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律法を守ることの能力的限界感の解決が新約であり悪人正機だったのではないか?

さらにいえば、律法もイデアに過ぎず(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7440020.html
求めるべきはその姿勢であるにもかかわらず、精神が失われ形式化していった結果、「どうせ守れないんだし」ということで否定されたのではないか?

A 回答 (4件)

ピントがずれていたらお許しを。

悪人正気説について。

宗教者は 人の救済を考え実行していく モノと思います。親鸞もそのうちの1人でしょう。『全ての人を救済する』という命題を追求したと思います。仏の教えに帰依しなければ救済されない ということであれば全ての人の救済はできないことになる という仏の教えの限界に気がつき その上で 全の人の救済を考えたと思うのです。その方法としてたんに『全ての人は救われる』 と主張するより 『善人が救われるなら悪人が救われないわけがない』と主張するほうが より説得力があると考えた と思うのです。人の2項分類は 悪人と善人、支配者と非支配者、金持ちと貧乏人、健常者と障害者、勝者と敗者・・・・など多々あると思いますが、悪人/善人は 分かりやすい分類としてとらえ 悪人正気説になったのではないでしょうか。また 救済するモノは 諸行無常の真理ではなく 偶像であるとした方が大衆理解が得られ易いとして 阿弥陀仏 を持って来て 阿弥陀仏は全ての人を西方浄土に導く としたと思うのです。この阿弥陀仏/西方浄土 の構図はキリスト/天国 の構図と似ており 浄土真宗には景教の影響があったという気がします。それ以前の仏教言葉での救済の限界を取り外したものが悪人正気説であろうとは思います。しかし 前提の宗教によって人を救済する ということは 教えを信じさせることであり 相当な問題も発生させてきたと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「私には念仏しかできないから、それで地獄におちてもしかたがない」という境地と
西方浄土へ執着するこころは隔絶の差があり

同一メソッド内においても、それは歴然と存在するものなのでしょう。

お礼日時:2012/04/30 09:56

 悪人正機、についての私見。



 まずは他力本願についての感想から。
 これは阿弥陀仏の本願力に頼ってこそ救われる、という考えですがそのように「頼ろうとする心」は“意志”でもあるので、だからそうした心は“自力心”と言えます。
 そう思えば他力本願の内容には、自力も含まれており佛の願いと衆生の思い(求め心)が一致する、此処に救いのチカラが発生するのだと思います。

 そんな視点で「悪人正機」を考えると、
 この娑婆の世界に生まれてしまった人間に対する仏の慈悲心は善人は元より、さらに「悪人」には注がれているように思う、といった事ではないかと受け止めています。

 出来の悪い子供ほど親はかわいい、というわけです。
 でも、その「悪人」が求め心を起こすからこそ、そこに佛との交流が発生するのでしょう。

 調べてみたら「善人尚以て往生す、況や悪人をや事」は法然の口伝にすでにあるらしい。
 法然は
 “我は唯、佛にいつかあふい草、心のつまにかけぬ日ぞなき”
 と歌を詠んだように、念仏三昧によって悟りの世界に入られたようです。

 その法然の意は、自ら望んで生まれたわけではない「悪人」への仏の思いを表現したのだと思いますが、自身の強い煩悩を消しきれなかった親鸞には、ほんの少し“能力の限界”への嘆きを含ませていたかもしれませんね。

 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

法然にしろ親鸞にしろ、凡夫がその意をありのまま理解するのは難しい。
ゆえに、難しいことは脇において念仏に集中することが大切なのかと思います。

お礼日時:2012/04/30 09:38

『どうせ守れないんだ』とはパウロの説です。


守れないのは、当然です。我々人間はそれを守れなかったから人間として生まれたのです。

聖書を読んで人間が簡単に永遠の命を得、天の国に生まれることができると思ったら、大間違いです。
では、なぜイエスキリストは神の戒めを守れと言ったかというと。
永遠の寿命である神の国の住人は誰一人神の戒めを守らない者はいないからです。もし、神の国に入りたいのであれば、神の戒めを守らなければなりません。もし、守れないのであれば、神の国には入れないと言うことです。

人間が天国に入ることはどれほど難しいか、スエデンボルグの次の言葉からも推察できます。
**********************************************
或る一人のまじめな霊は天界が極めて僅か開かれて、彼はそこにどれほどの善があるかを覗き見ることができた。その時彼は嘆き責め苛まれはじめ、苦悶のためその状態の中にいることができなかった。彼はその苦しみが止むようにと神に祈った。これによって天界が人間に開かれることはいかに危険なことであるかが明かとなるであろう。その場合、死にさえも至る良心の悔恨に苦しめられる恐れがあるのである。

神の天界が直接悪い者を凝視するとき、こうした呵責が生み出されることは驚くべき事実であり、これは大半の人々には把握することはできないであろう。これによって神は人々に善のみをもたらされるのであって、人間または霊自身がその者自身の悪、拷問、死の原因であることが明かとなるであろう。
(スエデンボルグの霊界日記)
**********************************************
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この回答へのお礼

聖書的な解説ありがとうございます。

お礼日時:2012/04/30 09:40

 こんにちは。



 ★ 律法もイデアに過ぎず 求めるべきはその姿勢であるにもかかわらず
 ☆ いえ――あるいは この《姿勢》という言葉を誤解しているかも分かりませんが―― 律法は はじめから人間の能力と努力とでは守りきることは出来ないと決まっていました。

 言いかえると 神の信仰においてそのチカラをあたえられるならば 人間でも律法の一つひとつを守ることが出来るのだという意味です。


 繰り返し述べますと
 ★ 「どうせ守れないんだし」
 ☆ ということは 人間のチカラによっては(あるいは 感情を抑える理性のチカラによっては)かなわないという意味でなら 初めからそうであったわけです。新約においてやっとそう分かったのではなく またそうなったのでもありません。



 ただし たとえば《むさぼるなかれ》といった律法が持たれたせいで おのれの心に逆らうことがわが意志にはあるということが人びとにおいてはっきりと自覚された。
 妄語戒を言われただけでは ピンと来なかったとしたら
 ★ 悪人正機
 ☆ と言われることで人びとは ちょうど律法の場合と同じように《わが意志のへそ曲がりないしは 邪悪なはかりごと》がやはり自覚されたということがあるのでしょうね。



 ★ 律法を守ることの能力的限界感
 ★ 精神が失われ形式化していった
 ☆ というのは 律法のあとさきに――という言い方もおかしいですが――関係なくはじめからの人間の状態です。あたらしい契約が必要とされるあとさきにも関係なくそうです。



 新約は 律法のモーセの前の信仰のアブラハムにもどったと かんたんには言えるかも知れません。規範化から規範化以前へともどした。《神は アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神である》というように一人ひとりの主観でありその内面の問題なのだということではないでしょうか。

 悪人正機や律法は そのあとさきにおいて一般には人びとの精神状態に直接にはかかわっていないと考えられます。また それは人びとにおのれの心の存在(ないし良心)についての自覚をもたらしたということが考えられます。(自覚のあとでも わるい精神状態はそのままわるい精神状態をつづけています)。こういう事情だと思われます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

> ☆ というのは 律法のあとさきに――という言い方もおかしいですが――関係なくはじめからの人間の状態です。あたらしい契約が必要とされるあとさきにも関係なくそうです。

私たちは瞬間毎に精神が失われ形式化してくということですね。
達人が異なるのは瞬間毎に再生もしていくことにあるでしょう。

救われる者は律法を守ろうとしても、念仏を唱えても、信仰に集中しても、踊念仏をしても
本人が救われなくてもいいと思っても無理やり救われる。

いや、本人が救われなくてもいいと思えるから無理やり救われる。

いや、結果を気にせず態度の追求に没頭しているから無理やり救われる。

お礼日時:2012/04/27 14:57

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