『L・DK』上白石萌音&杉野遥亮インタビュー!

昨日、ここで煩悩について聞いた者です。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6974398.html

煩悩の定義についてはNo3でお聞きいたしました。
そこで煩悩についてもう少し整理してみたいと思いました。

煩悩といえば直ぐに思い浮かべるのが性的なことです。
しかし、子作りのSEXなどは正常な営みといえます。
よって、現状はこれは煩悩ではないと考えています。
 
それ以外の健全な性行為は煩悩でないのでしょうか。
例えば次の2つが挙げられます。
1 アイドルなどに入れ込みブロマイドなどを集める
2 自慰行為をする

あるいは、これが日常生活(智慧の1つでいいのでしょうか)を
妨げるようになると煩悩になるでいいのでしょうか。

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A 回答 (15件中1~10件)

「自分さえ」満足に至れば結果オーライとする?煩悩は


いうなれば「虚無存在に対する不安」を紛らわせるもの。
煩悩の対極は「人気者」になって い る こと。

出世は「共生関係」を構築し培うこと。
難しく考えなくても、男なら女を、女なら男を喜ばせれば健全ですしいいことで。

それがわからないなら独立精神とか自立心とか自己探求しなきゃならなくなります。
「滅却」の方法は身内、親族に冷たく、
あかの他人(窮したとき助けてもらえる期待もなく)等しく優しくなりましょう。

正義にしろ、性的なことでも追求し出すと、もうどんなものでも汚く見えてきてしまうもので、
より善さを探求しだすと自然とそういう理論に当てはまっていくのです。
釈尊(ブッダ)はアレ(息子さん)も切り取ってしまわれ、
物質的な男という囚われだって捨てました。生活の智慧の一つ?

私は感心しないですけどもね。

この回答への補足

色々と新しい発見をさせて頂き、
ベストアンサーを挙げたい人が大勢いるのですが、
今回は4回もお世話になったmiko-desiさんに致します。

仏道はもとより、もっと色々と勉強せねばなりません。
またの機会があればお願いします。

補足日時:2011/09/04 16:57
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この回答へのお礼

度々のご指導あり難うございます。
やっと仰っていることが理解できましたが、
その内容は凡人ではまだまだ理解が足りないようです。
 
自己探索の滅却とは親族に冷たく、
あかの他人に優しくですか。
これについては別の機会に質問してみたいと思います。

お礼日時:2011/09/04 16:47

そうですね、あまり煩悩という言葉にとらわれすぎないほうがいいと思います。



SEXは自慰行為は自然なことで、普通にやりたい時にやればいいと思います。

あと、アイドルのブロマイドも好きならば気が済むまで集めればいいと思います。

ただ何でもやりすぎると、普段の生活に支障がでてきますよね。

質問者様のおっしゃるように、日常生活を妨げるようになると煩悩と定義付けて
いいのではないでしょうか。

煩わしく悩ませるようなくらいなら、いっそのことSEXでも自慰でもしてスッキリ
したほうがよくて、変に我慢すると余計に反動がきますよ。

ただ性エネルギーは、単にSEXや自慰行為だけに使うのではありませんから、そこは
ご自分で検証されてもいいかもしれません。

例えば、私はSEXや自慰行為をせず、100日間かそれ以上の禁欲をよく行いますが、
性エネルギーは体に蓄えられ、すごく若返り、頭も冴え、女性にモテる様になります。

性エネルギーの活用方法はいろいろとありますので、射精ばかりではなく、他にどんな
効果があるのかご自分で検証されてもおもしろいですね。

こういう禁欲の目的をもったときに、「あ~でもやりてえなあ」となってくるのが煩悩だ
と私は定義づけています。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。
他の方の返信でも述べている通り、
本題は煩悩であり、性的なことは題目に過ぎません。
 
とはいえ、性エネルギーが体に蓄えられるとは
全く新しい見解で興味がひかれます。
少し調べてみましたが、別の用法があるらしいですね。
これは瓢箪からコマでした。

日常生活に支障をきたす、または禁欲の目的を持った時に
現れてくるのが煩悩ということには同感です。

お礼日時:2011/09/04 16:52

>>出世よりも優先する夢があるなら


>>修行して知恵を肥大化させ、
>>性欲も自己顕示欲という煩悩をも滅却するが宜しかろう

>これの意味するところが凡人では理解できません。



恋愛感情の目的は種族保存と自己保存という本能の延長線にある大事なので
男性は女性を、
女性は男性を意識するように本能にプログラムされている。
しかしながら、本能より理論より現実は優位だから本能を拒む精神性を実現することも可。
いろんな人が居てしまいます。

本来異性の体と情を欲して行為に及ぶこと(目的)は原初的にして健康的なもの。
男性なら男性社会においてもセックスアピールのあることは優位であった。

大概の人間の行動理由、目的は主に「種族保存」と「個体維持」と、趣味などの「癒し」に分類できます。

女性に関心や加護を受けたい以外の目的で出世を望む男性、というと自分さえもわかってないのですから
「自己探求」を趣味や癒しにして目的にする必要がおのずと出てくるのでしょう。という意味です。
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この回答へのお礼

たびたびご回答すみません。
本文の主旨はだいたい分かったのですが、
No5の返信で書いた内容とどう結びつくのか
未だにさっぱりと分からない状態です。

自己探求を趣味や癒しにして、
性欲も自己顕示欲という煩悩をも滅却する
という解釈でよろしいのでしょうか?

お礼日時:2011/08/31 22:58

性欲も性行為も煩悩ではないですか。


ごく自然に煩悩という捉え方でいいと思いますが。
諸欲の煩悩に振り回されて、悶え苦しんで・・・
それが人間ではないでしょうか。

昔、今東光さんが若者から相談を受けたことがあったそうです。
どうしても自慰がやめられない・・・どうすればいいのか?
答えは、すこぶる振るったものでした。
じゃんじゃんかけ。。。
かきすぎて、少しボケるかもしれんが、脳味噌は腐らないから大丈夫だ。。。

という、煩悩を飲み込んでしまったような答えだったわけですが
人殺し以外は何でもやったという、今東光さんならではの答えだったように思います。
なぜ?そう言い切れたのでしょうか。
そこには、人間丸ごと包みこむような大きな心があったように思います。
人間の本能愛の本質を凝視する深い智慧に裏付けされた、慈悲心に満ちた言葉であった、とも解釈できます。

煩悩があっていいんじゃないでしょうか・・・
人間ですから・・・
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。
確かに凡人には悶え苦しむのが煩悩のように思います。

然るに快楽は煩悩ではないのか。
いえいえ、ここできっぱりと否定され導かれました。
 
今東光さんがどれ程凄い方なのか私では分かりませんが、
性欲を欲望の赴くがままにしておくのは問題だと思います。
miko-desiさんが仰る滅却が宜しいかと思います。

凡人の考えなので気に障ったら忘れて下さい。

お礼日時:2011/08/31 22:42

前回のご質問でもお邪魔したものです。


貴ご質問は、なかなか分かりにくいです。
私の解釈では
どうも質問の芯がないように思えます。

今私がとりあえず理解しているのは、前回を通じて

煩悩とは何か?と問うておられることですね。

そのなかで、A・趣味の技能が上達しない悩みは煩悩なのか?
B・性欲は煩悩なのか?
と、次々に問いを発しておられるということなのかと思わせていただきました。

AもBも煩悩です。

煩悩の定義はもくぞさまがされておられますから繰り返しませんが、仏教用語ですね。


それで、質問者様は補足でご自分の立ち位置を明確にせねばならないと思います。

私の感じでは、質問者様は、未来へ向かって何らかの目標をたてておられ、
それを邪魔するものを「煩悩」と考えておられるのかと。

それは正解だろうと思います。
性欲も、趣味も、子供たちへの執着も、美味なものを食いたいと言うことも皆煩悩だと思います。

回答になっているでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。
自分の立ち位置ですか。少々難しいですが、
Mokuzouさんの仰る涅槃静寂を
求めているというのが本音だと思います。

しかし、生きていかなければならない以上、
人生の目標みたいなものが欲しい、
あるいは自分の過去を振り返ってどうなのか、
そもそも私は魂みたいなものは理解しているのか、
色々と疑問点が有りすぎて整理のつかない状態です。

多分、私と同じような状態の方は多くいると思います。
取り敢えず、知っている方にお聞きして
少しずつ理解を深めていくしかありません。

そういう意味でMokuzouさんは私の知りたいことを
平易に教えてくれるので有り難いお方です。

お礼日時:2011/08/31 14:14

No.8ですが、再回答させていただきます。



>これは哲学の手順に沿った回答でしょうか。

いや、質問者さんが「性行為は煩悩なのか」と問うている以上、また、古来、人々が性欲を「煩悩」と受け止めてきたのが事実である以上、私としては、まず「なぜ人間は性欲を煩悩として忌避したり、罪悪視したりしてきたのか? その理由は何か?」について明らかにしておく必要があると判断したのですが、質問者さんはそんなことは不要とおっしゃりたいのでしょうか?

>あまり論理的な回答は望んでおりません。

ここは、おっしゃりたいことがよく理解できませんでした。
まさか、しかるべき根拠の裏付けのない回答をお望みということではないですよね?
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。
性行為は本タイトルでつけましたが、あくまで副題です。
本題は煩悩の意味についてです。
 
少し話が変な方向に向いてきているので、これで失礼します。
気分を害されたら済みません。

お礼日時:2011/08/31 22:36

No.5です。



恋愛感情は集団欲の一形態に過ぎず、性欲には群れの欲求がありません。

愛とか正義とかいう言葉が脳裏に浮かぶ時には先行して
「好ましい」とか「善い」自分の姿を客観視している自分が居て
恋愛していることを確認し気付ける。

群れない種には種の安全を確保するために大人の振る舞いをする必要もなく
盲目の本能は執拗に命じるだけで経験を必要にしておらず、
その後の責任を負ったり、犠牲を覚悟の上でもなく実行を迫ります。

趣味などは命じられて行為するものでも、
止めてはいけないものでもなくもっと自由ですよね。

盲目の本能は無目的に行為を命じ。
煩悩は自由を制御し小賢しく立ち回る経験を求める。と違いがあります。
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この回答へのお礼

再度のご回答有り難うございます。
これまた分かるようでいて分からない、
難解な文章になっています。
 
本能と煩悩の違いは何となく分かりましたが、

>出世よりも優先する夢があるなら
>修行して知恵を肥大化させ、
>性欲も自己顕示欲という煩悩をも滅却するが宜しかろう

これの意味するところが凡人では理解できません。
滅却に関してはMokuzouさんのお言葉通りと理解しています。

お礼日時:2011/08/31 03:23

>煩悩といえば直ぐに思い浮かべるのが性的なことです。



確かに、無数の「煩悩」中、昔から今に至るまで、性欲がその代表格として冷遇されてきたのは間違いない事実だと思います。

となると、古来、性欲がかくも冷遇されてきた、しかるべき理由があったはずと考えるしかないわけで、まずはその理由が何だったかについて考えてみませんか。
その検証をしないで、世俗的な一般通念や常識に依拠しながら、

>しかし、子作りのSEXなどは正常な営みといえます。
>よって、現状はこれは煩悩ではないと考えています。

とおっしゃったところで、あまりにも恣意的すぎるとの批判は免れませんから。

思うに、「性欲=煩悩」という考えが生まれた時期と人類がはじめて「セックスと女性の妊娠との因果関係」に気づいた時期とはさほど違わなかったのではないでしょうか。
なぜなら、われわれの遠い祖先が、男性の性欲を野放しにしておくと、妊娠した女性及びその女性の産んだ子が野垂れ死にする可能性が高いことに気づいたとき、はじめて自分たちの性欲の罪深さを痛感し、これを罪悪視しないではいられなかったと考えるしかないからです。
こうして、「性欲=煩悩」という分別が人類の脳裏に棲み始めたのではないでしょうか。

なお、女性はさておき、男性が「わが子」を可愛がるようになったのは、私有財産という観念が生まれ、その相続人として、自分の血を分けた「わが子」を欲しがるようになってから以降のことでしょうね。
もちろん、これは死の観念の発生とも密接にリンクしていると思われますが。

ということで、質問者さんの脳裏に棲息する「性欲=煩悩」という判断にしても、性・セックスをめぐる倫理規範、道徳律、法的規制等々の成因にしても、人類の「セックスと女性の妊娠との因果関係」の発見以前に遡って説明することはできないと思います。

なお、アイドルのブロマイドを収集することや自慰行為の是非についても、以上を参考になさった上でご判断いただきたいところです。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。
これは哲学の手順に沿った回答でしょうか。
 
哲学のカテである以上仕方がないかもしれませんが、
あまり論理的な回答は望んでおりません。

気分を害されましたら済みません。

お礼日時:2011/08/31 02:57

#3です。



>しかし、ポルノでもない限り心身は乱されません。

本当ですか? この点を見極めないとイケないですね。

神道や道教や儒教や○○教などなど他宗教と異なる仏教の特徴は、三つの基本的な考えで表わされます。

諸行無常
諸法無我
涅槃寂静

このうち、三つ目の涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)とはなんでしょうか。

涅槃寂静とは、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるという意味です。

凡夫が修行して、仏になる(成仏)には、寂静を手に入れなければいけません。
いつでも、どこでも、寂静を自由に手に入れられるよう、禅の修行をします。

修行を積んだ人間が禅を組むと、脳波は4~7ヘルツのゆっくりしたシーター波を出す状態になります。
凡夫では、シーター波は眠りに就くときに短時間発生が観測されるだけですが、禅の修行を積んだひとは何時でも、この境地に入ることができます。

これが「煩悩の炎の吹き消された悟りの世界」に入る条件ですね。

さて、一般の映画で大爆発が起きたり、人の悲鳴が聞こえたら、この寂静の境地をたもてるでしょうか? シーター波がみだれて、アルファー波やベーター波が出てしまうことはないのでしょうか?
よほど修行を積んだ高僧であれば、「目の前で親が殺されてもシーター波の乱れがない」と例えれら得るほど、煩悩を遮断することができるようですが、凡夫はそうはいきません。
すべての映画や音楽や、スポーツ観戦などは、アドレナリンを出し、脳が興奮するから楽しいのです。
セックスも麻薬も同じでしょう。

「教祖様に直接会えて、握手できたので感激する」宗教もあるでしょうが、仏教はそのような感激を否定しています。
これが涅槃寂静なんですね。

質問者さんも普通の人間なら映画や音楽で感動してしまうレベルでしょう?
「あの感動をもう一度」ってのは煩悩です。

その煩悩の炎の吹き消された悟りの世界を求めるのですから、仏教っちゅうのは世にも珍しい宗教ですね。
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この回答へのお礼

Mokuzou100nennさん、再度のご回答有り難うございます。
確かに私は凡人であり、平常心を常に保つのは難しいです。

しかし、涅槃静寂の意味合いは何となく理解できます。
白一面の銀世界とかイメージもできます。

でも理解できる積もりでいても、なかなか奥が深い。
煩悩1つ取ってもこれだけ右往左往です。

お礼日時:2011/08/31 02:55

性行為自体はただの行為ですよ。


煩悩は精神的なものですから性行為(それだけに限らず)に執着する心の働きこそが煩悩です。
性欲は人間の脳に備わっている機能ですが、それに執着せず、拒まず、時と場合に応じて無理なく制御できるようになることこそ、煩悩としての性欲がなくなったと言えるのかなと思いますね。
執着しない。執着しないことにも執着しない。それこそが悟りのような気がします。
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この回答へのお礼

執着しないことにも執着しない。
まさしくその通りだと思います。
やっと執着しないことには慣れてきましたが、
本当にこのままでいいのかと迷った時もあります。

ご回答有り難うございました。

お礼日時:2011/08/30 00:11

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辞書で調べても難しくて理解できません。
具体的に、わかりやすく教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
 
  煩悩とは、わずらわしく、悩みになることだ、ということになります。しかし、そんなに煩わしく悩む、困ったことなのかというと、日常の用法では、ちょっとニュアンスが違います。ここは、仏教のお坊様に出てもらって、具体的な使い方の説明をしましょう。
 
  仏教では、覚りを開くため、修行する人が、元々「坊様」だった訳です。従って、元の仏教の「戒め」では、修行者は、例えば女性となれなれしく口をきいてはならないとか、女性の姿もまともに見てはならないなどとなっていました。女性の美しさなどは、「迷い」の元だというのです。
 
  しかし、坊様がすべてそうではないでしょうが、すけべな坊様もいる訳で、道で通りがかりの、和服の美人を見て、ほわ、と口を開けて見とれ、なんちゅう、綺麗なべっぴんさんや、いや目の毒じゃ、これも「煩悩、煩悩」などと云いながら、女性の後ろ姿を見送ったりします。別に和服でなく、洋装でも構わないのです。また、坊様も、そんな女を見るとすぐ見とれるような人は珍しいでしょうが、やはり、坊様も男ですから、美人と道ですれ違うと、ふと、心が動くこともあるのです。
 
  あるいは、仏教では、イスラム教と同様、精神の安定や、日常の心の状態を興奮させたり、おかしくする飲み物などは禁じています。例えば、麻薬などは無論駄目ですし、煙草やお酒も駄目なはずです。しかし、日本の坊様は、何時頃からか、「般若湯(はんにゃとう)」と称して、酒を店で買って飲んでいたりします。坊様が、良い酒を味わいながら飲みつつ、何という味わい、この酔い心地、さすがに銘酒は違う。極楽じゃ。しかし、考えてみれば、これも「煩悩、煩悩……仏様よ、お許しあれ、南無阿弥陀仏、いやもう一杯、何ともうまい」などと云っていると、どこが、煩い、悩みの煩悩か分からないでしょう。
 
  また仏教では、生き物のいのちを大切にせよと教え、殺生を禁じ、従って、動物の肉は無論、鳥の肉も、魚も食べてはならないことになっているのですが、それも何のことかです。酒のさかなに、コイのあらいを食べつつ、いい気分になって来て、坊様が、いや、浮き世もまた楽しいぞよ、酒はうまいし、ねえちゃんは綺麗だ……などと歌っていると、「生臭坊主」ということになるのですが、以上は極端に戯画化しているので、日本では、昔から、坊様が、妻帯し、子供がおり、酒は飲み、魚も食べ、それで別に社会から糾弾などされていません。
 
  大酒を飲み、酔っぱらって、寺の本堂で乱交パーティを開くような坊様は、それは別に坊様でなくとも、普通の人でも社会から糾弾されます。
 
  仏教の坊様にとっては、女性と触れたり、メイクラヴすること、酒を飲んだり魚を食べたりすることは、仏教の教えに反することで、こういう「欲望」を、修行の妨げになる「煩悩」と呼ぶのですが、煩悩というのは、多くの坊様の日常生活から云うと、自然なことのようです。
 
  もう一つ、坊様ではありませんが、一般に、「子煩悩」という言葉があります。これは、別に、子供が煩わしく悩みの種で、何かの邪魔になるのかと云えば、そうではなく、子供が可愛く、何時も子供のことを考え、細かいことにも、子どものためにと、あれこれ気も身も使う親のことを、こう呼びます。別に、子どもが、何かの「妨げ」になっているのではないのです。親にしてみれば、ふと、思うと、「ああ、おれは、何と子どものことばかり思っているのか。これも煩悩か」などとなります。
 
  「煩悩」というのは、仏教の教えとか、人間の生き方はいかにあるか、などということの前では、何か安楽な、気持ちよい、楽しい方にばかり気が向くようで、困ったことだという考えもある他方、「自然な欲求」「自然な望みのおもむく方向」であって、煩悩だが、しかし、これもまた良しなどというものです。
 
  これは、仏教の教義として、煩悩に迷う人の姿こそ、すなわち、仏の姿に他ならないという考えもあるのです。
 
  煙草をやめないと、肺ガン確実と云われていて、それでも吸いたいという人の場合、煩悩とは云いません。また、大学受験中なのに、異性のことに意識が向いて勉強に集中できない高校生も、それを煩悩とは云いません。(ただし、高校生の親が、寺の住職だったりして、子どもに、そんな煩悩は振り払え、と説教するかも知れません)。
 
  煩悩というのは、本来の仏教の教えでは、たいへん厳しい、覚りの道にあって、克服せねばならない誘惑や欲望だったのですが、「煩悩すなわち仏」というような考えは、人間は自然に振るまい、自然に生きるのがやはり一番であるという考え方でしょう。
 
  肺ガン寸前の喫煙者や、受験勉強に必死な高校生にとっては、喫煙や、恋愛は、自然のままを楽しもうなどということではないのです。
 
  人間は、欲望が強すぎると、色々不都合なことが起こることが、或る程度分かっているともいえます。分からない人、自制がきかない人は、酒に溺れて身を滅ぼすとか、守銭奴になって、世人の顰蹙を買うなどとなり、そういう人自身は、煩悩も何もないでしょう。しかし、そういう人を横目で見ていると、酒を飲み、恋愛をし、ギャンブルで小銭を失い、自堕落な生活を少々しても、歯止めがかかっていて、ああ、これが煩悩というものか……で片が付きます。
 
  「わかっちゃいるけどやめられない」というのは、確か古い歌の言葉ですが、そういう心境の「分かっている」のが、煩悩だと分かっているということで、度を超さなければ、やめる必要もない訳です。本格的な修行をしている坊様にとっては、厳しいことでまた別ですが、普通には、煩悩はまた楽しいことなのです。本来しない方がよい、というのをするのは何とも楽しいことなのでしょう。
 
  世界中の文化がそうだとは分かりませんが、日本は、煩悩を楽しむ文化です。
 

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
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Q仏教は「性欲」及び「恋愛欲」という煩悩をどうとらえているのか?

仏教の教えによれば、(簡単に言うと)「全ての苦しみは煩悩から来るものだ。だから修行をして煩悩をなくせ」ということになりますよね。

ですが、性欲は簡単に「処理」をすることができても「恋愛欲」については「処理」をすることも「なくす」こともなかなか難しいことだと思います。

私は一般人であり、修行僧でも何でもありませんので、山にこもって恋愛欲をなくそうとするつもりは(少なくとも今は)ありません。

ですが、この恋愛欲によって現に今、私は苦しんでいます。「大切な人」がおらず、孤独であることに苦痛を覚えています。

この解決方法として仏教はどのように答えてくれるのでしょう?

仏教にこだわらなくてもいいかもしれません。他の宗教や哲学・思想・学問等によってこの苦しみが癒されるのであればそれもいいと思います。

思想系に詳しいお方のアドバイスを頂ければと思います。どうぞよろしくお願い致します。

Aベストアンサー

  性欲や戀愛感情は生命體としての基本的な欲求の一つですが、欲求そのものは、否定すべくも無いものです。色々な欲求に囚はれて苦しむことで「煩惱」となります。「自分には大切な人がゐない。大切な人と出逢ひたい。作りたい」などの欲求が心を亂し、囚はれるならば、日々の生活は狂おしいものになりかねません。
  自分から「大切な人を欲しい」と求めるのではなく、すぐ近くにゐる人の中に、「すばらしいところ。大切にしたいところ」を見出してみるのは如何でせう。自分の行爲、行動を意識的にして、周りの人から、大切に思はれる自分になれるやうに努めてみるのはどうでせう。
  この世の中は、關係の密度は異なるにしても、互ひに繋がりを持つてゐます。絶對的な孤獨といふことは許されてもゐません。そのやうな世界、あなたの周りに展開している世界を大切にし、あなたの周りにゐる人を大切にすることで、あなたの周りには「大切な人」が澤山出來ることでせう。
  まづ、朝、少し早めに起きることです。玄關前を掃除して、ついでに隣の家の前も掃除したら如何でせう。一年間續けると、お隣さんが、あなたにとつて大切な人に見えてくることでせう。毎日、顔を合はせる見知らぬ人に、挨拶をしてみませんか。毎日すれ違ふだけの人が、あなたにとつて大切な人に見えてくることでせう。
  「煩惱を無くす」などとは考へないことです。「煩惱も人生の調味料だ」くらひの考へで、「煩惱に囚はれない」ことを心がけませう。

  性欲や戀愛感情は生命體としての基本的な欲求の一つですが、欲求そのものは、否定すべくも無いものです。色々な欲求に囚はれて苦しむことで「煩惱」となります。「自分には大切な人がゐない。大切な人と出逢ひたい。作りたい」などの欲求が心を亂し、囚はれるならば、日々の生活は狂おしいものになりかねません。
  自分から「大切な人を欲しい」と求めるのではなく、すぐ近くにゐる人の中に、「すばらしいところ。大切にしたいところ」を見出してみるのは如何でせう。自分の行爲、行動を意識的にして、周...続きを読む


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