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「友情について」という質問で、友情とは何か、を先に質問したものです。今回はその結果を受けて、発展的な問いを投げかけさせていただこうと思います。

いろいろなご回答を読ませていただいた結果、友人とは自分のアイデンティティの基盤となる人間関係である――という考えが、一番、しっくりくるように思いました。ここで、アイデンティティが示すものは、精神の本来、帰属するべき場所という意味です。すなわち、心が安心し、緊張から解きほぐされるという意味です。「心のふるさと」を確認させてくれる人間関係と言い換えてもいいでしょう。
ふるさとであるというなら、もっとも理想的な帰属意識は、無邪気であった子供の時期と言えます。そこで、もっとも理想的な友人は、「竹馬の友」という言葉がある通り、幼いころから育った環境を等しくし、共通の価値観をもつ相手です。こうした相手は、好き嫌いに関係なく、共通の基盤をもっているので、表面的な諍いで関係が破壊されることはありません。激しい議論をすることができるでしょうし、お互いの問題点を注意し合うことができるでしょう。これがすべての友人関係の理想的な基本モデルと言ってよいのではないか、と私には思われます。

ところが、現代で「竹馬の友」をもつ人は、かなり少ないと言えます。それは引っ越しが多いとか、学校が離れ離れになるという要因が引き起こす問題であるように思います。高校の友人でさえ、連絡がつかないという人も多いでしょう。いや、それどころか、自らのアイデンティティをもつということ自体、時代遅れの考えとみなされる風潮にあります。では、心を安心させたい時、多くの人が採る手段は、どのようなものでしょうか。
一つの安易な解決方法は、偽の友達をもつことです。この偽の友達は、利害関係を共有していてはなりません。というのも、利害関係を共有しなければしないほど、緊張が少なく、相手に対して寛容さを示すことができるからです。相手が訳の分からないことを言い出しても、実質的に自分に損害が無い限り、微笑んで聞いてあげることができるでしょう。気楽に慰めてあげることができるでしょう。しかし、こうした偽装した友人関係では、突っ込んだ議論をするや否や、関係が破綻してしまいます。なぜなら、あくまで表面的な関係であって、Yesしか言わないことによって、相手が観たいものを見せているに過ぎないからです。つまり、相手の幻想を映す鏡となるだけの関係であるからです。しかし、このような偽装された友情は、他者との交流であるというより、ナルシシズムの延長と言ってよいものです。

私としては、「偽装された友情」を退け、「本当の友情」と言うべきものを回復する手立てが無いものかと思います。これにはどのような方法が、考えられるでしょうか? もし、二十歳を過ぎて竹馬の友と呼べるような友人を得た経験をした方があったら、その経験を交えつつ、それがどのようなものであったか、教えていただけないでしょうか。これは、前回の問いに比べて、かなり難しい問いだと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

A 回答 (16件中1~10件)

深く考えすぎだと思います。


いろんな友達がいてもいいでしょう。
親友以外は友だと認めないのですか。
貴方が思うほど人は簡単ではありません。
貴方がみんなに優しく接すれば、良い人が集まりますよ。
多くの人と仲良くしたほうが良いのでは。
他人を信じすぎないほうが良い。
深すぎないほうが良い。
必ず貴方と違う考えを持つ。
友人の自分と違う考え方も、認めるべき。
幼いほど親友を作りたがる。
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この回答へのお礼

実のところ、待ってましたというようなご反応です。まがいもので我慢できることが大人だというのなら、私は子供なのかもしれませんね。しかし、耐えるために自らの感覚をバカにしてしまった結果、元の根っこを見失ってしまうということがありませんか。私が「深く考えすぎ」なのではなく、あなたが自らの思考力を眠らせているように見えています。
だとすれば、一つ言っておきます。人間、自分に嘘はつけないものです。ものわかりのいい顔をしても、内面では、別の声が聞こえませんか。こんな意味のわからない奴ら何か、友達でも何でもない、と。思い切って、暴れて御覧なさい。すると一皮むけて、ご自分が見えるから。ちなみに、あなたがおっしゃるような軽い友人なら、私はごまんといます。

お礼日時:2012/02/07 13:09

武田鉄矢『べてるの家』


という60分くらいの動画によると
べてるの人々やその家族たちが持つ仲間感覚は
共通の苦しみや、みんなの終着地である『死』を基盤にしているそうです
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この回答へのお礼

ありがとうございます。参考にさせていただきます。べてるの家は精神障害者の支援施設で、武田鉄也はその解説をしている第三者という立場ですが、彼らは、私たちより深い人間関係を築いているかもしれませんね。

お礼日時:2012/02/07 13:10

あなたは凄いですね。



読み終えて感心してしまいました。
男の私には親友と呼べる友人が4人います。
あなたの言う様に、何でも話せ、一緒にいても気を遣わずいられる仲の友人です。
しかし、その4人は保育園からの付き合いですから、やはり竹馬の友ということですね。
私は20代半ばですが、周りの様子を見ていると、どれだけ仲良くしていても毎日一緒にいるような仲でさえ、注意が出来ない。叱ることのできない仲のまま付き合っている人ばかりです。
しかし、そのような人はとても友達(知り合い)が本当に多い様に感じます。
人間関係って難しいですね。
私にとって、20歳超えてからあなたの言う竹馬の友の条件に当てはまるのは、元カノです。
3年半付き合って、同棲もしていましたが別れました。
しかし、心置きなく何でも話せ、一緒にいてお互い楽しく、喧嘩もできる、互いの事を理解してるからすぐに仲直りできる。
と言う事で、今は友人として一緒に遊びに行ったり、電話で長電話したりしています。
恋愛相談もしたりされたりしています。
これって竹馬の友だと思います。

ちなみにセックスはありません。
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この回答へのお礼

おほめにあずかり光栄です。しかしNo1の方のいうように、大人は、まがいもので満足するものです。私もその点には同意しています。しかし、それでは私は満足できない、と考えて、この質問を投稿しました。ですから私の場合、ダブルスタンダードだとお考えください。現実世界では、ニコニコ笑って、多くの浅く広い友人に囲まれています。しかし心のどこかで、満たされない気持ちがあるというわけです。

おっしゃる方は、本当に親友なのですね。きっと深くお互いのことを想いやっているのでしょう。恋人ともなれば相手の行動場ターンや、人格や、性格リズムなど、おおよその形を知っているものです。そうであるのなら、お互いのペースに配慮しつつも、上手くやっていけるような気がします。元恋人が竹馬の友と言える友人になりうる、と。一つ覚えてまいります。

お礼日時:2012/02/07 13:17

先ほど、前回の質問に再び回答しようと思って投稿ボタンを押した途端に締め切られていた前質のNo,3です。



あなたがあえて「友情」を「哲学」のカテに持ち込んで来るあたり、前回の質疑応答を拝見しても納得致す所です。

さて、前の質問に再投稿しようとした内容と今回の内容はかぶる部分もありますが、改めて回答したいと思います。

そもそも、友情も愛情も元より人の感情から生まれるもの。
ならば、理解するよりも感じた方が正解に近いのかも知れません。

さっくり行かせて頂きますが、人は誰しも「自分の為に」生きております。
全ては「そこが原点」です。

意味分かりますか?

先の回答で言いました「人は必ず何かを求めて生きている」と言う事。
それが意識している事であれ、無意識な事であれ「与える」事も「与えられる」事も、全て自分自身が求めている事なのです。

例えば、親が子供に与えると言う「無償の愛」。これも同様であると思います。

自分の命を犠牲にしてでも守りたいものがある。

しかし、結果「自分の命よりも自分が優先したいものがあった」だけの話ではないでしょうか。

>ここで、アイデンティティが示すものは、精神の本来、帰属するべき場所という意味です。すなわち、心が安心し、緊張から解きほぐされるという意味です。

その帰属する場所が、友達でも家族でも恋人でもない「自分自身」と言う事をご存知ですか?

人は、自分自身が求めていると言う自覚があるのであれば、どんな苦しみや逆境の中にいても、安らぎを感じる事が出来るんです。

本来「人の為に」「誰かの為に」と言う言葉は、存在するものではありません。
その原点は常に「自分の為の行動」であるからです。

脳科学的に見ても、本当に「無償」と言うのであれば「初めから何も感じたりしない」のです。

あなたの仰る、幼い頃から同じ基盤を持つ事により、共通の価値観を持つ可能性があると言う友人。
しかし、一歩踏み込めば、同じ環境で育った兄弟の方がもっと自分と同じ基盤、価値観を持つと言うことになります。
でも、肉親と他人はやはり異なり、自分に取って両者の良い点と悪い点は違ってくるものです。

もう一つ、あなたの仰るような相手に対して寛容さを示せると言う行動は、何も利害関係が生まれない事によるものではありません。

議論を望まない、理解を求めない、と言う事も、立派に自分の「利」に適った行動となります。

自分から言わせてもらえば、本当の友情も偽装された友情も、どちらもナルシシズムの延長であると思っています。

自分の「親友」と思っている友人は、とりわけ幼い頃からの付き合いでもありませんし、高校を卒業後、県外で離ればなれになった時期もなりましたが、今また「今にあった付き合い」をしております。
普通に飲みに行き、普通に電話し、普通に何もなければ何も連絡はありません。
裏切られた事もありますし、喧嘩した事もあります。
でも、今もまだこうして関係を続けていると言う事は、そんな事よりも優先したい事が自分の中であったのだと思います。
これが、自分のエゴでなくて何と言うのでしょうか。

異性の親友もおりますが、これはきっと「永遠の片想い」なのだと思っております。

長くなり、回答にもなっていなかったかも知れませんが、何か感じてくれたのならば幸いです。
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この回答へのお礼

早く締めすぎましたか。失礼しました。まず、私は「感情から生まれるもの」だから、感受性で受け止めるべきだ、考えるのではなく感じるべきだ、とは考えていません。感情を冷静に分析する場も必要でしょう? これはそういう場です(これから敵をなぎ倒そうというブルース・リーじゃないのですから!)。

私があなたの文章から理解したことは、次の叫びと言うべき主張です――人間はエゴイストで、友情など、真も偽も、そもそも何もない、すべてはエゴイズムとして説明がつく、と。それはあまりに当然のことなので、別に強調する必要はないだろうと思っていたのでした。そして、エゴイズムと大きな器にのせると、何もかもが、ごっちゃになってしまいます。私はこういう玉石混交のカオスは好みません。

というのも、私は、見かけの上では、すべてをエゴイズムとして説明することはできるが、実質的には、そうでないはずの要素があると考えているのです。そこで、エゴイズムを強調して、よい友情と悪い友情の区別がつかない議論をしても意味がないと考えています。言い換えると、エゴイズムという枠組みを抜けて、別の観点から細分化をする軸を考案した方が有益だと考えておりました。

これはそうした模索の一ステップとして投稿した問いです。

お礼日時:2012/02/07 13:21

どういえばいか、しどろもどろになりそうですが、参考までに。



私にとっての「友人」。

彼(彼女ー以下略)とは、あまり意見が合いません、ろくすっぽ会ってしゃべったり酒を飲んだりもしません。

また、会いたいともあまり思いません。むしろ会うのが嫌なくらいです。

会っているとき、お互いの関心事や仕事などについて話すことはほとんどありません。

お互いがいまどんな状況にいるかは、互いの仕事(作品)をみれば推量できます。

そこで自分にも相手に恥ずかしい仕事をしてしまえば、「友情」は永遠に終りでしょう。

友とは自分とは全く異なる存在でありながら自分の分身でありうるもののことではないでしょうか。

だから友の前では「完全」な自分でいたいと思い、またそれが友としてそこにいる人への礼儀でさえあると思います。

というわけでかどうか、

彼が病気のときや困ったりしているときは、むしろ会わないようにしています。

こちらが窮しているときも同様です。

たまに会うときなど、これで会うのは最後か、今度会うのはこの人が死んだときだろうかと考えます。

その死に顔をみて、人生の意味が少しはわかるだろうかと。

多くの大切な人と死別するたびに、私の一部も永遠に奪われてしまったのを痛感してきました。

死別したあとに、皮肉にも、大切さがまざまざと分かります。

もちろん、友に世俗的な「便益」など望むことはありません。

宗教的な生き方を捨て去ったいま、友情とは、(家族とは別な意味で)生きる意味を教えてくれる唯一の存在かもしれません。

以上です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。非常に興味深く読ませていただきました。

>そこで自分にも相手に恥ずかしい仕事をしてしまえば、「友情」は永遠に終りでしょう。友とは自分とは全く異なる存在でありながら自分の分身でありうるもののことではないでしょうか。

分身という言葉に注目すれば、おっしゃるご友情もまた、アイデンティティを示してくれるご関係と、一端は言ってよさそうです。アルター・エゴと言ってよい、自らの鏡となるような関係だからです。だが、

>友の前では「完全」な自分でいたいと思い、またそれが友としてそこにいる人への礼儀でさえあると思います。

安らぎやくつろぎではなく、むしろ、緊張感がみなぎっているわけですね。おそらく、あなたは、イラストレーターとか、芸術的なお仕事をなさっているのでしょうね。作品を生産することを最優先に考えるから、緊張感がみなぎっている関係の方が、メリハリがきくのでしょう。一言でいえば、良きライヴァルをもつことで、創作のモチヴェーションをあげていると言えます。

しかし私の言っている友人は、根本からその存在を承認してくれる相手です。したがって、「友情が永遠に終わる」という恐怖感を感じることもなく、恥ずかしいところや、失敗を含めて、創造力を刺激してくれる人です。そうした関係は想定できませんか?

お礼日時:2012/02/07 13:28

なぜ親友を作りたいのでしょう。


私は親友を求めません。
他人と親友になりたいとも思いません。
親友を減らしたいとは思いませんが、拒みません。
来るものも去るものも拒まない。
戻ってくるまで待てばよい。
拒まなければ、良い友人は残るのではないでしょうか。
困ったときだけ来る者もいますが、私は受け入れます。
私の今一番仲の良い友人は、21歳年上です。
知り合って21年。
齢も環境も遊びも趣味も違いました。
私とは全く違う考えをする人です。
議論も多かった。
相談してもされても意見が違うため非常に参考になる。
私だけではしなかったと思ういろんな経験ができた。
私に大きな影響を与えた人物。
親友と思えるようになったのは知り合って10年くらいたってからです。
それまではどちらかと言えば嫌いな存在だった。

この回答への補足

二パラグラフ目の以下の文は正確ではありませんでした。訂正いたします。

>というのも、あなたはあくまで無関心であるとお書きなのですから。
→というのも、あなたはあくまで受け身だとお書きなのですから。

補足日時:2012/02/07 15:16
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この回答へのお礼

求めてえたのではなく、何となくでも我慢して付き合っていたら、親友になっていたというわけですね。長い年月を過ごすことによって、同胞だという意識が生まれたのかもしれません。仕事でも一緒になさったのかもしれませんね。というのも、嫌な相手だと思っても、関係が継続したということは、継続させざるを得なかったと受け取れるからです。親友に対する無関心は、照れ隠しだと受け取っておきます。

しかし二十一歳年上ですか。であれば、友人というより、私淑している師とでも言うべき存在だと思いますよ。そして相手の情が深かったというところもあるだろうな、と推測します。というのも、同世代ならば、無関心を装った時点で、関係などすぐに破綻するからです。仕事関連で見知った相手だとすれば上司でしょうけれど、度量のある方と出会い、幸福な経験をなさいましたね。あなたも、じっと耐えた時期がったのかもしれませんが、文面からは、手柄の大半は成り行きと相手の度量にあるかに読めました。というのも、あなたはあくまで無関心であるとお書きなのですから。

しかし、今の若い世代は、そういうものはないのですよ。即戦力にならない者は切り捨て、ほとんどが派遣労働者です。密な長い関係は構築できないのです。だから、成り行き任せというより、思想的に乗り越えることが必要と私は考えています。

お礼日時:2012/02/07 15:05

先の質問でもお世話になりましたbfoxです。


発展の質問との事で楽しみにやってまいりました。
よろしくお願いいたします。

内容を読ませていただき、なるほどと思いました。

まず本当の友情についてです。
本質的な友情を構築できるのは、いや、しやすいのが「無邪気であった幼少期」であると思います。
これは私も同意です。
さて、ではそこ(幼少期)からず~っと付き合っていなければ友情は育めないのでしょうか?
幼少期「から」友達でいる間柄と、幼少期「に」友達でいた間柄ではどうなんでしょうか?
私は「幼少期」には後に友情を持ちうる関係を構築する相手に出会いやすいのだと思っています。
子供は損得をあまり考えません。ですからもの凄く純粋に本質的に自分に合った者と友人になると思うんです。
もちろんたくさん友達はできますが、その中で特に仲の良い友達っていますよね?
そういう人と友情を持てるんだと思っています。
よってそういう人と巡り合った場合には、仮に大人であっても友情を持てると思っています。

これは実体験なのですが、私には友情と呼べるものを持っている友人が3人おります。
その内の一人は、27年ぶりの再会の後友人としてお付き合いさせてもらっています。
彼は小学1年~2年の時の友達でした。
それはそれは気が合って毎日毎日一緒に遊んでおりました。
ところが小学2年生の時、彼はご両親のお仕事の関係で遠方に引っ越していきました。
当然そこは低学年の子供。引っ越した当初は悲しみに明け暮れていましたが、次第に時間が悲しみを薄れさせ、新たな友達と楽しい時を過ごしていました。きっと彼もそうだったでしょう。
時折思い出してはどうしてるかな?と考える程度でした。
そしてつい2年前です。街中でばったり。ほんと偶然に会ったんです。
別れてから四半世紀以上過ぎています。でも、彼だと解ったんです。
相手も解ったみたいです。
「もしかして……」って感じでちょっと立ち話したらやはりその彼でした。
仕事で東京に転勤してきたそうです。その場で連絡先を交換して、日を改めて再会を祝福しあいそれからずっとまた友人になれました。

もちろんその関係にお互いのメリット・デメリットはありません。
言いたい事言い合って、憎まれ口のセッションもあり……少なくとも私はそこに友情を感じております。

私は三十路をいくつか過ぎた状態で本当の友情を得たと思っています。


次は偽装された友情についてです。
これは全面的に質問者様に同意です。
人ってのはそもそも一人では生きていけない存在だと思っています。
社会的に対面を取り繕って上手にやっていかなければならない世の中ですよね。
そりゃ当然ストレスも溜まります。なんせ偽りの自分を演じつつ生きているわけですから。
本当の友情を持つ友人がいれば色々と捌け口になってくれるのでしょうが、質問者様のおっしゃるように、環境的にそれが難しい世の中でもあります。
全く仕事やその他の偽った自分を演じている世界とは隔絶された世界で生きる「友人」が必要になってくるのでしょう。
日々の生活の愚痴を言える相手と言いましょうか、誰も自分を否定しないコミュニティと言いましょうか。
それを求めるのは必然ですよね。人間って弱いから。
だからこそblogやtwittrが流行るのかな?と思います。
そこには自分の意見がどんだけ間違っていても反論せずに無責任に、あなたは正しいみんなが悪いって言ってくれる偽りの友情が溢れているわけですから。
ね?そうでしょ?って気分よくなれて、ストレスも発散されるんでしょう。
でもそこはやはり贋作。偽りの友情ですから、同意だけで反論はありません。
あったとしても無視する人が大半なんじゃないかと。
結果として自己を高める事も、間違いを修正される事もありません。
そこが本当の友情と偽りの友情の差異なのではないかと思います。

でも本当はみんな本当の友情を求めているんですよね。
昨今SNSが流行っていますよね。
小学校や中学校時代の友人を検索できたりもするアレ。
やっぱりみんな幼少時代の友人が本当の友情を持てる可能性が高いのを本能的に感じ取っているのだと思います。
そしてSNSにそれを見つける可能性を見出している。
ちょっと前では考えられなかった手段で、幼少時代の友人との再会を果たせる。
これが大人になってから「竹馬の友」と呼べる友人を見つけられる可能性を秘めた手段なのではと思っております。

あんまり頭良くないので、ダラダラと長くなってすいませんでした……^^;
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この回答へのお礼

丁寧に、どうもありがとうございます。「ダラダラと」とおっしゃいますが、御謙遜ですね。よくまとまっていました。
おっしゃるように、幼少期になぜ親友ができやすいのかを考えてみる必要がありますね。おっしゃってくださった実体験は、とても説得力がありました。純粋であれば、あとあとも残るのでしょう。そうしたものを求めて、SNSだとか、Mixiとか、いろいろ、今はありますね。子供の後、社会的な格差が開いたり、経験が異なれば、趣味などがすれ違ったりすることもあるでしょう。しかし純粋なものがあれば、そうした枝葉末節は取り払えるかもしれません。

しかし私はまた他の意味もあると考えています。他の回答者の方が、長い年月、一緒にいた人が、気付くと親友と呼べる関係になっていた、と言ってくださいました。これは純粋な気持ちを共有し合ったのとは異なるようです。しかし、価値観を共有し合い、同じ土俵で意見しあえるようになったということに思います。同じ土俵にさえのっていれば、様々な意見があったとしても、自由に話すことができるだろうと思うのでした。
こうした価値観は子供の時につくられるものです。価値観を形成する時期に共に過ごした相手とは、当然のことながら、同じ価値観を共有できるでしょう。したがって、子供の時の友達とは、同じ帰属意識をもつことができるのだろうと私は分析しています。

>偽りの友情ですから、同意だけで反論はありません。(中略)自己を高める事も、間違いを修正される事もありません。

現実は、まさに、おっしゃる通りですね。しかし、私の経験から言って、相手のことを想っていろいろと言ってくれる人は、常にいるものだと思います。ただし、当人がそれを受け止められないということはあり得ます。あるいは相手が受け止めないということもあります。なぜか。その忠告が、受け入れやすい形で放たれていないからです。結局、価値観や、感受性が異なれば、いくらよかれと思って意見しあっても、すれ違って終わってしまうのです。
それを乗り越えることはできたのなら、相手と同じ価値観を共有したということであって、その人と友達になったということなのでしょう。この方策や、いかなるものか?と思ったりします。おそらく多くの人は無意識的に、それを行っているのでしょうし、私もまたそうなのだと思いますけれども。

お礼日時:2012/02/08 14:40

普通の平穏な生活をしている時は、相手が親友なのかどうかなど分からないです。



幼馴染で何十年も付き合いがある人でも、親友なのか腐れ縁なのかの判断は出来ません。
(自分で親友と思い込んでいる分には一向に構わない)


流石に、50年以上も付き合いが継続しているなら、親友と言ってよいでしょうが、20代の若い人ならどうなのか・・・。




相手が親友かどうかは、相手か自分がピンチになった時にはっきり分かります。
誰かが、「友人の価値は、その人が出来るだけ多くの金を貸してくれと助けを求めてきた時、どの位の金額を貸せれるかによって決まる」と言っていたが、一応にそれは言えている。特に社会人になればなお更です。


その人がピンチになった時、借金の保証人になっても良いくらい人生を捧げられるような友人。それが出来るような人こそ「親友」と呼べるのです。


実際に自分がその友人に、どういう判断を下すかは、「その時」にならないと分かりませんね。




>「偽装された友情」を退け、「本当の友情」と言うべきものを回復する手立てが無いものかと思います。これにはどのような方法が、考えられるでしょうか?


それは無理ですよ。だって、自分が「本当の友情」と思ってても、相手はただの成り行きで付き合っているだけ。いわゆる「偽装された友情」かも知れないのだから。

竹馬の友だって同じ。上に書いたような「ピンチ」(必ずしも金にまつわらなくても良い。何らかしらのピンチ)がない限り、幼馴染でもただの腐れ縁と言う「偽装された親友」かもしれない。相手がどのように思っているかなど、親しい友人なら自分も把握していると「思い込んでいる」だけであって、実際は分からないのだから。


ただ、定年退職してもまだ付き合いのある友人は、きっと親友です。
そして、本当の友情でしょう。


私の経験ですが、学生時代はグループに属しているただの知人(貴方が言うに偽装された友人)だったのですが、学校を卒業後に、ひょんな事で付き合いが増え、今では学生時代に仲が良かった友人よりも連絡を取り合っていると言う友人がいます。

その人が将来親友になるかどうかは分かりません。しかし、人間関係など、どのようになるか分からないのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。借金が顕著な例であるように、親友であることを証明する事件が無い限り、親友と確認することはできない。したがって、親友について議論することは、抽象論の域を抜けない、というわけですか。

こればかりは何とも言えません。私の欄の回答を見れば、ある方にしてみれば、「それは友人とは呼べないのでは?」という意見も見当たることでしょう。実際、私の欄にそういう投稿も来ました。

しかし、結局、当人がどう思うかは、全然別なのです。「思いこんでいる」ので十分なのです。なぜなら思いこむことで、相手の意見を真剣に受け止めることができ、また相手といて楽しいのですから。それで十分な恩恵ではないでしょうか。

お礼日時:2012/02/08 14:50

質問者様の意見には驚きました。

芸術家みたいな人なのかもしれません。

私はごく普通の人なので、ナスシズムの延長(偽装の友情)=世間一般の友情
という感覚を持っています。

多分、太宰の「走れメロス」みたいな世界が人間が求める理想の友情かもしれ
ません。しかし、それはやはり美しい芸術作品でしかありません。
本当に純真無垢な人間関係ですよね。

いくらかわいい幼児でも、一見すると無邪気のようにみえて計算高かったり、
邪悪な面はいくらでもあります。なのでそういうものを全てそぎ落として抽象化
したものが、質問者様のいう理想の友情なのでしょう。

芸術家は、そういうものを求め続けて作品に込めるのですね。
だから時には、体が解け合うくらいの愛や
全てを支配する為に相手の体の肉を食べつくすことが本当の愛の形であるとか
苦しんで何が本質なのかをいつももがき続けているんじゃないでしょうか。

私自身は竹馬の友ともナルシズムの延長(偽装の友情)であると思っています。
そして、そんな現実感を伴った孤独感をかかえることが「本当の友情」の
ような気がしてなりません。

俗物の意見からすると、そうなりますが。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。「芸術家」ですか。私はよく生きたいと思うだけで、芸術家ではありませんよ。しかし、あなたも中々、おっしゃいますね。

>私はごく普通の人なので、ナスシズムの延長(偽装の友情)=世間一般の友情という感覚を持っています。(中略)私自身は竹馬の友ともナルシズムの延長(偽装の友情)であると思っています。

自己批判的に、自らにそう切りこめる人は、少ないと思いますよ。この質問欄には、そういう方が集まってくださり、嬉しいと思っていますけれども。

>いくらかわいい幼児でも、一見すると無邪気のようにみえて計算高かったり、
邪悪な面はいくらでもあります。なのでそういうものを全てそぎ落として抽象化したものが、質問者様のいう理想の友情なのでしょう。

これは少し誤解があると思います。邪悪でもいいのです。もし、あなたが、相手の邪悪さを受け止められるのなら。私は時折、「知り合い」に愚痴をこぼされて戦慄することがあります。相手が非常に邪悪なことを嬉々として語っているからです。この時、相手の意見に同意できないからこそ、私はその方の友人ではないのだな、と感じます。逆に、私の「友達」が、世間一般から見ると邪悪なことを語っていたとしても、私は「仕方ないんだよな」とか、「まぁ気持ちは分かる」などと思うのでした。

問題は、絶対的な価値観から見て邪悪か否かではなく、主観的な問題なのです。その価値観を共有できているか否かです。子供とは価値観を形成する時期です。そして、すべての元の価値観を形成する時期です。根本を共有し合った相手とは、より純粋な気持ちで話せるのではないか、と私は思ったのでした。だから、極端な話、悪の価値観を共有し合った幼馴染同士が、共に悪事を働くこともあるだろうと、私は思っています。

お礼日時:2012/02/08 15:04

>二十歳を過ぎて竹馬の友と呼べるような友人を得た経験をした方があったら、その経験を交えつつ、それがどのようなものであったか、教えていただけないでしょうか。



 ないよ。

 唯一無二の親友と思ってた竹馬の友は先に事故で死んでしまった。彼にとって自分は良い友達だったのかと反省させられる。あんなこと言わねばよかったのではとか,しなければよかったのではとか。また,言えばよかったのではとか,したらよかったのではとか。

 このカテで誰かさんも言っているが,人を大切にするなら生きているうちだと思う。僕もこれから「本当の友情」を回復しなけりゃならないってことだ。

 友情についての質問ありがとう。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

>このカテで誰かさんも言っているが,人を大切にするなら生きているうちだと思う。

人の道さんですか? 私もそう思いますよ。そして、私がつけ加えて言えば、目の前にいる人を大切にするべきなんだろうな、と思います。私も昔、「知り合い」に死なれました。自殺でした。死ぬ前は、何とも思わない相手でしたが、死んでから、何かできただろうな、と思ったものです。省みれば、同じ苦しみを共有していた相手ではありました。以来、私の出来る範囲で、人を大切にしたいと心がけています。

もっとも、私は人間ですから、何もかもを受け入れるというわけにはいきません。私にも好みがありますし、上から目線で相手を受け止めてやるなどというくらいなら、友人にならない方がいいとも思っています。あくまで対等な関係です。そのためには受け入れることも必要だが、拒否することも必要だと思っています。

良いご友人が見つかりますように。お互いに。

お礼日時:2012/02/08 15:11

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