アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

名君とよばれた上杉鷹山の時代です。
米沢藩は、知行高は15万石で、家臣への給与は12万9500石だったそうです。
士族は3425家(明治維新時の数ですが)と多かったのですね。

質問は、15万石であったら、普通(ほぼ健全財政)の藩では、家臣への給与はいかほどであったのでしょうか?

A 回答 (5件)

> {上杉鷹山の時代です。

 米沢藩は、知行高は15万石で、家臣への給与は12万9500石だったそうです。}

そのような情報をどこから入手されましたか。 
米沢藩の状況について書かれた次のデータとは、だいぶ様相が違います。
http://shonan-kk.net/20171119pptx.pdf

たぶん、江戸時代の中期以降は、どこでも、知行で収支を言える状態にはなっていないのだろうと思います。
藩主にも、ご一門があったり、家臣というのはだれだ?ということもあるのだと思います。 藩主、ご一門、上級武士というのは、たぶん血縁者の数よりも多い就業人員を諸般の用向きに使用していて、給料は払わないにしても、現物給付だけでなく現金給付もしていたはずです。 城だけでなく江戸の藩邸や各種の催しもあるし、藩が出さないとならない支出は相当にあります。 藩が借り上げを恒常的にやっている状態ですから、藩の総収入も、藩の総支出も、統一基準のようなもので時系列で出したり、他藩の比較したりは難しいのではないでしょうか。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
紹介して頂いた加藤 国雄の資料とかなり相違がありますね。
資料によれば、目の子算ですが、知行が実質25万石、家臣数が6000家、年貢の取り分が2対8で5万石、家臣へ2万5千石ですね。
気になった点は
1.百姓と藩の取り分が8:2なのですね(わたしは一般に4:6から6:4くらいかな.と思っていました)
2.家臣1人当たり5石の報酬はやはり少ないのでしょうね。(百姓は1.75石ですが)
3.藩の正味の収入は、2万5千石で、不定期に発生する凶作や幕府への普請役などのせいで、つらかったのでしょうね。

お礼日時:2023/02/10 13:58

申し訳ないです。

 主題から遠く離れてしまいますが、米沢藩の鷹山の時代は、この地域の商業生産性(米も換金してこそ意味があるので商品価値でみる)ととても低いです。そしてもともと米生産のインフラも貧弱で、金肥もないという状況の中で、追い打ちで自然災害です。米の収量も少なく、換金コストも高い、この状況では農民の担税パワーはないでしょう。 
農民は死ぬか逃亡するかに追い込まれると、さらに米の生産は落ち込みます。米以外の商品生産をするし、年貢率?も最小にする、その上で、格式にこだわるのを止めて耐乏生活に生きるしか、それこそ、生きる道がなく、下級武士にも開墾と稲作などをさせざるを得なかったのではないかと、思います。

主題の《普通(ほぼ健全財政)の藩では、家臣への給与はいかほど》も、生きて行くのに食糧が必要で、下級の武士でも、貧農でも、事情は同じでしょう。 生きていけるのがやっとで、のんびりと生活出来る侍は上級のでしょう。 
家臣とはどこまでを言うのかも難しいところです。下記の仙台藩の家臣の構成(p4/25)をみても、凡下御扶持人層が多いです。こういう方々やそのご家族は食うや食わずでしょう。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc= …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%92%E5%A3%AB
https://www.city.sukumo.kochi.jp/sisi/057801.html
藩の経営が、諸藩の中ではかなり楽であっても、単純に、家臣の給与・俸給・扶持を問うことは難しいと思います。
「米沢藩は、知行高は15万石で、家臣への給」の回答画像5
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再三のご回答ありがとうございます。
<単純に、家臣の給与・俸給・扶持を問うことは難しい>は、正論でしょうね。
しかし、難しいからと言って曖昧に残しておくことはしておくことに、私は気がのりません。
不明瞭としても、全体の中の上杉藩の位置が知りたいのです。(たんに、上杉藩は苦しかった、だけではなく)
マラソンでいえば、何時間何分で走ったというより、何人中何番であったか。

お礼日時:2023/02/14 11:41

続投です。



② [家臣1人当たり]の[一人]というのは、家禄の単位の一家です。 の慰問の一家とは、一家とは、規模・人数の面で大きな違いがあります。 家臣にも、水呑百姓のように開墾と農作をさせられた多くの人もいるのですが、農民にはそうした零細者や、農家の農奴のような人もいたのです。 単純に割り算では比較出来ないです。
それと、1石というのは、現実的には米ではなく、金銭でやりとり評価されていると思った方が現実に即しています。

この資料のP36~37/340
http://www.yonezawa-yuuikai.org/pdf/contribution …

①米沢藩の実収入(俸給支払い後)
家臣への俸給支払い後の米沢藩の実収入は 3.6 万石、1 石=1 両として 3 万6000 両(現代価値 36 億円)となる。以後出てくる米沢藩の収入実績は、この値にかなり近い。
②藩士の収入
藩士の棒碌=3.6 万石(両)だから、家臣 6000 人として、
家臣 1 人あたり俸禄=3.6 万石/6000 人=6 石(両)/人
家臣1家族 5 人として(武士人口約 3 万人より)、
家族 1 人あたり=6 石/5 人=1.2 石/人
以上は平均値なので、1 石=1 人 1 年分の食糧と考えれば
下級武士は棒給だけでは生活維持は困難だった。
事実、下級武士のほとんどが半士半農だった。
また、1700 年半ばになると半知借上げが恒常化(実質棒給半減)したが、一
層困窮化したことになる。
③農民の収入
農民の収入=25 万石×70%=17.5 万石(両)。
農民人口 10 万人として農民 1 人あたり=16.8 万石/10 万人=1.68 石/人
農業再生産のコストもこの中から捻出することになるから、それらを差引い
たネット収入はさらに低い。
以後、1 年間の米沢藩実収入 3.6 万石、家臣俸禄 3.6 万石を目安として考察する。1石=1両とすれば、双方 3.6 万両だが、米沢藩は米安にあることを考慮する必要がある。
「米沢藩は、知行高は15万石で、家臣への給」の回答画像4
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再三の御回答ありがとござました。

お礼日時:2023/02/11 17:02

> 気になった点は


> ①.百姓と藩の取り分が8:2なのですね(わたしは一般に4:6から6:4くらいかな.と思っていました)
> ②.家臣1人当たり5石の報酬はやはり少ないのでしょうね。(百姓は1.75石ですが)
> ③.藩の正味の収入は、2万5千石で、不定期に発生する凶作や幕府への普請役などのせいで、つらかったのでしょうね。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
① [百姓と藩の取り分が8:2なのですね]
  私が回答にリンクした先の資料には、そのようなデータはないです。
  [一般に4:6から6:4くらいかな.]
  4公6民とか、5公5民とかの言い方は流布していますが、18世紀頃の事情は幕領でも違うようです。高校の歴史の資料にも載っているようです。
② [家臣1人当たり]の[一人]というのは、家禄の単位の一家です。 の慰問の一家とは、一家とは、規模・人数の面で大きな違いがあります。 家臣にも、水呑百姓のように開墾と農作をさせられた多くの人もいるのですが、農民にはそうした零細者や、農家の農奴のような人もいたのです。 単純に割り算では比較出来ないです。
それと、1石というのは、現実的には米ではなく、金銭でやりとり評価されていると思った方が現実に即しています。
③ [藩の正味の収入は、2万5千石で]
  私の回答にリンクした先の資料には、3万7500石と読み替えかのうな金額は載っていましたが、、、 また、《江戸藩邸支出:1700(元禄13)年2万5005両 ※1692年は2万両超》というのもありますが、、、
  辛いというよりは、借金だらけでまわらない状態になって、凶作も頻発し、人口も激減、家臣の俸給も激減

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
> (ほぼ健全財政)の藩では、家臣への給与はいかほどであったのでしょうか?

 家臣といっても、ピンからキリ、藩もたいていの藩は借金まみれです。 もう財政は破綻状態の藩がほとんどです。明治に版籍奉還で、借金帳消しとななれるので、大きな抵抗がなく藩がなくなったのです。
「米沢藩は、知行高は15万石で、家臣への給」の回答画像3
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございました。
”百姓と藩の取り分が8:2」については10%
加藤国男の表より採りました。
「内高の分配比率」
農民79% 藩士11% 藩10%

お礼日時:2023/02/11 17:00

米沢藩の石高15万石


これ藩としての税収でしょうか?

石高ってその領域での生産量の意味だと思ってますけど
つまり収穫量が15万石で仮に六公四民だとしても税収は9万石ほどかと
表高と実高には差があるということも有るんでしょうけど・・・・

それでも12万石を家臣へ給付したら赤字だと思うんですよね・・・・


で弘化元年の幕府勘定方資料を見ると
年貢米60万石強の収入に対して扶持米として55万石あまりを支出してます
年貢米に関しては、ほぼトントンと言っていいレベルで
幕府自体の運営は、運上金や米以外の収穫物や現金収入なんかで賄っていたようですね(鉱山とか、貨幣改鋳とか、)

そう考えると、仮に15万石の収入が有ったとすれば12万石ほどの扶持米給付は普通なのかもしれません
全体の8割という比率で言えば
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
まず、15万石の性格(収穫・税収)はわかりません。
幕府の例では、60万石と55万石。直接税以外が手助けをしていたのですね。
米沢藩の場合も、<普通なのかもしれません>ですね。

お礼日時:2023/02/06 16:29

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A