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地方の藩で上士が何人くらいいるのか知りたいのですが。いろいろあると思いますので平均的なものでいいです。例えば10万石程度の藩ですと家老、中老、番頭、組頭、町奉行、郡奉行、勘定奉行は何人くらいいるのですか?

A 回答 (3件)

 「藩士」ですから、江戸時代のことと判断してお答えします。


 大名の家臣は、「軍役」より多い数が必要です。
 「軍役」とは、幕府から命じられたとき、出陣する軍隊としての人員、武装などをいいます。

 以下、「江戸幕府役職集成(増補版)」(笠間良彦著、雄山閣出版株式会社発行)から引用します(数字は全て漢数字でしたが、便宜上算用数字に改めました)。詳細は、大きめの図書館でその本を探して、お読みください。

 同書91ページ~
 五万石級
 軍役規定(※回答者注、同書448ページ参考資料文献の「慶安二年軍役規定表」のことと思われます。)では、馬上70騎、弓30張、鉄砲150挺、槍80本、旗10本。
 騎士70人(うち役人14人を除)、数弓30人、手替15人、小頭2人、鉄砲150人、手替50人、小頭6人、槍持80人、手替27人、小頭4人、旗指30人、宰領2人、侍40人、立弓2人、手筒2人、手替1人、長刀2人、甲冑持6人、馬印3人、宰領2人、小馬印3人、挟箱持4人、簑箱2人、茶弁当2人、坊主1人、雨具持2人、草履取1人、馬の口付6人、沓箱3人、手替3人、押足軽8人、箭箱4人、宰領1人、玉箱4人、宰領1人、56騎の口付56人、若党56人、槍持56人、具足持56人、手替28人、諸士の小者40人、長持2棹8人、宰領2人、家老1人、供人12人、用人2人、供人14人、旗奉行2人、供人14人、長柄奉行3人、供人21人、物頭6人、供人42人、小荷駄30疋30人の計1005人となる。
 平時ではたびたび述べるように、このように人員は使っておらぬから、女から小者まで含めて半分の500人位であろう。(引用終わり)

 10万石の軍役については書かれていませんでした。家臣の総数は、この引用から推し量ってください。

 また、同書84~88ページに信州高遠藩3万2千石の反省内容が書かれています。そこには、

 城代    高遠にいて家老が兼任した。
 家老    2人いて、江戸詰と高遠とにおり、以下略
 年寄    中略 他藩の家老に当たる。高遠に3人、江戸に2人。
 用人    中略 高遠に5人、江戸に2人おり、留守居役に当たる。
 この三役を重役又は重職といっている。

 藩経営の役としては、
 勘定奉行  (人数は書かれていません。)以下略
 以下略

 武官としては、
 城代組   高遠城守備の任にあるもので、城代を頭とし、城代番頭、小頭、目付に岐かれ、(人数は書かれていません。)以下略
 先手組   中略 12組に分けられ、物頭は高遠に8人、江戸に2人いる。以下略
 以下略

 藩内の百姓町民を治める役としては、
 郡代    藩内の民政を掌り、寺社奉行の職も兼ねている。
 代官    郡代に属して一郷を監理し、訴訟や貢祖を扱った。
 郷組    代官に従って、警察、収獄、貢祖を扱ったが、身分は足軽級である。
 以下略(引用終わり)

 これが平均的かどうか分かりかねます。各藩によって、職名、人員、俸禄などすべて変わると思います。
 だいたい10万石以上の大名というと、国主か準国主でしょうから、そんなにたくさんいませんでした。どれか一つご自分で選ばれて、その藩があった県の歴史書などを探されるとよいのではないかと思います。
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10万石とはいきませんが、天童藩二万三千石余の織田氏の天保年間初め頃の家臣団は、総勢で百人程でその内


家老 4人
用人 5人
大目付 2人
郡奉行 4人
が、上士と思えるが、用人の中には、17人扶持・10人扶持の人もいたようです。一概に役職だけで、上士とか下士とかいえないようです。特に江戸期末になると。
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もちろん藩によって違いますが一例として高崎藩(譜代)の天保時代の人数は


家老         4
年寄         2
番頭(上席、並含む) 5
物頭(**頭含む)  9
組頭         2
町奉行、郡奉行、勘定奉行という職は天保時代にはなし
ということです。
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Aベストアンサー

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
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この為米沢藩士の窮乏はひどく、藩財政の建て直しを図った上杉鷹山の事績は有名で、内職が特産になった位です。

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従って実数は半分以下位に下がっていたでしょう。
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勿論内実の裕福な藩や尚武の念の厚い藩などはこの限りではありません。
それぞれの藩の古文書などに頼るしかないと思います。

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
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Aベストアンサー

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Aベストアンサー

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どちらか一方だけでも結構ですので、回答のほどよろしくお願いします。

Aベストアンサー

直参はあくまでも「将軍直属の家臣」ですので、御三家でも御三卿でも家臣は「陪臣」です。
それらの家の当主は将軍の身内ではあっても、将軍ではありませんから。


>水戸藩士で馬廻り役の500石というと、藩内におけるランクはどれくらいになるのでしょうか?

かなり上ですよ。
まず、直参旗本と呼ばれる旗本でもその90%近くは500石未満です。
一口に侍と言っても、現在のサラリーマンのように給料(当時は米)を貰う「蔵米取り」と、領地を与えられる「知行取り」の2種類に分かれ、当然、領地を与えられる後者の「知行取り」の方が格上。
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水戸藩で500石以上の禄を貰っていたのは、家臣全体の中の上位15%前後(30人前後)に過ぎなかったはずです。
ただこの家臣全体と言っても記録に残っている、あるランク以上の家臣であり、下っ端の記録にも残らないような家臣もいますから、比率の少なさはもっと上がるかもしれません。

直参はあくまでも「将軍直属の家臣」ですので、御三家でも御三卿でも家臣は「陪臣」です。
それらの家の当主は将軍の身内ではあっても、将軍ではありませんから。


>水戸藩士で馬廻り役の500石というと、藩内におけるランクはどれくらいになるのでしょうか?

かなり上ですよ。
まず、直参旗本と呼ばれる旗本でもその90%近くは500石未満です。
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Aベストアンサー

>家光、綱吉のときには取り潰しなどが多かったはずですが、どうして増えたのでしょうか?

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当時は、次男坊・三男坊は「冷や飯食い」と揶揄されていました。

幕府が安定期に入ると、各藩は次男坊・三男坊を他家へ養子にする事に苦心します。3歳までの死亡率が(一般人に比べ)高かったので、そこそこ養子縁組先は多かったようです。

ところが、元禄期になると・・・。
養子縁組先も無くなります。
そこで、自分の米高から最低1万石を割いて「分藩」を行います。
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分藩すれば、本家に嫡男(世継)が居ない場合、分家から養子を迎える事が可能です。もともと一族ですから、安心ですよね。

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先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

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Aベストアンサー

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江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。


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