・キリスト教系の私立大学に今年4月から進学した長男が・・

キリスト教系の私立大学なのでの「宗教」の授業が必須科目で・・全員受講・・
「宗教」の授業で・・聖書で「エデンでリンゴを食べたアダムとイフに罪を・・とあるが・・」

お父さん、おかしくないの・・神が全知全能なら・・エデンでリンゴをアダムとイフを食べることを予測できたはず・・、それなのにアダムとイフを罰するのはおかしい。」

と、長男がいっています。

教えて下さい

A 回答 (15件中1~10件)

ずばり、結論から答えてしまいます。

「ご長男は完全に正しい。」

「全知全能」は論理的根源矛盾なのです。キリスト教の世界では、長い長い時間をかけてこの矛盾に対する解答を出すべく論争を重ね、様々な詭弁や修辞を編み出しては論争相手を攻撃してきました。その挙句、「神は死んだ」という帰結に及んだことはよく知られている事実です。

...神が全知ならば人間が罪を犯すことを知っていたはず。もちろん、知っていた。全能ならば人間が罪など犯さないように作ったはず。いや、もちろん、完全な人間を作ることなど(全能ならば)たやすいことだったが、あえてそんなことはしなかった。あえて自ら不完全な人間を作り、その人間が罪を犯すことを先刻承知の上で、想定どおり罪を犯した人間を、平気で罰する。神は慈悲深い存在であったはずなのに、ずいぶんひどいじゃないか。と問われると、いや、全知の神には、人間にははかり知ることのできないお考えがあるのだ、とか、全能の神が人間を不完全にしたのは、所詮不完全な人間にははかり知ることのできないお考えがあってのことなのだ、などと屁理屈に屁理屈を積み重ね...

さて、宗教の必須科目で優秀な成績を残すにはどうしたらよいか、というのが、もしご質問の意図であったとしたら、それは講師に訊くのが一番です。学生の疑問に答えるのが講師の務めであり、また学生が正しい場合でも低い評価をつけることがあるのが講師の裁量でもあります。

まだ何かお役に立てることがあればご質問ください。
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この回答へのお礼

大変参考になりました

お礼日時:2001/05/05 21:00

 そのような質問には「全知全能で、未来のことが分かっていても、神は人間の行動を止めたりはしない。

なぜなら人間には自由が与えられているから。例えば全知全能の神が悲惨な戦争を止めないのは人間の判断に任せているからだと思うよ。そして人間が何をしでかしても、見捨てないみたいだね。」と答えることにしています。別に自分は教師でも宗教家でもありませんが、たまに知り合いと議論?になるんで。「どこに神がいるんだ?」って議論もよくしますけど。
 ちなみにエデンの園を追放されたことが罰だとは思っとりません。聖書は小説だと思っているので。なんでもあり、の。文字通り読んでいくととんでもない!こと多数。
 それよりも、大学の授業で質問をぶつければよかったのではないでしょうか? 質問できないような雰囲気の授業なんでしょうか。教授の見解を聞くのもとても楽しいと思いますけど。あんまり攻撃すると嫌われるかも・・・・。
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全く関係なくてすいませんが、アダムとイブが食べた実というのは林檎ではなく、イチジクが有力との説がなんかの本で見た事あります。

二人が身に付けていたのがイチジクの葉だからそうですが...。私が言いたい事はつまり、こうなんです。もうここで矛盾がでている?
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門外漢の考えではありますが...。



聖書の記述やそっち系(私の場合、エホバの証人でしたが)の方々の言い分には、私の良心に照らし合わせると、矛盾が豊富にあります。

それに耐えられなければ、辞めるべきでしょう。矛盾を感じてしまったら、納得できる答えを出してくれる人はいないと思います。「当然」、あるいは「常識」として受け入れてしまった人々には、矛盾と感じることを理解することはできないのです。
少なくとも、私には耐えられませんでした。
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まず最初に、


その長男さんに『その疑問を先生に訊ねてみたのかい?』と
聞いてみてはいかがでしょうか。

では、神は全知全能なのか?
答えは・・・そうです。

しかし、神樣は「何でも出来るけど、ただじゃなんにもしてくれません」
                   (お賽銭が必要という事ではない)
主は、
常に私達を見守っているのです、私達の言動をみておられるのです。
したがって、
私達は、お天道様に顔向けできない事をしてはいけないのです。
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「おとり捜査」みたいなものじゃないのでしょうか?引っかかると分かってても止めないでしょう。

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参考までに、アメリカの作家フィリップ・K・ディックは著書「ヴァリス」のなかで「神は無秩序で白痴だ」といってました。

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ところで、アダムとイブは何の罪があると思いますか(笑)


林檎を食べたから?実はそうではないんですね。

神様はホントウは「林檎を食べてはいけないよ」といったのではないのです。
「知恵の実(林檎)を食べないほうがいいと思うよ」といったのです。

実際、人は林檎を食おうが食うまいが死すべき存在であったわけです。
で、アダムとイブは知恵の実を食べてそのことに気づいてしまった。
そして、二人は死すべきことが、神によって与えられた原罪だと思って
しまったんですね。アーメン(笑)

神様曰く
「あ~あ、だから食べないほうがいいよっていったのになあ。シクシク(;;)」

え、じゃ、なんで知恵の実なんて作ったのかって?
いやぁ、それはですね、世界を作るときの副産物として
デキちゃったんですねえ(^^;)

神様曰く
「だいたい、全知全能だといった覚えはないぞ。プンプン」
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kokoro111さん、こんにちは。



「父さんは神様じゃ無いから判らないよ」

私なら正直にこう答えます。
神の考える事が人に判るのなら、その人こそ神なのでは無いでしょうか?
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無責任な言い方ですが、私なら、



「はい、おかしいです。」

と答えます。
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ちは~、ふわっぴぃです。

実は友人の某君から難題を吹っかけられました。

「全知全能の神が存在すると矛盾することを示せ」

私はこういうことはからっきしダメなので往生してます。

どなたかいい智慧を授けてください。

(蛇足)
ヒントをくれといったら、某君はこういいました。

「そうだな、ゲーデルの不完全性定理でも勉強するんだな。
でも、丸暗記とかはダメだぜ。自然数論とか形式的とか
証明とかいう専門用語を一切出さずにいわんとすることを
的確に表現した喩えで答えてくれよな。」

Aベストアンサー

 ふくろうです。こんばんは。

 ご友人の鼻を心配しています。へびに噛まれてはいないかと。
 でもご安心を。毒はありません。へびくん、この手の知的な論理ゲームは大好きなんです。ほら、こんなこと言ってます。

「ほ~い! へびくんだよっ! あそぶの、だいすきだよっ!
 じゃーね、またかんがえたの!

 ふくろうくんは、なんでもしってるの! 「ぜんち」なの!
 だから、じぶんがいつ、しぬか、しってるの! すごいな~。
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 だからね! ふくろうくんは、ぜんちであって、どうじに、ぜんのうであることはできないの!
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 …だ、そうです。
 あの…子どもですんで、大目にみてやってください。
 あ~、また、別なの考えてる…。おめめキラキラだね、へびくん。

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Q禁断の実を食べた事がなぜ人の罪なのか

キリスト教などについて独学で調べていますが、「人の初めての罪」について、前前から腑に落ちないところがあります。

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Aベストアンサー

聖書の中には多くのことが比喩やたとえで書かれています。
文字通りに解釈していると書かれている事の本質がわからなくなります。
善悪知る木の実を食べた時から、人間は初めて善悪を知るようになったのではありません。
「善悪知る木の実」がそもそも比喩なのです。

主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記2章16~17節)

女がその木を見ると、それは食べるによく、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。するとふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。(創世記3章6~7節)

飢えてもいなかったアダムとエバが食物などのために、死を覚悟してまで食べるでしょうか。それゆえ「善悪知る木の実」はなにかの物質ではなく、死よりも強いもの、生死にかかわることさえも問題視しないほどの他の何物かであるに相違ありません。死の壁を越えるもの、それは「愛」しかありません。

罪を犯す前、アダムとエバは、裸でいても恥かしく思いませんでした。しかし、彼等が罪を犯した後には裸でいることを恥かしく思い、いちじくの葉をもって下部を覆いました。もし善悪知る木の実という何かの物質を食べてそれが罪となったのなら、おそらく彼等は手か口を隠したはずです。
人間は恥かしいところを隠すのがその本性だからです。
しかし彼等が下部を隠したということは、とりもなおさず下部で罪を犯したということにほかなりません。

まず生育し完全な男性と女性になることを神は願いました。将来は夫婦になるべくアダムとエバは成長期の未成年の時に淫行によって堕落しました。
取って食べることを善しとすることが世界中に蔓延し、未成年の性交渉が当たり前のような昨今ですが、アダムとエバだけの話ではありませんね。

「生めよ、殖えよ。地に満ちよ・・・」この「生めよ」は「Be Fruitful(熟せよ)」つまり「人間として熟しなさい(完成しなさい)」という意味であり、完成したアダムとエバはその後初めて夫婦になるはずだったのです。
つまり「失楽園の物語」は人間の最初の罪が淫行であったこと。これが本質です。

その他のことは極論すれば枝葉末節にすぎません。

「善悪知る木の実を食べたら死ぬであろう」と言われていましたがアダムとエバは死にませんでした。聖書の別の個所には「あなたがたは生きているというのは名だけで実は死んでいる」という聖句があります。
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聖書が比喩で書かれていても文字通りに解釈すればこっけいとも言える解釈になってしまういい例です。

長文失礼しました。

聖書の中には多くのことが比喩やたとえで書かれています。
文字通りに解釈していると書かれている事の本質がわからなくなります。
善悪知る木の実を食べた時から、人間は初めて善悪を知るようになったのではありません。
「善悪知る木の実」がそもそも比喩なのです。

主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記2章16~17節)

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Qキリスト教は矛盾していませんか

私は無宗教に近い、葬式仏教の日本人としてイスラム教とかキリスト教とかの宗教にも関心がないのですが、キリスト教が分かりません。
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なぜ大宗教になっているのでしょうか。

Aベストアンサー

大宗教になった理由は要するに、「ローマ帝国が国教にしたから」です。ヨーロッパ全土を支配する世界帝国が、キリスト教以外を禁じたのですから、信者が増えるのは当然です。

ではなぜローマ帝国がキリスト教を選んだかと言えば、「一神教だから」です。ローマ帝国は広大な領土をもっており、文化や宗教も多様です。これを1つの国としてまとめるには、土着の宗教を根こそぎ否定して、唯一神への信仰を押しつけるのが手っとり早いです。

一神教でありさえすれば、別にキリスト教でなくてもよかったのだろうと思います。
キリスト教が国教になる前、ローマ帝国は「ソル・インウィクトゥス」(不滅の太陽)という太陽神への信仰を広めようとしたことがあるそうです。太陽は1つしかありませんし、どこでも拝むことができますから、国をまとめる宗教として適当だと思われたのでしょう。ローマ帝国にとって重要なのは、政治に役立つかどうかであって、教義などの中身は二の次です。

ともあれ、それなりに信者が多くないと、ローマ帝国もキリスト教を選ばないでしょう。1~4世紀のローマ帝国で、キリスト教が普及したことには、いくつかの理由があるようです。

1.キリスト教は本来、いわゆる社会的弱者に対して共感的でした。これはどうやら、イエス本人の生前の教えによるものです。「貧しい人こそが救われる」など、社会の底辺で苦しい生活をしている人々に、受け入れられやすい教義をもっていました。そういう人ほど、一度信者になれば熱心に信仰しますから、布教には有利な特徴です。

2.キリスト教には、ややこしい戒律などはなく、簡単に信者になれました。大雑把に言えば、「あなたはイエスがいったん死ぬことで、人類の罪をあがなったことを信じますか?」「はい、信じます」だけでOKです(イエスの死後、パウロという人がつくった教義です)。日本でも鎌倉時代に、「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば救われる」といった宗教が流行したことがありますが、あれと似たような感じですね。この手軽さも、広く受け入れられた理由でしょう。

3.これはやや否定的な側面ですが、キリスト教の教義では、「イエスの死と復活を信じない者は救われず、永遠に地獄で苦しむ」とされています。救われる(天国に行ける)方法を1つに限定することで、信者を脅している面があるわけです。いまでもカルト宗教などが同じ手を使うことからわかるように、藁にもすがるような心境の人を入信させるには、非常に有効な方法です。

4.ローマ帝国は特に2世紀から、キリスト教を弾圧していました。が、当時のキリスト教徒の多くは、もともと苦しい生活を強いられていたので、この世にあまり未練がありません。「殉教すれば天国に行ける」と信じていますから、なおさらです。苛酷な弾圧にも耐える人々の姿は感動的なので、「これは何か、すごい教えなのかもしれない」と思う人も出てきます。つまり皮肉なことに、弾圧がかえって信者を増やすというケースもありました。

大宗教になった理由は要するに、「ローマ帝国が国教にしたから」です。ヨーロッパ全土を支配する世界帝国が、キリスト教以外を禁じたのですから、信者が増えるのは当然です。

ではなぜローマ帝国がキリスト教を選んだかと言えば、「一神教だから」です。ローマ帝国は広大な領土をもっており、文化や宗教も多様です。これを1つの国としてまとめるには、土着の宗教を根こそぎ否定して、唯一神への信仰を押しつけるのが手っとり早いです。

一神教でありさえすれば、別にキリスト教でなくてもよかったのだろうと思い...続きを読む

Q宇宙のすべてを創造した神は何の目的で宇宙を創造したのですか。神自身が楽

宇宙のすべてを創造した神は何の目的で宇宙を創造したのですか。神自身が楽しむためだけに何でもありの宇宙を創造したことも考えられるのですが。

Aベストアンサー

キリスト教では確か、人間を作ることが最終目的で、この宇宙を作られたとの教えだったと思います。

聖書には、万物を創造後、最後に神は自分に似せて、人間を作られたとあります。(旧約聖書・創世記)

しかし、人間はアダムとエバの罪によって、神にはない「苦しみと死」を与えられました。

人間がこのように、神に反するようなことを行うことは、全知全能の神は人間を作る前にわかっていたはずです。しかし

なぜ、このような(罪深い)私ども人間を、あえて作られたのですか?と被創造物の人間が創造主である神に向かって、聞く資格は無いのだそうです。

と、確か聞いたことが有ります。

Q神様はなぜ悪魔をおつくりになったのでしょうか?

前に教えてgooで、悪魔はもとは天使だったということを教えていただきました。
全知全能の神様は、なぜ、天使を悪魔にして、悪魔をおつくりになったのでしょうか?
私はキリスト教のことをよく知らないからかもしれませんが、とても不思議な気持ちがします。
お教えいただけましたらうれしいです。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

 悪魔がもともと天使だったというのは、ごくごく限られた宗教でのことです。
 大抵の悪魔というのは、土地の支配者が変わるとき、それまで崇められていた神を悪魔と断じて貶め、新しい神、つまり現在の支配者を正当化するための手段でした。
 例えば、バアルといえばキリスト経典では有名な悪魔ですが、もともとはエジプトのカナン周辺からギリシアにかけて信仰を集めていた高位の神で、セト神などと同一視されるような存在だったのです。

 神が悪魔を作ったのではなく、現在の神がそれまでの神を侵略して貶めた、というのが正解です。

 光に影があるように、すべての物事には表と裏があります。
 神と悪魔も表裏一体、片方だけを正として論じても無意味です。

Q紀元前と紀元後をなぜ分けるの?

タイトル通りの疑問なのです。当たり前すぎなことなのかもしれませんが、教えてくださいお願いします。どういういきさつで分ける必要になったのでしょうか?
またいつから分ける様になったのですか?

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つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれた年を紀元とすることにしました。
これが、現在我々が使っている西暦の始まりです。
何故西暦0年が存在しないかと言うと、西暦が作られた6世紀半ばのヨーロッパは、まだ数学が発達していなかったためか、「0」の概念が無かったのです。
そのため、「西暦0年」ではなく、「西暦1年」から始まったのです。これは平成0年がないのと同じですね。
だから、紀元1年より前の年をあらわすには、0がないので当然ながらマイナスを使えず、「紀元前」とするしかないわけです。
この西暦は、まず教会で用いられ、それがヨーロッパの一般人に定着するのはそれから数世紀経ってからで、 実際に世界的に使われるようになったのは、18世紀になってからです。
日本に至っては、明治以降、つまり19世紀に入ってから、やっと使い始めました。

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
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Qニーチェの有名な言葉「神は死んだ」について

「神は死んだ」についてです。

何故にこの言葉が広まった?のでしょうか?ニーチェのこの言葉を重要視して有名な言葉として広めた人がいるのでしょうか?

自分で「ツァラトゥストラのかく語りき」を読んだのですが、その言葉はさほど重要な点ではないと感じましたが…

Aベストアンサー

 キリスト教批判については、西洋の思想史をさかのぼれば、無神論の思想家を見つけ出すことができますが、最も明確に筋道立てて隅々まで否定したのはニーチェだけでした。特に、日本人にとっては、キリスト教は世界宗教の一つにすぎませんが、ヨーロッパ文明にとってキリスト教は、文明のバックボーンであり、キリスト教を否定することはすさまじいものがありました。

 例えば、マタイの福音書に「貧しい人は幸いである。天国は彼らのためにある」という有名な言葉があります。この言葉は、貧しい者や無力な者、弱い者こそ神に祝福されるという意味ですが、ニーチェは、そこに無力な者が有力な者に持つルサンチマン(怨念、ねたみ)が隠れていると指摘したのです。実際、キリスト教は最初、ローマ帝国の奴隷の間に広まったものですし、キリスト教はさかのぼればユダヤ教を母胎として発展したもので、そのユダヤ教自体、他民族によって滅ぼされたユダヤ人の間に広まったものですので、そうしたことからも、弱者の強者に対するルサンチマンが含まれているとしたのです。

 ですから、キリスト教の根底には、弱者(能力のない者・病人・苦悩する者)が強者(能力のある者・健康な者)をねたみ、恨む気持ちが隠されているとニーチェは主張します。ですから、こうしたことからニーチェはキリスト教を「奴隷道徳」と批判し、そうした弱者に代表される、没落し衰退し滅んでいくべき存在に同情や憐れみを持つことは、人間の心の弱さから生じたものであり、自分自身を弱者の地位にまで引き下げるとしたのです。言い換えれば、弱者への同情や憐れみは、人間が本来持っている「生」へのたくましい欲求(支配欲・権力欲・性欲・我欲など)を押さえつけ、人間を平均化し、無力化してしまうとしたのです。そこで、ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、キリスト教的価値観を否定したのです。

 また、彼が否定したのは、キリスト教の「神」だけではありません。自己よりも崇高なものを認める価値観すべてを否定していったのです。ですから例えばそれは、イデア世界に永遠なる真・善・美を認めるプラトン哲学も、キリスト教の奴隷道徳の系譜に属していますし、その他、自己より崇高な価値観である「真理」「理想」「理念」もすべて否定していったのです。つまりそれらは、弱い人間が、自己から逃避した結果であり、自己の生を意味づけるためにねつ造したものであり、虚構であると暴露したのでした。そして真の価値基準は、「神」や「天国」「真理」ではなく、自分が生きている現実の「大地」に置くべきとしたのです。

 またニーチェは、キリスト教は「畜群本能」にとらわれた道徳であるとしています。畜群本能とは、自分を越えた特別な能力を持った者を危険視し、群れから排除しようとする「弱者」たちの本能であり、それは主体性を否定し、平均化し没個性的に生きることで安心しあう心理によって支えられているとしたのです。そのためニーチェは、民主主義や平等主義をキリスト教の俗化したものとして嫌悪したのでした。

 なお、ご質問の「ニーチェのこの言葉を重要視して有名な言葉として広めた人」は、特にいません。「ツァラトゥストラ」も当初、40部を自費出版しただけで、晩年は彼を敬愛する妹に見守られながら、次第に高まる名声を知ることなく静かに息を引き取っていきました。

 キリスト教批判については、西洋の思想史をさかのぼれば、無神論の思想家を見つけ出すことができますが、最も明確に筋道立てて隅々まで否定したのはニーチェだけでした。特に、日本人にとっては、キリスト教は世界宗教の一つにすぎませんが、ヨーロッパ文明にとってキリスト教は、文明のバックボーンであり、キリスト教を否定することはすさまじいものがありました。

 例えば、マタイの福音書に「貧しい人は幸いである。天国は彼らのためにある」という有名な言葉があります。この言葉は、貧しい者や無力な...続きを読む

Q優しい人のほうが損?美輪さんの教え?

周りの人間関係をみていて
ふと思ったのですが、
優しくて人格者で性格の良い人は
損をする事が多いように思います。

他人が嫌な思いをしていないか、
気づかってめんどう役も引き受けたり、
相手に親切にして、逆になめられたり。。。

そして、反対に
他人をばかにし自分が優位に立ちたいと
いつも思っている、
あまり優しくない人達のほうは
他人の感情等気にせず
自己中心的な考えで、自分の意見をまかり通してしまう。。。

私は、美輪明宏さんや、江原さんの本が大好きで
いつも読み返すたびに
「やっぱり他人に優しくて愛情豊かな人間のほうが
上質なんだな~」と思い返してますが、
それにしてもやはり
現在社会では
ある程度、自己中心的で図々しいひとのほうが
社会を要領良く飛び回っているように思うのです。

やっぱり優しくて
他人に気遣いする人間の方が損でしょうか?
皆さんはどう思われますでしょうか??

Aベストアンサー

こんにちは☆

私も美輪明宏さんや江原さんが大好きで、たくさん本を読んでいます。

あなたがおっしゃっている優しい人格者とは、人の気を汲みすぎてしまい、自分よりも相手を優先してしまう人、のように感じました。そういう人をあなたははたからみていて、その人が我慢して自分の思い通りにできずに、損しているんじゃないかなと思っていらっしゃっるのでは?
私が思うに、優しい人格者の方は、自分が相手を優先したり譲ったりするという選択をしたならば、その選択について後悔したり損したとは感じないと思います。「ああ、できてよかったなぁ!」って自分の選択に満足できます。
それと、自分を押し殺して人を優先することとは優しさとは違うと思います。人格者であっても、これはこの人のためにはならないと思うことははっきり断ると思いますし、自分の思いや気持ちを押し殺し相手の言うがままにするのは優しさとは違うように思います。

優しさとは行為にその人に対しての愛があるかないかだと私は思っています。
結局、人にした愛は自分の方に必ず返ってくるし、そういうふうにできる人はみんなから愛され幸せになれますよ♪
お互いそういう人になりたいですね♪♪

こんにちは☆

私も美輪明宏さんや江原さんが大好きで、たくさん本を読んでいます。

あなたがおっしゃっている優しい人格者とは、人の気を汲みすぎてしまい、自分よりも相手を優先してしまう人、のように感じました。そういう人をあなたははたからみていて、その人が我慢して自分の思い通りにできずに、損しているんじゃないかなと思っていらっしゃっるのでは?
私が思うに、優しい人格者の方は、自分が相手を優先したり譲ったりするという選択をしたならば、その選択について後悔したり損したとは感じないと...続きを読む

Q「おごれる者は久しからず」とは?

「おごれる者は久しからず」とは?
どなたか意味を分かり易く教えてください。
御願い致しますm(_ _)m。

Aベストアンサー

 平家物語の冒頭の部分なのは#3さんの説明の通りです。
 これは仏教の大事な教えである「諸行無常」を説明しながら、最終的に平家と源氏の栄枯盛衰の物語に関連付けていく、きわめて詩的な名文です。
 「諸行無常」というのは、あらゆるものは「常では無い」つまり永遠に続くものではないので、執着しても無意味である、という教えです。
 人はいつか死にますし、建造物もいつかは朽ち果てます。権勢とても永久に続くものではないのですから、執着心を捨てなさいという意味です。
 この文章の前半では「諸行無常」の意味だったものが、途中からだんだん因果応報の要素が濃くなってきて、最終的には平家が滅びたのは自業自得だったというような雰囲気に導いています。
 従って前半部分にある「おごれる人も~」という部分では「謙虚さを忘れたために報いを受けた」というより、「現世の栄華は長続きしない」という意味合いのほうがまだやや強いと思います。

Qコーランには多神教徒を殺せ、とも宗教には無理強いがあってはならないとも書いてありますが

コーラン9章5節の「多神教徒どもを見つけしだい、殺せ」という章句と、2章256節の「宗教にはむり強いがあってはならない」や17章33節の「正当な理由がないかぎり、人を殺してはならない」の章句の間で矛盾が生じていると思うのですが、どういうことなのでしょうか?

Aベストアンサー

別に矛盾はしてませんよ

皆殺しにしろという命令ではありませんから
「聖月が過ぎたならば,多神教徒を見付け次第殺し,またはこれを捕虜にし,拘禁し,また凡ての計略(を準備して)これを待ち伏せよ。だがかれらが梅悟して,礼拝の務めを守り,定めの喜捨をするならば,かれらのために道を開け。本当にアッラーは寛容にして慈悲深い方であられる」

これが、その節の全文で、この節ができたのには理由があります。

ムハマンドがアッラー(神様)の教えを布教していきましたが、それでも迫害を受けていました、幾数年かけて布教してもなお攻撃を仕掛けて来る者、国を倒そうとする者に対して、戦争を早く終わらせる為に言った言葉にすぎません。

「殺せ」の部分だけを抜き出してしまうと、ただの殺人命令になってしましますが、悔い改める者であるならば、それを許しますから、戦争を止めましょうね、と言っているのが、この教えです。


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