秘密基地、どこに作った?

ほぼ哲学的意味合いのテーマとしてお考えください。

そもそもなぜ「生命が生まれたのか」も問題になってしまい

ますが、それは「はずみや偶然」ということにしてください。

論点は「なぜ(なんのために)進化するか、そのゴールは?」

です。究極的な生物になることでしょうか?だとしたら「なぜ究極的

な生物になるのか、なってどうするのか」

多くの生き物からは「確かな生きる意志」を感じてやみませんが

それはなぜか、なぜ生きるのか…

 少なくとも「個体」としてはやがて消滅することがわかっているのに、

それでも「種」として存続しつづけようとするのはなぜか?

A 回答 (12件中1~10件)

進化の意味を間違えていませんか。



進化というのは、環境に合わせて変化することです。
進歩という意味はありません。
進化論的に言えば、人間よりも鼠や牛の方が進化しています。
だから、究極的な生物と進化とは関係ないでしょう。
この辺り、間違って理解している人が非常に多いようで
残念です。

○進化している動物
一位:牛、山羊、キリン、豚、らくだ
二位:馬、サイ
三位:象
四位:鯨、海豚
五位:ネズミ、ビーバー
六位:アルマジロ、アリクイ、ナマケモノ
七位:ヒト、猿
八位:コウモリ
九位:カンガルー、コアラ
十位:カモノハシ、ハリモグラ

”「なぜ(なんのために)進化するか、そのゴールは”
    ↑
進化するのは、進化の定義から解るように、生き延びるためです。
「最後に生き延びるモノな何か。最強でも、最優秀でもない。
 環境に適合できるモノが生き残るのである」
従って、そのゴールもありません。
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この回答へのお礼

なるほど、言葉の意味を広くとりすぎていますね、ご指摘ありがとうございます。

サル→人の変化はやはり「進化」ということですかね。

確かにそのように言葉を正確に理解するとご説明いただく内容にうなずけます。

確かに今の人間の生活環境の変化は「人間」という種の進化(変化)というよりは

科学技術などの進歩によるところがほとんどですもんね。

う~ん、やはり自分の考え方を修正する必要がありますね。

とりあえず「なぜ種を維持し続けようとするのか(環境に適応(進化)してまで)」

という問題が残りますね。

お礼日時:2012/06/30 19:21

>生物は なんのために進化するか



環境に適応するためでしょう。

今いる環境が混雑しているとき、また過当競争があるとき、違った環境に移動することで、自らの生存環境を用意に確保できるからですね。

10℃~30℃の水温環境で過当競争があるときに、海底火山近辺の100℃の水温に適応進化することで、みずからの安全な生存環境を確保できる例などが好例だと思います。
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この回答へのお礼

端的でわかりやすい事例回答
ありがとうございます。

お礼日時:2012/07/05 00:04

我々人間の日々の営みは何らかの意識的な目的を持って、その動機にもとづいて行動し、日々その成果を確認しながらそれなりの究極の目標へ向かって努力を重ねつつ生きていいるというのはほぼ事実だろうと思います。

人間とはそういったことをしなければ生きられない精神的存在でもあるわけです(もちろん個体によっては例外もたくさんありますが)。
そういった人間的な存在と、自然、特に人間以外の生物とをいっしょくたに考えること(擬人化)が間違いであることは多くが指摘されるところです。

生物の存在は仰る通り(人間も含めて)はずみや偶然によります。いまある地球上の見事なシステムも数億年の試行錯誤を重ねてここにまで至ったものでその通り、そのなかで我々を含めて自然は宇宙のさらに大きな環境の中でなされるがままに生かされ続けているというのが真実なのだと思います。仰る「生物の進化」という現象も、様々な種の絶滅も、その中で、重力が地上の万物をその法則の中でとどめたり動かしたりしているように、いまある機能と宇宙からの恵みを存分にとりこみつつ生まれ、生き、繁殖し、争い、食い、食われて死んでいくという状況が延々と続いてきたなかでなるべくして起こった結果であり必然だったということをダーうインも言いました。

それらがなぜなのかという疑問はですから形而上からは何とでもいえますし、私見ではナンセンスです。
>多くの生き物からは「確かな生きる意志」を感じてやみませんがそれはなぜか、なぜ生きるのか…
それをいうなら、多くの生き物からは「確かな生きる意志」が感じられてしかたがない、ということでしょう。それはあなたが今は死にたくない、と思っているのと共通した生命の原始的な自己保存遺伝子の仕業なのだと思います。

>それでも「種」として存続しつづけようとするのはなぜか?

惰性でしょうね。
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この回答へのお礼

なぜ地球規模でいわば「生存システムの試行錯誤」が行われ、

バランスのとれた生命の個体数があるのか…

当初のテーマからかけ離れた新たな疑問です…

でも当初より記入の通り、今回のものは

どちらかというと「哲学」っぽい話です。

ある程度話が分岐してしまうことはお許しください。

お礼日時:2012/07/05 00:03

本能がそうさせています。

何故本能がそのような形になるかは、結果論としてそういう本能が「生き残った、この世界を支配した」からです。


具体的には、「性欲が強い」「食欲が強い」「疲れているときは休む意欲が強い」そういう本能を持った生物が、結果的に生き残りました。

多分、性欲も少なく、食欲や生きる気力も少なく、死に急ぐ生命体は、過去に存在したと思います。しかし、それらの生命はほとんどがいなくなってしまい、今地球上にいる生命の大部分は、「自分の死より他の動物を殺して食べて生きる道を選ぶ本能」「子孫を残す意味より性行為をする快楽を優先する本能」などを持った生命体がほとんどなのです。



「優秀な遺伝子」と言う考えは必ずしも正しくありません。例えばオオツノシカの角が大きくなったのは、角が大きいシカがメスにモテたから、そういう子孫が多くなりどんどん角が大きくなった。と言うだけです。

しかし、こういうタイプは環境の変化によってあっけなく絶滅してしまうケースがほとんどです。何故、大きな角のシカがモテたのかは、そのメスの美意識がそう感じさせたからでしょう。


つまり、今生き残っている動物は、優秀な遺伝子だったから生き残ったのではなく、「結果的に」デスマッチに生き残った。だけの話です。



そして、「生物は なんのために進化するか」「「種」として存続しつづけようとするのはなぜか? 」と言うのも、

結果的に、進化と言う名の「適応」が出来た生物が今生き残っている「だけ」。
結果的に、「種」の存続に貪欲な生物が今生き残って言いる「だけ」。


なのです。
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この回答へのお礼

種の存続は結果論、という点だんだんわかってきました。

しかし、(宗教的意味合いではなく)本当にそれだけなのか、

本当に私たちをとりまく「生命のカラクリ」のようなもの

何者かの意志が介在していないのか…

お礼日時:2012/07/04 23:59

進化を意図的なものとして捉えるなら、種として「生き残るため」でしょうか。



遺伝的多様性が環境の変化に適応したものが「進化」
これには意図はなかったが、遺伝的多様性のない生物は環境の変化に対応できず、全滅するリスクが高い。

それを意図的なもののように例えるなら、やはり種として「生き残るため」しかないと思います。

しかし、進化して環境に適応した結果、逆に遺伝的多様性は失われます。そして次の環境の変化で全滅する可能性は高くなる。

環境の激変を乗り越えるのは、多様性はあるが、あまり環境に最適化しなかった、やや古いタイプの生物。

それが新しい環境に適応して新しい種となる。

進化は決して一本道でなく、進化しては絶滅しを繰り返している。

動物で一番進化しているのは、チーターとからしいです。人間は頭でっかちで、一方身体が環境に適応しきれていない分、環境変化に強く、生息範囲も広げることに成功した生物なのではないでしょうか。

だから「究極的な生物」が目標だとは思えません。もっと日々の生存を懸けている多様性の結果が進化なのではないかと思います。
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この回答へのお礼

なるほど、やはり私が一種「目的」と思っていた「進化」はやはり「手段」

ととらえるべきですね。手段として「究極的生物」になることはあり得ても

少なくともそれが「進化」の目的にはなりえませんね…

お礼日時:2012/07/04 23:56

>それでも「種」として存続しつづけようとするのはなぜか?



「種」が存続するのではなく「遺伝子」が存続したいだけ
(生物は遺伝子に操られている、利己的な遺伝子)という
考え方もあります。

子孫を残すのが生物なら鉄の錆(自己触媒作用を持つ)も生物ですか
と高校の生物の先生に質問したら生物とはDNAを持つものと定義される
と訳の分からないことを言われました。
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この回答へのお礼

遺伝子は「種として存続したいわけではない」という感じでしょうかね。

どんな種であれ、究極的には「存続」という遺伝子目的に沿って行動

しているに過ぎない。つまり、その部分ではどの種かは問われない

と考えるのもおもしろいかもしれません。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/04 23:54

根本を成す物質には、特定の指向性はありません‥‥しかし、無目的ゆえに現象的に二次的に生じる必然的指向性、というのもあるのです。


その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束するのです。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。
であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

本来それは、分業=助け合いに於ける“感謝のしるし”であるにもかかわらず、いつの間にか(助け合っているはずの人々と)それを奪い合い、お金をもらうために仕方なく働くようになってしまっているのだ。
(その錯覚の端的な例が、取引きに於いて、役に立つものをもらう=助けられている方ではなく、手あかで汚れた紙切れ(お札)をもらう方が、お礼を言う奇妙)
その結果としての“自己チュー”な意識において、死は絶対的な敗北となり、人生は必ず敗北に尽きるものになってしまう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/04 23:51

行動とは、必ず何か目的の為に行われるものなのでしょうか?



もちろんそれが意思の下において行われるのであれば、
どんな益体の無いものであっても、暇つぶし程度の目的はあるでしょうね。
ですが、意識下で行われない行動、例えば心臓を動かして
生命を維持しようとしたり、お腹の中の赤ちゃんに栄養を供給することは、
特に目的を意識しなくとも生きている限り自立的に行われるわけです。
(もちろん、残念ながら目的を持ってその行動を"終わらせる"ことならば
可能ではあるでしょうが。)
つまり、目的を意識せずとも、行動をすることは可能であるわけです。



よくある誤解ですが、実はダーウィンの進化論(自然選択)においては、
進化は生き残るために行われるわけではありません。
進化とは結果の単なる名称のひとつであって、目的は不要としたわけです。

どういうことかというと・・・

過去に子孫を作る能力と意思がある生き物と、
子孫を作る能力が無い生き物が居たとして、
我々の先祖でありえるのはどちらでしょうか?
当然、子孫を作る能力と意思がある生き物のみです。

つまり、我々の祖先は何代も子孫を作る能力と意思がある生き物のみで
あったわけですから、ごくシンプルに、我々もその子孫を作るという
形質を受け継いでいる、というだけの話なのです。


ではでは。
我々の子孫の鼻が長くなったとして、
他の鼻が短い人間の子孫とどちらが生き残りやすいか。

鼻が長い方が生き残りやすい環境と、短い方が生き残りやすい環境。
当然ながら未来のことはわかりませんから、将来どちらが実現するかは解りません。

ということは、生き残る、という目的を果たすために鼻が長くなるわけではなく
たまたま鼻が長い生き物が環境に適合した場合、子孫を作る能力(つまり生き残る能力)を
得ることが出来る。ただ、そういった環境では鼻が短い人間は子孫を作れない。
ということは我々の子孫は長い鼻を引き継いでいくというだけなんです。



結果として今の多様な生命が存在している、というのが進化。
とはいえこの進化論、皮肉な見方をしているわけではなくて、
生命にとって喜ばしい、まったくの福音であるとすら言えるでしょう。
そう、生命とは目的の為に存在するなどという、矮小な存在では無いのです。


つまり生命とは、何かをしなければならない、という目的に縛られた存在では無いのです。
もし、誰かに与えられた生来の目的や使命などというものが存在するのであれば、
それを達成できなかった生命は、まったくの無駄と断じられてしまうことでしょう。

ですが生命とは、目的ではなく結果であり、原因であり続けるのです。
生きている限り、何かをすることができる存在であり、
寿命を迎えれば、何を成したかによって語られる存在であるわけです。
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この回答へのお礼

なるほど、「目的格となるべきものはない」ときましたか。

でも納得です。さすがにダーウィンさんが生命のなんたるかの

すべてを解き明かしたとは思いませんが、うなずけるところは多

いですね。

 ただ、自然界の微妙なバランスの取れ方なんかをみていると

(宗教的意味合いではなく)「何者かの意図」みたいなものを

感じることはあります。神?う~ん、ちょっと違う…

お礼日時:2012/07/04 23:49

>それでも「種」として存続しつづけようとするのはなぜか?



それは簡単です。「種」として存続しつづける能力の弱い生物は、淘汰されただろうからです。言い方を変えれば、これまでの環境に対して「種」として存続しつづける能力のとても弱い生物は現在存在していない。弱肉強食の世界であり、それは今後も続くでしょう。

たとえば、人間が間違って、核戦争やウイルステロで全滅しても、放射能に強い生物(超強いのもいる)、そのウイルスのかからない、動植物、微生物は繁栄を続けるでしょう。
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この回答へのお礼

なるほど、「種として存続できる理由」という感じですかね。

現在の私の疑問意図としては「なぜ種として“存続しようとするのか”

というか“存続していってどうしたいのか”」といったあたりですかね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/04 23:43

生きることに意味はなく、唯々、生き続ける、生き残り続けることを目的としているのが『生命』であると考えています。


そして、進化というものはそれを取り上げて大上段に構えるものではなく、単に“生き残るために必要な形質”を獲得してきた結果でしかないと思うのです。

何故生きるのか、についてですが、それは本能として遺伝子に組み込まれた情動であり、全ては遺伝子によってコントロールされているのだと思います。
実際に、個としてではなく種として残ってきているという事実も、この考えの裏付けにできるかな、などと考えています。

ただ、遺伝子の誤算なのか、そもそもの設計が自由過ぎたが故のバグなのか、進化の過程でホモ・サピエンスという知能の発達した種が生まれてしまいました。
この種は遺伝子による束縛を疑問に思い、そこから逃れようと一部のものは自殺という手段を取るような変わり種でありながら、種の総体としては他の種を圧倒し、見掛け上、全生命の頂点に位置するものとなってしまいました。

更に遺伝子の束縛である“生きる”という命題について哲学的な解明を試み、また、生物学的分野においては神である遺伝子についての解明を始めてしまいました。
更に、有機的な生命である遺伝子と似せた、無機的な人工知能というものまで開発しつつあります。

結果として、
(1)人類は最終的に遺伝子を解明し尽くし、永遠の生命を手に入れることで種としても個体としても存続しつづけるものとなる

(2)永遠に生きるということを生物の精神は許容できないことが分かり、個としての存続を放棄することになるが種としては存続し続ける

(3)個としての永続性の獲得は種としての終焉に繋がり(自然発生的な種全体においての恋愛感情の希薄化・消失、出生率の低下、などとして現れる)、最終的には消えていくことになる

(4)そもそもの発想が根本的に間違えており、実は遺伝子というものは“進化”によって生み出されたもので、人類は単に有機生命体と無機生命体との架け橋として生み出されたものに過ぎず、最終的には有機生命体は消滅してしまい、無機生命体が宇宙に広がっていく

とかなんとか・・・妄想するのは楽しいですね。
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この回答へのお礼

ご返答ありがとうございます。

今回のテーマを出し。皆さまから教えていただき

「ちょっと自分の知識が浅はかだったかな」と感じています。

ただ、日々人に触れあるいはペットをかわいがり、また

そのペットを見送る時のことなど思うと、「なぜ生きるのか」

「このペットはなんのために生き、なぜ死ぬのか」など時折

考えます。

お礼日時:2012/06/30 19:25

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