これ何て呼びますか

僕の友人には「神はいないし死後の世界もない」という考えの人が多いのですが、そんな人でも葬式に参加し初詣に行きます。
ですが葬式で死者を弔い「冥福を祈る」という行為は死後の世界を想定しているように思いますし、初詣などの神社への参詣は神を想定しているように思います。
では無神論者の方が葬式で数珠をかけて手を合わせるとき、神社で二礼二拍手一礼するとき、頭の中では何を考えているのでしょうか?
葬式や初詣などはあくまで文化的な行事であって、葬式で死者の死後の冥福は祈らないし、神社で頭を垂れて目を閉じても願い事はしないのでしょうか?
ぜひ無神論者を自負する方の考えを教えてください。

A 回答 (16件中1~10件)

私は無神論者と言う言い方はあまり好きではありません、野蛮人と同義と間違われるからなのですが。



その上であえて言いますが神という“実体”など存在する筈ないと思っていますし死後に自分の意識が存在するなど有ろう筈がないとも思っています。

>では無神論者の方が葬式で数珠をかけて手を合わせるとき、神社で二礼二拍手一礼するとき、頭の中では何を考えているのでしょうか?

遠縁の場合は身内の方々に対する思いやりからのパフォーマンス、身近な方の場合は過去を思い出し心の中で安らかにお眠りくださいと自分にけじめをつける為の儀式だと思っています。
神社では理屈抜きで軽い神頼みを行うとか自分への戒めとして今年は何々を頑張りますなどと自分に言い聞かせる事はよく行います。

簡単に言えば本能では神や死後の世界が有ると思っているのかも知れませんが文明人としての理性がそれを否定しその狭間で日常生活を送っている訳です。
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神はいませんし、人は死んだら無になるだけで仏は無いと思っています。




>葬式で数珠をかけて手を合わせるとき、神社で二礼二拍手一礼するとき、頭の中では何を
>考えているのでしょうか?

神や仏は自分の中に存在しています。
仏になった先祖を敬うことは、自分の思い出の中に生きる先祖を慈しみ、感謝することであり、神を敬い恐ることは全てのものに感謝し、自分を律して正しい道に導くことです。


>神社で頭を垂れて目を閉じても願い事はしないのでしょうか?

そもそも神社とは神に願い事をする所ではないと思っています。
私を生かしてくれている全てのものに感謝をする場所だと思っています。


ですから神社や仏象、墓石などというのは、ただイメージが出来ればどこだって、何だっていいのです。
葬式に行くのはそれが大イベントだからです。
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無神論者です、だと思います。



葬式ですが、単純に焼かれる前に一目見とく。数珠は正直良く意味分かってません・・・形式程度。
頭下げてる時は今までありがとう&おつかれさまって感じです。

初詣とかもイベントとして4/1や2/14や12/25とかと変わりません^^;

んで神社とかで祈る場面は神とかなんとかに祈ってなくてただ自分の願望を心の中で言ってるだけです^^;

>僕の友人には「神はいないし死後の世界もない」という考えの人が多いのですが

因みに私は神も死後の世界も人間がつけたものと思っていて結局在る無いの世界じゃなく、

《分からない》が私の答えです^^;

なので、分からないから怖い(気味悪い感じ?)時もありますが(幽霊的な^^;)

分からないモノに祈りませんし頼りません^^;
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結婚式と同じ儀式として参加しています。



作法にのっとり、敬意を表し、神前仏前では頭を下げて、卒業式みたいだなと思いながらやってます。
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神など存在しないと思ってます。



初詣は行きます。
お御籤という運試しのために・・・
&家族もいますしお祭りイベントとして

葬儀については
死後の冥福というより死は逃れられないモノという再認識。
その人と縁のあった人とお会いする機会だと思ってます。

なので
>頭の中では何を考えているのでしょうか?
>頭を垂れて目を閉じても願い事はしないのでしょうか?
まずしない。
祈る?としたら天や神ではなく人の意思に祈ります。願います。
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みんながそうするからです。



赤信号で止まり、青信号で動くのもみんながやるからです。
あなたは高校に何のために進学しましたか?
なにかを学びたい目的がありいくという人は日本では少ないと思います。

中卒で働くなんてあり得ない。
目的があり勉強したい訳じゃないけどニートも嫌だし親が許さないだろう。・・・
というレベルではなかったですか?
大学に行き、就職するため・・・という曖昧な将来のためというのもあるでしょうけど。


葬式に行くのは、仕方なくいく人も多いでしょう。
身内だから・・・、会社の同僚だから・・・、つきあいで・・・、自分の親だけど・・・
高齢で死んだ場合、80も過ぎればもう安泰ですよね。
それどころか、ようやく死んでくれて介護などから解放された。
という安心感もある人も多いでしょう。
死んで悲しむのは、我が子が幼く死んだ、病気や事故で突然死んだ・・・
などの場合が多いと思います。

私は宗教嫌いですが、葬式の時坊主がきます。
この坊主というのは適当に拝んで金を取ります。
うちもそうでしたが古くからの家、地主などだとお布施として100万単位で
持って行きます。平均は5万、10万だとか・・・平均を出すのもおかしいという団体もありますが
高い金を出さないと、良い戒名をもらえない。天国に行けないの?
という話になりませんか?

宗教は大昔、天気予報や医療がまだ発達していない時代にできました。
台風などの災害、日照りが続いたり、ましてや日食でも起きたりすれば知らない人は、恐れ、神様が怒っている。
と思っていたのでしょう。でも実際は違います。
江戸時代に携帯電話でもあったら神様扱いされると思いますよ。
遠いところで話ができ、写真や動画も撮れそれを再生できます。
当時の人ならびっくりするでしょう。
病気も現在の薬があれば、神社に祈ったりもせず昔より治療できます。




初詣も1つのイベント程度にしか思ってませんよ。
その良い例はクリスマスですよね。
キリストの誕生日。日本には関係ありませんし仏教などの本来の信者であれば異端者です。
創価信者の人はやらないとも聞きますが・・・

バレンタイン。
これも日本独特で女が男にチョコを渡す。
これは製菓メーカーがCMなどで洗脳したものです。
恵方巻きは寿司屋の陰謀でしょう。


このように1つのイベントを楽しむ。
葬式の場合は、こんなそうするから。
そういうもんなんだ・・・
結婚式も行きたくない人がいるように仕方なくいくからです。
香典はいくら入れたらいいんだろう?
えっまた葬式?今月出費が多くて・・・いかない人もいますし。



もし多くの人が前世や来世の記憶を持っていたりすれば全然違うんですけどね。
前世は●●だったとか、祈ったりこれを買えば治ります。
というのは悪徳商法にすぎません。

もし神秘的なものが存在するのであれば、時間も関係ないはずですし。
それが世界、ましてや日本、それどころか関東や北海道、沖縄でもやり方が違うのもおかしいですし。
または科学が進み、死後の世界が誰でも気軽に動画で見れたりすれば大きく変わると思います。
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初詣なんかは惰性ですから如何ともし難いですが葬式は神に冥福を賜る場ではなく、故人との別れを惜しんだり、安らかであるようにと願う場所であると認識します。



所謂靖国参拝問題のような、確かに神社に奉納してしまうのも軽率ではありますが、無神論者の死や神への概念は人を超越しませんから、あくまでも人。故人の安らぎを自己の範疇で願うだけのものであると思います。

ここに過敏に反応することそのものが無神論者からすれば大きな間違いで、例えば先に挙げた靖国なんかを見れば明らかですよね。

気に食わない人は神の視点から見ていて、無神論者は人の視点から見ている訳です。

亡くなった方への自分の気持ちや配慮を大切なものとしてとらえているだけであって、神様云々は二の次三の次。

私自身が心底無神論者かというとそうでもないかも知れないのですが。。。
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私は無神論者かどうか自分でもよくわかりませんが...



葬式については死後の世界を想定している訳ではありません。
身内や親しい人の場合は、その人に対する思い入れです。そうでない場合は、つき合いですね。
葬式や通夜に参列したからといって、亡くなった方が極楽に行くとかそんなふうには思っていません。

初詣等も神様がいて願い事をかなえてくれると嬉しいですが、そんな事はありえないのは分かっています。
自分の目標を明確にしたり努力する事を決意するためです。

多分どちらも自己満足のためだと思います。
でも本当に神様や仏様がいて願い事をかなえてくれたりすると嬉しいですね。
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> 無神論者の方が葬式で数珠をかけて手を合わせるとき、神社で二礼二拍手一礼するとき、頭の中では何を考えているのでしょうか?



無神論者であり、同時に、社会常識や社会生活に必要な儀礼・儀式を尊重している者です。

お葬式に参列し遺影に手を合わたり(数珠は繰りませんが)お焼香をする時には、心の中で故人に語りかけ、お別れを述べています。
「冥福を祈る」ことはしますが、死後の世界を信じているわけではありません。
ただし故人や遺族に敬意を払って、その場の宗教的儀礼には従います。

お葬式という儀式は、亡くなった人を悼む場であるとともに、遺族はじめこれから生きていく人(自分も含め)のためにケジメをつける儀式であると考えています。

初詣には近所の神社に行きますが、これは神主さんはじめ町内の知人と会えて新年の挨拶ができるという利点があります。
一年の計は元旦にありということで、さわやかな気分の中で柏手を打って、この1年の目標や決意を自分に言い聞かせ気合いを入れています。
カミサマに「お願いしま~す」と思っているわけではありません。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまってすみません。
非常に理性的な考え方で、素晴らしいと思います。
現代において宗教はもはや必要ないと考える人は少なからずいると思いますが、
宗教や宗教儀礼を攻撃的に否定する反宗教主義的な立場をとるのではなく、
儀礼・儀式の機能に注目し尊重する姿勢は非常に重要だと思います。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/17 15:19

自分の心と対話しています。



家族全員が出かけていても家に帰れば「ただいま」と言ってしまう。

家の中で神様や仏様が待っているとは思っていませんが。

有心論者です。(^^)v
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまってすみません。
有心論者、いい言葉ですね。
生きていく上で大切なのは神様と自分の関係ではなく、
あくまで自分自身の心とどう向き合っていくか、ということなのかもしれませんね。
御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/15 00:25

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