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こんにちは。郷土の歴史についてふと思ったのですが、、

昭和50年(1970年代)半ばごろまで、葛飾区の本奥戸橋~奥戸橋の間で、
川の上に柱を立ててこしらえたような水上家屋が数軒ありました。

まだ堤防の改修工事が行われていなかった頃で、幼稚園生だった頃は
堤防の上を歩いて平均台ごっこをしたり、堤防の内側になぜか水道の蛇口
があったのを覚えています。

久しぶりに通りがかってみたら、堤防はかさ上げされ、水上家屋の面影は
何もなくなっていました。

そこで葛飾区に縁のある方、、教えてください。
・中川の堤防はいつ嵩上げされたのでしょうか?
・水上家屋で暮らしていた人たちは、なぜそこで暮らしていたのでしょうか?
 そこに住んでいた人たちはその後どうなったのでしょうか?

よろしくお願いします・・・。

A 回答 (2件)

私も幼稚園児・小学生時代には京成電鉄国府台から堀切菖蒲園にかけての江戸川、中川、荒川には多くのバラックがあったのを覚えています。

・・・(河川敷生活者だった人達の苦労を鑑みない言いようで申し訳ないのですが) 懐かしいですね。

しかし、この辺りは下記参照 URL のように低地で大雨が降る度に水害を被っていたことから 1960 年代から 1970 年代にかけて盛んに堤防改築工事が行われた結果、バラック居住者はいなくなりました。

中川沿いは自然堤防となっている微高地が多いのですが、それでも大雨時には微高地の切れ目から水が氾濫しますので、全面的な堤防改築工事を行わざるを得なかった筈です。

その当時は高度成長期で社会インフラも様変わりしましたので A No.1 do-deshow さんが仰るような水上生活者の必要性もなくなったことでしょう・・・それよりも多くのバラック生活者は 1964 年の東京オリンピックを前に一掃されたと聞きました・・・代替地 (安価なアパートなど) を紹介されたのかどうかまでは知りませんが・・・。

>中川の堤防はいつ嵩上げされたのでしょうか?

何回にも分けられて工事が行われているので何処が何時ということまでは判りませんが 1970 年代には概ね現在の形になったと思います。

>水上家屋で暮らしていた人たちは、なぜそこで暮らしていたのでしょうか?

水上生活で収入を得られるのは A No.1 do-deshow さんが仰るような職種か漁師ぐらいでしょうから、殆どの人は他に得られる土地がないことからやむなく水上生活していたのだろうと思います・・・つまりバラック生活ですね。

バラックとは「当面の間に合わせである家屋、つまり簡易住居、仮小屋」の意味ですので、住む人達は「家やアパートなどを借りる資金や保証人などを得られない人々」なのですが、水上生活でも糧を得られる職種の人や「土地代や家の建設費はないけれど仮小屋で駄菓子屋や屋台の食事処を開くぐらいの資金は何とか貯めた」人も居たであろうと思います。

生活の糧を得られている人達であれば行政から立ち退き命令を受けても何とか別の所に転居できるでしょうが、そうでない人達は職安で仕事を紹介してもらってから移動せざるを得ませんので、家族を抱えた人達は大変だっただろうと思います・・・独り身ならば、例えば、台東区・荒川区に跨る山谷に行ったことでしょうが・・・。

>そこに住んでいた人たちはその後どうなったのでしょうか?

既に水上生活で糧を得る職はありませんので、何としてでも転職して他の地域に転居した筈です。

参考URL:http://www.jiban.co.jp/tips/kihon/ground/municip …
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葛飾区とご縁はないのですが、


国土地理院の国土変遷アーカイブ、があります。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/
そこで空中写真を見てみますと、70年代には
確かにボートハウスにしては大きめのモノがあるようです。
 行き交う運搬船に対して、住みながら船に給水や給油をしていたのでしょうか?
 タイの水上GSみたいですね。
この水上インフラが生きていれば、
3.11や台風の時もなんとかなったのかな~と妄想しました。

この回答への補足

書き込みありがとうございます。
こちらの求めている情報とは異なります・・・。

中川沿いのその界隈にはかつて「谷商店」という小さな駄菓子屋がありました。覚えている水上家屋は2件ありました。
木造トタン板で出来ていた家です。

補足日時:2011/10/03 21:27
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