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「友情について」という質問で、友情とは何か、を先に質問したものです。今回はその結果を受けて、発展的な問いを投げかけさせていただこうと思います。

いろいろなご回答を読ませていただいた結果、友人とは自分のアイデンティティの基盤となる人間関係である――という考えが、一番、しっくりくるように思いました。ここで、アイデンティティが示すものは、精神の本来、帰属するべき場所という意味です。すなわち、心が安心し、緊張から解きほぐされるという意味です。「心のふるさと」を確認させてくれる人間関係と言い換えてもいいでしょう。
ふるさとであるというなら、もっとも理想的な帰属意識は、無邪気であった子供の時期と言えます。そこで、もっとも理想的な友人は、「竹馬の友」という言葉がある通り、幼いころから育った環境を等しくし、共通の価値観をもつ相手です。こうした相手は、好き嫌いに関係なく、共通の基盤をもっているので、表面的な諍いで関係が破壊されることはありません。激しい議論をすることができるでしょうし、お互いの問題点を注意し合うことができるでしょう。これがすべての友人関係の理想的な基本モデルと言ってよいのではないか、と私には思われます。

ところが、現代で「竹馬の友」をもつ人は、かなり少ないと言えます。それは引っ越しが多いとか、学校が離れ離れになるという要因が引き起こす問題であるように思います。高校の友人でさえ、連絡がつかないという人も多いでしょう。いや、それどころか、自らのアイデンティティをもつということ自体、時代遅れの考えとみなされる風潮にあります。では、心を安心させたい時、多くの人が採る手段は、どのようなものでしょうか。
一つの安易な解決方法は、偽の友達をもつことです。この偽の友達は、利害関係を共有していてはなりません。というのも、利害関係を共有しなければしないほど、緊張が少なく、相手に対して寛容さを示すことができるからです。相手が訳の分からないことを言い出しても、実質的に自分に損害が無い限り、微笑んで聞いてあげることができるでしょう。気楽に慰めてあげることができるでしょう。しかし、こうした偽装した友人関係では、突っ込んだ議論をするや否や、関係が破綻してしまいます。なぜなら、あくまで表面的な関係であって、Yesしか言わないことによって、相手が観たいものを見せているに過ぎないからです。つまり、相手の幻想を映す鏡となるだけの関係であるからです。しかし、このような偽装された友情は、他者との交流であるというより、ナルシシズムの延長と言ってよいものです。

私としては、「偽装された友情」を退け、「本当の友情」と言うべきものを回復する手立てが無いものかと思います。これにはどのような方法が、考えられるでしょうか? もし、二十歳を過ぎて竹馬の友と呼べるような友人を得た経験をした方があったら、その経験を交えつつ、それがどのようなものであったか、教えていただけないでしょうか。これは、前回の問いに比べて、かなり難しい問いだと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

A 回答 (16件中1~10件)

あなたは凄いですね。



読み終えて感心してしまいました。
男の私には親友と呼べる友人が4人います。
あなたの言う様に、何でも話せ、一緒にいても気を遣わずいられる仲の友人です。
しかし、その4人は保育園からの付き合いですから、やはり竹馬の友ということですね。
私は20代半ばですが、周りの様子を見ていると、どれだけ仲良くしていても毎日一緒にいるような仲でさえ、注意が出来ない。叱ることのできない仲のまま付き合っている人ばかりです。
しかし、そのような人はとても友達(知り合い)が本当に多い様に感じます。
人間関係って難しいですね。
私にとって、20歳超えてからあなたの言う竹馬の友の条件に当てはまるのは、元カノです。
3年半付き合って、同棲もしていましたが別れました。
しかし、心置きなく何でも話せ、一緒にいてお互い楽しく、喧嘩もできる、互いの事を理解してるからすぐに仲直りできる。
と言う事で、今は友人として一緒に遊びに行ったり、電話で長電話したりしています。
恋愛相談もしたりされたりしています。
これって竹馬の友だと思います。

ちなみにセックスはありません。
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この回答へのお礼

おほめにあずかり光栄です。しかしNo1の方のいうように、大人は、まがいもので満足するものです。私もその点には同意しています。しかし、それでは私は満足できない、と考えて、この質問を投稿しました。ですから私の場合、ダブルスタンダードだとお考えください。現実世界では、ニコニコ笑って、多くの浅く広い友人に囲まれています。しかし心のどこかで、満たされない気持ちがあるというわけです。

おっしゃる方は、本当に親友なのですね。きっと深くお互いのことを想いやっているのでしょう。恋人ともなれば相手の行動場ターンや、人格や、性格リズムなど、おおよその形を知っているものです。そうであるのなら、お互いのペースに配慮しつつも、上手くやっていけるような気がします。元恋人が竹馬の友と言える友人になりうる、と。一つ覚えてまいります。

お礼日時:2012/02/07 13:17

偽装してまで友人が欲しいほど人間関係に苦労をしている人であれば、その人自身は、自分に何が問題があるのかを気付いているはずです。

それを直すことをせずに安易に友情を得ようとするのは意味がありません。
そもそも上辺だけでも心安らげる場所が欲しいという甘えに、その人の問題の本質があると思いますので、20歳過ぎたのであれば、ちゃんと自分を振り返るということが、重要でしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。わかっていても、現実では仕方のないこともあるのです。ご老人のようですが、よほど恵まれた環境で生きてこられたのですね。

お礼日時:2012/02/10 03:41

No7及び14です。



>夢であるから、受け入れるというお気持ちが今一つ私には追えないのです。もしよかったら、少し教えていただけませんか?

はい、これは私に限ってなのかもしれません。
ただ、夢かもって思うだけで気が楽になるだけなんです。私の場合。
どうも私には変に気負って生きてしまうところがありまして……。
当時の私は、なんと申しましょうか、自分をちゃんと持たなきゃとか言いますか、ちゃんとしなきゃって思っていました。
ちゃんとする為に筋道を立てて物事考えて、全部がロジカルに繋がるようにしなきゃって。
それもこれも今この瞬間も一度しかないし、全て慎重になってしまうんです。
そして安牌しかきらない。ベタ降りしちゃうんですね。
周りの意見が耳に入り辛くなってきちゃうんです。
自分の考えのみに固執してしまいがちになるんです。
自分の中で繋がったロジックに固執しちゃって、人の忠告や助言なんて耳に入らない。受け入れない。
そういう時に、いやいやまてよと。これも誰かさんの夢かもしれないぞと。
夢オチならまぁ一度受け入れてみても良いかもね。なんて決着つけて、受け入れる事ができるようになるんです。
変化や異なる意見に対しても臆病なんですよね、きっと。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。なるほど、冒険する踏ん切りがつくということですね。

お礼日時:2012/02/10 03:34

No7です。



>しかし私はまた他の意味もあると考えています。他の回答者の方が、長い年月、一緒にいた人が、気付くと親友と呼べる関係になっていた、と言ってくださいました。

そうですね。長い年月一緒にいて気が付いたら親友……。解ります。
それってのはお互いに「似てくる」事なのだと思います。
「似てくる」何が?
考え方(アルゴリズム)や発想等だと思います。
これは長く時間を共有しコミュニケーションをとっていく中で、お互いの感性や思考に感染していくのだと思います。
しかもそのコミュニケーションが濃ければ濃いほど。そしてどの様なコミュニケーションであろうとも(ケンカでも議論でも何でも)。
たまにいますよね。大阪人の友達とつきあっていると、徐々に口調が大阪弁になってくる関東人って。
あんな感じです。
それが相互に作用しあって「似てくる」。
「似てくる」と価値観も「似てくる」。
相手が考えている事が解ってくる。
阿吽の呼吸も生まれてきます。
結果簡単に言えばすっごい気が合うって事になりますよね。

これは実は夫婦にも言える事だと思います。
私の妻と私は、生まれ育った地域も環境も性格も全く異なります。
よって当然竹馬の友的なピュアなレベルでの価値観の共有等はありえません。
しかし付き合いと結婚してから合計でまだ15年という月日ですが、今やお互いの発想やアルゴリズムがかなり同じくなってきています。
結果としてほぼ阿吽の呼吸が生れてきています。
出会った頃や恋人同士であった頃と今を比較すると、そりゃあもう大きく変わりました。

お互いが「似てくる」事によって異なった土俵から同じ土俵になるのではないかと勝手に結論付けています。



>私の経験から言って、相手のことを想っていろいろと言ってくれる人は、常にいるものだと思います。ただし、当人がそれを受け止められないということはあり得ます。あるいは相手が受け止めないということもあります。なぜか。その忠告が、受け入れやすい形で放たれていないからです。

そして「受け入れやすい形で放たれる」確かにそれもあるでしょう。そして「受け入れる構え」も必要ですよね。
むしろ「受け入れる構え」の方が重要な気がします。
ここの質問でも多々見受けられますが、回答者がとても理に適った正しいと(私は)思える回答をしているのに、自分に耳障りの良い意見しか受け入れない質問者。
これは確実に「受け入れる構え」が無いですよね。本当に相談して解決したいのであれば、明日のジョーの両手ブラリ作戦くらいの気構えが無ければどんな助言も忠告も無駄です。
そうすると、「乗り越える」よりもそれ以前の段階になると思うんです。当然「乗り越える」というパターンも存在しますが、多くは以前の段階になると思います。
それは相手に何を求めるかです。
No7とちょっぴり重複しますが、偽りの友情に耳障りの良い、心地よい、肯定的な意見を求めてしまうんです。
そしてその関係を友情と錯覚する。
しかもお互いがそれを求めているわけですから、乗り越える事は難しいでしょう。
よって今の世の中偽りの友情で溢れかえっているのでしょう。
私だって偽りの友情はたくさんあります。
むしろはるかにそっちの方が多いかもw

でも、何処かで本当の友情も欲しいと欲するのが人というものですよね。


「人みな、情に縛られ苦にもがき、財に溺れ富を欲し名を求む。
されどその命、胡蝶の夢やもしれぬ」
って荘子伝かなんかに書いてました。
これを中学生の時に読んで、自分の人生ももしかしたら胡蝶の夢かもしれないんだから外部環境の変化や、他人の忠告や助言、お叱り……とりあえず全て一度受け入れてみようとその時思いました。
どう転んでも胡蝶の夢かもしれませんからね。
だったら拒絶するよりも受け入れる。そう考えると色々な人と解り合える、価値観を共有する機会が圧倒的に増えて、友情を持ち得るチャンスも増えると思っています。
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この回答へのお礼

丁寧に書いてくださり、どうもありがとうございます。似ること、相手と波長を合わせること――そんなふうにして、友人を作ることもできるでしょうね。恋人や夫婦も、確かにそんなところがあります。

心なしが御夫婦は、風貌が似ているような気がします。おそろいのメガネとか、同じメーカーの服を着ているなど、外見の問題もあるでしょうけれど、アルゴリズムが似てくるでしょうね。というか、お互いがお互いのアルゴリズムを読んで、合わせる気がなければ、そもそも、恋人としてのお付き合いできないとも私は思うのです。ちょっと恋愛の方に話が少し広がってきてしまいました。

>むしろ「受け入れる構え」の方が重要な気がします。(中略)自分の人生ももしかしたら胡蝶の夢かもしれないんだから外部環境の変化や、他人の忠告や助言、お叱り……とりあえず全て一度受け入れてみようとその時思いました。

胡蝶の夢、ですか。無論、その説話は知っています。しかし、夢であるから、受け入れるというお気持ちが今一つ私には追えないのです。もしよかったら、少し教えていただけませんか?

お礼日時:2012/02/09 16:16

NO.12 です。


補足要求と思いましたので、ちょっと付け加えさせていただきます。
>回答者様は、友人らより恵まれていて、御健康で、頭もしっかりしてらっしゃる。だから与えることができるわけです。しかし、持たざるものになってしまった時、ご友人を失われるのでしょうか?

そうなるかもしれません。それはそれで仕方がないと思います。現実は理想のようにはいきません。稀有なものだと最初に書きました。
でも今私が彼にしているように、誰かが見舞いに来てくれることも、全くないとはいえないだろうと思っています。
疑えばきりがないというのもそのとおりでしょう。私自身何度も「友人」に裏切られた辛い経験をもっています。でも世の中には確実なことは何一つないのです。誰もが親友を作れるとは限らないし作れないとも限らないと私は言おうとしたのです。
最初のフィクション2例に見られる友情の根幹は、心底信じ合うということです。人を殺してきた、という友人の言を相手は疑い、(そんなことができる男ではないと男自身を)心の底から信じており、義は彼にあると思ったからこそ彼をかくまうことが出来たのです。実際、彼は殺人など犯しておらず、ただ羊の首を提げていただけなのです(メロすの話も同じような筋です)が、それをお互いに見破るだけの強い信愛が二人にはあったのでしょう。こういった友愛は片方からだけの努力では作れません。二人の間のあうんの呼吸が必要です。親友とはそういうものだと私は思うのです。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。私は持たざる者でも友人を作れるはずだ、と考えたかったのでした。そして、持たざる者であるという仮定に基づくということは、利害を超えた関係ともみなせます。なぜこういうことを言うかといえば、現代が格差社会になって、持たざる者がどんどん増えてくるだろうという問題意識があるからです。

阿吽の呼吸――おっしゃる通りですね。しかし私は案外、信じるばかりではなく、疑い、相手の本音を探り当てることが必要なのかなと思います。そして探り当てられた時に、「かなわないなぁ」と笑って話せる関係が理想だと思います。人は欺くものです。あるいは、言語の運用力の問題で、正確に自分の感情を表現できる言葉をもたないということもあります。そうした時は、周囲が言い当ててやることも必要なのかと思うのでした。

お礼日時:2012/02/08 17:39

本当の友情っていうのは実に稀有なものだろうし、世の中にはほとんど存在しないと諦めたほうがいいと思います。


中国の故事ですが、人を殺めて、その首を袋に入れて親友宅を訪れ、「よし、何も言うな。」と受け入れてくれるような、またよく知られた「走れメロス」の親友関係など、この世にあるはずがない、と思ってしまいますよね。これらは理想の世界です。求めてはいけません。

1)私が月いちで見舞っている同年の友人は貴方のくくりに合った友人ですが、くも膜出血で2年以上寝たきりで、大した会話もできないのですが、向こうの親族とすれば、やはり私を親友だと考えてくれているでしょう。

2)他にもメールを交わしている数人の竹馬の友がいますが、親友と呼べるかどうか、やはり身近かにいなければ交流はできないと思いますし。

結局、私が思うに、自分から相手に対価を求めたら親友とは成り得ないとおもます。ひととの付き合いは愛の一種が関係します。与えるばかりで、しかし、それでも得られるものがある。だから継続する。そういったものだと思いますよ。
徒然草に友人について書かれた段があります。いい友とは、ものをくれる友である。兼好法師は友人に恵まれていたのでしょう。相手は無償の奉仕を続けて、彼を友人と思っていたのですから。

捧げられる徳を持つのは誰にでもマネのできることではありませんが、捧げることは原則誰にでも出来ると思います。
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この回答へのお礼

ご回答というより、人生経験に基づく、ご忠告と受け取った方がよさそうですね。どうもありがとうございます。しかし私に言わせれば、疑えばきりはないのです。創作物は大袈裟な事例を出しますね。そして、友人なら、きっと無茶なことを受け入れてくれるはずだと期待し、創作物ではそうなるのです。しかし現実は、なかなか単純ではありません。だから創作物をカウントに入れても、あまりよい議論はできないかもしれません。

たとえば、カントは、殺人を犯した友人が匿ってくれと言ってきた時、相手のためにならないからと、警察に引き渡したそうです。表面だけなぞれば、カントは冷徹に思えるでしょうが、これもまた、友人だと私は思います。似たような例はいくらもあるでしょう。友人を諫めたり、相手のためを思って毒を吐いたりすることもあるでしょう。
相手のことを想って拒否できるのもまた、友人ならではだと思います。与えるばかりで構わないと腹をくくった友情は、持てる者が行う、勇気のない友情だと私には思えるのでした。その先を目指せなければ、そもそもその相手と付き合う意味が無いでしょう。

無論、お書きになっていないだけで、与えるばかりでよいと腹をくくること自体が物凄く大変な決意であろうとは思います。しかし、どうなのでしょうね。回答者様は、友人らより恵まれていて、御健康で、頭もしっかりしてらっしゃる。だから与えることができるわけです。しかし、持たざるものになってしまった時、ご友人を失われるのでしょうか?

お礼日時:2012/02/08 15:36

人間の認識できる最大の時間について


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/150251.html


他人の言葉の理解について
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3240661.html


無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4148911.html


日本人はけっきょく死にたいと思っているのでしょうか
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6363839.html



169話「導かれしバカたち」
http://say-move.org/comeplay.php?comeid=20168

170話 「そして伝説へ」
http://say-move.org/comeplay.php?comeid=21316

「Et tu, Brute?」

~ミトコンドリア母性遺伝メカニズムの一端を解明~http://www.protein.bio.titech.ac.jp/result/resul …

ミトコンドリア
http://www.tmd.ac.jp/med/phy2/research/mitochond …
女神か悪魔か
http://www.tmd.ac.jp/med/phy2/lab/essay_challeng …

がんおよび自己免疫疾患にかかわるタンパク質の構造を解明
http://www.hokudai.ac.jp/bureau/topics/press_rel …

生命の起源
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD% …

性淘汰
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E6%B7%98% …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。ジャンプのマンガがお好きですか。「銀魂」のリンクは観ましたよ。なかなか熱い言葉が多すぎて、どれがあなたのご意見を代弁している言葉か、わかりませんでしたけれども。基本的に私は、明晰に書かれているものが好きですので、他のリンクは開けてみもしましたが、あまり深くは考えませんでした。

お礼日時:2012/02/08 15:22

>二十歳を過ぎて竹馬の友と呼べるような友人を得た経験をした方があったら、その経験を交えつつ、それがどのようなものであったか、教えていただけないでしょうか。



 ないよ。

 唯一無二の親友と思ってた竹馬の友は先に事故で死んでしまった。彼にとって自分は良い友達だったのかと反省させられる。あんなこと言わねばよかったのではとか,しなければよかったのではとか。また,言えばよかったのではとか,したらよかったのではとか。

 このカテで誰かさんも言っているが,人を大切にするなら生きているうちだと思う。僕もこれから「本当の友情」を回復しなけりゃならないってことだ。

 友情についての質問ありがとう。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

>このカテで誰かさんも言っているが,人を大切にするなら生きているうちだと思う。

人の道さんですか? 私もそう思いますよ。そして、私がつけ加えて言えば、目の前にいる人を大切にするべきなんだろうな、と思います。私も昔、「知り合い」に死なれました。自殺でした。死ぬ前は、何とも思わない相手でしたが、死んでから、何かできただろうな、と思ったものです。省みれば、同じ苦しみを共有していた相手ではありました。以来、私の出来る範囲で、人を大切にしたいと心がけています。

もっとも、私は人間ですから、何もかもを受け入れるというわけにはいきません。私にも好みがありますし、上から目線で相手を受け止めてやるなどというくらいなら、友人にならない方がいいとも思っています。あくまで対等な関係です。そのためには受け入れることも必要だが、拒否することも必要だと思っています。

良いご友人が見つかりますように。お互いに。

お礼日時:2012/02/08 15:11

質問者様の意見には驚きました。

芸術家みたいな人なのかもしれません。

私はごく普通の人なので、ナスシズムの延長(偽装の友情)=世間一般の友情
という感覚を持っています。

多分、太宰の「走れメロス」みたいな世界が人間が求める理想の友情かもしれ
ません。しかし、それはやはり美しい芸術作品でしかありません。
本当に純真無垢な人間関係ですよね。

いくらかわいい幼児でも、一見すると無邪気のようにみえて計算高かったり、
邪悪な面はいくらでもあります。なのでそういうものを全てそぎ落として抽象化
したものが、質問者様のいう理想の友情なのでしょう。

芸術家は、そういうものを求め続けて作品に込めるのですね。
だから時には、体が解け合うくらいの愛や
全てを支配する為に相手の体の肉を食べつくすことが本当の愛の形であるとか
苦しんで何が本質なのかをいつももがき続けているんじゃないでしょうか。

私自身は竹馬の友ともナルシズムの延長(偽装の友情)であると思っています。
そして、そんな現実感を伴った孤独感をかかえることが「本当の友情」の
ような気がしてなりません。

俗物の意見からすると、そうなりますが。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。「芸術家」ですか。私はよく生きたいと思うだけで、芸術家ではありませんよ。しかし、あなたも中々、おっしゃいますね。

>私はごく普通の人なので、ナスシズムの延長(偽装の友情)=世間一般の友情という感覚を持っています。(中略)私自身は竹馬の友ともナルシズムの延長(偽装の友情)であると思っています。

自己批判的に、自らにそう切りこめる人は、少ないと思いますよ。この質問欄には、そういう方が集まってくださり、嬉しいと思っていますけれども。

>いくらかわいい幼児でも、一見すると無邪気のようにみえて計算高かったり、
邪悪な面はいくらでもあります。なのでそういうものを全てそぎ落として抽象化したものが、質問者様のいう理想の友情なのでしょう。

これは少し誤解があると思います。邪悪でもいいのです。もし、あなたが、相手の邪悪さを受け止められるのなら。私は時折、「知り合い」に愚痴をこぼされて戦慄することがあります。相手が非常に邪悪なことを嬉々として語っているからです。この時、相手の意見に同意できないからこそ、私はその方の友人ではないのだな、と感じます。逆に、私の「友達」が、世間一般から見ると邪悪なことを語っていたとしても、私は「仕方ないんだよな」とか、「まぁ気持ちは分かる」などと思うのでした。

問題は、絶対的な価値観から見て邪悪か否かではなく、主観的な問題なのです。その価値観を共有できているか否かです。子供とは価値観を形成する時期です。そして、すべての元の価値観を形成する時期です。根本を共有し合った相手とは、より純粋な気持ちで話せるのではないか、と私は思ったのでした。だから、極端な話、悪の価値観を共有し合った幼馴染同士が、共に悪事を働くこともあるだろうと、私は思っています。

お礼日時:2012/02/08 15:04

普通の平穏な生活をしている時は、相手が親友なのかどうかなど分からないです。



幼馴染で何十年も付き合いがある人でも、親友なのか腐れ縁なのかの判断は出来ません。
(自分で親友と思い込んでいる分には一向に構わない)


流石に、50年以上も付き合いが継続しているなら、親友と言ってよいでしょうが、20代の若い人ならどうなのか・・・。




相手が親友かどうかは、相手か自分がピンチになった時にはっきり分かります。
誰かが、「友人の価値は、その人が出来るだけ多くの金を貸してくれと助けを求めてきた時、どの位の金額を貸せれるかによって決まる」と言っていたが、一応にそれは言えている。特に社会人になればなお更です。


その人がピンチになった時、借金の保証人になっても良いくらい人生を捧げられるような友人。それが出来るような人こそ「親友」と呼べるのです。


実際に自分がその友人に、どういう判断を下すかは、「その時」にならないと分かりませんね。




>「偽装された友情」を退け、「本当の友情」と言うべきものを回復する手立てが無いものかと思います。これにはどのような方法が、考えられるでしょうか?


それは無理ですよ。だって、自分が「本当の友情」と思ってても、相手はただの成り行きで付き合っているだけ。いわゆる「偽装された友情」かも知れないのだから。

竹馬の友だって同じ。上に書いたような「ピンチ」(必ずしも金にまつわらなくても良い。何らかしらのピンチ)がない限り、幼馴染でもただの腐れ縁と言う「偽装された親友」かもしれない。相手がどのように思っているかなど、親しい友人なら自分も把握していると「思い込んでいる」だけであって、実際は分からないのだから。


ただ、定年退職してもまだ付き合いのある友人は、きっと親友です。
そして、本当の友情でしょう。


私の経験ですが、学生時代はグループに属しているただの知人(貴方が言うに偽装された友人)だったのですが、学校を卒業後に、ひょんな事で付き合いが増え、今では学生時代に仲が良かった友人よりも連絡を取り合っていると言う友人がいます。

その人が将来親友になるかどうかは分かりません。しかし、人間関係など、どのようになるか分からないのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。借金が顕著な例であるように、親友であることを証明する事件が無い限り、親友と確認することはできない。したがって、親友について議論することは、抽象論の域を抜けない、というわけですか。

こればかりは何とも言えません。私の欄の回答を見れば、ある方にしてみれば、「それは友人とは呼べないのでは?」という意見も見当たることでしょう。実際、私の欄にそういう投稿も来ました。

しかし、結局、当人がどう思うかは、全然別なのです。「思いこんでいる」ので十分なのです。なぜなら思いこむことで、相手の意見を真剣に受け止めることができ、また相手といて楽しいのですから。それで十分な恩恵ではないでしょうか。

お礼日時:2012/02/08 14:50

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