそれをかぶると思うのです。心の裏側で悪魔である状態を演じている。(ただし 行動や思惟は オモテに現われたかたちがあり それは悪魔的であるとは見ます。何ものをも否定するという傾向のことです)。
 次にいま上の《こういった内面の経過》について考えてみます。
 ★ 悪魔は救われたいのではなく、這い上がりたいはずです。
 ☆ これも と言いますか これは 複雑な問題だと考えています。
 天使のよそおいをして悪魔を演じる人間は ひとつに《すでに救われていると思っている》はずです。
 ひとつに《ゆえに どの社会的地位にいようとも・つまりはたとえ低い位置にいようとも すでに社会的身分が高い存在であると決めている。つまり這い上がる必要などは認めていない。わづかに誰か一人有力者からの引きがあればよいと踏んでいる。おまけとして添えれば 学力優秀で品行方正である》 こういういわば境地にあるとわたしの場合は見ています。

 ここまでの所論ではまだ不足ですが それでもあなたの結論と比べてみます。
 ★ 毒麦ではなく、麦を毒麦に為らしめた、その土壌をこそ呪うべきではないだろうか、ということなのですが。
 ☆ 毒麦になりうる人 悪魔を演じることができる人 そういう人は ですから《社会的な土壌》はどうでもいいと思っているはずです。言いかえると どんな社会的な情況であろうと そして自分がどんな身分から出発するのであろうと 自分はいづれ社会の高い地位に位置してとうとき存在としてうやまわれることになっていると決めているのだと考えます。《呪うべき》ものなど その人にとってはないのです。すべての人がそしてすべてのきっかけが自分の地位向上のためにある。こう決めているはずです。《失敗》という言葉はその人の辞書にはないのです。

 ★ 好きで毒麦になる麦は無い
 ☆ か? たぶん初めに好きだという自覚があったということではないと思われます。
 ただし 悪魔は心の底から真実であるとしてウソをつきます。それは 実際に事実もしくは心の真実をも話に混ぜるということだと思います。

 ★ その感覚は心にユトリをおそらくもたらすことでしょう。
 ☆ このことは 大事だとわたしも考えます。そうなればどれほどよいかと。
 でもたぶん悪魔を演じる毒麦くんには ユトリはその出発の初めの初めから十分すぎるほどあったのです。ゆめにもユトリが足りないとは思わないでしょう。思ったらそれは 悪魔の演技を終えるときです。
 ということは やはりあなたの指摘するこの部分も 的を射ているとわたしも思っていることになります。なるのですが おそらく演技を終えるときは 生物物理的に終わりを迎えるときではないか。こう考えます。つまりユトリ説は 実効力を持ちがたい 実際には。と考えております。
 そういう錯綜する二つの説であるように思います。

 たとえば
 ○ アース役
 ☆ これについてその毒麦はどういう評言を与えるか? おそらく こうでしょう。
 ○ アース役になる者は みづから好んでそうなっているのですから 何も言うことはないのです。人の趣味を妨げることはよくないことですよ。
 ☆ と。涼しげに まったく何でもないこととして たぶん《おしえる》はずです。要するに《かみのごとくあられる》存在なのです。


 自分で言うのですが 抜けたところと説明不足のところとがあると思います。

お礼日時:2011/02/07 23:51

こんにちは。

お元気そうで、なによりです。

(α)フルーツの場合は、どうでしょう。中には、若いうちは毒を持ち
熟すと、毒が無くなり、とても甘味なものがある。
これは、1種でありながら、状況によって変化したと仮に定義します。

(β)日本古来の食品で、漬物の場合はどうでしょう。毒を持ったものでも
ある期間、漬け込んだ場合、食用に出来るものがあります。
これは、1種でありながら、人の技術によって変化したと仮に定義します。

(γ)キノコの場合はどうでしょう。山を歩きますと、食用キノコの近くには
必ず毒キノコが、似た様な形をして生えています。でも不思議な事に
食用キノコに、毒キノコの毒が、うつる事はありません。
これは、この2種が別の性質をもった生き物であると仮に定義します。

一般的には、(α)だと思いたいです。

相手がメフィストともなりますと、(β)だと思います。
これには、技術と根気が必要になりそうです。なかなか難しいです。
先人達の知恵を学び、自らが、気がつかれるまで、待たなければなりません。
もし、宗教によって教化をするならば、毒をもって毒を制する様なもので
いずれ教化による毒が生まれるでしょう。
 しかしながら、まだ救いがあります。
釈迦でさえ、苦行のはじめの頃には、一切を、無をもって否定し人を遠ざけています。
やがて、無と認識するならば、その認識させるものが生来備わっていなければ
説明がつかない事に気がつき、生来備わった意思や性質を、”仏性”すなわち
パンニャ パラミッタの大いなる慈愛により授けられたものと、悟ったはずです。
でも実際、”毒麦”に、そこまで悟っていただくには、何年かかることやら・・・

さらに難問なのは、(γ)です。除草剤を使えば、食用キノコまで
生えなくなってしまいます。土、自体は同じ土でつながっているからです。
山では、自然のままに、どちらも生え、どちらも自然に消えていきます。
自然の事なので、必要で生えてくるのか、意味もなく生えてくるのか
誰にもわかりません。これは”猛毒麦”とでもいうべきでしょうか。

それを、社会の都合に合わせて、消滅させて良いものなのか
それを消滅させた事によって、新たな毒が発生したりはしないのか
それは本当に毒なのか
それは何かの薬になるのではないか
実は、逆ではないのか(こちらが毒ではないのか)
・・・・・など。
以上の事を、状況と度合を考慮しながら、検証しなければならず
悪戦苦闘することは間違いありません。

その難問を解いていこうとされる、bragelonne様の姿勢には
ただただ頭が下がります。


余談ですが、つい最近、毒麦らしきものを見かけたような気が・・・
気のせいでしょうか。
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この回答へのお礼

 ぴっくすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 いやあ 予想以上にやっかいな――問い求めにあたって対話というかたちを取るにはきわめて厄介な――問いを挙げたものだと ご回答をうかがってまづ思いました。
 たいへんですよね? ――たしかにたいへんですね。といったやり取りしかできない課題であるのかも知れません。
 
 でも《毒》についていくつかの種類を挙げて対処の仕方にもそれぞれ考えや工夫があるかも知れないと じっくり――もしそれも必要だとすれば――攻めていただきました。みなさんにとっても それぞれご自分の考えをまとめるのに為めに成る見通しのようなところを明らかにしてもらいました。

 まづ人 つまり人という存在 それぞれ掛け替えのない存在 これについては 《毒》だとか《悪》だとかとは誰も言っていないですし それはまた誰も言えないはずです。でも悪や毒麦と呼びたい仕打ちに遭うことは 人生においてないという人は少ないのではないでしょうか。そういった行為もしくは発言の基になる思惟 これについては 毒麦と受け取らざるを得ない場合があるかに思われます。
 固定して絶対的に規定することは出来ないが まったくないかと問えばその感触を受けてその振る舞いを見て見ぬふりをするわけに行かない こういう場合が しばしばあります。
 しかも
 ★ (α)フルーツの場合は、どうでしょう。中には、若いうちは毒を持ち / 熟すと、毒が無くなり、とても甘味なものがある。
 ★ 一般的には、(α)だと思いたいです。
 ☆ と行きたいところではあります。



 いま別様にも考え得る道をさぐってみたいとも思いました。
 ふたつですが 初めのは 引用のみです。

 ◆ (伝パウロ:ヘブル書12:4-7) ~~~~~~~~~
 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。


   「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
   主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。

   なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、
   鞭打たれるからである。」 (箴言3:11-12)

 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~


 もうひとつは こういう命題です:
 ○ 悪人だと思われる人間がこの世をわが世の春のごとく謳歌している。わたしを根拠のない罠に落とし入れた人間が 悠々と堂々と生きている。――《何者かによって無根拠において鞭うたれる人間》は 理不尽な悪や毒麦の横行について どこまで・どれだけ耐えることができるか これをためされているのだろうかという問い。

 ☆ いえ もう少し複雑です。
 ○ その《鞭打たれる》鞭こそが われわれはその心の奥底においてわが心のへそ曲がりを悔いそのきよらかさを乞い求めるときのいましめとして われわれみづからが願って要求した鞭なのであるかも知れないと。



 ☆ 毒麦は わが心の恋人であったのかと。
 毒麦には何もわるいことはないのかも知れない。ただ 自分では知らず知らずのうちに 用いられているに過ぎない。

 麦たちのために用いられている。そういう人生もありましょうか?

 でも現状は 麦たちがへりくだっていますし 社会的な有力をかたちづくるのは 感触として言って毒麦の側です。
 どこかでどんでん返しが起こるのか。それとも つねにこのような状態で 麦たちはこころみられきたえられつつ生きて行くことを続けるのか。なぜなら世代の交替と相い成り替わるということだから。・・・?

お礼日時:2011/02/07 15:54

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