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マンデラ氏やキング牧師の唱える非暴力は偽善ではないですか?

両者の言い分を聞いていると「力で戦っても強い連中(白人)には勝てないから服従しようぜ」と言っているように聞こえますね。苦しんだ黒人達の怒りや無念さを踏みにじるような言い分には反吐が出ますね。ハッキリ言って「過去何百年と苦しんだ黒人達の無念をそんな言葉で終わらせる気か!?」って言いたいですよ。


人間がそんな簡単に恨みを忘れられるようなら黒人達は奴隷になっていないのでは?
被害者である黒人ばかりが苦しみ、加害者の白人には全くのお咎めなし。理不尽の極みとしか
言いようがない。白人に何の罰も咎めもないのなら過去に白人に虐殺され、殺された黒人の人達は
一体何なのでしょうか?殺された人達は白人に何の恨みも怒りも抱かずに死んだのですか?黒人のことを思うのなら白人を何の罪にも問わないというのはあまりにおかしい。現在パレスチナに住んでいる人達に対しても非暴力なんて言葉が言えるんでしょうか?家族が目の前で殺されても抵抗しないと言うのは残酷な卑怯者の行為ではないのですか?非暴力なんて相手をつけ上がらせるだけなのでは?

結局白人が怖いから戦いたくないと言っているのと同じでしょ?過去に残虐極まりない行いをした白人共はお咎めなし?祖先達を虐殺した白人達を迎合するなど先祖に対する冒涜を極めているとしか。

両者は白人に対する怒りすらも忘れてしまったのですね。

A 回答 (7件)

非暴力不服従、、、キング牧師、マンデラ氏、


そうそうガンジーもそうでしたね。

彼らは夢を語っているだけだとか、理想主義者だとか、
腰抜けだとか、偽善者だとか、随分非難されていました。

だけど人間って大なり小なり偽善の中で生きています。
他人の偽善を非難することはできません。

偽善かもしれないが、とにかく彼らの活動は支持を集め
大きなウネリとなって、ついには結果を出したわけです。

並の人間にできることではないでしょうね。

「大悪は大善、、、、」といいますから
偽善もそこまで貫き通せば、
偽善とは呼べないような気がします。
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 非暴力 不服従の考えはまったく意味合いが違いますし、このまま争っていても前に進む事が出来ないからこそ、過去を忘れようと考えたのです。



 また他の方が戦わないからアフリカ人は奴隷にされたと有りましたが違います。
 初期の頃の抵抗はかなり激しかったですし、戦争状態になった事も多々有りましたが鉄の鎧やクロスボウ、銃や大砲を装備し騎乗した兵士を相手にアフリカの軍事力では歯が立たなかったのです。
 また、アフリカ人の部族間のいさかいを利用して黒人奴隷集めていました、ホテルルワンダと言う映画が有りますが、そこに書かれているツチ族とフツ族の奴隷時代の争い(平和的で人種差別と無縁のような国のベルギーが問題の根幹)が現在にも残っていると言うものです。
 過去の人種分別政策により80万人が虐殺されたと言われる、ルワンダ紛争も今は過去を忘れて手を携えて前進しようとしています。

 それ以前に奴隷として過ごしたり、激しい人種差別を受けていない人がそんな事を言う権利は有りません。
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権利獲得運動における非暴力主義というのは


それが戦略を持って運営される限りにおいて、
現代社会では純粋な『社会的攻撃手段』となるのです。


暴力という能力を持たない側が持つ側へ攻撃し、勝利するにはどうすべきか。
対等な暴力を得ることが出来るのならば、それは確かに一つの手段となりますが、
そもそも暴力というのは簡単に手に入る力ではありません。
だからこそ覆しがたいのです。

時間をかけては被害の拡大を防ぐことができませんよね。
そこで、より効率的な方法として『対抗する組織の存在根拠に対する攻撃』
が有効な手段のひとつとなるのです。



まず対象を分析します。
例えば公民権を認めていなかった近代国家を対象とした場合、彼らはその正当性を
如何にして認められていたのかを考えるのです。彼らは何故、徴税をして、
それによって暴力を持ちえるのか。結局のところ、近代国家を成立させていた論理は
『一旦国家に力を集約し、その力で参加者を守る』という一点(社会契約)に尽きるのです。

ここでもし、一部の人間が振るう暴力を国家が見逃したらどうなるか。
国家は存在の根拠を失い、徴税する権利を失い、最終的には暴力を維持することが
できなくなるのです。


もちろん、自分の関与していないところで行われていても、大勢には影響しないでしょう。
そこで、『国家が暴力を見逃している』という情報を流布します。

それを聞いた人間にとって、さしあたって対象は自分以外ではあるわけですが、
国家が暴力を見逃しうる(あるいは積極的に暴力を振るっている)様を見せ付けられれば
どう考えるでしょうか。

元来、他人の集団に対してそこまでの帰属意識は持ち得ないわけですから、
自分の意思の下の制御下には無い国家に対して、
『それが自分にも起こりうる』と感じさせることができるのです。


ここでは暴力と暴力の抗争ではなく、情報と情報の抗争が発生します。
体制側が不平等を維持しようとするならば、それは情報を完全に流さないようにするという
現代でも非常に困難な努力を払わなければいけませんし、
逆に反体制側にとっては、その情報をあらゆる形で流していけば良いわけです。
(もちろん、流す過程で反感をもたれては論外ですが。)


古今の権利獲得運動の成否は、すべてこの点に集約されています。
道徳的な主張を前面に立て、当事者意識を持たせる情報の拡散を怠った運動は失敗していますし、
逆に"当事者"として巻き込む人間を増やすことが出来た運動は成功しているのです。
(最近の北アフリカの革命も、こうした情報の拡散を手段のひとつとしています。)

結論として、非暴力主義は現実の戦略のひとつであって、
道徳なんて眠たいロマンチシズムの話ではないということです。
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同感ですね。



そもそも論になりますが、そもそも黒人が奴隷に
されたのは闘わなかったからです。
少しは闘いましたが、人数で圧倒していたのです
から、全員が一丸となって闘えばなんとかできたはずでしょう。
英仏、とくにイギリスは4000万もの若い奴隷を
輸出しました。

お陰で、アフリカ社会は崩壊し現在の飢餓大陸
の起因となりました。

しかし、戦闘民族であるマサイ族は奴隷にされなかった
と聞きます。捕まえても手に負えないと考えたのか
抵抗を面倒がったのかは解りませんが。

必要な時には闘うべきです。
あのとき黒人が闘っていれば、と思わずにはいられません。
現代日本人はそれを忘れつつあります。
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何か、もの凄い勘違いをしておられるようですが、


キング牧師らの唱える非暴力は、同時に不服従も行われます。

暴力で運動を止めさせようとする相手にに対して反撃を行わず、
逃げもしないというのは、非常な勇気が必要とされ真の強さと
忍耐が必要とされます。
これはある意味、暴力に暴力で対抗するより厳しいものです。

ただこれは、No.2の方も言っておられますが、人の命を塵芥程度に考え
世界的な批判の目も気にしない相手には、全く無効な手段です。
逆に言えば、そういう批判の目を気にする相手と見極めたからこそ、
この手法を採ったともいえます。
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質問者さんの怒り、理解できます。


私も同じように思った事がありました。

しかし、この「非暴力主義」の後ろに、カラクリがあると思います。

というのも、マハトマ・ガンディーの非暴力主義と並行して、
日本軍に徹底的に訓練された、インド独立の闘士、チャンドラ・ボースがいましたし、

同じように、非暴力を唱えたキング牧師と並行して、
過激な黒人運動家のマルコムXがいましたよね。

英国もインドの植民地を諦めたのは、非暴力主義のガンディーに屈したからではなく、
日本軍に教育されて、強い戦士となり、命を賭けて戦うチャンドラ・ボースひきいる
インド軍に敵わなくなったからだと言いますよ。

そして、WW2の後、アジアの植民地国家が次々と独立して行くなか
黒人の名誉回復は、自然の流れで当然だったにもかかわらず、
アメリカはその流れを押しとどめようとして、
黒人への差別はますますヒドクなっていましたが、

過激派のマルコム・Xに賛同する者が多く現れた事に、
白人達もかなりの恐怖を感じていたといいます。

黒人の力に屈して、自由と平等を認めるよりは、
キリスト教精神を持つキング牧師の非暴力運動で、
認めた方が白人の見栄が保ててのではないでしょうか?

白人達は、植民地にされていた有色人種達から、
力で攻撃されるようになってはたまらないと思っていたと思います。

だから、非暴力・博愛主義のガンジーやキング牧師を持ち上げて、
白人達への怨み・つらみを、博愛の精神で許させるように仕向けたのではないでしょうか?

現実、弱肉強食の時代に会って、戦わない相手など、赤子の手を捻るより簡単です。

博愛や非暴力で、侵略を防げるなら、

精神の美しい、穏やかなチベット人が何故に侵略されるのですか?
そして、何故、いまだに、中国に国を乗っ取られたままなのですか?

オカシイではないですか?

国を守る、民族の誇りを守るという事は、綺麗事ではすみません。

命を賭けて、侵略者をぶちのめし、戦う気概は絶対に必要です。
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あなたの質問はなんでしょうか。


偽善とはなんでしょうか。
正義とはなんでしょうか。
そこを定義すると、問題は解決するかもしれません。

何が正義か、ということについて悩まれているのなら、
『これから正義の話をしよう』というサンデル教授の本が一つの参考になると思います。
始めはあなたにとって虫唾の走る話が書かれているかもしれませんから、カントの道徳について/アリストテレスの倫理学についての項目から読み始めるといいかもしれません。

>家族が目の前で殺されても抵抗しないと言うのは残酷な卑怯者の行為ではないのですか?
>非暴力なんて相手をつけ上がらせるだけなのでは?

例えば、カントの道徳を基準にこの二つに回答しましょう。
真の正義は、自分が殺されようと、他人が殺されようと、人間の尊厳を守ることです。
正義は、その場の環境が自分の好むように改善されるかどうか、ということを問いません。
ですから、正義の行動を取ることによって、他者が正義の行動を取ることを意味しません。
正義とは結果ではなく、意志です。
(この概念における正義は、あまりにも無力かもしれません。)

例えば、ミルの功利主義をもってこの質問に答えましょう。
家族が目の前で殺されて、それに抵抗することで、全世界すべての民族が幸せになるならば、そうすべきです。しかしおそらくは復讐の連鎖をもたらすでしょう。だから、復讐を止める方が得策です。
非暴力によって、全ての人民が幸せになるならば、そうすべきでしょう。おそらくそうすべきでしょう。しかし、無抵抗は同じ結果を意味しないでしょう。レイシストによる差別を撤廃すべく、全力で抗議し、行動することが、世界の幸福の増加を意味するでしょう。
(この概念における正義は、あまりにも暴力的かもしれません。)

なにが正義か、何が道徳かは、考えによって変わります。それが転倒すると、正義を語ることは難しいです。
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