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宇宙が無限かどうかは今世紀中でも証明できないものと考えます。

ましてや、一般の素人の人間が答えをだせるわけもないのは明らかだと思うのですが
なぜこじつけてまで答えをだそうとするのでしょうか?

別の例では、医者でもないのに勝手に病気と判断する患者はなぜそうするのでしょうか?

なお、そういう質問をする方を攻撃するつもりではなく、人間理解を深めたいという意図ですので
誤解なさらないようお願いします。

A 回答 (10件)

3番目の回答者です。

また来ました。

> 分からないものを分かった振りをして先に進む方が不安なような気がします。

ごもっとも。でも、だからこそ、自分で作った仮説に頼って「自分はわかっているんだ」と自分を欺いて、自分を安心させるわけです。これは誰でもあることだと思いますし、「分かってないという自覚があって、分かっているフリをしている」とは、本人は思っておらず、あくまでも本人としては分かっているつもりなのです。だって、分かっているつもりになっていなければ、不安ですから。

例えば、「会社の社長さんが、内心では自分の会社の行く末について疑っているけれど、リーダーとしてそういう姿を見せれば社員の士気に関わるので、不安を隠して表向きは全部分かっているように演じる」という例であれば、これは、自分はわかっていない自覚があるが、部下を不安にさせないために分かっているふりをしてみせていることになります。

しかし、そうではなくて、この社長さん自身が自分の不安感を消すために、自分で自分を騙して「これは大丈夫だ。私はこの分野についてよく知っている」と思い込む場合は、本人には「自分には分からない」とか「分かっているふりをしている」いう自覚はないです。

実のところ、これは全知ではない人間が心穏やかに生きていく上で、必要なものではないでしょうか。世の中のこと地球のこと人生のこと、何もかも分からない事だらけだといつも思っていたら、分からないがゆえに作り上げてしまう「想像もできない怖い未来」にいつも恐怖することになってしまう可能性があります。そんな状態では精神の健康を維持できません。だから、分かっていないという事実そのものを本能的に無視し、心の平和を保つわけです。これは、やり過ぎると偏見や傲慢の原因となる危険な習慣ですが、しかし、ある程度は必要なことだと思います。どれくらいやるかは、人それぞれですが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

以前、まったく別の質問にあった目隠しをすれば怖くないというのと似てますね。
多少具合が悪くても、生きていけるだけでもよいということなんでしょうね。

お礼日時:2012/04/11 08:06

体感覚の不調という記号であれば、いいんだけど


ということでしょうか。
病気という記号に勝手に代入するなということ?

じゃあそもそも、病気という記号はなんの為のもの?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

治療の管理のためではないでしょうか。

お礼日時:2012/04/11 18:03

鈴木大拙博士の本の中に『疑問はその疑問を感じた、その問いの中に存在する。

』と云う言葉があります。

この意味は『全ての問いは、その答えを求めているいる本人自身からの、内部の中に既に用意されている。』というほどの意味ですが、『何故疑問に思うのか?』と云う事を問うています。

自分に疑問を抱かせている者は『誰か?』と云う事になります。

答えはその本人自身の中に存在します。

その理由は『他人の答えでは満足出来ない事』です。

本人自身が納得する答えは、本人自身が見つける以外は存在しない、というほどの意味になります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/04/11 07:59

「知ったかぶり力」とか「誤解力」と表現しましょうか。

これが最も有効に働く場合を考えてみました。
人が未知の土地・未知の環境で暮らさなければならない場合を考えます。さし当り飲む・食べる・寝る条件を見つけなければなりません。「さし当り」生き延びるために「自分だけの判断」をしなければなりません。正しさが確認できるまでは判断しないという方法論を選ぶことは出来ないのです。人が厳しい環境下でも生き延びるための重要な能力として「知ったかぶり力」とか「誤解力」が大切なのです。厳しくない環境でこの能力の発揮を慎むことはその人の「知恵」でしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/04/11 08:12

僕はかつて博物館の学芸員として、種々の研究会に参加し、


「研究者」や「専門家」といわれる人々と討論したが、
専門家といえどもまさに『専門』家で、専門分野の知識は
豊富だが、それ以外のフィールドはもとより、自身の研究
対象の総合的な位置づけさえ素人レベルの“研究技術者”
の人が多い。

とはいえ現代は、詰め込み教育世代の、バラバラの知識の
詰め込みで育った、世界観・価値観・生命観の乏しい歯車
人間が量産されており、ちょっと聞きかじると自分がすごく
突出した人間のように勘違いしやすい(そして自分に分から
ないのは相手が間違っている)。

ここで答えを見つけようと期待せず、10年後の自分への
ヒントを探す、ぐらいのスタンスでいいんじゃないか。
(たかが1つの文章に触れて理解できる程度の本質を見つ
けるために、有史以来無数の有能な人々が延々と努力して
きたと思うなかれ)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/04/10 19:40

”医者でもないのに勝手に病気と判断する患者はなぜそうするのでしょうか?”


   ↑
原発の専門家でもないのに、原発なぞ見たことも触ったこともないのに、
核の専門家でもないのに、電気の専門家でもないのに
原発の安全性、危険性について蕩々と語る人がいかに多いことか。

宇宙論など、時代とともに変化していくでしょう。
暗黒物質など、昔は判らなかったことです。
今後どうなるか、なんて誰にも判りません。

皆、限られた情報を元に、間違ったことを言っているだけです。

それを禁じられたら、人間は何もも言えなくなってしまいます。

だからこじつけをしてまで、ばあいによってはウソをついてまで
答えをだそうとするのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

原発については、素人でも段階を追って調べていけば安全性の検証は可能だと思います。
とはいえ、ほとんどの議論は裏づけをとってませんから実体はおっしゃるとおりでしょうね。

お礼日時:2012/04/10 19:46

>>なぜ人知を超えた事柄を質問するのか



○どのような疑問であれ、人としてより大きな認識力を養うために質問するのでしょうし、それに応える人もいるということですね。
真理は偶然の中にあるわけでもなければ、人間の考えるような陳腐なものでもありません。ブッダが説く通り、「真理は簡単なものの中にある。」が正しい見解ですが、それをどこまで理解できるかは個々のものですね。この簡単な言葉をどこまで理解できるかが人の知に対する要求なのですね。このように漠然と書いても常識という罠に落ちた人間には理解できないかもしれません。
例えば、ありが墨田タワーの前で、これは有限か無限かと他のアリに質問しても、答えることは出来ないでしょう。でも、人間は墨田タワーは作られたものであり、有限のものであることを知っていますね。墨田タワー程度のものは東京タワーも近くにあるし、世界では沢山あることも知っているでしょう。このように知っている者は、アリをみてなんと認識力の小さき生き物かと笑うでしょう。
さて、私が何を行っているかがわかるでしょうか。
認識力を拡大した者は、宇宙は墨田タワーのように有限であり、沢山あるのが本当の世界であることを知っているということなのです。そのような者から見れば、あなたの質問はアリの質問ですが、もう少し広い認識力があることを知ってもらいたいがために答えるのですね。
宇宙から見れば地球人は、アリ、いやもっと大きいですから、牛や豚程度にしか見ない知的生物もいるということなのですね。じゃなぜ、牛や豚のように食べられ無いのだ。というかもしれませんが、宇宙の知的生物には高度な協定があるからなのです。知ろうが知るまいが協定の下に生かされている低能な哀れな生物が人間なのですね。でも、知れば対等になります。知は力ですからね。
その力を得るために「我は不条理なものを信じる」なのです。アリでいたいなら常識という陳腐な井戸で遊んでいればよい。
「常識など気にせず質問しなさい。さらば答えん。」というのがまっとうな哲学者の見解ですね。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

補足日時:2012/04/10 19:49
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『不条理なるが故に我信ず』という、2世紀ごろのキリスト教神学者テルトゥリアヌスの言葉もあるように、人間は、人知の理解を超えている事柄であるにもかかわらず、というより、人知の理解を超えている事柄であるからこそ、何か特定の考えを信じずにはいられない。

そういう部分が、人間の心の中に、習慣的なものとして存在しているのでしょう。

日常生活を生きていくとき、ある物事には、その原因があるのだ、という考え方にそって行動をするのは、かなり成功率の高い戦略です。まぐれ当たりを期待して行き当たりばったりに行動するよりも、原因と結果を分析して計画的の行動する方がよいと。

でも、その習慣が身に染み付いてしまえば、今度は、理由も原因もわからない出来事にあったときに、なにをどうしていいか分からない、これからさらに何が起こるかわからない、ということが、ものすごく不安になります。そして、不安から逃れるために、いんちき臭くてもいいから、何か理由を考えだそうとする。これは、ある意味、心の「生活習慣病」かも知れません。原因と結果を考える習慣が身に付いているから、そのルールから外れたものを放置するのは苦痛なんですよ。

分からないものを分からないまま放置し、しかし、分からない「何か」が目の前に存在していることを、ただ事実として淡々と受け入れるというのは、かなり難しいことですね。私なんか、ちょっとでも予想外のことがあるたびに、「なぜだぁ!!!」と、うろたえてばかりいます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

分からないものを分かった振りをして先に進む方が不安なような気がします。

>私なんか、ちょっとでも予想外のことがあるたびに、「なぜだぁ!!!」と、うろたえてばかりいます。

落ち着いていれば予想外の最初の兆候で処理できるんですが
焦らない状態の維持ってことが難しいと感じるこのごろです。

お礼日時:2012/04/10 20:06

ニーチェが言った「真実は存在しない、存在するのは解釈と見解である」という、一語一句、正確には覚えていませんが、そんな言葉があります。

ですから人同志、異なる意見や応えや考え方なのでしょうね、的を得た回答をできてないとは思いますが、これも解釈のちがいかしら?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/04/10 19:50

最近の研究は 1.仮説を立てる → 2.それを証明するデータを集める こうなってるからではないでしょうか。


まったくの0から真実や現実を断片からくみ上げられる、それは天才と言われた過去の偉人の中でもごくわずか。

医者でもないのに~ は自分の知ってる範囲で収めたいという不安の裏返しかな。
難病であってほしくないから適当に決め付けたい、そんな感じ?

この回答への補足

回答ありがとうございます。

仮説をたてるのにも、いろいろな証拠(らしきもの)を元に立てると思うのです。

補足日時:2012/04/10 19:52
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