江戸時代に起こった天明の飢饉のころ、津留め(藩外貿易禁止)というものをやっていて余裕のあった西日本から不足するところに米などを運べなかったらしいんですが、津留め(藩外貿易禁止)とはいったいどのようなものなのでなぜやっていたのでしょうか?

A 回答 (1件)

まず、天明の飢饉の頃に、東北地方で飢饉が広がったのは、西日本の米を移入できなかったからではなく、東北でとれた米を、藩が強制的に江戸や大坂で販売したからです。


津留めではありません。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~kr2m-nti/wound/next/ …
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QIFRSの読み方について

IFRSの読み方について教えてください。

アイエフアールエス、アイファス、アイファース、イファースなど読み方があるようですが、日本では標準的な読み方はありますか?また、グローバルで共通した読み方はありますか?

全社で共通した読み方で統一したいと考えております。

Aベストアンサー

IFRSの読み方は、現時点の日本では様々です。
各種セミナーに行きましたが、講師をされる方によってまちまちです。

ひとりの講師の方の説明では、IFRSがすでに導入されているヨーロッパ(EU)では、主にアイエフアールエスと読んでいるようです。

http://ifrs-yomikata.cocolog-nifty.com/blog/

ご参考に。

参考URL:http://ifrs-yomikata.cocolog-nifty.com/blog/

Q薩摩藩ってすごい藩?

「ドイツってすごい国?」をみて薩摩もすごいと思ったので質問します。

島津家は日本で(おそらく)唯一、鎌倉時代の守護大名からの歴史をもつ大名で、室町・戦国時代は九州最強を誇り、豊臣秀吉に逆らい、関が原では西軍につき戦闘をおこなうなど時の権力者に逆らいつつも領地を減らされることなく、江戸時代は参勤交代で全大名中最も長距離で負担の重い旅行を強いられ、徳川家は更に島津家を恐れ江戸防衛のため間に親藩・譜代大名を置き、名古屋城などの城を築いて万全の体制を敷いたにもかかわらず幕末には薩摩藩主力の新政府軍に倒されてしまいます。

このように、九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、強大な武力とバイタリティーを持ち続けた理由は何でしょうか?鎌倉時代から明治時代初めまで(幕府を除けば)最強、悪くてもベスト3には入っていたと思うのですが、いかがでしょうか。

Aベストアンサー

 九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、領土を守り続けられた理由は非常に保守的なお国柄でよそ者を受け入れない鎖国主義的な部分が有る反面、いいものなら新しいものを受け入れられる柔軟性を併せ持っていたことかと思います。
 例えば鹿児島の種子島に伝来した火縄銃を受け入れ、さらに信長の鉄砲使用法に近い乱射法で一時九州を制圧したり、薩英戦争での敗北後、一転攘夷論から開国論に切り替え英国の支援を受け、倒幕したことなどがその例です。
 あとはNo.4おっしゃるような交渉力や外交力でしょうか。
 関が原の戦いでは負けた西軍にいながらまったく唯一お咎めも無く60万石の石高もそのままでした。2度の朝鮮出兵で、三十倍の敵を殲滅し、鬼石曼子(おにしまず)とも呼ばれた武力もその外交力の裏づけにあったと思います。
 しかし鎌倉時代から明治時代初めまでベスト3には入っていたというのは買いかぶりすぎだと思います。
 最近の研究ではNo.9さんのおっしゃる程の搾取は無かったとされていますがそれでもまったく裕福とはいえず琉球に対するの清国との2重支配による密貿易や幕末の藩債踏み倒しなどでなんとかやりくりしていたのが実情ですから。
 
 
 

 九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、領土を守り続けられた理由は非常に保守的なお国柄でよそ者を受け入れない鎖国主義的な部分が有る反面、いいものなら新しいものを受け入れられる柔軟性を併せ持っていたことかと思います。
 例えば鹿児島の種子島に伝来した火縄銃を受け入れ、さらに信長の鉄砲使用法に近い乱射法で一時九州を制圧したり、薩英戦争での敗北後、一転攘夷論から開国論に切り替え英国の支援を受け、倒幕したことなどがその例です。
 あとはNo.4おっしゃるような交渉力や外交力でしょ...続きを読む

Q麗の読み方

「麗」という読み方はレイ、ウララ意外読み方がありますか?
名前付けなので、あて字でもいいです。
役所に認められればどんな読み方でもいいのですが・・・

Aベストアンサー

 http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E3%81%86%E3%82%89%E3%82%89/m0u/
では“うら”ら、うら”らか
 という読みがありますね。
 これは85になる姉の名前が使っています。最初はカナでしたが、成人して漢字に改名したんです。
 小さい時は書くのがたいへんですね。
 私も苗字もちょいと画数が多いし、名前も“藏”って字はとても書き難くかった思い出があります。

Q江戸藩=徳川藩

徳川家康は江戸幕府を作りました。しかし、豊臣政権の時、摂津大坂藩と言う藩があったように家康も江戸の藩主だったんじゃあないですか?。もし、そうならどの名前ですか?。

1・武州江戸藩。

2・同徳川藩。

Aベストアンサー

秀頼の治める藩を摂津大坂藩と呼ぶならそれは後世でしょうねえ。
当時はそうは呼びません。

既に出ていますが○○藩という呼び方じたい正式なものではなく単に一般的な呼称です。
そういう意味では1で正しいですし、ある意味正解はありません。
ただ徳川藩という呼称は使わないでしょう。将軍家と御三家全部徳川藩になってまぎらわしいので。

藩主は国主クラスなら尾張侯、水戸候、薩摩侯、藩領は○○侯御所領、藩士は○○侯御家中
実際には国主クラスだと尾張中納言とか会津中将とか官職をつけて呼ぶ場合が多いようです。

私も今回疑問に思い軽く検索しましたがもっと小さな藩だと(越後)村上内藤侯、(長州)長府吉川侯などとどうやら地名と住所を重ねて呼ぶようですね。

Q記号∀,∃の読み方(発声)を教えてください

記号∀,∃の読み方(発声)を教えてください
出来れば解析学と論理学とにおける読み方を
一般的な読み方がなければ個人的な読み方でもいいです

Aベストアンサー

大学では数学をかじっていた者である。
一般論はNo.1に詳しいので、ここでは個人的なことを述べさせて頂く。

大学の講義でそう聞いたからだと思うが、私はどのような場合でも大概
「全ての」「或る(ある)」
と読んでいる。
また、Wikipediaの記事にはないが、こんな話をする相手はガンダムの話も嫌がらない人が多いので、
「ターンエー(turn A)」「ターンイー(turn E)」
ということもあろうかと思う。

Q一橋藩 田安藩

1・明治元年、一橋家、田安家は立藩しましたが、どこの地方の藩として立藩したんですか?。

2・清水家は最後まで立藩しませんでしたが、もし、立藩していたらどこの地方の藩になったんですか?。

Aベストアンサー

VHS-KATURAさん、こんばんわ。


1.確か、一年くらいでしょうか?知藩事にも任命されていないはずです。バラバラに点在していた領地も各県に併合されました。真っ先に廃藩になったはずですね。これにはスケープゴートのうわさもあります。

一応、江戸定府ですね。本拠地を決める前に領地を新政府に接収されていたので、その領地を返上するだけで手いっぱいだったでしょう。また、旗本だった人を家臣として抱えるなどいろいろ組織上の問題が山積みだったようです。


2.おそらく、江戸定府でしょう。当主の昭武という人は海外視察に出かけていて、不在だったです。
一応、華族になりますが、家政が傾いて爵位をいったん返上しています。徳川好敏が航空界に貢献した功績で男爵に戻ります。


詳細は下記のURLを参照ください。


一橋家
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%A9%8B%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6

田安家
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%AE%89%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6

清水家
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6


参考図書
新人物往来社 徳川300藩藩祖総覧 別冊歴史読本 目で見る時代考証シリーズ6

VHS-KATURAさん、こんばんわ。


1.確か、一年くらいでしょうか?知藩事にも任命されていないはずです。バラバラに点在していた領地も各県に併合されました。真っ先に廃藩になったはずですね。これにはスケープゴートのうわさもあります。

一応、江戸定府ですね。本拠地を決める前に領地を新政府に接収されていたので、その領地を返上するだけで手いっぱいだったでしょう。また、旗本だった人を家臣として抱えるなどいろいろ組織上の問題が山積みだったようです。


2.おそらく、江戸定府でしょう。当主の昭武と...続きを読む

QFAQの読み方は?

WindowsFAQ-Windows処方箋のページはここでもよく紹介されています。そこで疑問に思ったのがFAQの読み方です。
手元には2種類のPC用語辞典しかないのですが、2種類が違う読み方をしています。「ファーク」と読む場合とあとは恥ずかしい読み方をする場合とです。正しい読み方はどちらなんでしょうか?

後者だとヤだな。

Aベストアンサー

Cid さん、こんばんは~☆♪

ASCIIのデジタル用語辞典では、『ファーク』・『エフ・エー・キュー 』と
なっておりますね。
私は、後者の『エフ・エー・キュー 』と読んでおります。

> とあとは恥ずかしい読み方をする場合とです。

『ファック』とは、読まないですよ。 ご安心を。。。

http://yougo.ascii24.com/gh/49/004900.html


ではでは☆~☆~☆

参考URL:http://yougo.ascii24.com/gh/49/004900.html

Q「安濃津」が何故「津」に?

以前から気になっているのですが、何故伊勢安濃津は単に「津」と呼ばれるようになったのでしょうか。
安濃津はかつて博多津・坊津と並んで「三津」と呼ばれるほど港として栄えていたものの、明応の大地震によって遠浅になってしまい衰退してしまったとか。そうすると近世以降は特に「津」といえば「安濃津」を連想するような感じでもなかったのではないかと思うのですが、どうして略した呼び方が定着したのでしょう。
またいつ頃から単に「津」と呼ばれだしたのかも気になります。藤堂家三十二万石の津藩もものによっては「安濃津藩」と書かれていますし、明治四年七月に「津藩」が「津県」となっているものの、その年の十一月に桑名・亀山・長島・菰野・神戸各県と合併した際には「安濃津県」と名付けられていて結局その辺りまでは併用されているような印象を受けます。
ご存知の方、お教え頂ければ幸いです。

Aベストアンサー

 実際のことは全く知りません。土地勘もありません。
 想像だけで申し上げます。
 安濃郡というのがかつてありましたように、安濃地方は内陸部まで含めた広い地域であったと思います。
 安濃津は安濃の津、安濃地方の津(湊)ということでしょう。
 『津』は固有名詞にはなりにくいものです。
 この地方以外の人々は安濃津と呼んでいましたが、近地の人々は面倒だから省略して単に『津』と呼んでいたのではないでしょうか。
 この地方周辺では『津』といえば、安濃津のことを指すのが当たり前になっており、『津』が固有名詞化し、津藩、津県、津市のもととなったような気がします。
 奈良県に大和高田市という町があります。昔は高田という町で、頭に大和と付いたのは、他県の高田という町や市と区別するためだと思います。近地の人は単に高田と呼ぶだけで、わざわざ大和高田とは呼んでいないのじゃないでしょうか。
 大阪和泉地方に泉佐野市という町がありますが、周辺の人は泉佐野の町へ行くときは『佐野へ行って来る』というだけで、泉は付けません。
 なお、NHKの時代劇『鍵屋ノ辻の決闘』で仲代達也扮する荒木又右衛門が『大和高田・・・・』という台詞を口にしていましたが、ヘンだと思いました。
 安濃地方は広い地方で、安濃の津はその一部、近地周辺の人々はワザワザ安濃津と呼ばず単に『津』と呼んでいた。「安濃の津」の町もだんだん大きく立派になっていったが、『津』という省略された呼称がそのまま定着してしまった、という風に想像しました。

 実際のことは全く知りません。土地勘もありません。
 想像だけで申し上げます。
 安濃郡というのがかつてありましたように、安濃地方は内陸部まで含めた広い地域であったと思います。
 安濃津は安濃の津、安濃地方の津(湊)ということでしょう。
 『津』は固有名詞にはなりにくいものです。
 この地方以外の人々は安濃津と呼んでいましたが、近地の人々は面倒だから省略して単に『津』と呼んでいたのではないでしょうか。
 この地方周辺では『津』といえば、安濃津のことを指すのが当たり前になっ...続きを読む

Q十の読み方について

十の読み方について学校の授業で以下のような問題が出たのですが、どう答えて良いのか分かりませんでした。。

問題は
「第十中学校」を省略して「十中」となるが、それぞれどのような読み方をするのか。なぜそのような読み方になるのか答えなさい。

読み方は分かるのですが、説明が上手くできません。
分かる方がいたら教えてください。

Aベストアンサー

No.5さんがいう、

『じゅう』は下にカ・サ・ハ・タ行の言葉にかかるとき、『じっ』または『じゅっ』に変わります

というのは、たとえばカ行の音である「こ(個)」に付くときは、「じゅっ・こ」、カ・サ・ハ・タ行以外の行であるマ行の「マ」から始まる「枚」に付くときは、「じゅう・まい」になる、というようなことですよね。

「十中」は「じゅっ・ちゅう」で拗音(ようおん)ではありますが、タ行の「ち」を含む音に続きます。

一方、「第十中学校」は「第十/中学校」と途中で少し切って発音しませんか。つまり「第十」の「十」は、そこで切れていて、タ行の音に付いていないのです。

 「十歳」は「じゅっさい(じっさい)」だけど、「二十三世紀」は「にじゅうさんせいき」というのも、どちらも後にサ行音の「さ」が来るけど、「二十三世紀」の方は、「二十/三世紀」という感じで発音しませんか。「二十三」だけの場合も、意識の上では「二十/三」という感じで「二十」でいったん切れていて、一気には発音しないんじゃないでしょうか。
 

Q明石藩の中の薩摩藩の飛び地

 明石藩の中に薩摩藩の飛び地があったと聞いた事があります。それは事実でしょうか?またあったとすれば、現在の明石市のどのあたりになるのでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代より前の豊臣政権下のことなので、
薩摩藩の飛び地というより、島津家の化粧領地ということですが、ありました。
 豊臣政権下で姫路城には豊臣一門の木下家定が入り、姫路周辺には太閤蔵入地と称される、伏見の秀吉直轄領の村が多数ありました。
 文禄の役の最中に秀吉は島津領の検地」を石田三成・細川幽斎を派遣して実行します。朝鮮にある島津義弘に対して秀吉は「虎狩り」を行なって後、伏見に赴くように命令しています。
 この文禄4年(1595)に伏見に於いて朱印状を与えられ島津大守の地位を保証されていますが、この時に秀吉は、姫路の太閤蔵入地のうちから庄屋井上惣兵衛茂一の管理する一郷村百町歩千石を島津義弘に与えたと伝えられます。伏見に置かれている島津家の京都人質(1587年の島津征伐後より、義久三女亀寿以下、北郷・伊集院・新納の実子など)の生活費用として使用するように秀吉が与えたものではないかと言われています。
 残念ながら大坂城陥落の際の火事で、多くの古文書が失われ、現在のどこかは、定かではないですが、関が原までは伏見の島津屋敷に年貢が、納められていたようです。なお井上惣兵衛茂一は、善政をしき伏見の島津家中にも親切に尽くしたので、義弘より、島津姓・家紋旗指し・脇差を、与えられたそうで、その子孫が島津製作所創設者・島津源蔵氏です。

 

江戸時代より前の豊臣政権下のことなので、
薩摩藩の飛び地というより、島津家の化粧領地ということですが、ありました。
 豊臣政権下で姫路城には豊臣一門の木下家定が入り、姫路周辺には太閤蔵入地と称される、伏見の秀吉直轄領の村が多数ありました。
 文禄の役の最中に秀吉は島津領の検地」を石田三成・細川幽斎を派遣して実行します。朝鮮にある島津義弘に対して秀吉は「虎狩り」を行なって後、伏見に赴くように命令しています。
 この文禄4年(1595)に伏見に於いて朱印状を与えられ島津大守の...続きを読む


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